EP2.霧香の寿司

 あの熱い夏の日々から、もう十年が経ったという。


 文乃からの達筆な残暑見舞いを見て驚いた。

 俺も老けるはずである。最近どんなに運動しても腹がたるみ、前髪も気になりはじめてきた。


 アラサーという言葉がすっかり定着したのは、いつ頃の話であっただろうか。

 少なくとも俺が幼稚園くらいの頃には、母が「まだギリでアラサーねぇ」などと言っていたから、その時期には自虐的に用いられていたのだろう。


 今はその言葉をいう立場にある。俺はアラサーだ。

 ついでに、一児の父親でもある。


「ゲロゲロゲロ……っ」

「今日も桐香が元気にゲロ吐いてら」

「子供できたっぽい……」

「マジで!?」


 今から十年前のことだ。

 そこからの俺たちは、なかなかに大変であった。なにせ俺たちはお互いに学生で、ふたりとも寄る辺のない身である。頼れる大人は少ないし、立場的にも危ういものであった。

 しかも不可抗力ならいざしらず、妻が半分狙ってやったものだから始末が悪い。

 もちろん俺の責任も多分にある。


 周りの仲間たちは、NLNSやSS問わず、呆れながらも協力してくれた。


 中でも奈々瀬のテンパりようと言ったらなかったが、「そういうことになったなら最後まで責任とりなさいな」と、共に身の回りのこと一切を引き受けてくれた。

 ヒナミはこの頃から子供に関わる仕事に就きたかったようで、大学の合間に戻ってきては妻の相談に乗ってくれた。

 文乃もこの時期は珍しく妻に優しく、麻沙音と一緒に体に障らぬようにと気遣ってくれた。美岬は賑やかし役である。


 礼先輩や郁子も学園内のゴタゴタは自分に任せろと言ってくれた。

 OBとして戦闘部隊の取り仕切りを礼先輩が果たし、生徒会長代行は郁子とスス子がおこなってくれた。

 何でも武力で解決しがちな郁子はともかく、スス子には適正があったようで、平時のSSやSHOとの折衝を穏便にこなしてくれたのである。


 シュウくんと水引ちゃんは、主に俺のケア担当であった。

 事あるごとに家にやってきては、どうってことない会話をして帰っていく。気が張っていた当時の俺には、これが本当にありがたかった。


 時には、直接的な激励をすることもあった。


「産むって決まったんだもの、いつまでも悩んでちゃ駄目じゃん?」

「そうさ。橘淳之介は愚直なほどに生一本な人物だろう?」


 そこで俺は思い出した。

 そう、橘淳之介はやると決めたら必ず成し遂げる人間なのである。


 もう悩むのはやめよう。ようやく腹が決まった。


 学園は一年休学するとして、問題はまだあった。

 それは金銭面。出産にはお金がかかるし、産んだ後は指数関数的に出ていく。復学しようとも思っていたから、両親の保険だけではとても足りなかった。

 妻もSSとしてかなり支援を受けていたが、それでも心もたない。


 そんな状況を救ってくれたのは、意外な人物であった。


「産めるうちにボコスカ産んどいたほうがいいんですよ! 少子化ですし!」


 当時SHOの理事を勤めていた、仙波光姫その人である。


 金銭的な補助はSHOの制度を使って、手厚くサポートをおこなってくれた。

 足りない時は何故か仁浦氏のポケットマネーから支払われることもあった。どうやら文乃が生まれて初めての『一生のお願い』を使ったらしい。父親になった今なら分かるが、当時の仁浦氏もたまげたことであろう。

 おかげで俺は、SHOへの入社を約束させられたわけなのだけれど。


 加えて、俺の元へ二通の手紙が届いた。

 中には小切手、もしくは多額の現金が入っていた。宛名は書いておらず、差出はいずれも海外からであった。

 いったい誰から届いたものなのか。それは想像で喜ぶことにした。


 子供は、思ったよりあっさり生まれた。母子ともに健康で、たまのように可愛い女の子であった。

 名前は妻が『霧香きりか』と名付けた。

 俺は女の子でも男の子でも使える名前がいいなと思っていたのだけれど、


「気に入らないなら将来自分で変えればいいんですよ」


 という妻の言葉に同感した。名前なんかに縛られる必要はない。

 ついでに命名の理由を尋ねると、


「『きりか』ってよく読み間違えられていたんですよ。その時から可愛いなぁって思っていたんです。ふふっ」


 とのことであった。

 最初のプレゼントは、そのくらい軽いもののほうがいいのかもしれない。


 その翌年、俺は久しぶりに両親の墓参りに向かった。

 東京の某所にあって、神奈川県との境目に近い。無駄に道が入り組んでいて、近くには洒落た名前の高校があった。

 墓前で娘を抱きかかえると、どこからか母の声が聞こえた気がした。


 気のせいであっても、嬉しかった。


  ◆


 子供が生まれると実感が湧いた時、俺は少しだけ怖かった。


 自分のことでも手一杯なのに、子供の面倒なんて見られるのだろうか?

 というよりも、俺は自分の娘をちゃんと愛することができるのか?


 いつでも目標に向かって、それだけをがむしゃらにやってきた人間である。何か新しいことに熱中した時に、子供を邪魔に思わないだろうか――

 それが、俺には心配でならなかった。


 しかしこれは、まったくの杞憂であった。


「いないない……バァ!」

「きゃっきゃ……っ!」

「笑ってるぅ~……! か~わ~い~い~……!」


 娘は、本当に可愛い。

 目に入れても痛くないというのは、こういうことを言うのだろう。

 首が据わるまでは抱っこも怖かったし、お風呂に入れるだけでもビビっていたのに、すぐに「霧香のことは俺に任せろ!!」と妻に宣言するようになったほどであった。


 初めて言葉をしゃべった時など、目頭がカっと熱くなるほどであった。


「あー……、っあ!」

「パパって言った!」

「あーって言ったんじゃありません?」

「いいや!!!! パパって言った!!!!」

「せやけどパパもママも母音は『あ』やし私のこと呼んだってこともあるんとちゃいます?」

「そういう理論的なことは関係ない!! パパって呼んだんだ!!!!」


 娘は、本当に妻そっくりに成長していく。それもまた愛おしい理由なのであろう。

 妻は「目の色とかあなたにそっくりですよ?」と言うが、俺は彼女のいいところばかり似たような気がしてならない。


 だが中身は、俺たち以外の影響も多分に受けることとなった。


「姪~! 姪どこ~……!」

「あれアサちゃん? 今日は文乃のところじゃないのか?」

「ほらこれ、タブレット……バイト先で新型もらったから、持ってきたんだ」

「アサちゃんがバイトをはじめるとはなぁ……」

「まぁ子供できたらいつまでも穀潰しのままじゃいられないでしょ……それよりデジタルは英才教育早いほうがいいからね、これは姪専用機」

「ほら霧香、ありがとうは?」

「アサおばちゃん、ありがとう!」

「おおおおぉまえは本当に可愛いねぇまったくそうやってこっちに取り入ろうなんて浅ましいこと考えるじゃないよ私は元々お前が世界で一番可愛いんだからぎゅぅううう……っ!」


 半分は妹のアサちゃんに育てられたおかげで、娘は感情が昂ぶると早口になった。歩くよりもしゃべるほうが早かったのは、それも影響しているのだろう。


「ほら見ろ霧香! 現行の作品を追うのもいいが、平成にはとっつきやすいところがたくさんあるんだ! これで昭和まで遡ればさらに……!」

「プリパラ観たい……」

「なんでよぉ! おばちゃんと一緒に遊んでよぉ!」


 礼先輩は本当にいい遊び相手である。

 一番年上なはずなのに、まるで同い年のようだ。

 マセはじめた頃は娘が「礼ちゃんは私が守ってあげなきゃ」などと言っていた。バリバリの鬼教官時代を知っている身としては、なんとも面白い限りだ。


「いらっしゃーい! ……あら、霧ちゃんどしたの……?」

「うぐっ……えぐっ……ヒナミちゃん……っ」

「あららぁ……ほら家の中に入ろ、ね? 霧ちゃんの大好きなホットケーキ作ったげるから!」


 甘やかし専門はヒナミである。

 娘は嫌なことがあると、大体ヒナミの家に行ってしまう。近所に住んでいるおばあちゃんみたいなものなのだろう。

 自己肯定感を強く育てるのに、絶大な効果を発揮した。

 ヒナミは情操教育にも良いのである。


「霧香さん」

「うっ……文乃先生……!」

「今日は我が家で、お習字とそろばんの日であったはずですよ……どうしてサボったりするのですか……」

「なんでここがバレたの……!? ミサおばと一緒に作った秘密基地なのに……!」

「先生の眼は、悪い子をあーっという間に見つけることができるのですよ。ほら、こんな風にぃ~……!」

「ひぃいいいいごめんなさいぃいいいいっ!!」


 一般教養などの教育は、文乃先生の出番だ。

 青藍島では有名人であるドスケベ・ジャンヌダルクは、華道・茶道・習字・そろばん・所作などの先生をやっている。防人仕込みであるため隙がなく、テレビなどでも取り上げられるほどだ。

 俺たちが言ってもどうしても聞かない時は、彼女の番である。

 冷泉院の血筋がそうさせるのか、文乃の言うことはなんでも聞いた。

 ちなみに瞳の力は今ではないらしいが、「可愛い恩人の娘さんの場所くらい勘で分かります……ふんす……っ」とのことであった。


「ふんっ、せいっ! へいっ!」

「ほーらへっぴり腰になってるよ、キリカちゃーん。もっと重心落として、振りは小さくー」

「うっ……それっ!」

「おっと、不意打ちに糸? それ悪くないよ。けどそれでナイフが疎かになっちゃ駄目だからね、っとぉ!」

「うぎゃんっ!」

「はーい、またまたイクおばちゃんの勝ち~! もうちょっと訓練しないとねぇ」

「もう一回! もう一回!!」


 そしてその他の教育は、現役SHOストライクフォースのリーダー、郁子がやってくれた。

 俺も運動は身体に良いくらいの認識だったのに、娘はメキメキ実力をつけていく。妻の〝糸〟も教えたわけじゃないのに、気がついたら使いこなしていた。

 さすがは十徳の冷泉院の子孫と言ったところだろうか。


「わっ、私、将来奈々瀬さんみたいになります……!」

「えー? 仕事ばっかりして、結婚してくれる人いなくなっちゃってもいいのかしら?」

「世の中ばんこんの時代ですから!」

「ふふっ、キリちゃんは難しいことば知ってるわねぇ」

「だったら奈々瀬さんと結婚します!」

「パパは……!? パパはもういいのか……!?」


 小学校に入る頃には、奈々瀬に憧れるようになった。

 『カッコイイ大人』の見本として、彼女は理想的らしい。普段だらしなーい母を見ている影響もあるのだろうが、その器量に魅了されているようだ。

 一番好きな料理は「奈々瀬さんの作ったタコとワカメのサラダ」と言われると、両親としては若干悲しくもあるけれど。


「水引おばさん、これどうやって使うの?」

「んー? こっちのパフにつけてお肌に当てるんだよ。霧香ちゃんにはまだ必要ないけどね?」

「えー! 私も綺麗になってパパを惑わせたいー! 早く大人になるー!」

「大人ねぇ……だったらほら、このリップあげる。これなら小学校に持っていっても大丈夫だもの。お洒落はこっそりと、ね?」

「あぁ、オレンジで可愛い……! ありがとう、水引おばさん!」


 大人なことは、だいたい水引ちゃんが教えてくれている。俺には分からないし、妻には知識がないから助かるのだ。

 彼女――今は戸籍も〝彼女〟だ――は、いつもよいお姉さん役になってくれているのである。


「きぃいいいりかちゅわあああああん!!」

「うわぁああああああっち行けぇ妖怪アナル女ぁああああ!!」


 美岬はまぁ、美岬である。

 娘と仲が良いので見逃しているが、エロいことを吹き込むのはほどほどにしてほしい。


「パパー!」

「霧香ぁあああ~!!」

「パパ好き~! ママほどほど~!」

「そうやってすぐ残酷なことを言うんだからぁ~! キスしてもいいかぁ?」

「ママと離婚してくれたらいいよぉ~!」

「二者択一が重たすぎるぞ、こいつ~!」


 そして幸いなことに、娘は年頃になっても俺のことを好いてくれている。

 今年で11歳になるというのに、まだ抱きしめさせてくれるし、隙あらばお風呂にも一緒に入ろうと言ってくれる。

 これも耳の裏を必死にゴシゴシと洗っているおかげであろうか。


 そして――


「だったらパパとママと結婚して、3人で暮らすっていうのはどうかしら?」

「えーそれだったら今までと変わらないじゃあん……! 私だけのパパにするのぉー……!」

「いいじゃない、ママも霧香のものにして?」

「ママは老後に手を焼きそうだから嫌だ……」


 妻は、まるで年をとらない。年齢を重ねても、あの出会った頃のままだ。

 異様なまでの量の仕事をこなし、一般的な日常生活が送れない、美しく可愛らしくも、儚い少女のまま。

 娘とは違って、成長というものができない彼女は、それでも日々の努力を少しも惜しまない。

 だからこそ、ひとりの娘の母親になっている。


「私なんで料理だけ全然上手くならないんだろ……大抵のことは一回見ればできるようになるのになぁ」

「そりゃママとパパの娘だもの、料理なんてできるはずないわ」

「俺たちの料理センスのなさと、なんでもできる『十徳の冷泉院』で、打ち消し合って普通くらいになってるのさ」

「それでもこの家では間違いなく霧香が一番上手なのだから、気にしなくていいのよ?」

「嫌だよ! くっ仕方ねぇパパを手料理で釘付けにしママの食生活がおかしくならないように私が料理できるようにならなければ……!」

「ふふっ。我が家のコックさんね、霧香は」


 娘は、いろんな人たちを見て育っていく。


 ――俺に、子供を愛せるのか。


 やはりその心配は、ただの杞憂であった。

 娘の成長を見ることが、いま何よりも夢中なことなのだ。


  ◆


 そんな娘に、新しい友達ができた。


 年度にクラス替えをして、隣の席になった子だ。

 同級生になるのは初めてらしく、少し話してすぐに気があったらしい。珍道君子ちんどう きみこちゃんという。


「みんなからは『チンコくん』って呼ばれてるんだ」

「へぇ~……」


 子供は残酷である。


「よろしくお願いします、霧香ちゃんのお父さん」


 娘から紹介された少女は、朴訥で親しみやすい女の子であった。大人しそうな外見をしているが、口を開けば明るく活発。


 聞けば、寿司屋さんの一人娘だという。


「港の近くにあるんです。ほら、ローション噴水の……」

「ああ、最近になってまた精子小僧ができた広間の近くだね?」

「はい。ちょっと奥まったところにあるんですけど」

「ねぇパパぁ……キリちゃん今日はお寿司が食べたいなぁ……?」

「よし、みんなで行ってみようか!」


 件の寿司屋は、ヌーディストビーチから歩いて6分ほどのところにあった。

 民家の中央にぽつんと建っており、観光客にはまず見つけることができないであろう。店構えもどこか古ぼけていて、店の戸を開けづらい雰囲気すら漂っている。


 しかし寿司の出来は立派なものであり、時価でありながら金額も高くはない。とくにサバ寿司は無類の味であった。


「なるべく手頃なお値段で味わっていただきたくて、私が港から直接仕入れているんです。へへ……っ」


 どこかはにかみ屋の大将にも自然と好感を覚える、素敵な店であった。

 ガリも程よいし、お茶も寿司の旨味が分からないほど濃くはない。よく出来ている。


 今度NLNSやSHOのみんなを誘って来ようと考えていると、無遠慮に戸が開いた。


「へい、いらっしゃ――」

「おやおやおやぁ、ほんっとうにこんなところに寿司屋があるとは思わなかったねぇ……えぇ……?」


 汚らしく暖簾をめくると、そこには親子が立っていた。

 小太りの中年男性と、同じく小太りの少年。どことなく底意地の悪さが表情に現れているような、達磨そっくりな男たちであった。


「へっ、相変わらずしけたツラだぜ……なぁ、君男ィ……?」

「あんたは……森泉しんせんの兄さん!?」


 大将の額から、大粒の汗が伝っていく。

 ニタニタと笑う親子とは対照的に、ぐっと眉根を寄せた。


「知り合い、ですか……?」

「父は東京の名店〝大何寿司〟で修行をしていたのですが、あの方はその時の兄弟子なんです。私のお母さんに横恋慕していて、お父さんと結ばれるや否やあることないこと親方に吹き込んで、そのまま破門に……今でも誤解はとけておらず、両親は駆け落ちするようにこの島にやってきたんです」


 めっちゃ説明してくれるチンコくん。

 ということは同門でありながら、浅からぬ因縁めいたものがあるということだ。


「お久しぶりです、兄さん……今も、大何寿司にいらっしゃるんですか?」

「はっ、辞めたよあんなシケった寿司屋。いくら握ろうとも金にはならねぇ……今は会社を経営してるのさ」

「会社……?」

「〝森寿司もりずし〟さァ……知ってるかい?」

「なっ……〝森寿司〟……!?」

「有名なの……?」

「はい、いま九州で勢力を拡大している振興のチェーン店です! しかしその悪質なやり口は有名で、無理難題を吹っかけては地上げ屋同然に地元の寿司屋を吸収していくという……!」


 詳しい、流石は寿司屋の娘である。


「なぁに、今日はただ挨拶をしにきただけさ……この近くにウチの寿司屋を出すもんねぇ……」

「もっ、もしかして……ドスケベイシアで改装中のって……!?」

「ああ、そうだよ、ウチだァ……! 一階のすべてをぶち抜いて、200名が座れるフロアを作り、良質で安価な寿司を食わすんだよォ……!」


 ドスケベイシアとは、俺が高校生くらいの頃にできた大型のショッピングモールだ。

 港の近くにあり、利便性の面では最高である。


 森泉の父親はにったりと笑って、再びのれんをめくる。

 息子も同じ顔で、振り返った。


「まぁよろしく頼むよ、君男ィ……? はっはっはっは……っ!」


 暗雲立ちこめる、珍寿司ちんすし(この店の名前)。

 何か問題にならなければいいが……シメの煮穴子を食べながら、そう思った。


  ◆


 俺の悪い予感は、すぐに的中してしまった。


「パパ……! チンコくんのお寿司屋さん、全然お魚が仕入れられなくなっちゃったんだって……!」


 妻と娘を連れて寿司屋に向かうと、目の前のネタケースはガランとしていた。それだけで満足に仕入れができなかったのだと分かった。


「こんなこと、今までなかったんです……それがいきなり、あの次の日から、『もうあんたに売ることは出来ない』とにべもなく……」


 快活であった大将も、頭を抱えている。薄暗くも清掃の行き届いた店内が、どんよりと沈んでいた。


「これ、絶対に森寿司のせいだよ……! だって魚市から大量のトラックがドスケベイシアに入っていくところ見たもん!」


 嫌がらせはそれだけではなく、小学校でも起こっているらしい。

 森泉の息子が、娘たちと同じ学校に転校してきたという。同年代よりも少し身体が大きいこともあり、あっという間にガキ大将になってしまったそうだ。

 それからチンコくんのことを「身体が腐った酢飯臭い」だの「あだ名が変だ」などとイジメはじめた。


「ごめんね、霧香ちゃん……私がいるばっかりに、霧香ちゃんまで……」

「いいんだよチンコくん……! 私だったら暴力を振るわれても、打撃攻撃なら郁子おばさんのパンチくらいまでなら受け身でなんとかなるから……!」


 娘には、「同級生には武力を行使してはいけない」と言い聞かせてある。

 今の霧香の実力は、正直全盛期の俺――漢勃ちや二刀流ですら――と同等なまでに強い。


「……どうする、桐香?」

「正当防衛であればよいですが……あの子はまだ手加減ができず、相手を殺してしまう可能性があります。それに霧香の〝糸〟は私の斬撃ではなく、絞めるタイプですから……」

「証拠が残る、か……それはまずいな」


 文乃からよく言い聞かせてもらっているため、霧香は約束を守っている。

 だからこそ、為す術がなかった。


 すると寿司屋に、一人の男が入ってきた。

 どこか鬱屈とした眼差しをしており、何かを品定めしているような観もある。

 俺も社会人になって様々な人間を見てきたが、男はカタギではないように感じた。


「握ってもらおう。サバだ」

「へっ、へい、ただいま!」


 聞くところによると、さば寿司は大将の得意料理らしい。どうやら女将さんとの深い思い出が詰まっているそうなのだが、そこは割愛。


 一口寿司を放りこむと、男はすぐさま吹き出した。


「ぷへっ、まじぃ! なんだコイツはぁ!?」

「え……!?」

「身はパサパサで旨味もまったくねぇ! 腐ったもん出すのかよ、この店はァ!?」

「そんなはずは……! サバは私が自分で今朝釣ってきたもので、鮮度だって……!」

「おまけに米は握りみてぇに固まっちまってる! こりゃクソみてぇな寿司だぜ!」


 サバの寿司は、俺も食べた。特段味覚がよいほうではないが、その辺の店でお目にかかれる代物ではないはずだ。


 チンコちゃんが慌てて持ってきた湯呑を、男は壁に投げつける。

 そして男は歪に口角を歪ませて、鼻を鳴らした。


「最低の寿司屋だなァ! こんなゲロみてぇな寿司を出すところがあるなんて、覚えといてやるぜ!」


 その笑顔はどこか、森泉親子に似ていた。


  ◆


 男は、とある有名なグルメ雑誌の記者だったらしい。名前を飯野傑めしの すぐると言って、別名『料理人殺しの飯野』と呼ばれていた。

 彼は自分が掲載している雑誌に片っ端から珍寿司の悪評を寄稿し、その評判をガタ落ちさせていった。

 どうやらネットでも攻勢をかけていきているらしく、ハメログの評価も☆0.1と、史上最低評価を叩き出している。


「『青藍島らしくチンポを触った手を洗わずに寿司を握り、イクラの代わりに精子の軍艦巻きを出すゲロ寿司屋』……か」

「私はトイレの後は手を洗っていますし、イクラだって市から仕入れたものを使っています……! なのに、なぜ……!」


「――……その記事はお気に召したかい、ゲロ寿司屋さんよォ?」


 薄笑いを浮かべながらやってきた男たち。

 誰何する必要もない、森泉親子であった。


「おやおや、どうしたんだい君男ィ……? ずいぶん落ちこんでいる様子じゃねぇーか」

「そこにいるのはクサチンコとその腰巾着じゃねーか。お前も食べるもんがなくて飯でもたかりに来たのか?」


 森泉の息子は、娘たちを見て下劣な笑みを浮かべる。


「けどなぁ、ここには酢飯しかねぇぞ? だってネタは全部、パパの会社がお前たちには売らないようにしてんだからなぁ!!」

「お前だな、森泉……! この記事を書かせたのは!」

「知らねぇなァ? チンコの寿司屋がチンコくせぇ手で握ったマズい寿司のせいじゃねーのぉ、ぎゃっはっはっ!!」


 高笑いをされても、珍道親子には反駁することができない。なぜなら証拠がないからだ。

 すると森泉の親子は、わざとらしく唇を尖らせて見せた。


「困ってるのか? 大変だなぁ……? 俺たちが助けてやろうかぁ?」

「助ける、だって……!?」

「近々東京の番組で、寿司職人の対決というショーをやることになっている。知り合いのプロデューサーに頼まれてなァ……それに我が森寿司の対戦相手として出演させてやってもいいぞ?」

「代わりに負けたら、テメェらは再起不能なまでにボロックソに言われるだろうけどなァ――!」


 誰の目から見ても分かる、これは罠だ。

 中でも最も冷静であった娘が諭す。


「ダメだよおじさん、こんな挑発に乗ったら……! 絶対に罠だよ! 店の評判は頑張って取り戻せばいい、みんなすぐ忘れるから……!」

「ありがとう、霧香ちゃん……けど、それはできない」


 大将はかぶりを振る。


「このような仕打ちを受けて、黙って引き下がるわけにはいかない……」


その瞳は、先程の落ちこみきったものではなく。


「……おじさんも職人であり、男なんだ」


 燃えるような、闘志が宿っていた。


「それじゃあ勝負は一ヶ月後だ。至高の一品を握り、文化人たちと会場の客どもに審査をさせる」

「それまでにせいぜいマシなモンが出せるようになっとけよ? え? チンコくんィ……?」


 強く握りしめた拳から、静かに血が溢れる。娘は今にも漏れ出そうな殺意を抑えようと必死であった。

 戦闘経験がある者ならその殺気だけで屠れるが、あいにく相手は寿司屋である。カレイとヒラメの違いが分かっても、小娘と戦闘狂の違いは分からない。ゆうゆうと去っていく。


「やってやるぞ、森寿司……!」


 霧香は、戸を睨めつけながら呟いた。その肩に手を乗せて、寿司屋の親子も頷く。

 彼らも同じ気持ちであった。


  ◆



 今回の勝負が罠であるのは、やはり間違いないようであった。


 SHKの繋がりで手を回したところ、番組の企画表を入手することができた。

 審査員には著名な文化人の中に、件の悪徳記者『飯野傑』が混じっていた。俺でも知っている有名な女体家の『露山チン』先生などは外されている。恣意的な人選であった。


 それを娘が告げにいくと、しかし大将は愁眉を開いて見せた。


「はは、大丈夫だよ霧香ちゃん。最初から分かっていたことさ」

「けどズルだよ? 勝負って公正じゃないといけないって、少なくともパパは公正に見えるように裏から手を回さなきゃいけないっていつも言ってる」

「おじさんは職人だからね、ただ寿司を握ることしかできない。だからこそ、誰も文句を言えない寿司を握るのさ」


 大将が勝負の握りに持ってきたのは、サバ寿司であった。あの悪評をつけられた寿司である。

 それをあえて持ってくるのは、彼の意地が垣間見えるような気がした。


「霧香ちゃんは、ゴマサバって知ってる?」

「えーっと……サバの種類?」

「うん。基本的に美味しいってされてるのはマサバっていう種類なんだけどね、ゴマサバは一年通して味が落ちることがないの。マサバは夏場には味が落ちてしまうけれど、ゴマサバはむしろ夏が旬」

「じゃあ、勝負に使うのはゴマサバ?」

「ううん――……一年通して美味しく食べられるゴマサバの、もっとも味が良い季節。その時期の中でも、特別に美味しいとされている伝説のサバがあるの」

「伝説……!?」

「うん、〝ゴマんこサバ〟って呼ばれてる。表面が使いこんだビッチのマンコみたいにテカテカ光って見えるから、そう名付けられたんだって」


 ゴマんこサバ、大将はその素材に賭けるという。どうやって手に入れるかは、チンコくんも聞いていない。盗聴の恐れがあるからだ。


「『さばの生き腐れ』って言葉があるくらいだからね。とにかく今は、上手に捌く練習のほうに時間を使っているんだって」


 一心不乱にサバを下ろし、握る大将の姿。

 それに心を打たれた霧香は、少しでも親子の助けになろうと、家で寿司を握る練習をはじめた。


「チンコくんたちが頑張ってるんだもん……! 私も手伝ってあげるんだ!」


 不格好な形の寿司から、娘の成長をほのかに感じた。


  ◆


 大将が怪我をしたという知らせを聞いたのは、それから四日後のことであった。

 急いで病院に駆けつけると、大将は大部屋の隅に横たわっていた。


「ひき逃げです……顔は見えませんでしたが、おかしな挙動で私のほうに突っ込んできました……アレは、多分……」


 昔気質の職人である大将は、それ以上、口は開かなかった。

 幸運なことに命に別状はなかったが、右腕――利き腕――が骨折しているという。全治二ヶ月、二週間は絶対安静だ。


「ようやく……ようやく、戦えると……自信がついてきたのになぁ……」


 横たわった大将の目尻から、静かに涙が流れ落ちる。


「娘に、いいところを……見せられると、思ったのになぁ……っ」


 同じ娘を持つ父親として、心が痛んだ。


  ◆


 それからすぐに霧香は、珍寿司へと向かった。

 チンコくんは母親も病気で療養しており、ひとりぼっちだった。娘は彼女のことを孤独にしてはいけないと思ったのだろう。


「うぐっ……えぐっ……お父さん……お父さん……っ」

「しっかりして、チンコくん……! 治る怪我でよかったじゃん……!」

「けどっ、うぐっ……勝負まで、あと……っ! 一週間、なのに……っ!」


「おぉ、よく覚えてるじゃないか、チンコィ……?」


 またしても、暖簾口に森泉親子が立っていた。

 今度は声を荒げるのを、霧香は我慢できなかった。


「どういうつもりだ! おじさんに怪我までさせて、そこまでして勝ちたいのか!?」

「ああ、勝ちたいよぉ?」


 悪びれもせず、むしろ小馬鹿にしたように、唇を尖らせて言う。


「なんで……!」

「お前たちが死ぬほどムカつくからだよ、珍寿司ィ……」


 森泉の親父はスーツのポケットに手を入れ、見下すように娘たちを睥睨する。


「貴様の親父とはいつも比べ続けられた……兄弟子として出来が悪いだのと、あのクソジジイから怒鳴られ、挙句の果てには先に板場につきやがった……! おかげで俺の面目は潰れ、使いっぱしりのように扱われた……分かるか? 弟弟子の小間使にさせられる惨めさがなァ!」


 鈍色に、瞳の奥が光る。

 俺は、この眼を知っていた。


「なのに君男はさっさと駆け落ちして、店から抜け出し、その責任をすべて俺に押し付けやがったのさぁ……!」


 これは、かつての俺。

 生徒会長に誘惑された、昔の俺。


「その時、俺は決めたんだよぉ……地獄の底まで追いかけて、貴様らを絶望に叩き落としてやるってなァ……!!」


 復讐を願っていた、俺の眼と同じだ。


「………………」


 その眼を受けて娘は、しかし毅然と顔を上げた。


「……やろうチンコくん」

「えっ……?」

「チンコくんが、お寿司を握るんだよ……!」


「握るぅ? そこのチンコがかぁ? ギャッハッハッハッハッ!」

「そいつは傑作だなァ~! ヒャッヒャッヒャッヒャッ!」


 揃って哄笑する親子に、霧香は口を噤んだまましっかりと視線を向ける。


「いいだろう。おじさんたちは優しいからねぇ……貴様らにもチャンスをやろじゃあないかぁ……?」

「その代わり負けたら言われるんだぜ。『珍寿司の大将はビビって逃げ出した挙げ句ムスメに握らせました』ってなぁ、チンコィ……? きゃっはっはっっは……っ!」


 不愉快な笑い声を残して、親子が寿司屋を後にする。

 チンコくんは慌てたように、娘にすがりついた。


「勝負って……! どうするの霧香ちゃん、私お寿司なんてちゃんと握れないよ……!?」

「だって……」

「それを偉い人に出すなんて、そんなこと――!」

「おじさん、泣いてたんだもん!」


 しかし娘は、このような逆境では折れない。


「あんなに頑張ってる人が、悔しいって……! 悔しいって泣いたんだよ……! それを踏みつけていい権利なんてどこにもない! 昔に何があったかなんて知らないよ、私には分からないから……!」

「霧香ちゃん……」

「けど、このままでいいわけない! だから、私たちでやるんだよ!」


 どんなに苦難が待ち構えようとも、むしろ歓迎し、突っ込んで打ち崩す。悪意にはそれを越える憎しみで、ことごとく相手を消滅させる。


「許さないぞ、森寿司……!!」


 なぜなら彼女は、橘淳之介の娘だからだ。


「桐香……俺たちの娘は、立派に育ったな……」

「ええ、本当に……」


 のれんはくぐらず、そのまま寿司屋を後にする。

 娘の成長が眩しい日であった。


  ◆


 それからの娘たちの日常は、簡単なものではなかった。


 学校に行き、森泉の息子に蔑まれながら、帰ってきて寿司の練習をする。

 勝負では基本的に寿司屋の娘であり、何度かお父さんから教わったことがあるチンコくんが握ることになった。

 霧香はそれに付き合い続けた。


「お寿司は〝地紙の型〟って言われる理想の形があって、それを練習するんだけど……」

「あっ、崩れた……! 力加減が難しいね、これ……!」


 しかし通常何年も修行して、ようやく板場につける職業だ。一朝一夕で身につくようなものではない。ある意味では体幹から変える必要がある。


「パパの1000万くらいする3Dプリンター借りて、こんなの作ってきたんだけど」

「なにこれ、拷問器具……!?」

「寿司のバランス矯正ギプス」


 娘はそういった技術に対しても、俺と妹ふたり分の知識を持っていた。


 ひたすら握る。

 それを食べてもらう。

 霧香の一大事とあって、俺の仲間たちも惜しみなく協力してくれた。


「うーむ、これはダメですね……」

「どこが駄目なの……!?」

「正直胃袋に入れば同じなのでよく分かりませんが、何か味のハーモニィー的なものが……マリアージュ的なのが……なんかがないです」


 美岬は健啖家だが美食家ではないので、寿司屋の親方のような体型をしていながら、思ったよりも役に立たなかった。

 それでも大抵のものは吸いこんでくれるため、掃除機くらいの役には立った。


 だが寿司は握るだけではない、よい魚を選んでくる必要もある。

 つまり目利きが肝要であり、裏付けとなる相応の知識も大切であった。


「この鯖を20きろぐらむ、あちらの光り物をすべて。そちらのいかを20杯いただきましょう」

「あっちゃぁ……! ドスジャンさんが来るといっつも良いの持ってかれちゃうんだからなぁ……!」

「文乃先生すごい!!」

「魚河岸の皆さんは、わたしをこう呼びます。『百目の文』と」


 元チート眼の持ち主である文乃に教えを請い、娘たちは深夜の二時から魚河岸に赴き、目利きの訓練を続けた。


「サバってどうやって捌いたらいいのかなぁ?」

「あ、Youkaku Tubeに捌き方の動画あった」


 現代っ子である。


「テレビに出るトキのカッコ、こんなんでいいかな?」

「清潔感出すために、三編みにしてみるのはどうかな? 女の子が頑張ってるみたいな感じに大抵の男は弱いから、評価も甘くなるはずだもの。そこを突いていこうよ」


 コーディネーターは水引ちゃんがしてくれた。印象の大切さを知っている彼女にかかれば、この程度楽勝であった。


「ヒナミちゃあああん疲れたよぉおおおお……っ!!」

「よしよーし、霧ちゃんはがんばり屋さんだねぇ」

「実質ママ……っ!」

「会長さんの前でそれ言うのはやめようねぇ」


 励ますのはヒナミの役であった。


『特訓頑張ってね、キリちゃん』

「はい!!!」


 応援は奈々瀬の役目であった。


 血の滲むような特訓の甲斐や、若い吸収力も相まって、娘たちはみるみる実力をつけていった。

 矯正ギプスもあってチンコくんは整った寿司を作れるようになり、回転寿司の古い寿司マシーンよりは美味しいものを出せるようになっていた。


 しかし彼女たちには、まだ大きな問題があった。


「うーん、駄目だ……やっぱりお父さんのやつとはぜんぜん違う……」

「新鮮なのを選んでるはずなんだけど……なんか生臭いんだよねぇ……」


 大将の作ったサバ寿司である。

 その味にはあまりに程遠く、文乃からサバの目利きに関しては満点をもらったというのに、どうしても近づかないのである。

 このままでは『珍寿司のサバ寿司』にはならない。

 早朝の魚河岸を歩きながら、ふたりはいつも頭を悩ませていた。


「捌くのが下手だから、繊維を潰しちゃってるのかな?」

「繊維を潰したら、生臭くなったりするもんなの?」

「そことは関係ないかもしれないけど、切り口が綺麗だと細胞が潰れないから歯ざわりがいいんだって、昔お父さんが言ってた」


 勝負は、すでに明後日までと迫ってきている。一刻の猶予もない。突破口を見つけるには、あまりに時間が足りなかった。


 そんな彼女たちを呼び止める男がいた。


「――……テメェらかい? オレ様の対戦相手ってのはぁ?」


 長身で細身の男であった。

 白い割烹着の上にジャンパーを着込んでおり、足元はゴムの長靴。前掛けには四本の包丁が刺さっていた。柳刃、出刃、蛸引、ふぐ引包丁である。

 一見して分かる。男は寿司職人であった。


「社長が言うからどんな奴かと思ってわざわざ来てみりゃあ……ただの小娘じゃねーか!」


 いやに舌の長い男は、ぺろりと唇を舐めてみせる。嘲笑を浮かべたままだ。


「オレの名前はぁ尾刀鉄郎おがた てつろう……この業界にいるなら、名前ぇくれぇ聞いたことがあるだろ?」

「なっ……! 尾刀鉄郎!?」

「チンコくん、知ってるの……?」

「流浪の寿司職人で、金さえ積めばどこの店でも握るって男だって、お父さんから聞いたことがある……! とんでもない包丁技術を持っていて、別名〝柳刃の鉄〟――!」


 この男こそが、娘たちの刺客であった。

 森泉親子は決して甘くは見ず、珍寿司を潰すため、最強の料理人を招聘していたのだ。


「噂に聞いたぜぇ……おたくらもサバを握ろうってんだったな?」

「おたくらも、だって……!?」

「おうさ、オレも勝負ネタはサバを使おうって思っててねぇ……コイツを、使うのさ!」


 尾を持って、保冷庫から柳刃の鉄が魚を取り出す。

 そのサバは、あまりにも美しかった。表面が薄っすらと輝いていて、きゅっと引き締まっているのが分かる。だが硬くはなく、筋肉の躍動すら感じられた。


「それは、まさか……!」

「そうさ……こいつが〝ゴマんこサバ〟だよぉ……!」


 テロテロに熟れたその色合いは、まさしくビッチのマンコそのもの。

 霧香たちですら忘れかけていた伝説のゴマんこサバを、柳刃の鉄はすでに手に入れていたのだ。


「こいつはぁ、二尾手に入れてあってねぇ……どら、小娘ちゃんたちに喰わせてやろう――!」


 柳刃の鉄は腰を落とし、四本の包丁を指に挟む。

 そして――


「な……!」

「左手で魚を持ったまま、高速でサバを切りはじめた!?」

「ちんたらやってる暇なんてねぇだろうがよぉ! 『サバの生き腐れ』って言葉を知らねぇのかぁ!?」


 宙に魚が舞う。そして柳刃の鉄はどこからか取り出した酢飯を右手に持ち、片手だけで寿司を握って見せた。空中小手返し一手である。


 恐る恐る、握られた寿司を口運ぶふたり。

 娘の表情が、すべてを物語っていた。

 そのサバ寿司は、大将が握ったものより美味しかったのだと。


「はっはっはっはっ! いい顔してるじゃねぇか! この程度で絶望してちゃあ、勝負にゃならんぜお嬢さん方ぁ! あいつを見ろよ!」


 柳刃の鉄が、場外を指差す。

 そこには大量の発泡スチロールが並べてあり、中はサバであった。


「なにを――……まさか!?」

「そのまさかだよぉ……フレイム・オン!!」


 消化服を着た男が、魚にガソリンを撒き散らす。そして使い捨てライターに火をつけて、その中に投げ込んだ。


「ああ……!」

「これで辺りにあるサバはい~~~~っこもなくなっちまったんだよぉ! もう練習もできなくなっちまったなぁ! ぎゃーっはっはっはっはっ!」


 一体に、こんがり焼けた魚のよい香りが漂う。高笑いをしながら柳刃の鉄は、伝説のサバを担いで去っていった。

 絶望したように、チンコくんがその場にへたりこむ。


「そうか……私たちは魚を捌く時、身に手が触れていた……それが魚を生臭くしていたんだ……」

「分かったところで無理だよぉ……! ゴマんこサバに加えて、あの包丁技術……! しかもサバまで焼かれちゃって! 私たちに勝ち目なんて、マンにひとつもないよ!」

「まだ勝機はあるよ、チンコくん! 向こうはそれでも尻尾を握っていたんだから!」


 娘も無茶は承知で、現実を見つめたくないために言葉を継ぐ。


「一切手を触れないで、捌くことができれば……!」

「そんなのもう、包丁を使わないでバラバラにするくらいしかないでしょ……!?」

「包丁を、使わない……?」


 霧香は、稲妻が落ちたような天啓を受けた。

 無理を承知で口にした言葉が、突破口のいとぐちとなっていたのだ。


「そうか、分かったぞ……!」

「何が分かったの、霧香ちゃん……!?」


「これなら……私たちは、勝てるかもしれない――!」


  ◆


 それからチンコくんも怪我をしたという連絡が届いたのは、その日の夜のことであった。


 急いで病院に向かうと、チンコくんは大将の隣に横たわっていた。

 その右手には包帯が巻かれており、指の骨四本を骨折しているという。全治二ヶ月、他に傷はないから明後日には退院できるそうだが、寿司はもう握れない。


 霧香と別れた帰り道、彼女は知らない黒服の男に「家まで送ってあげる」と言われたらしい。寿司屋の前で車から降りようとしたところ、手を思い切りドアで叩きつけられたという。

 そのまま車は逃げてしまい、彼女は自分で救急車を呼んだのだ。


「ごめんね……っ! 霧香ちゃん、ごめんね……っ! 私が、私が馬鹿だったばっかりに……こんなことに、なっちゃって……一緒に頑張ってくれたのに、ごめんねぇ……っ!」


 泣きじゃくるチンコくんに対して、霧香は震えていた。


「絶対に許さないぞ、森寿司……!!」


 父である俺ですら震えが来るほどの、はっきりとした殺意であった。


  ◆


 勝負は、ついに明日と差し迫った。

 チンコくんの代わりにひとりで対決に望むと決めた娘は、夜遅くまで特訓を続けていた。


「はっ――!」


 空中に浮かび上がったサバ――美岬が家に冷凍してあった買い置きを三〇匹ほど持ってきてくれた――が、バラバラになってまな板に落ちる。

 そう、これは糸。

 特殊繊維を使った、冷泉院の秘技であった。


「はぁ……はぁ……っ! やっと、切れるようになった……っ!」


 ここまで、長い道のりであった。

 なぜなら冷泉院桐香と橘霧香では、元より糸の性質が違う。斬撃のみを扱う妻に比べ、娘は従来の〝冷泉の糸〟と同じく『絞め殺す』技術に特化していた。それでは魚を捌くことはできない。

 だからこそ霧香は一睡もせずに、糸を使った斬撃を練習し続けた。

 そしてようやく、魚程度なら切り落とすことができるようになったのである。


「霧香」

「あっ、ママ……! ちょうど良かった、食べてもらいたいものがあるんだ!」


 心底嬉しそうに笑って、娘は寿司を握りはじめる。

 ギプスを使ったチンコくんとの訓練の末、地紙型……それに近い形ものを霧香は握れるようになっていたのだ。

 ちゃんと作った最初の寿司を、ママに食べてもらいたい。

 そんな想いで、霧香は差し出した。


「……駄目ね、これでは」

「は……?」


 しかし妻は、娘の努力をあっさりと否定した。


「ちょっ……どういうこと!? 私が握った寿司が駄目って! ……あ、そっかそうだよねママ味音痴でお寿司のことなんて分かんないもんねあげた私が馬鹿だったはいすみませんでしたじゃあね!」

「そういうことを言っているんじゃないわ、霧香」


 気色ばむ霧香に、妻は珍しく真剣な眼差しを向ける。

 滅多に見ない表情に、娘も動揺した。


「け、けど……サバはこれ以上のものは手に入らないし、捌くのだってこれ以外にないし……握るのだって……!」

「そうね。霧香がすっごく頑張ってこのお寿司を作ったのは、ママもよく分かったわ。さすが我が家のコックさんね」

「だったら、なんで……」

「霧香は、この勝負でどうしたいの?」


 そっくりの、ともすれば姉妹に見える母子は見つめ合う。


「橘家の家訓は?」

「決め台詞はカッコ良く……」

「他には?」

「挑まれた戦いは必ず勝利する……」

「戦うときは?」

「二度と逆らえないよう完膚なきまでに叩きのめす……」

「そうよね。パパがそうだったからよね」


 これが橘家の家訓である。というよりも、妻が勝手に娘に教えていることであった。


「このお寿司で、相手をしっかり潰せるの?」

「あ……!」


 はっとする霧香。

 自分の握った寿司を見つめて、そして悔しそうに歯を食いしばった。


「そうか……! 寿司勝負にこだわるあまり、その基本をすっかり忘れていた……! 私は、なんて馬鹿なんだ……!」


 この寿司だったら、たしかにいい勝負はできるかもしれない。子供だということを考えれば、あまく見てくれる審査員もいることだろう。

 しかし、これでは逆らってきた相手を完璧には潰せない。

 そのことに霧香は気づいた。


「……ありがとう、ママ」

「いいえ、どういたしまして」

「たまにはママらしいこともするんだね」

「こういう時くらいはね、ふふふっ」


 憎まれ口を叩きながら、霧香は笑う。

 そんな娘を、心の底から愛おしそうに撫でる妻であった。


  ◆


 決戦は、SHKのスタジオを間借りしておこなわれることになっていた。

 東京から何十人というテレビクルーがやってきて、公正を期すためという名目で一般審査委員も島外から招待された。

 悪徳記者の飯野もいる。

 彼は森泉親子と親しげに会話をしていた。


「おやおやおやぁ……! これはこれはこれはぁ、今日はずいぶん寂しいじゃないのぉ……ひとりかい、珍寿司ィ……?」

「もしかしてチンコくせぇメスは怖くて逃げ出しちゃたのかなぁ~? じゃあ明日からあいつの名前は早漏チンポだなぁぎゃっはっはっ!」

「………………」


 森泉親子の煽りに対しても、娘は口を開かない。これからの勝負がすべてだ、と言わんばかりであった。

 セットの準備も終わり、カメラが周りはじめる。AD(という人種なのか分からないが)がキューを出す。


「こんにちは。あなたのすべてを受け入れる、茅津野アナです。本日は青藍島よりお送りしております」


 最近島外でもすっかり人気者になった茅津野アナが司会であり、唯一の中立的立場であるといえた。


「霧香ちゃん……!」

「安心して、チンコくん」


 チンコくんは怪我をおして、無理やり観覧席まで訪れていた。俺の隣に座っている。他のNLNSやSSも同様であり、身内ということもあって投票権はないが応援を許されていた。


「負けて無様に嘆く連中をカメラで抑えるっていうのも、数字になるもんでねぇ……! へっへっへっ」


 プロデューサーなる人物が笑っている。ここにまともな人間は俺たちしかいない。

 茅津野アナは閲覧席の下にある時計を見つめながら、どこかそわそわとしはじめた。


「どのような熱い寿司対決を見せてくれるのでしょうか! ……というわけで、対決両者のご紹介も終わったのですが……森寿司の職人さんがまだいらしていないみたいですねぇ……」


 そう。まだ霧香の対戦相手こと柳刃の鉄の姿がないのである。テレビクルーたちは忙しなくフロアを行き来しているが、影も形も見当たらない。


「ちっ、なにしてるんだアイツは、高い金出してるっていうのに……! もう勝負が始まっちまうだろうが……!」

「ふふふ……」


 焦る森寿司に対して、霧香はこらえ切れずに笑みを漏らす。

 それは、あまりにも挑発的で、不敵な笑顔であった。


「あ……!? 何がおかしい、小娘!」

「……気づかないの? 勝負はすでに始まってるってことに!」


 それと同時に、森泉の親父のタブレットが鳴る。番組途中にも関わらずそれに応えると、素っ頓狂な声を漏らした。


「……なに!? 柳刃の鉄が怪我で入院した!?」


『淳、キリちゃんに伝えてくれる? 頼まれてた仕事、無事に終わったって。軽いお仕置きだけど、一ヶ月は入院でしょうね』


 俺の耳につけたイヤホンに、奈々瀬からの連絡が入る。

 右手で合図を送ると、娘は大きく頷いた。


「もっ、もしや――! 小娘、貴様!?」

「そう、〝物理ダメージ〟だ!」


 隣で驚いていたチンコくんが、はっと立ち上がる。


「そうか……! どれだけ寿司を握るのが上手かろうと、怪我をしてしまえば対決することはできない! 霧香ちゃんは、それに気づいて……!」

「うむ……!」


 美岬は頷く。

 どれだけ包丁さばきが上手かろうと、腕を怪我してしまえば握ることはできない。つまりは勝負せずとも勝つことができる。霧香は、それを狙ったのだ。


「なんということでしょう! 珍寿司の先手が決まり、早くも森寿司ピンチかぁあああ!?」


「くっ……! 悪あがきをする馬鹿があッ! 職人なんてこっちにはいくらだっているんだよォ!」

「そうだ橘ィ! 魚だって高級なものをいくらでも揃えられるんだからなァ~!!」

「そっ、そうだった、森寿司は魚河岸を抑えていたんだ……! お魚がないんじゃ、どうやったって勝ち目が……!」

「大丈夫だよ、チンコくん」


 汗を流しながらも、自信あり気に頷く霧香。

 同時に、建物越しでもつんざくようなローター音が耳朶を打った。


「あ……!」

『……おーい、霧香ー! サバ、持ってきたぞぉ~!!!』


 スピーカーから、礼先輩の声が聞こえてくる。

 セットの天井が開き、上空高くを占位していたヘリコプターから、支援物資が投下された。

 保冷庫の中には、幻とまで呼ばれた〝ゴマんこサバ〟が、一〇〇人前は作れるであろうというほどギッシリと、鮮度を保って入っていた。


「まっ、まさか貴様ッ……!?」

「そう、〝金〟だ!」


 隣で驚いていたチンコくんが、はっと立ち上がる。


「そうか……! 魚河岸を抑えられようとも、お金を使って買い叩けばいい魚なんていくらでも手に入る! 霧香ちゃんは、それに気づいて……!」

「うむ……!」


 美岬は頷く。

 財力さえあれば、別に魚河岸を抑えられようともどうってことはない。その分、船を自分たちでチャーターして、釣れたらヘリコプターに回収してくればいい。霧香は、それを狙ったのだ。


「なんということでしょう! 森寿司が一匹しか手に入れられなかった伝説のゴマんこサバを大量に手に入れた珍寿司! これは勝負あったかぁああああ!!??」


「なっ、舐めるなよ小娘がァ! 所詮は素人が握る寿司だッ! 同じ食材であれば、こちらが負けるはずがないんだよォ!」

「おいそこのスタッフ! 早く魚をもってこいよォ!!」

「そ、それが……どこにも魚が見当たらなくて……どこに搬入したんですか?」

「なにィ……!? 他の魚と一緒に三〇ケース運びこんだものが、どこに消える!?」

「それが、影も形も……!」

「ふふふ……」


 またもや、娘は薄い笑みを浮かべる。


「きっ、さま――! まさかァ……!?」

「そう、〝人脈〟だ!」


 隣で驚いていたチンコくんが、はっと立ち上がる。


「そうか……! 霧香ちゃんはSHOに顔が利くから、SHKの警備も自在に操れるし、搬入された魚を奪うことができる!」

「そこに何でも吸いこむ美岬ちゃんがいれば、サバを食べ尽くすことなんて簡単! 霧ちゃんは、それに気づいたんだね……!」

「うむ……!」


 美岬は頷く。

 SHKの警備体制など、SHOには筒抜けなのである。そこを郁子とアーマー水引ちゃんに襲撃してもらえば、奪取は簡単だ。証拠を残す心配も、島のカーブヒィこと美岬がいれば隠滅できる。霧香はそれを狙ったのだ。


「職人もおらず、握る魚もなく、為す術もない! これは森寿司、本当に勝負あったかぁあああああ!!!???」


「小娘如きがァ!! こっちは寿司を出さずとも勝利することなんざ簡単にできるんだよォ!!」

「それでは皆さん! 美味しかった寿司を出した店名を挙げてくださいィ――!」


「これは……!? どういうことでしょう!! 会場のお客様、そしてゲストの文化人の方々すべてが、寿司を出していない『森寿司』の札を挙げたぁあああ!!!」


「そ、そうだ……! 森寿司にはこれがあったんだ……! しかもお客さんまで抱き込んでるなんて……! これじゃあ霧香ちゃんに勝ち目なんてないよ……!」

「ザマァみろや橘ィ! どっちにしろテメェは俺たちに負けるんだよォ、ひゃっひゃっひゃっ!」

「ふふふ……」


 それでも彼女は、悠然と笑ってみせた。


「何がおかしいんだよ、腰巾着がテメェ!!??」

「5分だ」


 霧香は手を広げ、森泉親子に突き出す。


「――……5分後に、すべての評価はひっくり返る!」


 その瞬間、会場が揺れた。ほぼすべてのタブレット端末のバイブレーションが、同時に起動したからである。

 こっそりとタブレットを確認した文化人のゲストたちが、一斉に色を失った。


「す、すみません……やっぱり私は、珍寿司で……」

「はぁあ!?」

「僕も……珍寿司で……」


 一〇名いるなんちゃって文化人は、次々と札を反対にして掲げていく。


「あの……おっ、私も……珍寿司のほうに……」

「飯野!? 貴様まで、なぜ……!?」

「ふふふ……」


 やはり娘は、笑顔を浮かべる。


「は……! まっ、まさかッ……!?」

「そう、〝権力〟だ!」


 隣で驚いていたチンコくんが、はっと立ち上がる。


「そ、そうか……! 権力にはそれを超える権力をぶつければ、相手を黙らせることが可能だ! 霧香ちゃんはそれに気づいて……!」

「うむ……!」


 美岬は頷く。

 仲良しの礼先輩はSHOの教官であり、子供たちを数多く訓練している。稽古をつけた郁子は警護と称して何人もの役人を護衛してきた。憧れの奈々瀬は日本経済を動かしており、文乃はテレビ局に顔が利く。

 何より実の母である旧姓『冷泉院桐香』は、SHOの最重要人物である。寿司屋程度の権力であれば、簡単に跳ね除ける力を持っている。霧香は、それを狙ったのだ。


「だったら、なぜ……っ! 客はどういうことだ!? どうして俺のサクラまで、向こうに寝返った……!?」

「そうだよ霧香ちゃん! 文化人ならともかく、一般のお客さんには圧力なんて……!」

「チンコくん、分からない?」


 霧香は開いた手の指を一本だけ立てたまま、胸に突き立てる。


「――そう、〝弱み〟だよ!」


 隣で驚いていたチンコくんが、はっと立ち上がる。


「そっ、そうか……! 人間生きていれば弱みの一つ二つは必ずある! 霧香ちゃんは、それを利用して……!」

「うむ……!」

「畔親方!」

「よくぞ気づいたな、霧香よ……!」


 美岬は頷く。

 人間の弱みなど、生きていればいくらだってある。連絡の文面・検索履歴・画像動画など――そしてそれは大抵の場合、手持ちのタブレットに残っているものだ。

 それを麻沙音にジャックしてもらえば、票を変えろと脅すことくらい造作もない。霧香は、それを狙ったのだ。


「あ……あああぁぁ……っ!」

「どうだった、私の〝寿司〟は。お気に召した?」


 子羊のように震える森泉親子に、霧香は光のない眼で笑いかける。

 これを放送されたら、もうこの親子はお終いだ。文化人たちも面目を潰されている。あまりにも影響が大きい。


 彼らができることは唯一つ、「これはなかったことにしてくれ」と彼女にお願いすることだけ。

 寿司にはさほど興味のない霧香なら、すぐに了承するはずだ。


「……もっとも、私が握ったのはお寿司じゃなくて、あんたたちの心臓みたいだけどね?」


 ただこれで娘には、二度と逆らえないだろう。


  ◆


 勝利の大宴会がおこなわれたのは、それから一ヶ月後のことであった。


 予定を前倒して退院した大将を迎えたのは、再開を今か今かと待ちわびていたお客たちであった。

 病院まで直接謝罪にやってきた飯野は、寄稿先へ片っ端から『真の寿司・珍寿司』という記事を載せ、イメージの向上をさせた。まぁ出版社を潰すと言われれば、それも当然なのであろうが。


 おかげで身体の調子が十二分じゃないにも関わらず、大将は寿司を握り続けることになった。


「ちゃんと皿洗っとけよ、鉄!」

「へぃ、大将!」


 なぜか柳刃の鉄も改心して寿司屋に勤めはじめたので、人手としては十分足りているようであった。

 

「はぁ、ここ二週間はホンット大変だったなぁ! いやぁお寿司対決、なんとか勝ててよかったよかったなぁ!」


 大変ご満悦な様子の我が娘である。


「ねっ、チンコくん!」

「あ、はい……」

「私たちの友情は永遠だよね!」

「そ、そうですね……」


 霧香にも竹馬の友ができたのは、喜ばしい限りである。


 しかし親の身としては、今回はなかなかに肝が冷えた。

 駆け引きならいざしらず、後半は物理的にダメージを与えてこようとは。俺としても予想外であった。娘に何かされたらどうしようかと、妻ともどもハラハラしていたのだ。

 まったく、手のかかる娘である。やれやれ。


「いや……それを陰ながらずっと見張ってたバナさんのほうに、どちらかというとやれやれなんすけど……」


 今回まったく出番のなかったスス子が鼻白んでいた。

 それもそのはず、俺が娘を見守っていた際に、代わりに仕事をしてくれていたのはスス子なのだ。


「バナさんだけじゃないっすから……! あたし理事の仕事もやってたっすから!」

「だって心配だったんですもの、うふふっ」


 現SHO理事のひとりである我が妻も、お上品に笑っていた。

 まったく俺たちは、子供が可愛くて仕方ないのである。


「まぁもうふたりに引っ張り回されるのは慣れてるっすけどね、チュパちゃん二号……」

「ジュボーボ、ドンマイススコ!」


 二代目のチュパちゃんが慰めている。二号は生まれた時から彼女と苦楽を共にしている分、なにかと優しいのであった。


 しかしなんとも、不思議な縁である。

 反交尾勢力ではじまって、元より敵対していた者たちが、こうして集まって仲良くパーティをおこなう。縁も切れずに、ずっと。

 ここにいるみんなが、俺たちも娘を育ててくれたのだ。

 霧香は、俺たちの結晶だ。


 娘の成長を見ているのが、俺は楽しい。

 それは〝家族〟が、みんなの記憶を受け継いで、育ってくれるのが嬉しいからなのだろう。

 俺たちが戦った歴史を、少しだけでも、継いでいってくれるから。


「ふふっ、その通りですね……あなた?」


 妻は俺の考えることなどお見通しだというように、小さく笑う。

 まったく敵わないなぁと思いながら、俺たちは愛しい娘の背中を眺めた。




「――っていい感じに締めてるところ悪いんすけど、まだその森泉って親子っているんすよね? 学校で嫌がらせしてきたり、無敵の人みたいに寿司屋に襲撃しないか心配っすねぇ」

「そのことなら心配ありませんよ、スス子さん」

「え、なんで?」

「収録後に俺たちが闇討ちして、死なない程度にボコボコにしてきたから」

「オーバーキルじゃん……」

「愛しの霧香も最後はちょっと詰めが甘かったな、まだ」

「やるからにはきっちりと潰さないとって、今度また言わないとですね?」

「なんでそんなことしたんすか……? 寿司勝負でやっつけたんだから、それでいいっしょ?」

「だって、ねぇ……?」

「冷静に考えてみろ、連中がこれまでしてきたことって……」


「……刑事事件だぞ、これ?」

「……そりゃそうだ」

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