第5話 宵闇、公園にて

 同じクラスの本条綾乃が、義理の父親と関係を持っているという噂を初めて耳にしたのは、その日の夕方だった。下校途中、同じくクラスメイトの羽田からの垂れ込みだった。

「羽田、そんなこと、人にべらべらとしゃべってるんじゃないだろうな。」

「何だよ。俺の口からはまだお前一人にしか言っていないよ。だいたい、もう結構知れ渡っているんだぜ。」

「俺、そういうの好きじゃない。」

「はいはい、知ってるさ。真面目なお前はこういう中傷みたいなネタ好きじゃないってことぐらい、親友の俺は百も承知だ。」

「だったら、口にするなよ。」

 凛一は羽田を一瞥した。

「だって、お前、本条に気があるんだろ。見ていたら分かる。」

「なっ、」

「見てたら分かるよ。」

 一瞬、珍しく真面目な顔をした羽田に、凛一は何も言わなかった。

 何も言わずそのまま歩いた。羽田も黙って凛一の歩幅に合わせて歩いていたが、暫くすると何事もなかったように口笛を吹いたり、道ばたの小石に足を引っ掛け、あいて、などと洩らしたりして騒がしくしていた。羽田は何も気にしていない風だ。いつもこういうノリなのだ。

 羽田とはそこで別れ、凛一は歩いている。


 本条綾乃。窓際、後ろから三番目、凛一の前の席。

 本条は猫毛を腰まで伸ばし、風が吹く度に絡んだ毛先を指で梳く。講義の間でも、試験中でも、話をしていてもその仕草は風が吹けば儀式のように行われた。凛一の席からは、本条の顔は見えないので、凛一にとって、本条といったら、後ろ姿のその髪と細い指先の印象が強い。

 本条を好きだと意識したのは、いつだっただろうか。その髪型以外に、目立った特徴があるわけでもなく、クラスでの行動も割と地味な方だったと思う。けれども、成績は群を抜いていた。凛一も学年で上位ではあったが、今まで一度も本条の成績を抜いたことはない。そういう意味で憧れはあったのかもしれない。

 本条と付き合いたいとか、そのために行動に移そうとか、そこまでそういう気持ちにはならなかったが、彼女は凛一にとって、他の女子とは違って特別な存在だという自覚はあった。彼女と付き合えたら良いなとは思うけれども、彼女にはそういうのが似合わない感じがした。そういうものを拒絶しているような、遠ざけているような、そんな雰囲気が彼女にはあったのだ。凛一はそれを感じていたから、どうこうしたいとかは全く考えていなかったのだ。

 好きな素振りも、見せたことはない。特別親しく話していたわけでもない。普段は能天気に見える羽田の洞察力には、今回に限っては恐れ入った。


 自宅まで百メートル弱、夕暮れの公園の前で凛一は突然立ち止まった。子どもが数人遊んでいたのだが、その中に、ブランコに揺れている本条綾乃の姿を見つけたからだった。

「何やってんのー。」

 少し声を張って向こうの人物に投げかける。向こうは呆けていたようで、一瞬肩を竦めて驚いたようだったが、声の主を知り、笑顔で返してきた。

「あれ、相馬くん。」

 本条の笑顔に受け入れられた凛一は安心し、彼女のもとへと歩いていった。公園の砂利は踏むと、じり、と鳴った。この上を歩くのは全く久しぶりだった。

「本条って家この辺なの。」

「ううん、違う。」

「どうしたの。」

 凛一は、本条の隣のブランコに腰を下ろした。

「私、八時過ぎないと家に入れてもらえない子なの。」

「……何それ。」

 ブランコを揺らしながら、本条は笑った。門限なら分かるけど、逆じゃないか。顔を顰める凛一の表情を察した本条はすぐに言った。

「色々と事情があるのよ。ここら辺、初めて来たんだけど、閑静で住みやすそうな地区だね。遊んでいる子どもも、心が裕福そう。」

「そうかな。普通のガキにしか見えないけど。」

「相馬くんも、私にはそう見えるよ。」

「ガキってこと?」

「違う違う、心が裕福そうな普通の子。」

「冗談抜きで、どうしたの。」

 本条が少し、眉を寄せて表情を強張らせた。それを凛一は気付いてしまった。聞かないでそっとしておいた方が良かったのだろうか。

「ごめん、言いたくなかったら言わなくていいよ。」

「相馬くんもあの噂、聞いたんでしょう。」

「噂って――。」

 義理の父親との関係だろうか。

 本条は疲弊している様子だった。存在が危ういほど薄い。夕日を背に受けて小さく見える彼女が本当にこの世から消えてしまうのではないか、と凛一は瞬間的に思った。

「あれ、本当よ。」

「えっ。」

「軽蔑した? 気持ち悪いって思った。」

 本条はすっくと立ち上がり、凛一の眼を見つめて尋ねた。

「思ってない。けど、なんて言ったらいいのか……少し、驚いている。」

 本条は凛一のリアクションには興味のないような表情をしている。

 びゅう、と風が吹いた。本条のスカートが揺れている。それからあのふわふわの猫毛も、綿飴製造機の中の綿飴みたいになっている。

「なんでそんなこと、俺に言っちゃうの。」

「どうしてだろう。言いたくなっちゃった。」

 本条は身だしを整えもしないでブランコを手で揺らしながら続けた。

「相馬くん、ここで私に遭っちゃったのは何かの縁だと思って、一つお願いを聞いてくれないかな。」

「何。」

「相馬くん、……私と付き合ってくれない?」

 思ってもみない展開になった。

 返答ができない凛一の目に映る本条の姿は、さっきまで知っていたはずの本条とはまるで違っているように見えた。とても奇妙な感覚に襲われた。ありふれた日常が一瞬で色を変えたような――。さっきまで理解できていたはずの本条の瞳の奥が全く読み取れない。

 エイリアン。想像してみる。ほら、目を閉じてまた開く。本条の綿飴みたいな髪の毛は、どんどん膨れ上がっていく。地に足が付いているようで数センチ、浮いている。

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