第12話 別れ

 穏やかな日曜日、凛一は自分の家に本条がいることがとても不思議だった。彼女と言葉を交わしてから幾日と経たないのに、今は物理的に一番近くに彼女がいるのだから――。母が留守にしていたのは幸いだった。昨日、そのまま本条を帰したくなくて、凛一は家族が寝静まった頃合いを見計らって彼女を伴って帰宅し、家に泊めた。

 凛一の大きなシャツとズボンの裾を丸めて着た本条にベッドを貸し、自分は床に雑魚寝した。そのはずだったのに、朝目覚めると自分の横で本条が寝息を立ている。

 本条を起こさぬよう布団を抜け出た凛一は、部屋を出た。リビングには間に合わせの朝食が用意された状態で、母も弟もおらず家はもぬけの殻だった。認知症の父はいつものように部屋に閉じこもっているのだろう。せっかく用意された朝食に手をつけた形跡はなく、凛一はそれを温めてすぐ起きてきた本条と一緒に食べた。

 本条は父方の祖母の家に暫く滞在するつもりだと打ち明けた。離れてから疎遠になっていた本当の父親に連絡をしたところ、今すぐにでもこちらへ来いと言ってくれたという。本条との接点もこれでなくなってしまうということになる。まるで長い映画を観終わったときのような気分だった。


 トイレへと立った本条がなかなか帰ってこないので、凛一が様子を見に行くと、父の部屋のドアが空いており、その中から声がする。中を覗くと本条が居た。

「本条。」

「あ、相馬くん、ごめん。」

「どうしたの。」

「お父さんだよね。ハムスターがいなくなったっていうから一緒に探してたの。」

 凛一は目を見開いた。本条は、認知症の父を見ても動じた様子が欠片もなかった。それどころか聖母のような優しい顔つきで、父とやり取りを交わしている。父も本条には心を許した様子だ。

「父さん、また逃がしたの。」

 凛一は溜息をついた。その表情を、本条は見ていたようだった。

「大丈夫ですよ、おじさま。私も子どもの頃、ハムスターを飼っていたことがあって、ジャンガリアンっていう小さいやつなんですけど。よく脱走してました。そして、大抵、隙間とか穴とかに潜んでいるんです。心配なのは、コンセントとかを噛んでしまわないかですね。凛一くん、ちょっと手伝って。」

 そう言って本条は部屋のチェストを退かそうとした。父はその様子をじっと見ている。少し猫背だ。小さく見える。凛一も手を貸すと、すぐに壁との間に隙間ができ、本条の予感は的中した。

 白い丸い、ふわふわのものが隠れていた。それは、急に明るくなった視界に驚き、部屋の中央へ走り出した。

「おっと、」

 凛一はハムスターをひょいと摘まみ上げ、手の中に捕らえた。ハムスターは怯えているように体を震わせている。

「父さん、ちゃんとケージの蓋閉めておけよ。」

 凛一は父の両手にハムスターを乗せた。今度は父の手の中で大人しくしている。

「よかったですね。」

「うん。」

 父は何も発しない。そんな父を見て驚かないのか、軽蔑しないのか、俄かに心配した凛一が莫迦だった。

「お父さん、素敵な人ね。」

 そう言って本条は笑った。



 改札を一緒に通り、駅のホームで二人は待っていた。本条が行ってしまう。今日で恋人の振りもきっと終わりだ。明日から、窓際、後ろから三番目の席が空くということだ。

 あと数分で、電車が来る。本条と何を話そう。

「本条、どうして俺だったの。俺の気持ち、知ってて利用した?」

「どういう意味?」

「……そういう意味だよ。」

「え……」

「俺が君のことを好きって言ってんの。」

「そうだったの?」

「そうだよ」

 本条は黙ってしまった。そして、少し考えて言う。

「私も、相馬くんが好きだよ。」

「本当に?」

「私は相馬くんと普通の子みたいに付き合えたら、きっと天にも昇る気分だったと思う。」

「だったら、さ……」

 付き合おうよ、遠距離だって構わない、と言いたかった。

「でも、相馬くんにとってその相手は私では駄目なのよ。」

「なんで本条がそれを言うの? そんなの、俺が決めることだよ。」

「だって、そうなのよ。」

 本条は決めつけるように言ってから、そうなのよ、と、念を押すように小さく繰り返した。彼女はここに全てを置いていく気なのだ。新しい生活に、ここからは何も持っていかないのだ。

 出発を知らせるベルが鳴った。

「凛一君。夜中に目を覚ましたときにね、君の寝顔があまりにも綺麗なものだったから、私、近くで眺めていたくって……そのまま寝落ちしちゃったみたい。君の横でとても良い夢を見たの。あの夢がずっと続けば幸せなのにと思ったよ。私は夢の中で、凛一君と列車に乗っているの。景色は緑と海が交互に出てきて、少し窓を開けると春の匂いが入ってきて心地良い。窓を開けちゃいけませんって、車掌さんに怒られてね、すいませんって凛一君が窓を閉めるの。私の開けた窓を。目を閉じると、ガタンゴトンって、列車が揺れる音。寄り掛かった凛一君の肩は硬くって、制服の開襟シャツは洗濯物の匂いがする。私達、それからずっと揺られていたの。」

 そこでドアは閉められた。本条の声は、駆け込み乗車の乗客や車掌のアナウンス諸々に掻き消され、最後の方はほとんど聞こえなかった。凛一はその声を必死で汲み取ろうと集中した。おかげで本条の言っていることは聞き洩らすことはなかったが、本条がどんな顔をしていたのかをすっかり身落としてしまっていた。どんな顔をしていたのだろう。

 本条の夢の話は大して重要な内容ではなかった。彼女の仕草の一つ一つを、凛一は焼き付けておけばよかったと後悔した。ドアのガラス越しから見える今の本条の顔は、靄がかかってもう既に遠くの人だった。

 本条が行ってしまう。

 本条の声だけが、残っている。

 本条にはたぶんもう会えないのだろうと、凛一は思った。彼女はきっとここには帰ってこない。この先、何が起こるか分からないし、偶然や何かの巡り合わせで、再会する可能性もゼロではないはずだ。しかし凛一には今生の別れに思えてならない。

(君が幸せになることを祈ってる。)

 セリフ沁みた安っぽい言葉だけれど、本当に心から思った。普通に恋愛をして結婚をして、子育てなんかもして、笑顔の素敵なおばあちゃんになってほしい。

 走り出した電車はあっという間に見えなくなった。残された駅のホームは、穏やかな休日に似合う夏草の匂いに満たされている。

























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