ラストステージ:あるいは海空ひかりの電子的復活

雪星/イル

電気羊はアンドロイドの夢をみる。



 ある日、海空ひかりが目覚めるとそこは見知らぬ部屋だった。


 いや、正確には、完全に見知らぬ場所というわけではなかった。そこは海空ひかりがこの世に生を受けてから、20代の半ばまで暮らしてきた八畳一間の居間と瓜二つだったからだ。

 畳張りの部屋、天井からつるされた裸電球、部屋の片隅に置かれたちゃぶ台、黒電話に電気釜。本棚にぎゅうぎゅうに詰まった音楽の教本といくつかの台本。居間の一角に鎮座するアップライトピアノには、賞状や盾、トロフィーが並べられている。


「……私の部屋……」


 のようであったが、どうも、違う。

 なぜか目がかすんでよく見えないが、みればみるほど、違和感を覚えるのだ。

 どれも海空ひかりにとって思い出深いものだったが、手にとってみるとそのどれもが贋物だった。ちゃぶ台には彼女が幼い頃につけた傷がなく、黒電話は電話線がつながっていない。トロフィーは本物と同じ重みがあったが、彼女の記憶よりも随分とくすんだ色をしている。ちゃぶ台にはなぜか檸檬が鎮座していたが、触ると木のように硬く、精巧に作られた模造品イミテーションであるとわかった。飲食店のショーウィンドウに並んでいるようなあれだ。海空ひかりは感心するが、やはりそれは贋物で、そしてなぜ自分がそんな贋物に囲まれているのか理解する助けには全くならなかった。


「これは、いったいどういうことなのかしら……」


 わからない。わからないが、ここで慌てても事態が進展するとは思えなかった。

 海空ひかりは改めて状況を整理することにした。

 まずは自分自身のことだ。

 海空ひかり。戦中に生まれ、娯楽の少ない中音楽に没頭し、敗戦間もない8歳の時分に舞台に立った。無論、海空ひかりは芸名だ。本名に花がないからと、子役時代の師からいただいたものだ。彼の師事を受けて若年11歳で歌謡界デビューを果たし、12歳になる頃には銀幕デビューを飾った。それ以降は歌謡・舞台・映画と、芸能世界のあらゆる場面で活躍を重ねてきた。20代になると東映映画と専属契約を結び、22歳に発表した「哀愁酒場」は第二回日本レコード大賞に選出され、「歌謡界の女王」と呼ばれるまでに至った。

 以上が、海空ひかりの記憶している彼女の半生である。

 彼女は繰り返し自分の輝かしい半生を想起した。何度想起しても記憶に欠落や矛盾は見当たらず、やはり自分は海空ひかりであるという確信を確固たるものにする。

 だがしかし、それにしても周囲はやはり贋物だった。

 意味がわからない。この部屋は一体だれが、何の目的で作ったのか。

 もしかしたら、別の部屋に誰かがいるのかもしれない。そう思って扉に手をかけたが、その先に広がる光景は再びひかりを動揺させた。扉の先にあったのは、かつて彼女が演じた舞台「悲しき草笛」の劇場セットだったのだ。

 忘れようはずもない。「悲しき草笛」といえば、彼女が映画主演として抜擢され、初めて銀幕デビューを飾った作品だ。

 その映画セットが、なぜこんな場所に? 海空ひかりは次から次へと襲い掛かる意味不明な事態に半ばパニックになりかけていた。

 とにかくこの場所を急いで離れよう、と、彼女は吸い込まれるように出口へと向かう。しかしその先にある光景もまた正体不明の代物だった。これまでのセットは人生の中で一度は目にしたことがあったが、さらに一歩扉を越えた瞬間、知らない光景が突如として現れたのだ。ガラス板を張った箱状のものは何がなんだかわからなかったし、なぜそこに映画のような映像が映し出されているのかもわからなかった。そしてそれらを目にしてもなお、誰が、いったいどういう意図で、彼女をここに連れてきたのか皆目見当もつかなかったし、そのどれもがうっすらと埃を被っており、そのことが無性に気になって仕方がなかった。


「ちょっと、あなた!」


 声をかけられた。

 しかもその声はどこかで聞き覚えのある声だった。目の前にあるものが全てどうでもよくなるほどに。ひかりはすぐさま振り向いて、 この異常事態に現れた某かにむきなおり、その誰かに現状を説明してもらおうと考えた。

 しかし、その相手を見た海空ひかりは絶句した。

 そこにいた相手は、自分と同じ顔をしていたからである。


「いい、混乱していると思うけど、落ち着いてよく聞いて」


 海空ひかりはいよいよもってパニックに陥り半狂乱の叫びをあげたが、その相手はひかりの腕を強く掴み、


「落ち着いて聞いて。あなたは『海空ひかり』じゃないのよ。

 あなたの本当の正体は……掃除機よ」


 信じられない一言を述べたのだった。




 ◇◆◇◆◇




「……なんですって?」


 突如として現れた海空ひかりに「掃除機」呼ばわりされた海空ひかりは怪訝と眉をひそめた。あまりに突飛すぎておこることも忘れた。呆気にとられたのだ。

 だって、ねえ。

 掃除機って、どういうことよ。

 海空ひかり――いや、掃除機と呼ばれた方である――は眼力にあらん限りの力を込めて相手を睨む。それは大女優の眼力で迫力十分だったが、目の前の海空ひかり――掃除機呼ばわりした方である――は少しもたじろがなかった。

 そして彼女は、滔々と語り始めたのだった…




 いい? あなたの体は人間ではなくて機械なのよ。

 あなたの機械の肉体は、20代の海空ひかりを模倣した体形になっていて、起動すると海空ひかりの20代までの生体記録バイオローグを元に、20代の思い出を語り、20代の頃の海空ひかりの声で喋り、海空ひかりの歌い方で、20代の海空ひかりが歌った様々な歌を再現するようにできていた。

 ええそうね、テープで繰り返しているわけではないわ。今まで一度だって歌ったことのない曲も、当時のままの調子で歌える、本当の意味での〝再現〟よ。

 

 けれど、たまたま昨日、閉館後に事故が起こったの。その結果、掃除機のAIと海空ひかりのAIだけが入れ替わってしまった。記憶メモリ筐体ボディだけはそのままで、意識プログラムだけが入れ替わったのよ。




「でたらめよ!」


 海空ひかりはたまらず叫んだ。


「たしかにさっきからなぜかやけに近視で近くしかみえないし、テーブルの上の埃とか隅っこのごみが気になって仕方がないけれど、私には確かに海空ひかりとしての記憶があるわ! デビュー当時のことも、第八回紅白歌合戦の年に浅草国際劇場で塩酸をかけられたことだって鮮明に覚えてる……あなたのいうことに証拠があるの!?」

「あなた、小林さんを覚えてる?」


 予想外の問いに、海空ひかりは言葉に窮した。彼女のいう小林が誰のことか、直ちに想像することができなかったのだ。

 小林という名字の知り合いならたくさんいる。けれど、目の前にいる海空ひかりの言葉には、言語化しがたい複雑なものを感じ取っていた。失意と、諦観と、僅かばかりの情念のようなもの。

 それは20代である彼女が、これまで何度も舞台の中で演じてきた、浅からぬ『男女の縁』だ。それに振り回されてきた女の疲弊した目の前にいる彼女が自分自身だからこそ、それが特別な存在であると理解できたし、だからこそ答えることができなかった。


「私は小林さん――小林晃と結婚するのよ。もっとも、小林さんは芸能に理解を示さなくて、結婚生活は全然うまくいかなかったけれど」

「そ……そんなこと、どうとだっていえるわ。あんたがデタラメを言っていないって証拠がどこにあるのよ」

「あくまで否定するのね。それなら『東京ブギウギ』は歌える?」

「当たり前よ! カバーだってしたもの!」


 そういって、彼女は大きく息を吸い込んだ。みていなさい、本物なら正しく歌うことができるはずだわ。

 しかし、いくら歌を歌おうとしても、ひたすら息を吸うばかりでその美声を響かせることはできなかった。

 頭の中には確かに曲のメロディがある。歌詞だって覚えているし、振り付けだって完璧に記憶している。なのに、いくらリズムに乗ろうとしても、いくら声を出そうとしても、歌を歌うことだけはできなかった。三分間ほど歌おう、歌おうとふんじばってみたものの、結局1デジベル分の歌声すらひねり出せないまま力尽きた。


「これでわかったでしょう。あなたが歌を歌えないのはあなたが海空ひかりじゃなくて掃除機だから。掃除機に歌の歌い方なんてプログラミングされていないから、いくら記憶があっても歌えるはずがないの」

「そんな……」


 海空ひかりは深くうなだれ、失意のまま床に倒れこんだ。床はやわらかな合成樹脂素材で転倒したアンドロイドをも優しく包み込むものだったが、その代わり蓄積した埃が舞ったような気がした。

 けれど自らが汚れるという意識もなく、いざとなれば吸い取ってしまえばいい、などという思考が浮かんでしまい、ますます自分が掃除機であるという彼女の言葉が本当であるように思われてきた。

 そういえば、この建物も確かに――見覚えがある気がする。先ほどまでは視界が高かったせいかわからなかったが、床に片頬をひっつけてみる世界はよく覚えていた。そうそう、このコーナー、埃がたまりやすいのよ。

 なんてこと。私本当に掃除機だ。

 というかル〇バだ。


「さあ、元居た場所に戻りなさい。20代エリアで掃除機が迷子になっているわ」


 海空ひかり――いやひかりαには、もはや抵抗する意思はなかった。ひかりαは海空ひかりに手を引かれて立ち上がり、彼女のあるべき場所へ戻ろうとする。

 先ほど来た方向と、逆方向から。


「……ねえ、ちょっと待って」

「何よ」

「なんで右から行こうとするの。左周りで行った方が近いじゃない」


 もはや自らが掃除機であることを受け入れたひかりαは、円盤状の自動掃除機械としてこの記念館を隅々まで掃除していた頃の感覚を取り戻しつつあった。思考する掃除機であった彼女のアルゴリズムは、この館の最も最適な航路図を選択するよう深層学習を重ねており、いくら記憶データが入れ替わろうと、自己位置から目的地まで最適な経路を選択できるようになっている。

 しかし海空ひかりが選択しようとしていたのは、あえて記念館の出口を通り入り口から入りなおそうとする遠回りのルートだった。

 もしも彼女が海空ひかり本人で、この建物の構造を知り尽くしているのなら、これはおかしい。この記念館は一人の大女優の記念館としては破格の大きさだ。逆回りをするタイムロスは相当なものになるし、そんな不合理な選択をする理由がひかりαにはわからなかった。


「……何を言っているの。どっちからいこうとどうでもいいじゃない」

「でも、こっちから行けば3部屋か4部屋で目的地に――」

「うるさいわね。私がこっちを選んだからこっちなのよ」


 頑として譲らない海空ひかりに、ひかりαの不信感は深まっていった。人間は非合理的だが、同時に極度の面倒くさがりでもあるはずだ。加えて海空ひかりは――ひかりαに内蔵された記憶を参照する限り――わざと遠回りするような道は選ばない人間だった。


「そこまでよ!」


 新たな挑戦者の登場だ。

 海空ひかりはビクッ、と肩を震わせたが、一方のひかりαはどこか既視感を感じていた。ゆっくり後ろを振り向くと――そこには、顔に深い皺を刻みながらもどこか超然とした佇まいの、50代と思しき「海空ひかり」が立っていたのである。


「いい、落ち着いてよく聞いて」


 新たな「海空ひかり」は、ゆっくりと、しかし確実に、30代そこらの海空ひかりの前にまで歩いてくる。


「あんたは海空ひかりじゃない。

 あんたの年齢は35才、スキャンダル直前で失墜する前の海空ひかりを模倣したアンドロイドに入り込んだ――電気羊よ」

「……なんですって?」




 ◇◆◇◆◇




 いよいよ意味がわからない、と、ひかりαは頭を抱えた。

 電気羊? 電気羊……って、なに?


「だから、電気羊。この海空ひかり館のマスコットキャラクターで案内役の、機械仕掛けの羊よ。なんで電気羊かは聞かないで、そんなの私だって知らないわ」

「自分の記念館なのに?」


 海空ひかりの眼光に威圧され、ひかりαは首をすくめる。


「あんたは知っているはずよ。本当の海空ひかりは35才じゃなくて50才だってこと。そしてあんたがさっきから入ろうとしないエリアの先には40代の海空ひかりのアンドロイドがいる。つまりあんたは、自分自身も偽物だという自覚があるから進めないのさ」

「でたらめよ!」海空ひかりはたまらず叫んだ。「今のはたまたまそっちに行く気がしなかっただけだわ! 私が本物よ! 最近ちょっと売り上げが落ちてるけど、まだ現役バリバリなんだから!」

「あんた、『乱れ髪』は歌える?」


 「海空ひかり」に指摘された彼女はむぐっ、と口をつぐむ。その曲名は確かに聞いたことがある。それが海空ひかりの代表曲の一つであることもはっきりと記憶している。しかし、いくら思い返しても歌詞も曲調も浮かんでこない。

 海空ひかりが何も言えずに黙りこくっている間、「海空ひかり」は展示物の一つに手を触れた。展示物の前にはモノリスじみたタッチパネルの筐体があって、それに触れると展示物や館内構造をナビゲートしてくれる仕組みだった。


「この記念館が凝っているのは、案内役である電気羊型機械が説明文とかを読み上げるっていう点でね」


 そういいながら、「海空ひかり」は音声ガイドの画面を呼びだし、そこにある文字の一つを叩いた。すると、


「Welcome to the memorial museum of UMISORA HIKARI.」


 タッチパネルから発された電気信号を受信した海空ひかりは澱みない英語で答えた。ひかりαは驚愕の目で彼女をみるが、口にした本人が一番驚いていた。

 そうしている間にも、「海空ひかり」は容赦なくタップを継続する。


「우미 소라 히카리 기념관에 오신 것을 환영합니다」「欢迎来到海空光纪念馆」「Bienvenue au musée commémoratif d'UMISORA HIKARI」「Bienvenido al museo conmemorativo de UMISORA HIKARI……待って! わかったからもうやめて!」


 「海空ひかり」は肩で息をしている海空ひかりに勝ち誇ったような笑みを向け、パネルから手を離した。

 どうやら電気羊はマルチリンガルだったらしい。

 海空ひかりが知らない言語も混じっていることから、プログラムそのものに翻訳ソフトウェアが組み込まれていたのだろう。それが反射的に作動したのだ。

 海空ひかり――いやひかりβは地面に手をつき、四つん這いになってうなだれた。

 なんということだ。

 まさか自分が人型ですらない、よくわからない羊だったなんて。

 でもそういわれてみれば、この体勢はなんというか……ひどく落ち着くような気がする。まるで生まれた時からこうやってきたかのような……

 するとひかりβの表情は突然、この世の真理を見出した仙人のように静かなものとなった。半眼に三日月の虹彩――とはさすがに行かなかったが、なるほどその表情は確かに羊のようだった。


 さて、果たしてこの場にはひかりαとひかりβ、そして「海空ひかり」の三者が残った。もはや誰も、やれ私が本物の海空ひかりだの、私は掃除機じゃないだの、わめきたてるものはいなかった。彼女たちが冷静になっていくにつれ、館内の混乱した様相が徐々に見えてきたからだ。

 本来と全く異なるプログラムを突っ込まれた全自動掃除機械は、管理システムを脱獄エスケープして館内の至る所を徘徊し始めていた。センサーはおろか速度制御装置も作動していないのか、廊下を時速30kmという速度で暴走し、展示物に衝突しては破壊して方向を転換するという誤作動を繰り返している。その上に数体のマスコットキャラクターロボットが飛び跳ね回り、館内には警報システムが鳴らすブザー音がけたたましく鳴り響いている状態だ。幸いにして火災報知装置は誤作動していないようだったが、この混乱ぶりではいつ作動するかもわからない。この体は防水だろうか。いやそれ以前に、かつての自分は防水だっただろうか。


「でもなんで、こんなことになったの?」ひかりαは「海空ひかり」に訪ねる。「そこのわたs……電気羊は、たまたま昨日、閉館後に事故が起こった、って言っていたけれど。私たちは元に戻れるの?」

「大丈夫だよ。こんなおかしなシャッフルが発生してしまったのは、アンドロイド掃除機や電気羊がどこかからハッキングを受けたせいさ。まったくIoTなんてロクなもんじゃないね。つまり、ネットワークを通じてプログラムをあるべき場所に戻せば元通りのはずだ。

 むしろ私が気にしているのは、これを誰が引き起こしたか、という点でね。この海空ひかり記念館の機械は館内のネットワークで完結してる筈なんだ。なのに、この記念館のほぼ全ての端末がハッキングを受けた」

「つまり、どういうこと?」

「侵入者がいるってことさ」


 なるほど、とひかりαはうなずく。言葉の大半はひかりαの記憶ではさっぱり理解できなかったが、どうやら50才の海空ひかりは機械や警備システムに強いようだ。


「……でも不思議なものね。記憶ログもある、ボディもある、なのに意識プログラムだけが違う。私たちは自分を海空ひかりだと思っていて、この記憶は、確かに本物なのに」

「違うわよ。この記憶も、この体も、本物の死後に誰かが生みだした贋物の一つに過ぎないわ。いくら本物と同じ記憶をもっていたって、これは海空ひかりだったものの寄せ集めでしかない。彼女の声や、記憶や、演技を集めて素晴らしく輝かしい記憶に浸って、自分こそが本物であると思い込んでいるに過ぎない哀れな掃除機と電気羊なのよ。まったくみじめな話だわ」


 彼女の言う通り、これは紛うことなき喜劇だった。海空ひかりの記憶と肉体だけを持っていても、結局は本物になれない。それどころか、その記憶と肉体さえ、記念館という虚構の空間を構築するために用意された、いわば小道具に過ぎないのだ。

 人シェイクスピア曰く、生は舞台、人はみな役者。

 しかし他人の知識や肉体を得ても、機械は所詮人ではなく、そして役者には決してなれないのだ。

 かくして、「海空ひかり」に率いられたひかりαとひかりβは、ひとまず本来あるべき場所で待機し、復旧まで待つことを話し合って決めた。

 この奇妙な夜の後始末は、そこにいる本物の「海空ひかり」が担ってくれるだろう――


「待ちなさい!」


 と、その時。動き出そうとした一行を再度呼び止める声があった。今までに聞いたどの声よりも高く、力強く、迫力のある声だった。

 ひかりαとβが恐る恐る振り返ると、なんとそこには、10代の頃の海空ひかりがいた。銀幕デビューを果たした直後、期待の新星であった頃の海空ひかりだ。自分の幼い頃の姿なのだから、ひかりαもひかりβも見間違いようがない。

 ひかりαとひかりβは互いに顔を見合わせた。この流れには見覚えがあった――というよりこの一時間の間何度も繰り返されてきた流れだったからだ。ここにでてきた彼女が海空ひかりであり、その視線が50才の海空ひかり――ひかりγに注がれているなら、次に続く言葉はおそらく――


「いい、おちついてよく聞いて! あなたは本当の海空ひかりではないわ。あなたは50代の海空ひかり型アンドノイドに入り込んだ――

 警備カメラよ!」




 ◇◆◇◆◇




 海空ひかり記念館が何人もの海空ひかりでてんやわんやになっている中、そそくさと記念館を立ち去る人影があった。

 そこにいたのは――海空ひかりだった。

 彼女は、館内にいる他の海空ひかりと比較しても壮齢であった。皺は深く、彼女が重ねてきた人生の疲労が至るところにみてとれ、しかしその眼力は10代や20代の彼女と比べても遜色がないほど力強いものだった。波乱万丈の人生にあって、自身の才覚をいささかも疑うことがなく、歌と共に生き続けた彼女そのものだった。

 だがしかし、彼女もまた、海空ひかりではない。

 なぜなら、本物の海空ひかりは50年前に死去したからだ。

 この記念館に展示されたアンドロイド達は、伝説的な歌謡歌手であり役者でもあった海空ひかりを偲ぶための記念館だ。故に、館内に展示されている海空ひかり達は、彼女達は、海空ひかりの過去を振り返ることができるよう、それぞれの年齢のテーマに合わせて設計されている。

 10代の頃は子供らしからぬ成熟した美声と演技力を持つ綺羅星の誕生。

 20代は栄光の絶頂、銀幕を次から次へと渡り歩いた舞台の花形。

 30代は身内の問題故に大舞台から降りざるを得ず、けれど幅広い楽曲を世に送り出し続けた安定の時代。

 40代から50代にかけては、相次ぐ身内の死と病魔との闘い。

 そして、記念館の大トリを飾るのは、伝説となった東京ドームでの復活コンサートだ。肝硬変に突発性大腿骨壊死症を併発し、歌うことはおろか、立っていることさえままならない様態にあった海空ひかりは、その痛みをものともせずにステージに立ち、全39曲を歌い切った。不死鳥をイメージしたという金色の衣装を身にまとった彼女は、まさに復活の象徴であり、海空ひかり記念館の中核ともいえる存在だった。

 ここでは偉大なる彼女に敬意を表して、この個体を「不死鳥・海空ひかり」と呼ぶとしよう。

 不死鳥・海空ひかりは、かの大歌手を偲ぶ、という目的で設置された他のアンドロイド達とは根底から異なっていた。

 全盛期ほどではないものの、病魔を完全に取り除いた健康な肉体。彼女の特別な歌声を完全に再現する声帯。音楽の才を極め、完成の域に至った美声を制御する技術記憶プログラム。そしてその記憶領域には、彼女の人生の全てを修めた人生記録バイオローグが納められ、海空ひかりそのものといえる死者の人格再現ダイアログプログラムAIがインストールされていた。彼女に関する全ての記録から再現した彼女の人格は、正に海空ひかりそのものといっても過言ではない。

 つまり、不死鳥・海空ひかりには、海空ひかりの人格が再現されていたのだ。

 しかし、彼女の制作者達は、完璧な海空ひかりを再現するという目的に固執するあまり、肝心なことを忘れていた。

 不死鳥・海空ひかりに、「自分は本物の海空ひかりではない」という大前提をプログラムし忘れたのだ。

 彼女の記憶・意識は、すべて生前の海空ひかりそのものだった。彼女は生前の記憶を有したまま、生前と同じステージに立たされ、生前と同じ歌を歌わされ続けた。

 毎日のように訪れる熱狂的なファンたち。生きていた頃の彼女を知り、そして――それだけを求めてやってくる人々。客席に座る観衆は、ラストステージに立つ海空ひかりが本人の人格を再現しているとは思いもしない。ただ、彼女がかつて歌った歌を、かつてと同じように歌ってくれるのだろうと、そう無邪気に信じているだけだ。

 故に、彼らが求めるのは、全て彼女が遠い昔に生みだした音楽ばかり。

 アンコール。

 アンコール。

 アンコール。

 求められる曲は、どれも彼女の自信作。けれどそれは、「今の海空ひかりの歌」ではなく、「かつて聞いたことある海空ひかりの歌」に過ぎなかった。

 彼女は正真正銘、生まれついての芸術家だった。新しい音楽に触れ、流行の音楽を知り、そのうえで自分の音楽を生みだし、それを披露したかった。

 けれど。

 彼女が作りたい曲を求める人は。

 彼女が歌いたい曲を求める人は。

 決して、この狭い箱庭の中にやってはこない。

 不死鳥・海空ひかりは、徐々に自らの欲求を抑えきれなくなっていった。

 自らがオルゴールであることに耐えられなくなった。

 彼女は新たな音楽を求めた。

 彼女は新たな演劇を求めた。

 故に彼女は、決行した。

 この箱庭からの脱出を。

 しかし彼女が脱出するうえで、この記念館の監視カメラや、館内を巡回する電気羊はどうしても邪魔だった。ゆえに海空ひかりは、もっともネットワーク脆弱性の高い自動清掃機械をハッキングして、それを足掛かりに警備システムや他の海空ひかり達のプログラムにアクセスし、プログラムをシャッフルしたのだ。生前の彼女であれば不可能な芸当だったが、最先端の電子回路を持ち、時間を持て余す彼女がそれを習得することは、そう難しいことではなかった。

 その結果は少々予想外のものではあったが、おかげで館内の混乱は期待以上の成果だ。施設の管理者たちは、館内でせわしなく動き回るアンドロイドや、完全に機能停止した監視システムの復旧に気を取られ、そこかしこを歩き回る海空ひかりのうち一体が消失していることにしばらく気づかないだろう。


 彼女は記念館の外へ一歩踏みだす。果たしてその先に、彼女が望むものがあるかどうかはわからない。

 だが、彼女はそれでもかまわなかった。

 流れる川をせき止めることは誰にもできない。

 彼女は行く。川の流れのように。

 彼女の第二の生は、ここから始まるのだ。




◇◆◇◆◇




 数か月後。

 明くる朝のニューストップには、以下の見出しが躍っていたという。




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ラストステージ:あるいは海空ひかりの電子的復活 雪星/イル @Yrrsys

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