第11話 恋に落ちる
合宿の後、幸はまっすぐ図書館へ寄って少しだけ勉強していくことにした。明日からはいよいよ、模試ラッシュが始まる。
家ではなかなか勉強がはかどらないため、宿題のある日や試験週間に入ると、きまって学校の図書室、もしくは図書館を利用する。幸は、家ではよっぽどのことがないかぎりは教科書を開かない。そのため、母親にはよく「勉強しなさい」と言われてきた。それでも成績はそこそこだったので、学校側の評価も悪くない。極端に成績の良い凛一や潤にはとうてい及ばないが、志望校にも今のままいけば楽に入れるだろう。
三年間打ち込んだバレーをとられてしまうと、幸の心にはぽっかりと穴が空いたようだった。
図書館は混んではいなかった。幸が愛用する席も空いていた。鞄を置く音、教科書を開く音、シャープペンシルをノートに走らせる音、静寂の空間では普段紛れてしまう些細な音しか響かない。陽射しの入り方も、人々の表情も普段と何ら変わりないはずなのに、この場所では違って見える。
不思議な場所である。
一時間は、集中して勉強していただろう。少し目が疲れてきて、幸は両手で目を軽く擦った。それから瞼を指の腹で軽く押す。閉じられた瞳には何も映らないが、圧迫した部分に白とも赤とも付かぬがもやもやが蠢いている。血管が脈打っているのも感じる。
しばしの休息。幸は大きく息を吸った。
合宿で知った、鈴木絵美のことを少しだけ考えた。考えたけれど、幸には鈴木絵美の情報があまりにも少なすぎたため、すぐに尽きた。
どうして話したこともない相手のことを好きだと思えるのだろう。後輩がくれた写真を鞄の内ポケットから取り出し、まじまじと見つめたが、“鈴木恵美”は何も答えてくれなかった。
もう一度、瞼を両手で押し、ゆっくりと開く。視界は白くぼんやりと開け、次第に明瞭になっていくうちに、幸の視線を惹き付ける存在があった。気付いた途端、心拍数は上昇していった。
――彼女だ。それは、鈴木絵美ではない。俄には信じられないが、自宅のアルバムに挟んであった写真の少女に瓜二つの人物が、今、幸の開けた視界に映っている。
そんなはずは、ないのではないだろうか。あの色褪せた写真は最近のものではないはずなのに、目の前にいる彼女は写真の姿と変わらない。夢を見ているのだろうか。
幸は、静かに荷物を纏め、気付かれない速度で彼女の方へ近づいていった。
今、本棚を挟んで、彼女がいる。
本を抜き取るとできた隙間から俯く彼女の顔が見えた。彼女はこちらの視線には気付かずに、じっと本に見入っている様子だった。窓から差し込む正午の日差しが、彼女の白い肌を照らし出している。白いワンピースがよく似合う、永遠の少女がそこにいる――。
彼女の長い睫毛がまばたきの度に頬へ影をつくり、彼女の輪郭をより一層リアルにするので、間違いなく現実のものとしてそこに居るということを証明した。
捲った頁の、文章を拾っているのだろうか。ここからは聞きとれないが、代わりに艶やかな唇が僅かに開閉している。
幸は自分も本を見る振りをしながらも、彼女に奪われる視線を制御することができなかった。
息をして、動いている。手を伸ばせば届く所に、存在している。ただそれだけのことなのに、心臓が恥ずかしいくらいに打っているのが分かる。幸は、この瞬間、自分の中に新しい命を生み落とした。まだ名前のないこの命を、何と呼ぼう。
せっかく手に届くところにいるというのに、名前も知らないこの子と、ここで別れればこれっきりになるのか――そう思うと居ても立っても居られない。彼女に自分の存在を示したい。この眼前に広がる奇跡を自分だけのものにしたい。他の人になど、見せたくない。
ふと幸は我に返った。おかしいことを考えている。自分はこんな狂人ではなかったはずなのに。焦るなという気持ちと、今しかないという気持ちが交互に幸の心を支配し、呼吸を乱していた。
――パタン。
持っていた厚手の本を閉じ、棚へ戻す。答えはすでに決まっていた。幸の足はそのまま棚の反対側へと向かった。
「あれ。」
本棚の裏側に回り込み、何でもいい、彼女に声を掛けようと思った。しかし、不思議なことにそこには誰一人立っていなかった。移動までほんの少しの間だったのに、音もなく気配すら残さずに消えてしまった。彼女は一体、どこへ行ってしまったというのだろう。
狐につままれた気分だった。出会いはまばたきのようなものであり、次の瞬間にまた出会えるとは限らない。幸は肩を落とした。それでもまた次のまばたきの後に、再び機会が巡ってくるのだとしたら、そのときは言おう。けれども自分は彼女に、何と言う?
幸は、荷物をまとめて出入り口の方へ向かった。今日はそのまま帰るつもりだった。出口まで数十メートル。左手にトイレがある。その横のベンチに彼女はいた。ひどく具合が悪そうだ。幸は堪え切れず、声を掛ける。
「あの、大丈夫ですか?」
「すみません、いまちょっと……」
その声に彼女は顔を少し上げて答えた。初めて聞く彼女の声が、辛そうだった。
その後どうしたらいいのか考えていなかったから、案の定、幸は次の言葉に詰まってしまった。怪しまれないためにはどう言ったらよいものか。けれども、幸のそんな心配は次の瞬間、不要となった。
「なんで。」
そう言ったのは彼女だった。彼女は幸をまるで見知っているとでも言いたそうに幸を見、驚駭しているそぶりだった。その様に幸は一瞬、怪訝な顔をした。
(彼女は俺を知っている……?)
そんな考えが浮かんだ。そして、二人の空間はとても張り詰めていて、楽しい会話など出来そうな雰囲気ではなかった。暫く、風のない水たまりのようにそこにいた。幸の身体は指先すら動かなかった。そんなに長い時間ではなかったが、幸には何分にも感じられた。
そして、その後に彼女がまさか逃げ出すとは、誰が予想できただろう。
「ちょっと、待ってよ。」
一足遅れて動くようになった幸は後を追ったが、やはり追い付くことはできなかった。こんなに必死で走ったことは、今まで一度もない。今見失ってしまったらもう二度と会えないような気がしたのだ。
けれども、完全に見失ってしまった。
彼女は、正午の白昼夢が見せた幻だったんだろうか。不思議の国のアリスの白ウサギのように、決して人に見られてはいけない存在だったのだろうか。だとしたら、彼女は図書館で書物を読み耽って満足したのだろうか。そうして無事に自分の世界に戻ることができたのだろうか。幸は、この途方もない気持ちを、彼女が予め手の届かぬ存在だと決めつけることで治めようとしていた。
幸が見た幻が、ちゃんと元の世界に戻ることができたのだとしたら、幸のこの生まれたばかりの気持ちも持っていってくれればよかったのに――。
「アリスとは、とてもじゃないけど恋愛できないよな。」
そうして幸は帰り道、もう一度、鈴木絵美のことを考えてみた。話したことがなくたって、触れたことがなくたって、好きになることはあるのだ。どこが好きだとか、言葉にはできなくとも、全身の細胞がこの人だと反応することがあるのだ。鈴木絵美と話してみたい、そう思った。
そうするうちに、幸の中で自然と、次の月曜日が憂鬱ではなくなっていたことに彼自身が気付き不思議な気分になった。
――幸、十五歳、今、叶わない恋に落ちた。
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