第8話 最後の前日
昨夕の本条の依頼は、正確にはしばらくの間だけ、凛一に付き合っている振りをしてほしいというものであった。しばらくという言葉がどれくらいの期間を指し、どれだけの効力を持っているのか、凛一には判断できなかった。
こんな依頼は、本条を好いている凛一からしてみると何の得もない。そう凛一は思ったのに、結局は断ることができなかった。本条の真意は、彼女に聞けば聞くだけ遠くなる。
「振りって、とりあえず、何をすれば良いの?」
「何もしなくていいの。」
「何それ。」
「何か具体的に、したいこと……しなきゃいけないことってあるの?」
「そう聞かれると……付き合った経験がないから分かんないな。したいことが見つかったら、しましょうよ。」
変な言い方だな、と凛一は思った。
「でも、なんで。」
「私ね、お義父さんとの関係を終わりにしたいのよ、口実がほしいの。だから相馬くん、勝手なお願いだけれども名前だけ貸してほしいの。それ以上のことは何も望んでいないし、相馬くんに迷惑は掛けないようにするから。」
ふざけた言い分だが、本条は、決してそういう様子ではなかった。
「でもこれじゃあ、相馬くんには何も良いことないね。付き合っている間は、私のこと好きにしていいよ。殴るなり蹴るなり、犯罪の加担だって何でもするわ。」
「……本条って、考え方が妙なやつなんだな」
「妙なやつ? そうかな、」
そう言ったきり、話はどこかへ行ってしまい、昨日はそのまま公園で別れた。
本条が言っていた、八時まではまだ時間があったし、一緒に居ようかと言ったのに、彼女は用事を思い出したと凛一を払い除けるように去っていった。
凛一は、本条が小さな塵みたいに見えなくなるまで、その後ろ姿を見送っていた。呼びとめて多少強引に付いていくこともできたが、キャラではない気がして、止めた。
それに凛一は、本条が最後に言った台詞へ少なからず腹を立てていた。どうしてそのような言い方をするのか、皆目理解できない。要は本条は都合のよい男を見つけ、利用することを宣言し、それでもフェアであろうとする。自分の行為を正当化しようとしているのではないか。凛一は、交渉なんがされなくても、それが振りでなくても、本条となら付き合えるのに――。
翌日の夕方、凛一は委員会の仕事を終えて教室へ戻ると、教室には、数名、談笑していたり、部活の準備をしている生徒が残っており、その中に本条の姿もあった。
本条は、元々はそう目立つ生徒ではなかったが、あの噂以来、彼女に対してちょっとした嫌がらせや興味本位のからかいをする女子グループがいた。
掃除の終わった教室は、開け放ったままの窓から入ってくる心地良い空気に満たされている。風は気まぐれに、窓際で勉強していた本条のふわふわの髪を舞い上げ、彼女の意思とは関係なしにその細い頸筋が何度も露わになる。
凛一は教室の入口に立ち、その姿を綺麗だなと思って暫く見ていた。この場所に立って、もう少し見ていたいと思った。けれども、何かに気付いたようにクラスメイトの一人が本条に駆け寄り、すかさず女子共が数人、それに続き茶々を入れてきたのだ。
「ねぇ、ねぇ、本条さん、ちょっと。その頸筋のって、もしかしてキスマーク?」
「えー、うっそ。大胆だね。」
その声は明らかに本条を馬鹿にしている。残っていた数人の生徒の視線が一斉に一点に集中した。
「誰が付けたのよ。」
「紹介してよぉ。」
「あははは。」
「紹介できる相手ならね、あはは。」
「そうだよねー。」
本条は、声を発しない。凛一は、本条はそんなのは気にしないと思っていた。いつものようにただ上の空で小さく笑うか無視をかますと思っていた。だから、凛一は、ただ、クラスの女子が本条を見ていられる時間を壊したことに関してだけ憤慨していた。けれども、本条の反応は全く意外なもので凛一を躊躇させた。
どうした、本条が戸惑っている。頸筋を右手で覆い、ちょうど痣になった部位に強く爪を立てている。血管が浮き出ている。
パニックを、起こしそうだ、凛一は瞬間的に感じた。いつもの本条は、此処にいるようでいない。本条の表情、目線の動き。本条の恐怖と羞恥は女子共に向けられていないことは明らかであった。自分自身に、内に向かっている。
咄嗟に体が動き出す。凛一の長い脚は数歩で本条まで届いた。
「相馬、なあに。そんな恐い顔して。」
「私達、別にいじめてないよ。」
「そうよ。」
「ね、本条さん」
凛一の剣幕に、少し退きながらも彼女らは自身を擁護し、本条には悪びれもしていない。凛一はその取り巻きを掻き分けて本条の手を取った。
「こういうことだから。」
本条が、凛一の顔を見た。いつもの彼女が戻ってきた。
本条の細い手首を掴む凛一の手に注目した女子達の目が大きくなる。
「うっそ。」
「相馬くんと本条さんがーー。」
「変な噂流したの、君達でしょ。だったらまた噂、流してよ。」
「それって……」
「それ、付けたの俺だから。」
「キャーー、」
「やだよー。ねえ相馬君、誰とも付き合ってないって言ったじゃん。」
「よりによって本条さんなんて。」
凛一は本条の手を引き、教室から連れだした。後方のざわめきは廊下を歩いていても暫く聞こえていた。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。それよりあんなこと……あんな派手なパフォーマンス、相馬くんのキャラじゃないでしょ。どうしてよりによってあの人たちにあんなこと言っちゃったの?」
「あいつらを黙らすにはあれしか思い付かなかった。」
「相馬くん、クラスの女子に人気あるから。ああいう庇い方したら逆に目の敵にされちゃうよ。」
「関係ない。」
暫く、互いに黙って歩いた。二人はどこということもなく歩いた。
「本条、女子達に詰められているとき、助けてって顔してたよ。」
「……相馬くん。」
「本条は、一体、何を助けてほしいの。誰から助けてほしいの。」
「相馬くん。」
「お義父さんが好きなら、本条のしようとしていることは、違うんじゃないかな。」
本条は泣きそうな顔をしていた。昨日は、まるでゲームを持ちかける猫のような顔をしていたのに、そんな余裕は今の彼女にはない。
「そうじゃないんだろ。誰かに助けてほしいんだろ?」
凛一が続けと、本条は立ち止まり、少し声を荒げて言った。
「私、本当は誰も好きじゃない。お義父さんと、どうしたら離れられる? お母さんは、どうしたら私のことを愛してくれるんだろう。」
本条はその場でしゃがみ込んでしまった。
「本条、立ってよ。」
「うう……」
「本条、俺と本当に付き合おうよ。」
本条は、暫くしゃがんだままだった。うん、とは言わない。しゃがみ込んだ本条と凛一は目を合わせていた。暫く。そうして、本条は言った。
「私、お義父さんにもう触らないでって抵抗してみる。お母さんにも全部言う。言って、何も変わらなかったら……あの家を出るわ。」
そう言って本条は今まで繋ぎっぱなしになっていた凛一の手を自ら解いた。
「相馬くん、本当にありがとう。巻き込んじゃってごめんなさい。」
本条の顔が少し和らいだ。そして、ここでいい、と言って凛一を遠ざけた。凛一はどうすることもできず、何かあったら電話して、とだけ言った。
家に帰ると、母がおらず、代わりに居たハナの様子が変だった。明らかにいつもとは違っていたのに、何がどう違うのかと聞かれれば分からない。気のせいと思えば、今度はいつもと同じような気がしてくる。
凛一は、本条からの電話を待っていた。そして案の定、電話は掛かってきたが、彼女はさっきよりも泣きじゃくっている様子だった。電話では埒があかないので、凛一は彼女を迎えに行くことにした。
待ち合わせにした近くの電話ボックスの中に立っていた本条は、顔も衣服もぼろぼろだった。ふわふわの髪の毛は乱暴に掴まれ引っ張られたみたく絡まっていた。
大変な事態になっている。けれども、大変な事態は今始まったことではなかった。
今までに本条の義父が彼女へしてきたこと、本条の家庭環境。
これは、子どもの自分だけでは手に負えない問題だった。今すぐにでも医療的な、そして法的な、大人の手が必要だった。
今すぐに凛一ができることは、泣きじゃくる本条を強く抱き締めることしかなかった。
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