第3話 或る瞬間

 中学の卒業アルバム制作で、生後間もない頃の写真が必要だった。

 自分のアルバムなんて、一度も見たいと思わなかったから、どこに仕舞ってあるのか全く見当がつかない。帰宅してから母に確認しなくては。


 青々とした緑が戦ぐ校庭で、ゆきは、まだ部活をしていたかった。受験生になど、なりたくはなかった。けれども幸の所属していたバレー部は、中体連で予選敗退を帰し、三年生は他の部よりも早めの引退を余儀なくされた。

 やりたいことの時間を奪われ、やりたくないことに時間を与えられる、受験というのは目標のない者にとっては服役のようなものだ。

 自分の将来について白紙の幸は、そのことを担任に相談すると、地元で二番目の進学校を勧められた。幸の成績ならまずまず合格圏内である。公立ならどこでも良かった。母は、幸に任せると言っていた。


 父が数年前に病気に罹り、それから母は僅かな貯蓄の切り崩しながら、パートの給料で家計を支えてくれていることを知っていた。兄、凛一、潤の二人も公立の学校に行きながら生活の足しはバイトで稼いでいる。

 楽ではないのだろうけれど、幸は不幸であると感じたことは一度もなかった。


 午後二時過ぎ、家に着くとすぐに幸は母、鳩子を探した。今日は休みだと聞いていたし、靴もあった。リビングと台所を見渡しても見つからず、父、慶司の部屋からも声はしなかった。

 部屋全体が青白い。

 一先ず自分の部屋へ戻り、制服を脱ぎ、Tシャツとトレーナーになった。兄達は不在のようだ。

「母さん、」

 階段を降りながら呼んでみると、遠くの方から僅かに返事が聞こえたような気がした。階段を降り切ったところで、さっきまで見えなかった母の姿がリビングにあった。

「おかえりなさい、早かったわね。今ちょうど洗濯物を取り込むので、外と内を行ったり来たりしていたところよ。」

「ああ、雨。降ってきたもんな。」

「そうなの、父さんのところにいたらいつの間にか。急いだんだけど、少し濡れちゃったわ。」

 雨は下校中に降り始めたが、幸は傘を持っていたので被害はなかった。外は一層騒がしくなっている。本格的な雨足だ。

「こんなに降るのはいつぶりだろう。」

「本当、ここまでは滅多にないわよねぇ。」

 二人は暫く外を眺めていた。

「そうだ、母さん。俺のアルバムって何処にあるの。」

「アルバム。どうしたの、めずらしいわね。」

「卒業アルバムに皆の子どものときの写真を載せるんだって。」

「へぇ、いいわね。写真は全部、二階の納戸に仕舞ってあるのよ。」

「だから、納戸の、何処。」

「貴方はいつも、物を探せないわよね。」

「検討が付かないんだ。仕方ない。」

「想像力がないのね。」

 鳩子の言う、想像力。

 今の幸の生活には、馴染みの薄い言葉だ。

「母さん、なんだか今日、調子が良くないのよ。夕飯の支度の前に少し寝ることにするから、自分で探してみなさい。」

「ヒントくらい、教えてくれたっていいんじゃないか。」

「アルバムなんかは大抵、棚の下の段に収納してあるもんでしょ。」

「そうなの。」

「そうよ。重たくて、使用頻度の低いものっていうのは大抵、下の段の奥って決まっているものなのよ。」

 それが、鳩子の言う想像力というものか。

「そういうもん?」

「そうよ。散らかさないように、必要なものだけを出してね。」

「わかってる。」

「本当にわかんなかったら、起こしてちょうだい。正直、母さんもはっきり覚えていないのよ。」

「わかった。でもそんなに急いでないし、」

 鳩子は気だるそうだった。今朝はいつもの母の顔だったはずなのに、今はなんだか遠くにいる人のようだ。父とやり合ったな、と幸は思った。負った傷を引き摺っている人のような顔――。

「母さん、」

「何。」

「辛いなら、父さんを病院なり、施設なりに入れてもいいと思うよ。」

 鳩子は目を丸くした。思いも寄らない投げ掛けに返答に困っている様子だった。

「母さんは、大丈夫だから。本当に駄目になってしまったら、どうすることが一番良いのかを、皆で話し合って決めましょう。」

「うん、おやすみ。」

「おやすみなさい。」


 納戸の照明は薄暗い。その中での捜索は溜息が洩れてしまうものだったが、アルバムは案外簡単に見つかった。というのも、それはやはり母の言った通りの場所にあったからだ。ただ、古いものも新しいものもごちゃ混ぜになっており、そこから生後間もない自分の写真を探し当てるのは思ったよりも簡単ではなかった。

 手前のものが新しいとは限らない。

 手にして四度目に開いたアルバムは兄の潤のものだった。もしかしたら途中で幸が生まれているかもしれない、そう期待して頁をぱらぱらと捲っていったが、最後のページまで幸は生まれてこなかった。

「もうちょっとで俺、登場だったのに。惜しいな。」

 チェック済みのものはわきへ除けて積んでいく。幸は、手にしたアルバムを同様に積もうと持ち上げた。しかしその拍子に持ち手が滑り、危うく落としそうになり、寸止めで床には落ちなかった。しかし母指の付け根にアルバムの角が食い込み、激痛が走った。

「痛っ。」

 アルバムを抱き抱えたまま暫く動けずにいると、腕の隙間から、するりと一枚、写真が逃げていってしまった。それは裏返しで床に着地し、雪のように一部を青白く染めた。アルバムを置き、落ちた写真を手に取り捲った。

 幸は、目を凝らした。

「誰だろう。」

 その写真は色褪せてしまっていて、いつの年代かは定かではない。そこに写っていたのは幸よりも少し年上だろうか、見覚えのない家屋の横のベンチに腰掛けている女子。右手には本を持ち、大きな黒い瞳でカメラを見据えている。写真は日焼けてしまっているのに、その姿は少しも褪せてはいなかった。そして、美しかった。

 まるで絵画のような存在感。薄っぺらなただの写真なのに、少女はこの中で確かに息をしている。

 幸は、本当なら写真を適当にどこかの頁へ挟んでおこうと思った。そうして目的の、自分の写真をアルバムから抜き取ると、全てを元の場所へ仕舞う手筈だった。それなのに、その写真はどうしても気になる。

 もう一度だけ、見てみたい、幸は衝動を抑えきれず、よけておいた先程の少女の写真を手に取った。この中毒性は、何だろう。こういう体験は初めてのことであった。

 暫くの間、見つめていた。まさか、鳩子の若い頃の写真だろうか。けれども、今の鳩子の姿にはこの写真の面影が微塵も感じられない。


 幸は、暫くの時間を過ごした後、全てを片付けで納戸を後にした。

 結局、抜き取ったいくつかの自分の写真の間に、その少女を滑り込ませ、些細な罪のように、密やかに部屋へと持ち帰った。

 どうしてそんなことをしてしまったのか、どうしてそんなことをする必要があったのか、自分に問うても幸には答えることができない。

 持ち帰った先で観賞するわけでもない。幸は、納戸を出てからその写真を改めて見ることが、なぜだかできなかった。

 結局、羞恥に似た気持ちと後ろめたさからか、その写真はいくらも幸の部屋に滞在せずに数日後、納戸へと返されるのだった。

 けれども、幸の脳裏にはすっかり、その少女の姿が焼き付いており、今となっては観賞するのに写真など必要なかった。紙の上なんかではない。幸の脳で少女は確かに生き始め、存在してしまったのだから。


 あの少女は一体、誰なのか。気になって仕方がないのだ。寝ても覚めても、頭のどこかでその少女を意識してしまう。これは一体どういうことだ。こんな状態では受験勉強に専念などできる自信がない。実際の少女を見つけ出して会ってしまえれば解決するのだろうか。

 古そうに見えた写真だったから、実際の少女に会うことは叶うのだろうか。ないとは思うが、母親の若い頃の写真なのだろうか。親戚の誰かかもしれない。または近所の子を誰かが写しただけなのかもしれない。それとも、父の元恋人とか――鳩子に聞けば解決するだろう。

 けれども幸にとって一番の厄介ごとはそこではないような気がした。

 たった一枚の写真を見ただけなのに、その息遣いや瞬き、話し声や歩く様を思い描いてしまっている。これが、母の言う想像力か。幸は思いがけぬ瞬間に自分の理想というものを認識してしまったのだ。それはおそらく、初めての事態だ。

 ひどく厄介なことになった。

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