第7話 真っ赤な飴玉
不思議なことが起こった。現実を忌むばっかりに、とうとう頭がおかしくなってしまったのか――。
それは出先でのことだった。鳩子は大雑把な性格で、それは毎日の料理にも表れている。夕食の品数は、主食、副食、ご飯に味噌汁、と四品あれば良い方で、カレーライスやシチューのときなんかは、サラダの一つも付かないときがある。それに関して子ども達は、それが当たり前になっているからか文句の一つもない様子で、出されたものをがつがつと平らげてくれた。
というのも、食べ盛りの彼らにとって、品数よりも好物をどれだけたくさん食べられるかが問題だった。鳩子は、お米をたくさん、焚いておくことさえ欠かさなければ、良い母親でいられたのだ。その上、鳩子の舌は上等で、料理の味は世辞なしに旨かった。
その料理の、材料を買いに、近くの商店街を鳩子は歩いていた。
雨が降りそうな空模様。不機嫌な天気は昨日の夕方から続いている。
昨日、結局鳩子は買い物へは行かなかった。洗濯物を取り込んだ直後、激しい雨が降り始め、外出が億劫になってしまったのだ。おかげで晩は、有り合わせの食卓。朝にはいよいよ冷蔵庫が尽きた。
メモに記した品物を一通り揃え終え、後はこの重たい買い物袋をどうにかこうにか家まで運ぶだけだ。
若い頃は華奢と言われる体格だったが、今ではどうだろう。子どもを孕む度に躯幹が、抱く度に上腕が、肉を帯び硬くなる。歳は確実にとり、体力も年々衰えていく。
自分も夫のことは言えないではないか。アンバランスに肉のついた身体は、今では頼りない醜態な塊ではないか。まるで美しさの欠片もない。若年性アルツハイマー病を患った夫が、鳩子を妻と認識しないのは、自分にも落ち度があるのではないか。
鳩子は、夫が病気になってから、自分の姿を鏡で見ることをしなくなった。ここ最近、どんどん子どものようになっていく夫。自分と夫の距離が、どんどん離れていっているのを鳩子は感じる。それを、自分のせいと少しでも思ったら、きっとこの先やっていけなくなる。
取り敢えず、前に進まなければ。夕飯の支度をしなければ。
「あらあら。」
詰め込んだ買い物袋の取っ手部分が伸びきっている。鳩子はどうすることもできず、どうか破れませんようにと願いながら、家路を急いだ。
「おばちゃん。」
家まであと二区画のところまで来ていた。無心になって歩いていた鳩子にとって、そのかけ声は全くの不意打ちであった。最初、自分に掛けられた声ではないような気がして、振り向きもせずに歩き続けたが、その可愛らしい女児の声は鳩子が振り向くまで、「おばちゃん、おばちゃん」と続けるのであった。
荷物をそうっと地面に置き、振り返る。すると四、五歳の愛嬌ある女の子であった。周りに大人の姿はない。近所の子どもだとしても、見覚えのない顔だ。
「あら、どうしたの。私に何か御用かしら。」
「おばちゃんに、これあげる。」
鳩子に差し出された小さな紅葉のような手の上に、コロンと丸い飴玉が一つ、乗っていた。
「私に、」
訝しげにまじまじと少女を見たが、不思議な表情をしている。誰かに似ているな、と思ったが、それが誰かは思い出せない。鳩子が手を出さないでいると、少女は催促するように言った。
「あたしも食べてんの、ほら。」
少女は口を開け、果実のような舌で飴玉を転がしている。
それでも、鳩子が手を出そうとしないので、少女はなんだか泣きだしそうな声で続けた。
「変なものなんて入ってないし、手だってちゃんと洗ったよ。」
子どものくせに、と鳩子は口の中で言った。子どものくせに、子どもらしくない、物の考え方をする子どもだ。
「わかっているわ、ごめんなさい。じゃあおばさんもいただくわ。」
飴なんてちっとも食べたくない気分だったが、鳩子は渋々飴玉を受け取り、口の中に含んだ。唾液がいつもより多く出された感じがした。もちろん飴は、ただの飴だった。柑橘系の味がしている。ただの飴だということは最初から分かってはいた。けれども、子どものこういう行為を疎ましいと思うようになったのはいつからだったろう。鳩子の子ども達が小さかった頃はそうではなかった。
そういえば、飴玉を頬張るのってどれくらいぶりだろう、とも鳩子は思った。
「おばちゃん、この飴ね、すごいんだ。」
「え、どういうこと、」
「食べたら元気が出るんだよ。」
そう言って、少女は路地を走り去っていった。
とても愛くるしい顔のあの子は幸せそうに見えた。そして鳩子も幸福な少女になりたかった。
重い荷物を再び持ち上げる。なんだか狐につままれた気分だった。現実と現実に挟まれた、たった三分の小休止。白昼夢の始まり。
次の鳩子の一歩は不思議と軽かった。どうしたのだろう。不思議は二歩目にも続いていた。そこから家までの数十メートル、鳩子の足はまるで宙に浮いているようだった。スキップをしようと思えば、軽くできる。少女の言っていた「すごい」の意味を、このことと思うことにした。
軽快なステップを踏む足元を見て、鳩子はふと気付いた。私の脚は、こんなにくびれていただろうか、と。家を出たときには鳩子の脹脛に食い込んで留まっていた靴下が、足首に纏う鏡餅のように、三段にも、四段にもなっており、実にだらしない。
家に着くと、帰りしな、次男が言った。
「あれ、母さん、なんかいつもと違わない?」
「何が違うって。」
「痩せた、いや、若返った……はずないよな、」
「何言ってんのよ。」
鳩子は潤には構わず勝手口へ向かった。
「夕飯を作るわ。」
鳩子はそのまま潤に背を向け、支度を始めた。潤は、そっけない鳩子に頸を傾げたが、さほど気にも留めておらず、すぐに階段を上っていった。
鳩子は自分の身に何かが起き始めているという予感はあった。それを今、潤に知られてはいけないような気がして背を向けた。けれどもそれは何なのか――予感はあっても説明はできない。
あの子どもがくれた飴が、本当に原因なのだろうか。具体的に何が変わったのか、鏡を見るまで鳩子にはわからなかった。
鳩子はすぐに鏡の前に立つ勇気がなかったので、ひとまず包丁を握り夕飯の支度に専念した。
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