第9話 皇帝の死


 不疑は、淮南に向かう途中で考え事ばかりしていた。何を考えていたかというと、呉翏にどうやって黥布の死を伝えるか、ということだけである。

 頭の中で彼は問答の演習をした。

(淮南王さまはお亡くなりになりました。もはや、この地は危険です。私とともにお逃げください)

 そのように告げれば、おそらく呉翏はこう返すであろう。

(王さまの守護があってこそ、私はこれまで生きてこられました。また、これまで私が生きてきた理由は、王さまを満足させて、気力を充実させること以外にありませんでした。逃げたとして、この先どう生きればよいというのですか)

 それに対する明確な答えはなかった。しかし人というものは、目的や理由がないと生きるべきでないのだろうか……もちろんそのようなことはないだろう。ただ、目的がない人生は、退屈だというだけに過ぎない。さらに言うならば、現在において生きる理由があったとしても、それが未来永劫続くとは限らない。何事もいつかは終わりを迎えるものであり、そのたびに人は新たな目標を定めるものなのだ。

 不疑は呉翏にもそれを求めたかった。

——子さえいれば……。

 宮殿で過ごした女性にとっては、その成長を見守ることこそが大きな生きる目標となる。しかし、呉翏にはそれもなかった。

 不疑は長沙から淮南までの道のりを、遠く感じた。思案に暮れながら辿った道筋は、終わりがないほどに長く、彼にとっては苛々させるものであったのである。

 しかもりくにたどり着きさえすれば呉翏に会えるというわけでもない。朝廷は黥布の死が確認できるまで慎重な行動をとっているらしく、未だ六にはその支配が及んでいないが、いつそれが現実になるかはわからない。もしかしたら明日にも朝廷は六に軍隊を派遣するかもしれないのだ。

——そうなってからでは遅い。

 馬に鞭を入れ、彼は道を急いだ。


 呉翏は、もはや帰ることのない主人を待ち続けた。戦況は、黥布が劉邦率いる官軍に敗れた、というところまではわかっている。しかし、その後黥布がどうなったかまでは、彼女は知らない。無事を祈るだけではなく、その後のことを思うと恐ろしかったのである。この六を始め、寿春や合肥といった淮南の諸都市に朝廷の軍が押し寄せ、支配者が変わることには抵抗があった。誰しも劇的な変化を望むものではないのである。

——何の連絡もよこさないで……。

 呉翏は髪飾りにしている鳥の羽を、このときむしり取った。状況から判断し、黥布の死を覚悟したしるしであった。

 実際の年齢に比して幼かった容貌は影を潜め、心に堅い意志を持つ大人の女性へと呉翏は変貌した。

 彼女は王宮の使用人たちに対して、宣言した。

「淮南王さまは、おそらく戦乱の中でお命を落とされたと思われます。朝廷は、あらたにこの地の王として劉長さまを任命し、いずれは私たちも追い払われましょう。少し速い判断かもしれませんが……宮殿の組織を解散します。あなた方は各自で安全と思われる場所に避難してください」

 使用人たちは口々に質問した。

「奥さまはどうなさるのです」

「私は、もう少しここに留まります。きっと不疑さまがここを訪れるに違いありません。あの方をお待ちしなければ……」

 しかしそれは危険である。だいいち、王宮でほとんどの人生を費やしてきた彼女が、使用人もいない状況で、長い期間を過ごせるとは誰も考えなかった。

 使用人たちは、口々に行動を共にすると言った。しかし呉翏はそれを断ったのである。

「あなた方を雇う術が、私にはありません。私の身を案じてくださることは嬉しいのですが、どうか聞き分けてくださるようお願いします」

 そう言われると、誰もが言うことを聞くしかなかった。ここにおいて呉翏は、何の身分の保障もない、ただの女性となったのである。

 しかし宮殿に住んでいては、身も危うい。これからどうするべきか思案を重ねていたころ、不疑が戻ってきたのである。彼女にとっては、待ちに待っていた状況の変化であった。

「不疑さま……ご無事でなによりです」

 開口一番に投げかけられた呉翏の言葉に、不疑は深い悲しみを感じた。

「呉翏さま、申し訳ございません。淮南王さまをお守りできず……ひとり戻ってきてしまいました」

「構わないのです。あなたひとりの行動によって運命が変わるわけでもないでしょうから。王さまが亡くなったことは感じていたし、覚悟もできています。ただ……どのようにして亡くなったかは知っておきたいと思います」

「はい……」

 不疑は黥布が皇帝率いる軍との戦いに敗れ、義理の弟を頼って長沙へと逃げ込んだが、裏切られて死んだことを説明した。なるべく感情を込めずに、意識して淡々と話したつもりだったが、呉翏の心をまったく動かさずにそれを説明することは不可能だった。

「王さまは……苦しんだのでしょうね。武人に限らず、士というものは死に際が大事だという話を聞いたことがあります。その死に際は、あの方に相応しいものだったのでしょうか」

 しかし不疑はこの問いに答えることができなかった。黥布の死は、どちらかというと反逆者に相応しい死に方だったように思えたからである。親族に裏切られて死ぬなどという事実は、不名誉の部類に属するものであったからだ。

「あまり答えたくないようね。でも……構いません。結局はあのお方が死んだことには変わりはありませんから。それより、不疑さまにお伝えしたいことがあります」

「どういったことでしょう」

「私は、呂后に復讐がしたいのです。あなた、力添えはしてくれますでしょうね?」

 不疑はこれにも即答しかねた。彼が頭の中で想像していた呉翏との問答と、現実のそれには大きな隔たりがあった。そのため不疑は呉翏が言葉を発するたびに考え込まねばならなかったのである。

「…………」

「どうしたのですか」

「いえ、その……私が考えていたよりも呉翏さまは強いお方だったように感じまして……ご質問の件ですが、お引き受けする前に二、三確認したいことがございます」

 不疑としては、できれば呉翏には復讐などという物騒な考えを捨ててもらいたかったが、このままでは死んだ黥布が浮かばれない、という思いも捨て去ることができなかった。迫り来る危機の中、黥布が自分だけを逃がしてくれたことに対する感謝の思いは確かにあり、自分はその思いに応えようと思っていた。が、それに呉翏を巻き込むことは避けたかったのである。

 しかし当の呉翏がそれに積極的であった。危険だからといって彼女の強い思いを封じ込めることにも、気が咎めた。

「復讐と仰いましたが、具体的な計画などはあるのでしょうか」

「まだなにもありません」

「どうしたい、という願望はありますか」

 不疑の発した質問に対して、呉翏はしばらく自分の考えを整理するように口を噤んだ。やっと口にした言葉は、以下のようであった。

「それは、呂后を何らかの方法で死に追いやることができたら、とは思いますけど……それではどこか物足りません。そう……私は、呂后に生き地獄を味わってもらいたい。幸せな一生など送れないような……じわじわと苦しめてやりたいのです。陰湿かしら?」

 確かにそれは陰湿な復讐であった。しかし、それは来たるべき呂后の治世をやり過ごし、その死後に名誉を失わせるという張良や不疑の指針と重なるところがある。上手くいけば、呂后の治世を短期間に抑えることができる可能性も含んでいた。

「今までお話ししてきませんでしたが、私は父から命令を受けて今まで行動してきました。父の元へともに参りましょう」

 不疑は、呉翏を留に匿うことを決めた。



 留を訪れた二人であったが、このとき父の張良は不在であった。太子の少傅として長安に滞在していたからである。急ぎ父と連絡を取り合う必要があると感じた不疑は、書状を使者に託した。自ら訪れようかとも思ったが、都には審食其などの目が光っている。この時点で彼自身が危機に陥ることは、避けねばならなかった。

「何らかの返答があるでしょう。父が不在であったことは残念ですが、長安にいるということは中央の動静について我々よりも詳しい情報を持っているはずです。今後どうするべきかは父が指南してくれることでしょう」

 言いながら、不疑はひどく自己嫌悪を感じた。偉大な父を持ち、その鈍らぬ判断力のもとでしか行動できない自分を恥じ、呉翏に申し訳なく思ったのである。

 しかし父の張良の返答には、普段はあまり感じられることのない熱意が含まれていた。使者を通じて言うことには、彼はすぐ留に戻るとのことである。張良は、不疑に対して「よくやった」とまで言い残した。が、不疑はその理由がまったくわからなかった。

 呉翏は不安げな素振りを見せることなく、落ち着いた口調で言った。

「私に何かをさせたいということでしょう。それが呂后への復讐へとつながるのであれば、喜んで承ります」

「ですが……危険な役回りかもしれません」

 不疑にとって、父親はよくわからない人物であった。国家の構想を最優先とするあまり、人の幸福や、あるいは自分の幸福を顧みない人物だと感じていたのである。張良という男が、このときいったい何を言い出すのか……息子の不疑は恐れを感じていた。

「構わないわ」

 不疑の不安をよそに呉翏は言う。

「私にもできることがあるとすれば、やるだけです。不疑さまは、私のこともきちんと記録して……後世に伝えてください」

 やや皮肉めいた言い回しのように不疑には聞こえた。返す言葉に彼の不機嫌さが見え隠れした。

「そんなことを言って……暗殺でもするつもりですか」

「お父上がそうしろというのであれば……でも、これまでの流れから、そのようなことをお命じになるはずがないということを、あなたもわかっているはずでしょう」

「呉翏さまが危険だというのに、私だけがのうのうと生きているわけには参りません。もし、そのような命令があったとしたら、私が実行します」

 意気込んで言った不疑だったが、呉翏はいかにも大人の女性らしく、これをあしらうのだった。

「まあ、男らしいことを言うのね。でも、おそらくそうはならない。私には、女だからこそできる役目が与えられるでしょう」

 その言葉を受けて、ますます不安を募らせる不疑であった。彼は、自分に課せられた使命が、このとき邪魔に感じた。自ら死地に赴く方が、よほど気楽であった。

 なぜ自分がこれほど気を揉むのか……不疑はその原因を確かめられないまま、父を迎えた。張良が長安から戻ったのである。その姿は以前よりもやつれており、十歳も年をとったように見えた。

——きっとまだ道引などという、よくわからないことをやっているのだろう。どうせそうに違いない。

 不疑は反抗したくなる気持ちを抑えられなかった。父親は、列侯であり、軍師であったが、一度も前面に立ったことがない。常に影から人を操り、自らは前に出ることがないのだ。未だ若い不疑にとって、現場で華々しく活躍することがない張良は、それほど尊敬に値する対象ではなかったようである。

 しかし、帰ってきた際に放った父親のひと言は、不疑の認識を覆した。

「陛下には、太子廃嫡を諦めていただいた」

 驚いた不疑に向かい、張良は表情を変えることもなく話す。

「可能な限り穏便な方法で、しかも確実に陛下が翻意する方法を採った。それは成功したが、それによってまた別の問題が生じる。つまり、将来には太子が即位することによって、確実に呂后が権勢を得る時代がやってくる、ということだ」

 今度も張良は天下を動かしたのであった。敵国を相手に戦略を練るという劇的なものではなかったが、今回も王朝を危機から回避させたという意味では、偉大な功績であった。

「なぜ、陛下は父上の思惑通りに……?」

「それは長年あの方にお仕えしてきた経験から得た知識のおかげだ。まあ要するに……私はあのお方の弱点をいくつか知っているのだ。しかし今回の措置は、残念ながら万人を幸福にするものではなかった。おそらく戚姫と如意さまには不幸が訪れるだろう。いわば、犠牲だ」

「……当人たちはそのことを承知で?」

「いや。しかし覚悟はなさっておいでだろう」

 この張良という男は、基本的に冷酷であった。目的を達成するためには、犠牲者を作ったり、裏切ることを厭わない。不疑は自分の父親を心の底から好きになれない理由は、この点にあった。だが張良はそのことに気付かないのか、あるいは気付かぬふりをしているのか、何事もないかのように話し続けた。

「呂后の治世を長く続けさせないための次なる策略が必要だ。しかし、表向きは彼女に従わねばならない。そうしなければ国内が争乱で荒れ尽くし、平和が維持できぬからだ。面従腹背の態度で臨むことになるが、それもやむを得ないことであろう」

「実際にはどのような対策を?」

「うむ……」

 張良は思わせぶりな沈黙の後に、その胸の内を明かした。

「黥布の側室を伴ってきているそうだな。その者には斉国に赴いてもらう。斉王劉肥のもとに侍女として送るつもりだ」

 これを聞いた不疑は驚愕と憤怒のあまり、父親に詰め寄った。

「どうしてそのように父上は……また、犠牲ですか!」



「お前は私のことをあしざまに言うが……聞けばその女性は復讐を望んでいるというではないか。何かしらの役目を与えないことには、その望みも叶えてやれない」

 張良の言うことは正論であった。しかし不疑はあえてそれに反論をするのである。まるで聞き分けのない子供のように。

「ですがあのお方は、淮南王の伴侶でありました。その身分は側室に過ぎませんでしたが、正室はすでに亡くなっており、他に側室もおりません。淮南王はあのお方だけを愛していらっしゃいました」

「ふむ。それは結構なことだが……何が言いたいのか」

「あのお方は高貴な方だと言いたいのです。侍女の役目などに満足なさるとは思いません」

「では、斉王劉肥の新たな側室のひとりとして送り込むか。その方がいいとお前は言うのだな?」

「…………!」

 不疑は言い返すことができず、押し黙ってしまった。結局彼は自分の思いが子供っぽい正義感に過ぎぬことを知り、浅い考えで現実を直視していないことを悟ったのである。

「そのようなことでは、観察の役目も果たせるかどうか怪しい。時代の流れを変えるためには、私情を挟んではならぬ。悲しい思いをするだけだ……これは、お前の身を案じて言っているのだぞ」

「時代の流れを……」

 言いながら、初めて不疑は自分の置かれた状況を真に理解した。口では「呂后の治世を短期間に抑える」などと簡単に言えるが、それを実現させるためには自身の欲求や、他人の幸福を犠牲にしなければならない。それだけの覚悟が必要なのだった。

「不疑さま……」

 悶々と考える不疑の横に、呉翏の姿があった。張良の到着を聞き、拝謁しようと彼女もこの場に来ていたのである。

「お父上に私のことを紹介してくださるかしら?」

「それは……もちろん」

 しかし張良は、不疑を制して自ら呉翏に下問した。

「淮南王黥布の側室であったと聞いているが、私が想像していたよりずっと若いお方のようだ。呂后に復讐したいとのことだが、その覚悟のほどを聞いておきたい」

 この質問を受けた呉翏の表情は常よりも凜としていた。鳥の羽をひらひらさせて微笑を振りまいていた頃の姿は、もはやない。目鼻立ちは以前に比べて柔らかさが失われたようであった。しかし以前とは違う美しさが彼女の表面に表れており、不疑は我知らずその姿に見とれていた。

「命を燃やす覚悟でございます」

「うむ。よくぞ言った。……だが私は貴女に人殺しを命じるつもりはない。要するに、次の皇帝となる人物の安全を確保するうえで、あなたにも一役買っていただきたいのだ」

 この時点で張良は具体的な説明を避けた。そのおかげで、呉翏も不疑も、心の中に疑問ばかりが膨らんでいくことを抑えられなかった。

「父上は誰を次代の皇帝に選んだのですか。それを聞かないことには……」

「うむ。順を追って話すつもりだが、あえて結論を先に言えば……代王劉恒がもっとも適任だと考えている」

「では、なぜ呉翏さまを斉国へ赴かせるのですか?」

「次代の皇帝の身は安全な場所に置き、守らなければならない。争乱は別の場所で……つまり私は斉国で争乱を起こさせるつもりなのだ」

「………………」

 張良はやはり、呉翏を争乱に巻き込むつもりでいたのだ。それを知った不疑は心落ち着かない。

「父上はやはり……」

「呉翏に人殺しをさせるつもりはない、と言っている。まず、最後まで話を聞け」

「不疑さま、私も聞きたい」

 呉翏は不疑に対して、暗に邪魔をするなと言いたいのであろう。不疑は、しょげかえった表情でこれに応じた。

「……わかりました」

 張良はこれを受け、二人を屋敷の中に入れた。落ち着いた状況で話を進めようとしたのであろうが、食事や茶はその場にない。張良はいまだ道引を続けているのであった。

「食事は、あとで私がいないところで摂るがいい。今の私には不要だから……。準備はさせてある。では、話を続けよう」

 呉翏と不疑はただ黙って張良の話を聞くことに手持ちぶさたを感じながら、聞く態勢を整えた。邪念を捨て、話の内容を客観的に捉えるためである。

「まず最初に……陛下の実子で諸侯王の地位にある者は、いま現在五名である。斉王劉肥、趙王劉如意はもともとその地位にあったが、彭越の死後に梁王として劉恢、黥布の後釜として淮南王に劉長が任命されている。そして、残りの一人が代王劉恒だ」

 張良は、この誰もが次期皇帝の候補となり得る、と言うのであった。無論、呂后の息子である太子劉盈の次となるわけだが……。

「斉王劉肥は太子より年長であり、淮陰侯が楚王に国替えを命じられた際に、その後釜として斉王に任じられている。極めて初期の段階から諸侯王の地位を確保しており、その地位は太子に準じているといってよかろう。ゆえに、その立場はもっとも危険であると言わざるをえない」

 誰かが担ぎ出す可能性があるというのである。そうなれば呂后にとって劉肥は対抗勢力となり、潰さざるを得ない相手になるのだ。

「劉如意に至っては、もはや改めて言うこともないことだが……彼は、陛下がもっとも愛した戚姫の息子である。陛下がお隠れになれば、呂后は必ず彼らを排除するだろう。したがって、彼は次期皇帝の立場が危険だというより、命そのものが危険だ。と、いうよりもはや助けてやれる道がない。彼と戚姫は必ず亡き者にされるだろう」

 可能性がない、ということである。この母子は皇帝に愛されたがために助かる道がなく、それを救う方法もない、というのであった。非常に悲しい現実である。

「劉長は幼くして淮南王となったが、その母親はかつて趙王であった張敖の側室である。この女性を張敖が陛下に献上したために、今度は陛下の側室となったわけだが……知っての通り、趙では政変があった。陛下を亡き者にしようとする動きがあった疑いで張敖ばかりでなく、この女性も逮捕されたのだ。その後疑いは晴れて釈放されたものの、彼女はこの事実に怒り、劉長を産んだあとに自殺したという。なんでも、この女性の弟が助命を審食其に嘆願したらしいが、彼は動かず……哀れに思った陛下が幼い劉長を呂后に預け、実の子として育てるよう命じたらしい。したがって、ことの経緯は複雑だが、結果的に呂后と劉長の関係は良好だ。しかし、幼すぎる」

 劉長が成長したあと、自身の母親がどういう死に方をしたかを知ることになるかもしれない。しかし、その日が来るまで対立の火種となることはなさそうだ。呂后の実子に近い形で育てられたのであれば、太子の対抗馬となることもないであろう。

「梁王劉恢は年齢的には次期皇帝候補としてもおかしくない。しかしありそうもないことだが……陛下は劉恢の母親を知らない、というのだ。いや、実際に知らないわけではないはずなのだが、ご自分がその女性と関係を持った記憶がない、というのだ。にもかかわらず陛下は彼を諸侯王とした。自分自身の子であるか定かでないにもかかわらず……陛下の度量の大きさであろう。しかし、出自がはっきりしない彼を皇帝候補に推すわけにはいかない。本当は陛下が劉恢の母親と関係を持っており、彼女を守るために知らないと答えているのかもしれないが、公式の見解がそうである以上、呂后の勢力を上回る存在とはなり得ない」

 不疑は疑念を抱き、ここで口を挟んだ。

「呂后を上回ることがないという見方が一般的であるなら、皇室から目をつけられずに計画を進めることが容易なのでは?」

 しかし張良はこれを否定した。

「確かに計略を練るには最適の環境だが、出自の明らかでない者を皇位に就けるわけにはいかない。そのことによって新たな反抗勢力を作ってしまうからだ。陛下がお隠れになる前に真実をお話になれば状況は変化するだろうが……おそらくそれはあるまい。私の勝手な推測だが、陛下は本当に相手の女性との関係を思い出せないのであろう。あの方は、そういうところがあるお方だからな」

 もっとも適格な者を選ばなければならない、ということである。つまり、代王劉恒がそうだと張良は言いたいのであった。



「代王劉恒は、陛下の第四子にあたる。長男の肥、次男の盈、三男の如意に次ぐ位置だが、呂后との関係性がもっとも薄い。と言うのも劉恒の母親が陛下に愛された機会は一度きりで、呂后の嫉妬の対象となっていないのだ」

 呉翏はこの言葉に反応した。

「一度きりとはいえ、愛されて男児を設けるまでに至ったというのに、おかしいではないですか?」

「陛下が関係を持ったあと、その女性を顧みることがなかったことが原因だろう。戚姫はその後も愛されたために、現在危機に陥っていることを考えれば、わからなくもない。いずれにしても……女性の感情でこの問題は推移しているのだ。私にはそうとしか説明できない」

「どのような女性だったのでしょう?」

「うむ。話すつもりではいた。この女性の母親は、戦国時代の魏王室出身なのだ。この女性が薄という姓の人物のもとに嫁いだことによって劉恒の母親は生まれた。つまり、劉恒の母親は薄姫であるが……その存在を知っているか?」

 二人は首を横に振った。不疑は列侯の息子として、呉翏は諸侯王の妻として中央の情勢をある程度知っていたが、それでもその名を知る機会は得られなかったのである。

「実を申せば、私もこのことは調べてみて初めて知った。しかしその出自を知ったときは、どうにも言い表せないもの悲しさを感じたものだ」

 張良にも存在を知られていない皇帝の側室とは、よほど地味な存在であったのだろう。しかしそれが幸いして、息子が至尊の地位を得るかもしれないのである。運命とは、不思議なものだと感じさせる事態であった。

「漢が大陸を統一する以前、各地には諸王国がまだ存在していた。魏もそのひとつであり、当時は王として魏豹という人物が統治していた。この男が割と癖のある人物でな……。味方についたと思えば裏切り、裏切ったと思えばいつの間にか漢の陣営に属している……常にそういった感じの男であった。劉恒の母親はもともとこの魏豹の側室であった」

 皇帝の側室の前身が魏豹の側室……同じ側室という身分であった呉翏は、この事実にやりきれなさを覚えた。

「魏豹の治めた国は、正式には西魏と称していたと記憶しています。西魏は滅んで漢に取り込まれ……ということは、魏豹は後宮を皇帝陛下にすべて奪われた、ということでしょうか」

 張良はこれに答えて言った。

「そうだ。旧来の魏国は東の半分を項羽率いる楚国に吸収され、残った西半分を魏豹が治めることになったのだ。それゆえ、彼の治めた地は西魏と呼ばれる。このような経緯があった故に魏豹は項羽のことをよく思っておらず、漢に味方することとなった。しかし漢が楚の首都である彭城の攻略に失敗すると、彼はいち早く同盟から離脱する動きをとった。そして、反転して攻めてきたのだ」

「漢はそれを抑えて、魏を統治下に加えたのですね」

「うむ。それを成し遂げたのは、当時大将軍であった淮陰侯だ。淮陰侯は魏豹を生け捕りにし、陛下のもとに送った。陛下は魏豹を平民に落とし、その後宮をすべて我が物とした」

 その中に薄姫がいたということである。その彼女が男児を産んだ。なぜ彼女は選ばれたのか。

「美しいお方だったのでしょうか」

「男の目を引きつけるほどの美貌があったとは、伝えられていない。彼女は後宮に治められたものの、陛下から声をかけられることがなく、その間黙々と雑務をこなしていたとのことだ。陛下はむしろ、哀れみで声をかけられたのであろう。その証拠に、再び彼女が寝所に呼ばれることはなかったのだ」

「そのような地味な存在であったからこそ、呂后に睨まれることもない、と……。喜ぶべきか悲しむべきか難しい人生ですね」

「選ばれたことには他にも理由がある。魏の王室は淮陰侯の功績によってすべて平民に落とされ、権力を失っている。将来、彼女が太后となっても外戚が跋扈することもない、と判断したのだ」

 しかしこのことは、裏を返せば呂后の時代にはそうなるということである。呂后の一族には、建国の元勲がいる。建成侯呂沢などはその顕著な例であり、彼は呂后の兄である。劉邦は、かつて彭城の攻略に失敗して軍を四散させてしまった際、呂沢率いる一軍にからくも保護された経緯があり、この一件だけでも彼は王朝から尊重されるべき存在であった。薄姫が太后となれば、そのようなしがらみをすべて捨て去ることができるのである。

「そういえば……」

 不疑がこのとき思い出したように口を挟んだ。彼は黥布との交流から、王朝が成立する前の話をいくつか聞き及んでいたのである。

「西魏を制圧した淮陰侯は、やはり魏豹の娘なる人物を幕営に加えた、と聞いています。一説には妾とした、とも……。薄姫が魏豹の側室で、自身も魏王室の地を受け継いでいるとすれば、この人物とも関わりがあるのでは?」

 張良は首を横に振った。

「いや」

「断言されるのですね。父上もその女性を知っているのですか」

「その娘は、名を蘭という。戦乱の中で種々の事情が重なった結果、魏豹の娘として漢に人質として預けられた。が、彼女は魏豹の兄で先代の王である魏咎の娘だというのが真実だ。淮陰侯が昔、話してくれた……。非常に聡明な娘であり、美貌も際立っていた。私は、なぜ淮陰侯が彼女を正式に妻としないのか不思議に思ったものだった。しかし彼は、彼女の美しさよりも能力の方を重視していたようで、彼女は亡くなるまで彼の幕僚のひとりという立場に過ぎなかった。まあとにかく……彼女は魏咎の娘であって、魏豹と薄姫との間にできた娘ではないことは明らかだ。話を元に戻そう」

 不疑はもう少し詳しく聞きたいと思ったが、確かに本題とは話が逸れる。彼は核心に迫る質問を放った。

「薄姫と代王劉恒さまの安全を守ることに将来の希望を見出すということでしょうが、そこでなぜ呉翏さまを斉に送るのでしょうか。その目的をお聞かせ願いたく思いますが」

 張良は、この質問に笑顔で応じた。

「つまりだ、代王劉恒の安全を確保するということは、そこに危機があるからだ。危機は、斉より起こる。なぜなら我々がそのように仕向けるからだ。呉翏よ、斉王劉肥の息子である劉襄を革命戦士として育て上げよ。それが貴女の使命だ」



 呉翏は斉へと旅立ち、不疑は長安へ赴いた。彼には、中央の動きを逐一記録する責務が未だ課されていたのである。

「斉国で、私は王さまを忘れることができるかしら?」

「……淮南王さまのことですか」

 別れ際、呉翏とはそのような話をした。彼女の表情は、悲しみを浮かべているようでもあり、黥布の死という事実を忘れさせてくれるかもしれない未来に期待を抱いているかのようでもあった。

「忘れ去ることは、あの方に失礼でしょう」

 不疑は特に考えることもなくそう答えたが、呉翏はこれにひどく感銘を受けた様子であった。

「……その通りかも。不疑さま、あなたとてもいいことを言うのね。私ったら自分のことばかり考えて……あの方がどう感じるかなんて思わなかった」

「仕方のないことです」

「不疑さまともこれでお別れね。どうか、お体に気をつけて。長安では審食其の目が光っているでしょうから、見つからないように」

「呉翏さま……私は……。まったく無力でした。ですが、貴女の幸せを心から願っています。これは偽らざる私の本心です」

 不疑の目に涙が滲んでいることを悟った呉翏は、彼を抱き寄せ、優しく言ったのだった。

「不疑さま、ありがとう。また会える日が来るまで……」

 これより二人はそれぞれ別の道を歩むこととなった。


 不疑が最初に掴んだ情報は、樊噲と陳平が長安に帰還するというものであった。この情報の意味するもの……同じ年の同じ日に生まれた無二の親友である盧綰を討伐しようとした劉邦の狂気、そして旗揚げ当時から誠心誠意尽くしてきた樊噲を呂氏一族に通じているからと殺害を命じた劉邦の錯乱であった。

 樊噲を連行する立場の陳平は、意識して帰還を遅らせているという。もともと彼は、樊噲の殺害を命じられていた。それを現場の判断で連行という処置にとどめていたのである。

 陳平の判断は、正しいものだったと思われる。しかし連行したあとのことはわからない。皇帝が下した命令はあくまで樊噲の殺害であったから、その意志に叛いた陳平も断罪される可能性が高かったのである。彼がなかなか帰還しようとしない理由も、おそらくこれに原因があるのだろう。

——そもそも、妻の一族に通じている、とはどういうことだ。妻の一族は、自分の一族ではないのか。

 樊噲は呂后の妹を妻としている。そのことが信用できない原因となっているのであれば、劉邦はそのような縁談など最初から認めなければよかったのだ。

——とにかく皇帝陛下が彼らの帰還に対して何を思うかが重要なところだ。

 そう思った不疑は、陳平の屋敷に世話になっている弟の辟彊へききょうに会うことにした。

 城内を堂々と歩くこともできないが、不自然に身を隠しながら歩こうとしても怪しまれるだけである。冠を脱ぎ捨て、町人になりすまして陳平の居宅まで移動した。門の前で再び冠をつけ、門番に用件を告げる。そのいちいちに苦労を感じる不疑であった。

「この屋敷に弟の辟彊が世話になっているはずだ。会いたいのだが」

 辟彊はこの屋敷で一目を浴びているらしく、その兄が来たと伝えられると誰もが恐縮する様子が見て取れた。父の力か、それとも辟彊自身の力か……。

 しかし実際に現れた辟彊は幼く、あどけなさが目立つ。兄の目から見ても可愛らしく、また愛おしく思えた。ただ、目はどちらかというと細い。そこに父親の面影があるのだ。

「弟よ。久しぶりだな」

 不疑は兄の威厳を見せつけるような挨拶をしたが、辟彊はそれに萎縮する様子はなかった。

「兄上。良いときにお会いできました。近いうち、宮中に異変が起こります」

「異変だって? どういうことだ」

 辟彊は愛くるしい笑顔とともに、不疑を屋敷の中に誘った。重要な話を小出しにするあたりが、他の子供とは異なる点である。

「兄上。僕は呂后に気に入られて、これまで何度も拝謁しているんです。すごいでしょう?」

 歩きながら、辟彊はそんな自慢話をした。ただ、不疑はそれをただの自慢とは受け取らない。辟彊は幼いが、呂后から愛されることでその影響下に取り込まれることはない、と信じていた。

「客観的な観察はできているのだろうな。呂后がよくしてくれるからといって、そのことで判断力を偏らせてはならないぞ」

「わかっています。僕をなんだと思っているんですか」

 そう言いながら、辟彊はぴょんと敷居を跳び越すのである。やはり信頼はできないかも、と不疑は不安に駆られた。

 やがて屋敷の奥にある辟彊の部屋にたどり着くと、彼はついに本題を話し出した。

「やっと、これでお話しできます。呂后から聞いた話ですが、もう皇帝陛下は床に臥していて、おそらく二度と立ち上がることはない、とのことです」

 不疑は眉をひそめた。

「……確かか。確かな情報なのか」

「間違いないと思います。呂后の口から直接聞いたのですから。先が長くないと感じた呂后は、陛下にあとのことを尋ねたそうです」

「あとのこととは?」

「政治を誰に委ねるべきか、ということですよ。相国蕭何がこのあと亡くなったら、誰に任せるべきか、と。陛下は平陽侯曹参どのに任せるのがよいと言い残したそうです」

 平陽侯曹参は劉邦旗揚げ前からの蕭何の同僚で、もと沛の獄吏であった男である。楚漢戦争の最中では武将として活躍し、淮陰侯の副将として西魏攻略に戦果を挙げた。その功績に対する恩賞として、西魏北部の都市である平陽を封地として賜ったのである。

「曹参どのは現在斉国の宰相として不在だ。その彼に相国の任が与えられるというのか」

「蕭何どのの亡き後です。今すぐというわけではありません。不安を抑えられない呂后は、曹参のあとのことも陛下にお尋ねになりました。そしたら、陛下は王陵どのがよいと仰ったそうです。しかし王陵どのは馬鹿正直すぎて頭が固いから、我が主の陳平どのに補佐させるのが良いと……」

「ふうむ……」

「陳平どのはありあまる知恵がありますが、武の部分は周勃どのに任せるのがよい、とも仰ったそうです。それでも先のことを心配した呂后は、さらに質問をしたそうですが……」

「陛下は何と答えたのか」

「そんな先のことは、もうお前の知ったことではない、と一蹴されたそうです」

 不疑は思わず笑い声を漏らした。確かにあの皇帝の言いそうなことである。しかし、事態は深刻であった。

「いったい、陛下の病の原因はなんなのだ。年老いておられることは確かだが、それにしても何らかの原因があるだろう」

「なんでも、淮南王黥布を討伐した際に受けた矢傷が原因だとか。陛下はこれも天命だとお諦めのご様子で、医者にも診てもらうことも拒絶なさっているようです」

 それを聞いたところで、不疑は大きな満足感を得た。結局、皇帝はあのときの傷で死ぬことになるのだ。かつて黥布が言った「我々はまだ負けてはいない」という言葉の、真の意味を彼は悟ったのだ。

——呉翏さまに聞かせてやりたい事実だ。

 しかし復讐の相手は、皇帝ではなく呂后である。黥布が最終的に皇帝を死に至らしめたということを、どうにかして呂后を没落させる結果につなげたいと思う不疑であった。

「辟彊。この事実をお前は陳平どのに伝えているのか? あの方が長安への帰還を遅らせているのは、それが理由なのか」

「はい、兄上。連行している樊噲さまが罪に問われることがないように。陛下が亡くなったあとに長安に入る予定です」

「そうか。……しかし、ともに戦火をくぐり抜けてきた元勲たちが、結果的に陛下の死を望むことになるとは、やりきれないな。それに燕王盧綰はもう救われる道がなくなった。陛下の沙汰だけが、望みであっただろうに。呂后の治世となれば、異姓諸侯王の存在は許されないだろう」

「そうですね。たぶん、匈奴にでも亡命するのではないでしょうか」

 なんとも軽い口調で話す辟彊であった。幼いのだから仕方のないことだが、不疑は辟彊にもっと人の運命を重く受け止め、彼らの感情に寄り添って欲しいと思った。

「あまり突き放した言い方をするものではない。人に受け入れてもらえなくなるぞ」

 しかし、このときの辟彊の返答は、現実を鋭く捉えていた。不疑はそのことに深く傷ついたものである。

「人にどう思われようとも、あまり僕の将来には関係ないと思うな。だって、将来父上の後を継いで留侯の座を得るのは兄上でしょう? 兄上の方がよほど言動に注意しなければならないのでは?」

 不疑は返す言葉を失ってしまった。彼は弟を高く評価していたが、その将来まで想像したことがなかった。同時に、自分の将来が非常に危険なものであることを、このとき自覚したのである。

「いずれ世の中の仕組みも変わるかもしれない。しかも私にも何が起こるかわからない。だから、投げやりになっては駄目だ」

 不疑はそう答えるしかなかった。



 しかし辟彊の才覚は幼いながらも自分をはるかに上回る。不疑はそう実感せざるを得なかった。間もなく国内に喪が発せられ、皇帝の死が伝えられたのである。燕王盧綰はこれを知ったことで望みを失い、長城を越えて匈奴に亡命した。特例として残された長沙王呉臣を除き、異姓諸侯王はすべてその存在を消したのである。

 樊噲はこれを機に復権し、陳平と連れだって長安へ帰還した。燕王盧綰が逃亡したことで任務を解かれた周勃も遅れて長安に戻った。すべて、辟彊が言った通りの展開であった。

 しかし、皇帝が実際に死んだのは、喪が発せられる四日前であったという。四日間、この情報は誰かが握りつぶしていたということであろう。

「誰だと思う?」

 不疑は辟彊に尋ねた。

「おおかた、呂后とその一派でしょう。審食其あたりが怪しいと思います。でも、兄上。この問題は、その目的の方が重要なのではないでしょうか。誰が、ということよりも」

「では、呂后と審食其はなんのために、陛下が崩御されたことを隠していたのか」

「いっそのこと、この機を利用して元勲たちを粛清しようと考えたのではないでしょうか。それを誰かに諫められたから、仕方なく喪を発したのだと思います。正確な記録を残すためには、審食其を諫めた者が誰かを突き止める必要があるでしょう」

「その通りだ。……探すか。しかし危険かもしれぬ。私は、すでに審食其に目をつけられている。……そうだ、陳平どのに聞いてみるのがいいかもしれない。辟彊、私を陳平どのに紹介してくれ」

 辟彊はそれを受けて、不疑を自身の主人である陳平に引き合わせた。


「張不疑か。子房どのの息子であり、辟彊の兄。やはり、血は争えぬな。兄弟そろって頭の切れそうな風貌をしている。長安に来ていたとは知らなかったが、ここに来たのも子房どののご指示か」

 問われた不疑はそれに直接は答えず、まずは挨拶をした。

「辟彊が常日頃お世話になっています。最初にそのことにお礼を言いたく……」

「如才ない言い回しだ。本当は別の理由があるのだろう」

「は……」

 陳平という男は、不疑の父である張良と同様に策謀家である。しかし、どちらかというと張良が戦局全体を見渡した軍略を提示するのに対し、陳平は局地的な打開策を示してきた。彼の策略は、過去に楚将范増を孤立させて死に至らしめたり、漢軍絶体絶命の最中、劉邦を脱出させるなどの効果を示してきた。だが、どの策略にしても、毒があるのが特徴的である。

 その毒にやられないようにすることだ、と不疑は身構えてこの人物と対面した。

「私が小耳に挟んだところでは、公式に陛下の喪が発せられるまで四日を要したとか。その間に何が企まれていたのか、知りたいのです」

「私は何も企んでいないぞ。単なる事務作業の遅れではなく、そこに誰かの意図が隠されていた、と言いたいのか」

「まさしく。推測ですが……私は陛下がお隠れになったこの機を利用し、誰かが権力を一気に掌握しようとしたのだと思います。しかし、その計画はやはり誰かに諫められてご破算になった……。状況から考えて、陛下の死を真っ先に知ることになる人物は、呂后しか存在しません。計画はその周辺の人物が立案したのではないかと思うのです」

 陳平は目を丸くして驚きを表現した。

「陛下の崩御が国の一大事だというのに、それを隠そうとしたことは確かに不可解ではあるが……このことは果たしてそれほどの大事件だろうか。呂后はいち早くこの事実を知ったであろうが、どう対処して良いかわからず、そのため喪を発するのが遅れただけかもしれない。しかし、周辺をあたってみる必要はありそうだ」

 陳平の目が、策士のそれらしく怪しく光った。彼は、直感的にこの件を不審に思ったのだろう。

「記録にとどめておけば、のちのち役立つことがあろう。呂后の権勢は今では手出しできないほどのものであるから、今すぐどうこうはできないが……」

 不疑は落胆した。彼ほどの策士であっても、呂后に権力が集中することを止めることができないことに、である。陳平は、父に比べて過激な策士であったという印象が強かったのだが、それでも行き着く結果は同じであるということに、彼は現実の無慈悲さを感じた。

「どうにか、今すぐこの流れを変えることはできないものでしょうか」

「無理だ。急激な行動を起こせば、漢朝そのものが転覆する。呂后専横が予想されるとはいっても、それは支配者階級の問題だ。このことが民衆にまで影響すると、革命が起きて漢は滅ぶ。それを防ぐことこそが、我々の使命だ」

「……それでなり立つのであれば、結局誰が支配者でも構わない、ということではないでしょうか。劉姓を持つ者以外が最大の権力を持つことが許されるのであれば、黥布や韓信などの異姓諸侯王が滅ぼされた事実に矛盾します。このことをどうお考えなのでしょうか」

 陳平は不疑の思考が以外に深いことに関心を示した。彼は教え子を諭すような口調でこれに応じた。

「よいか。呂后は嫉妬深く、愛憎で天下を動かす傾向にあることは事実だ。しかし、功績がないわけではない。亡き皇帝陛下に天下を統一させたのは、限りなく呂后の助力によるところが大きいのだ。これを無視するわけにはいかぬ。呂后が異姓諸侯王を滅ぼした理由は、劉姓を持つ者に権力を与えるとする陛下の考えに準じたもので、決して国の意向に背いた行為ではない。ただ、その方法が残酷であったというだけだ。わかるか」

「しかし、呂后自身が劉姓を持つ者に取って代わってはいけないでしょう。あのお方は、太子を後ろ盾にしてそれを実現しようとしています。いつかは、諸侯王の座に呂姓を持つ者がつくのではないでしょうか」

「それも考えられることではある。だが受け入れなければならない。功績は正しく報われねばならず、太子はいずれ皇帝となる。そうなれば呂后は太后となり、実質的に国のすべてを動かすことができる存在となるのだ。我々が抵抗を試みれば、国が滅ぶ。漢朝が滅ぶのだ」

「では、呂后の死後にその名誉を失わせ、皇后や太后といった称号を剥ぎ取るというのですか。あなた方はいつもそのやり方だ。一度与えて、頃合いを見つけて剥ぎ取る。そのやり方で韓信も彭越も、黥布も死ぬこととなったのです。おかしいですよ」

 陳平はこの不疑の言葉に心を動かされたようであった。彼は、過去に韓信の失脚に手を貸した者の一人であったのだ。

「……私とて、他に方法があるならそれを選びたい。張不疑よ、君にはその方法が見えているというのか?」

 不疑は首を横に振った。

「……いいえ。どうにもできません」

 彼は、結局現状の行き詰まりの愚痴を陳平相手に訴えただけであった。

——この無力感……言いようもない。

 救いたいと思う者を救えず、滅ぼすべき者を滅ぼせぬ自分に腹をたてた。彭越や黥布の死を目の当たりにしながら、一方でそれを企てた呂后の権勢が増すことを許そうとしてる社会……それに吐き気を覚えた。

 陳平は呂后と審食其を諫めた人物を探すことを承知してくれたが、それだけであった。彼でさえも、この社会は変えられなかったのである。



 呉翏は斉国に入った。その首府は臨淄りんしであり、かつては淮陰侯が斉王として君臨した場所である。このときの王座には劉肥が座っていたが、呉翏は韓信時代の名残がないものかと城内を見回していた。

 しかし、それは意外なところに存在したのである。その正体は、宰相としてこの地に留まっている平陽侯曹参であった。

「貴女が、呉翏どのか。留侯から話は聞いている。淮南王の側室であったことは、ここでは私しか知らない。安心なされよ」

 曹参は劉邦が沛で旗揚げする前から行動を共にしてきた男で、蕭何や樊噲、夏侯嬰などとともに漢朝最古参の人物である。楚漢が相争ったときには主に武将として名を馳せた人物であったが、このときはすでに猛々しさはない。政治において調和を重視し、そのためか温和な表情が際立つ。

「平陽侯さまは淮陰侯さまがこの地を治めていた時代にも、この地で宰相を務めていらっしゃったと伺っております」

 曹参は嬉しそうな顔をした。

「その通りだ。しかし残念なことに、もう私にはそれについて話す相手がいない。昔話もできないことは寂しい限りだ、と思っていたところに貴女が現れた。淮陰侯のことは、ある程度黥布から話を聞いていることだろうが、彼がどんな男だったかを話して聞かせたい」

「興味があります。ぜひお聞きしたいです」

 曹参はさらに満足げな笑みを浮かべ、話し出した。

「……彼は私などよりとても若く、それでいて完成された人格を持つ、優れた武将だった。自分に厳しく、常に自己批判を続けている男であり、付け入る隙がなかった、と言えよう。だが、それは美点でもあると同時に、欠点にもなり得る。彼は自分がそういう男であったがために、他者にもそれを求める傾向があった。彼は、だらしがない者を人一倍嫌い、そのような自分をも嫌った。……これが具体的にどういうことかわかるだろうか」

「淮陰侯の性格としては、話はわかりますが……具体的にと言われるとどういうことかわかりません」

 曹参は苦笑いしながら、話を続けた。

「淮陰侯が嫌うだらしなさを持つ人物は、我々誰もが知っている人物だ。皇帝だよ」

 呉翏は、これをどう解釈してよいか戸惑ったようであった。

「でも、淮陰侯は分別があったお人だと伺っております。その気持ちを露骨に態度に表現することはなかったのではないですか? そうでなければ漢は楚に敗れていたと思われます」

「確かにそうだ。しかし、彼は我慢を続けていたのだ。彼の人生は、忍耐そのものだった。傍で見てきた私が言うのだから間違いない。彼は自身の輝かしい戦功によって王座を得たが、それはもともと彼自身が望んだものではない。逆に失ったものの方が多かった」

「何を……失ったのですか」

「人だ。無二の親友、信頼を置いた部下、敬愛した老人、そして……愛した女だ。彼はそれらを失った原因が、すべて皇帝にあることを理解していたが、長く続いた戦乱に決着をつけるため、それを耐え忍んだのだ。その結果、彼は皇帝を覇者たらしめた」

 呉翏は感心したように呟いた。

「そのようなお方が存命であれば、今の世は変わっていたかもしれませんね」

 曹参は頷きながら、

「そうだ。だが彼は呂后によって殺された。したがって我々は、彼に代わる人物を生み出さねばならない。呉翏よ、それが貴女の役目だ」

 と、強い口調で言い放った。呉翏は驚き、目を見張った。

「劉襄さまを……そのような人物に育て上げろと? ですが、私は劉襄さまにお会いしたこともありませんし、どのようなお方なのかもまったく存じ上げません」

「今のところ、彼には何もない。真っ白な存在で、何色にも染まる」

 曹参の言い方は非常に抽象的で、呉翏は戸惑いを隠すことができなかった。

「私は、亡き淮南王さまの仇を討ちたいと願っているのです。いったい、どうすればよいのでしょう」

 途方に暮れた様子で問う呉翏に、曹参は言い放った。

「正しく人を愛し、世を守ろうとする男に育て上げて欲しい。そうすれば、自ずから彼は自分が何をすべきかわかるようになるはずだ」

 曹参の言葉は、この時点でも非常に抽象的であった。よって、呉翏は実際に劉襄に会うまで、何も考えが浮かばなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

帝国の危機 野沢直樹 @nozawa-naoki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ