最終話

 警視庁刑事部捜査第一課の刑事である桐島涼介は、自宅のソファで眉間に深く皺を寄せ、首を捻った。


「涼介、また仕事のこと?」


 部屋へ来ていた恋人の芽衣が、コーヒーを入れたマグカップを彼の前へ置く。


「うん。

 ちょっと、あまりにも謎すぎてさ……」


 涼介は湯気の上がるカップを手に取り、その中の黒い液体を見つめながら続ける。


「去年の12月、若い男性がマンションの自室で何者かにレイプされた、あの件なんだけど……

 いくら丹念に捜査しても、犯人を特定する証拠になるものが、一切出てこないんだ。加害者の部屋への侵入方法も、仮説すら立たなくて。

 被害を受けた際に男性の腕にできた『味わえ』と読める傷も、なぜかいくら経ってもはっきりと痕が残ったままだ。全く奇妙な話だよな……」



「……不思議ね」


 芽衣は、涼介の向かい側に座ってタロットカードの角をトンと静かに揃えながら、そう呟く。


 芽衣は、以前は涼介の同僚だったが、職場での過重な業務等を原因に鬱病を患い、現在は退職して療養中だ。

 少し前までの彼女は重く塞ぎ込み、毎日生きることが本当に辛そうだった。

 涼介も、仕事の合間にはできる限り彼女に寄り添い、支え続けた。


 仕事を辞めてから、心が少しずつ柔らかさを取り戻し始めたのか、最近やっと明るく笑うことが増えた。

 今はタロットに夢中なのだと楽しそうに言う。以前は現実的・科学的な事にしか反応を示さなかったのだが、最近は占いなどスピリチュアルな物事に随分興味があるようだ。



「それから——今からする話は、ここだけにしてくれるか?」


 涼介は声を潜め、芽衣に顔を近づける。


「うん、もちろん」


「実は、その被害者の男——過去に、女性に性的暴行を加えたことがあるって……自分から話した。ひどく怯えるように。

 大学時代、合コンで知り合った女性に大量に酒を飲ませ、ホテルに連れ込んで強引に行為に及んだ。

 その際、泥酔してベッドで衣服を乱した被害女性の写真を撮り、『口外したら写真をばら撒く』と脅したらしい。


 彼の話を元にその女性を調べてみると、被害を警察等へ届け出たりという行動はできず……その後PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症し、今も自殺未遂を繰り返したりして苦しんでいるらしい」



「……」


「さらに驚くのは、他県でもここ最近、同様の事件が発生しているということだ。

 A市のアパートで男性が監禁され、暴行等を受けた事件。

 被害者は、今回自分がされたのとほぼ同じやり方で、かつて自分の幼い娘を虐待していた。

 母親は娘を連れて男の元から逃げ、その子は現在高校生。母親と二人で暮らしているが、虐待当時の深刻なストレスを原因とする解離性同一性障害——つまり『多重人格障害』を発症して苦しんでいる。


 そして、B市の川で高校生が溺れかけた事件。

 その被害者は、中学時代に、いじめる側の先頭に立っていた。今回の被害内容と全く同じ方法で、クラスメイトを攻撃していたんだ。

 いじめられていた男子生徒は不登校になり、引きこもり状態のまま中学を卒業、その約1年後に自殺している。——いじめの時期から時間が経っており因果関係が認められず、いじめた生徒たちが責められることはなかった。


 二つのケースとも、加害者はまさに『謎』で……彼らの腕にも、『味わえ』の傷跡が消えない」



「……怖いね」


 芽衣は、そんな話にもどこか無表情に答える。



「今回のレイプ事件は、何者かによる報復だと……それも、人ではない何かによるものだと、被害者の上野はそう言い張っている。まるで何かに取り憑かれたように。

 ——そんなこと、あるんだろうか?」


「私は、あると思うな」


 芽衣は、不意に顔を上げると、涼介をまっすぐに見た。



「……」


「人間は、同じ人間をそういう風に報復的に罰することが許されないでしょう?——モラル、とかそういう理由で。

 こういう人間の残酷な犯罪を見かねた『何か』が、人間にはできない制裁を加えに来た。それ、実際に起こっても少しもおかしくないと思う」


「…………『何か』が……

 人間にはできない制裁を……」


「そう。

 被害者に加えた痛みと恐怖をそのまんま、加害者にも味わわせる。——一番納得のいく罰だわ。

 腕の『味わえ』の意味も、私にはどう考えても『被害者の恐怖を味わえ』というメッセージにしか思えない。

 身に覚えのある恐怖体験と同時にそんな文字が腕に浮き上がってきたら、加害者にしてみたらそれは恐ろしいでしょうね」

 

 芽衣の目の奥に、何か小さな炎のようなものがチラチラと動く。



「…………

 ならば、これらの事件が仮に『人間ではない何かによる制裁』だとして。

 被害者たちは皆、死の恐怖を感じるところまでは追い詰められたけれど、死には至らなかった。そして彼らは、『助けを呼べ』『警察を呼べ』という声を聞いた、とも言っている。

 それは、その『制裁を加えたもの』が、彼らの命は助けようと思った——そういうことだろうか?」


「涼介。本当にそう思う?」


 芽衣が、クスッと小さく笑う。



「——……」



「——もしもよ。

 もし、『死後』が、静かで穏やかな安楽の場所だったら——?」



 その言葉に、涼介はぎょっとしたように芽衣を見つめた。



「そんなにも残酷に人を傷つけ、心をめちゃくちゃに破壊しておいて、その加害者をあっさりと『死』へ導いては、彼らを罰したことにはならない。私は、そう思う。

 それよりも——腕に消えない『味わえ』の文字を一生見つめ、恐怖と後悔に苛まれながら生きることこそ、本当の『罰』になるんじゃない?」


 涼介の眼差しに、芽衣はそんな答えをあくまでさらりと口にする。



「——リアルに想像してみて。

 苦しみを与えられる側の気持ちって、どんな風だったんだと思う?


 本当は大好きなはずの親から食事すらもらえず、身体中に痛みを抱えながら、消えそうな自分の命を見つめているしかなかった幼い子供。

 複数の友から痛めつけられて一人でうずくまる苦しみの中、自分自身の命を絶つことでしかそこから逃げられなかった生徒。

 力尽くで衣服を剥がれ、無理やり快楽を搾り取られ、身体中に痛みと恥辱を刻まれた被害者。


 心を破壊された被害者はその後もずっと、延々と地獄を這い回らなければならないのよ。

 命を落とした被害者と、大切な人を失ったその周囲の人たちの苦痛は、決して消えない。

 加害者だけが、それらの痛みと苦しみを知らないなんて……許される?


 加害者にも同等のものを身を以て味わわせ、それこそ死ぬほど自分の罪を悔いた時、初めてその罰は釣り合う。

 ——そうでしょう?


 敢えて警察を呼ばせたのは、この怪現象を周知するためじゃないかしら。

 お前たちにも、死よりも恐ろしい罰が下る。——それを、世間に知らしめるために」



「……芽衣……」



「心の苦痛は、時に『死』をもしのぐわ。

 極限まで追い詰められた心が、死に安らぎを感じ、死を選ぼうとしてしまうのは、つまり——そういうことよ。

 経験したことのない人には、わからないのでしょうけどね」



 静かながら確かな口調でそう言うと、芽衣はどこか表情を固くしている涼介へ乾いた微笑を浮かべた。









 結局、これらの事件は、解明のできない怪事件として迷宮入りとなった。


 だが、この怪現象が発生した事実は、世間に広く知れ渡った。

「味わわせる」ことで人間の罪を罰する「何か」の存在を否定できる者は、結局誰一人いなかった。




 人間たちは、青ざめながらただ深く押し黙った。




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味わえ aoiaoi @aoiaoi

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