第8話 光の瞬きは死の象徴


 劉邦は死んではいないが、確実に傷を受けている。

「追い詰めれば、形勢を逆転できましょう」

 不疑は黥布を相手に言ったが、意外にもそれは否定された。

「皇帝が傷ついた今こそ、兵をまとめて長沙への道を採る絶好の機会だ。手負いである以上、皇帝も深追いはしないだろう。一気に殺せれば情勢は変化したかもしれないが、それが叶わなかった以上、態勢を立て直す機会を与えられただけで満足すべきだ」


 弱気になっているのかとも思われる発言に、不疑は驚いた。皇帝を仕留めさえすれば、ほぼ叛逆の目的は達せられるというのに……。

「皇帝を殺したあとに、自分が殺されては意味がない。灌嬰の部隊はほぼ無傷だ。あれに囲まれてしまっては、生きて帰れぬ」

 大きな獲物を前にして、勢いのまま行動する性急さは、黥布にはなかった。それがここまで生き延びてきた彼の流儀なのであろう。

 しかも皇帝が傷ついているとはいえ、情勢が黥布側に不利なことに変わりはない。陣営を整え、軍が淮水を渡り終えた頃に残った兵数は、わずか百余名に過ぎなかったのである。


「ずいぶんやられたな。予想以上の損害を受けた」

 黥布は叛逆が未然に終わったことを、このとき悟ったのかもしれない。彼が失った淮南の兵士たちは、いずれも人形などではなく、国元に親がいれば兄弟もおり、あるいは子がいるかもしれなかった。どれも人の子であり、あるいは人の親である。つまり、彼らの命は決して彼ら自身のものだけではないのである。それを失って悲しむ人々が必ずいるのだ。


「淮南の子弟三万を連れて、その大半を失った。彼らがあの世でわしを許してくれようとも、国元に残された父兄はわしのことを許しはしまい」

 黥布が嘆息まじりにそう語ると、不疑は何かを思い出したように口走った。

「そのお言葉……」

 不疑は数年前に、父親である張良から楚漢抗争のあらましを聞いた。そのなかで強く印象に残った話は、垓下の戦いで敗れた項羽が、追い詰められて烏江うこうにたどり着いたときのものである。


 烏江には船が一艘しかない。それを所有していたのが烏江の亭長であり、亭長は項羽の脱出を助けようと、彼に船に乗るように勧めたのだった。

(大王、早く船にお乗りになり、江東の地で再起をおはかりください。この近辺で船を持っているのは私だけです。漢軍が来ても、彼らには乗る船はありません。お急ぎを)

 しかし項羽はもはや追撃をかわしきれないことを悟ったのか、亭長の申し入れを断るのだった。

(君は、長者だな。わしははじめ江東の子弟八千人を引き連れてこの川を渡った……しかし、今その中で生きている者はひとりもいない。たとえそれでも江東の父兄がわしを哀れみ、王として迎えてくれたとしても……わしには彼らにあわせる顔がないのだ。また、彼らがわしのことを責めずに許してくれたとしても……わしはそれほど厚顔な男ではない。自分の心の中に恥を感じずにはおれぬ)


 亭長とのやりとりのなかで項羽が発した言葉は、今黥布が発した言葉とまるで同じ内容であった。これによって不疑は、黥布の運命に不安を覚えたのである。

「どうかしたか」

「いえ……何でもありません」


 黥布が生き延びるためには、朝廷の軍を打ち負かすほどの勢力を形成しなければななかった。謀反は失敗したらそれで終わりというものではなく、企てた者は執拗に追尾され、命を絶たれる。生き延びるには、最終的に謀反を成功させるしかないのである。

「不疑どの、わしに残された道は、長沙を足がかりとして越の勢力を結集させることしかないようだ。まだ、わしに付き合うつもりか」

「ええ、もう少し……」

「あらかじめ言っておくが、もはや危ないと感じたら躊躇ためらうことなく離れることだ。君の責務は後世に事実を伝えることであり、その重要性はわしも認識している。決して討死してはならぬ」

「はい……」

 不疑には思うところがあった。おそらく、黥布の敗北は免れない。そうであるならば彼がどのような最期を迎え、残された者たちが辿る運命をこの目に焼き付けたいと思っていたのだ。

「ご迷惑でなければ、まだご一緒させてください」

 彼は黥布と共に長沙への道を急いだ。従う者は百名足らず……諸侯王として栄華を極めた黥布の凋落ぶりは、誰の目にも明らかであった。



「流れ矢に当たるとは……このわしもやはり年老いたということか」

 額に流れる脂汗を拭いながら、劉邦は車上の台座に腰を下ろした。

「黥布の軍は、退いたか」

「そのようです。おそらく、もう危険はないでしょう。陛下は関中にお戻りになっても差し支えないと思います」

 問われた夏侯嬰は、そのように答えた。

「自信があるのだな。なぜ、そのように言える?」

 劉邦は傷の痛みに耐えながらも、口を止めることがない。

「酈商や灌嬰の軍に、黥布は散々に打ち負かされ、残る兵数は百名程度に過ぎません。彼はどこか他の地で再起を図るしかないでしょう。そのためには、頼れる人物を探すしか方法がありません」

「それはそうだろう。しかしそれが成功したらどうするのだ」

 夏侯嬰はこの問いに対して断言した。

「成功はしません」

「なぜだ」

「もはや、黥布が頼るべき人物はこの世に存在しません。韓信と彭越のどちらかが生きていたなら王朝の安泰は損なわれたでしょうが……残った諸侯たちは陛下を裏切ったりしますまい。それでも黥布は誰かを頼るでしょうが、おそらく頼られた側はそれを迷惑に感じることでしょう。それが誰になるかまではわかりませんが、その人物がこの騒動に決着をつけることになると思います」

 劉邦は、夏侯嬰の読みの深さに感心した。

「お前にしては、含蓄のある言葉だ。希望的観測に過ぎないことを祈るが……いずれにしても今のわしには前線を支えきれない。長安に退くしかないが、黥布の動きには注意しておけよ……それにしてもあいつめ」

「どうしたのですか」

「よりにもよって、自分が皇帝になりたいから叛逆したのだとほざきおった。これほどあからさまに不遜な態度をとった人物など、他にあろうか……。やはりわしが生きているうちに、あのような男は滅ぼさねばならぬ。そうでなければ、わしはおちおち死んでいられん」


 確かに、黥布の挙兵は時期尚早であった。太子を廃嫡しようとするなど、劉邦が後継者を明確に定めることが出来ずにいることを知りながら……。黥布は劉邦の死を待つべきだったのである。



 舞陽侯樊噲ぶようこうはんかいは劉邦と同じく沛県の出身で、秦末に兵を挙げる以前からの臣下である。しかし、当時の彼は犬の屠殺を生業とする立場に過ぎなかった。体が大きく、力があったので主に劉邦の乗る戦車に陪乗し、長くその護衛を任務としてきたが、彼が決定的な評価を得たのは鴻門こうもんで項羽を相手に見栄を切った一件であろう。俗に「鴻門の会」と呼ばれる出来事である。

 宴会の席で剣舞を披露した項羽の従兄弟が、隙を見て劉邦を刺そうとする。それに危機を感じて防御しようとしたのが項羽の伯父であった。この伯父は張良と縁があり、そのため楚に属していながら劉邦を守ろうとしたのである。

 劉邦は二人の剣舞を鑑賞しながらも、恐怖のあまり声も出ない。一方項羽はこれを静観しているのみであった。そのようなとき、舞台に乱入したのが他ならぬ樊噲であった。

(将軍は功ある沛公に恩賞を与えないばかりか、小人の中傷を真に受け、沛公を殺そうとしている。将軍は間違っておりますぞ。……私がこんなことを言えるのは他でもない。……死を恐れぬからだ)

 樊噲は突如現れ、項羽に苦言を呈した。それに男気を感じたのだろう、項羽はこれを逆に喜んだという。

(ううむ! これこそ壮士。酒を与えよ!)

 項羽はそう言い、盃になみなみと注いだ酒を樊噲に与え、さらには豚の肩肉まで供したのである。

 項羽はこの会の最中、劉邦が必死になって臣従を誓ったため、すでに心の中で殺すことをやめていた、と言われている。しかし腹心である范増が諦めなかったため、樊噲の登場を喜んだのである。しかし劉邦は樊噲が項羽に苦言を呈している間に、厠に立つと称してこの場を遁走したのだった。


 その樊噲は、劉邦が黥布討伐から長安に帰還したとほぼ同じ時期に、やはり長安に帰還していた。彼の任務は、北の地で叛乱を起こしている陳豨の討伐であった。

 樊噲の軍は霊丘れいきゅうで陳豨を捕らえ、ついに斬った。ここに淮陰侯韓信が企図した謀反は終結を迎えたのである。樊噲は意気揚々と皇帝の元を訪れた。

 しかし宮殿の皇帝の間は衛兵によって入り口を塞がれ、誰の入室も許可していないという。樊噲はその入り口で穎陰侯灌嬰と出くわした。

「灌嬰、そこで何をしているのだ」

 彼らはともに列侯であり、身分上は同格だが樊噲の方が年長である。また、樊噲は呂后の妹である呂須を妻としており、古参の将軍たちの中でも第一人者の地位を得ている。よって、灌嬰は彼に対してへりくだった物言いをした。

「舞陽侯どの……。実を申しますと、陛下は黥布の討伐中に、運悪く流れ矢に当たってしまい、療養中なのです。ですが私の見たところ、今すぐお命に関わるようなお怪我ではないと……しかし陛下は誰にも入室を許可しておりません。ちょっと様子を見に伺ったのですが、この私も門前払いされる始末でして……」

「なんだと。この大事なときに……。どうしてもお会いしなくてはならない。ぜひとも伝えたい用事があるのだ」

 樊噲はそう言うと、制止する衛兵を一喝し、力任せに扉を開いた。その姿は、かつて彼が幔幕を斬り破いて項羽の面前に立った姿を連想させた。


 その度胸の良さに舌を巻いた灌嬰であったが、開いた扉の向こうに見える光景は、彼を落胆させるものであった。その思いは、樊噲も同じであったらしい。劉邦は、宦官の膝に頭をもたげて、だらしなく横になっていたのだ。

「我がお上……なんという情けないお姿か」

 挙兵前からの間柄である樊噲だからこそ言えた台詞であろう。彼は目に涙を浮かべながら皇帝を相手に説教するのだった。

「旗揚げした頃のあなたは勇ましかった。だが今のそのぐったりとした姿はなんですか。だいたい陛下が怪我をなされて大臣たちは心配のあまり何も手に付かない有様だというのに、我々とは何の相談もせず……ただ一人の宦官とだけ長い別れ話をするのですか」

「わかったわい」

 劉邦は苦笑いして起き上がると、樊噲に座るよう命じた。

「そこまで言うとは、何か重要な話でもあるのか。言っておくが、陳豨を斬ったことはすでに聞いておる。改めて報告を聞くまでもないぞ」

 陳豨をついに討ったことは賞賛されるべき戦果であるはずなのに、皇帝の言葉はあまりにも素っ気ない。しかし、このとき樊噲はそのことに気付かないほど、事態を憂慮していたのだった。


「陛下、実はそれとは別なことで報告があります。陳豨の副将を捕虜として受け入れたときに仕入れた情報なのですが……燕王盧綰えんおうろわんが自身の使者である笵斉はんせいを陳豨のもとに送り、常に連絡を取り続けていたとのことです。陳豨の討伐がこれほど長引いたのは、匈奴と結託した陳豨を、裏で燕王が援助していたからだと思われます。匈奴に漢軍の情報を流していたのではないか、と」

 劉邦はその報告の重大さに驚愕した。

「なんと、盧綰が……」

 それきり絶句した。盧綰は劉邦と同じ沛の街で、同じ年、同じ日に生まれた彼にとっての親友であった。それゆえ燕国の王に封じたのだが、そのような人物でさえも裏切るとは、彼にとって衝撃の事実であったことだろう。

「確かなのか」

 問われた樊噲は、頷きながら答えた。

「捕虜の言うことではありますが、おそらく」

 正しい情報だ、と言うのである。確かに、劉邦は宦官の膝を枕になどして寝ている場合ではなかった。

「審食其に命じて燕王を長安に召喚させよう。その首尾次第では、樊噲……出動だ。燕を、盧綰を討て」


 このやりとりを一歩下がった位置から見ていた灌嬰は、思ったという。

——国がひとつになったというのに戦争のないまともな日々は、一日たりともない。そういえば、誰かが言った。「戦乱が終われば、内乱が起きる」と……確かそのような言葉だったと思うが……。



 辟陽侯審食其は御史大夫の趙堯ちょうぎょうを伴って燕国を訪れたが、盧綰は病と称して姿を現さなかった。しかし彼らは諦めず、盧綰の側近を取り調べ、造反の証拠を探り出そうとした。これによって盧綰はますます宮殿の奥に引きこもり、することと言えば、寵臣を相手に愚痴をこぼすことだけであった。

「建国当初は七名もいた諸侯王が、今ではこの私と長沙王のみとなった。……黥布と張敖は王位を剥奪され、韓信と彭越は殺された。韓王信は匈奴の捕虜となり、この流れからは私も逃れられないだろう。しかしこれらの施策……特に韓信と彭越が殺されたことに関しては、呂后が中心になって行ったものだ。陛下は体調が悪く、今は政治を呂后に任せきりにしている。呂后はあのような女だから、口実さえあれば異姓の王や大功臣を滅ぼそうとしているのだ」

 さすがに皇帝をあからさまに批判することはしない盧綰であった。それは臣下としての礼儀か、それとも親友としての節度か。単に勇気がなかったからだと評する者もいるが、それは正しいかもしれない。盧綰は、黥布のように開き直った態度をとることが出来なかったのである。


 彼は朝廷の調査に、最後まで知らぬふりを決め込んだ。決して姿を現すことなく、かといって武力を用いて追い返すこともしない。その彼の態度が事態を長引かせた。臣下たちも極力口を塞いでいたが、それでもある程度の情報が彼らの口から漏れたのである。

 審食其はこれらの状況を踏まえ、ついに判断を下した。姿を現そうとしない盧綰の態度こそが、裏切りの証であると。彼はこれを皇帝に報告し、断罪の必要性を訴えたのである。

「盧綰は、やはり裏切ったのだな」

 劉邦は腹をたてていた。しかしその言葉を発した表情には、一抹の寂しさが浮かんでいる。審食其は気付いたが、あえてそのことに言及しなかった。

「燕王盧綰の件については、お后さまも気になさっておられる様子です。帝室の安泰のために、断固たる処置をお命じください」

——后の犬め。

 審食其の物言いに機嫌を損ねた劉邦であったが、もはや盧綰をかばい立てする理由も見つからない。樊噲に出動を命じるほか、皇帝としてとるべき行動はなかった。


「ご下命を受けたぞ! 我々は燕に急行する」

 兵を励まし、威風堂々遠征を始めた樊噲には、意外な落とし穴が待っていた。

 樊噲にとって、呂后の妹である呂須を妻としていたことが、自身の足枷となった。当時から呂后の専横に眉をひそめている者は多く存在したが、運悪く樊噲はそのとばっちりを受けることとなったのである。

「このまま燕王が斬られることになれば、陛下はもっとも仲睦まじく暮らした幼馴染みを失うことになり、その思いはあたかも片足を失うようなものになりましょう。その一方で樊噲は功績を挙げることになり、呂后がこれを利用しないはずがありません。まして陛下は現在、病に加えて矢傷も受けておられます。もしお隠れになるようなことになれば、樊噲は兵を挙げて戚姫や趙王如意さまを亡き者にするつもりです」

 ある者が放った讒言の一部である。

「まことか」

 劉邦はその真偽を疑うような問いを発したが、即座にこれに反応した。樊噲の盧綰討伐の任を解き、周勃をこれに替えた。さらに陳平をこれと同道させ、樊噲を斬るよう命令したのである。


——危うい……。陛下はもはや、危うすぎる。

 太子の少傅として長安に滞在していた張良は、このとき頭を抱えた。皇帝の判断力は異常を来し、突拍子もない命令が発せられる。彼は出立前の陳平を捕まえ、その意図を質した。

「陳平どの。どうするのだ。まさか本当に樊噲を斬るおつもりか」

 問われた陳平は、一瞬の間を置いて答えた。言葉を選んでいるかのようであった。

「子房どの。お上は、錯乱しておられる。この私に樊噲を斬れるはずもない。今回は、命令に従えないな」

「命令に背く、ということか? しかしそれは危険だ。君の身が危うくなるだろう」

「周勃どのには、命令通り樊噲と交替してもらい、燕への遠征に向かってもらう。樊噲は殺さず、その身を確保するにとどめるつもりだ。私が見るに……お上の命はもう長くはない。樊噲の身を確保して長安に帰還するまでに、状況が変わることを祈っているのだ」

「それはつまり、帰還するまでに陛下が崩御すると見込んでいるのか。私は構わないが、聞く相手によっては、不敬罪だと騒ぎ立てるような発言だぞ」

「だから子房どのにだけ話しているのだ。どうか、私が不在の間に問題を解決して欲しい。太子廃嫡の件も、戚姫や如意さまの件もだ。陛下が死後も名君であったといわれるように、丸く収めて欲しいのだ。手段は講じているのだろう? 年若い辟彊へききょうを私のところによこしたくらいなのだから」

 張良はため息とともに、苦笑いした。この男にして、かなり珍しいことである。

「君の話はよくわかった。この上は、主上ご自身がその考えを改めるよう、手を回そう。君には、辟彊のことをよろしく頼む」

 張良は、留侯となって中央の政治から引退したつもりでいたが、情勢は彼にそれを許さないのであった。


 かくて陳平と周勃は樊噲を追って旅立ち、張良は行動を開始した。劉邦は相変わらず太子を廃嫡しようとし、その決意を周囲に話すことを憚らなかった。そこで張良は太傅である叔孫通と話し合い、皇帝を説得する段取りを整えた。

 その説得はかなり激しいものであり、同席した者の心を少なからず揺さぶるものであった。叔孫通は儒者であり、物事の道理には厳しい。劉邦が心の趣くままに太子をその座から引きずり下ろそうとすることを、以前から快く思っていなかったのである。


「……春秋の昔、晋国の献公は愛妾驪姫りきを想うばかり、太子を廃して驪姫との間に生まれた息子をたてました。しかしそのために晋国の混乱は数十年も続き、天下の笑いものとなったのです。また始皇帝は早いうちに太子を扶蘇ふそと定めていなかったため、宦官趙高によって遺言書を偽造され、胡亥こがいが即位することとなりました。これが秦の滅亡につながったことは、陛下も実際に体験なされたことのはずです」

「うむ」

「そもそも太子さまは仁徳あり、孝行でいらっしゃいます。このことは天下の者すべてが存じ上げていることで、否定する者は誰もおりますまい。また呂后さまはずっと陛下とともに艱難辛苦を味わってきており、そのことに背を向けることが良いことなのか、私には疑問です。陛下がそれでもご嫡男を廃し、年下の如意さまをお立てになりたいというのであれば……どうか私を先にお斬りください。私の首の血で地面を赤く染めましょう」

 叔孫通は太子の守り役だということもあり、完全に情が移っていたのだろう。太子のためならば自分は死ぬ、と言っているのであった。



「わかったからもうそれ以上言うな。太子を廃嫡するというのは、ほんの冗談だ」

 叔孫通の勢いを煙に巻こうとして吐いた劉邦の言葉であったが、彼はまだそれに噛みつくのであった。

「太子というものは天下の根本であります。根本が少しでも揺らぐと、天下は震動します。どうして天下を冗談の種になさいますか!」

 劉邦は心底辟易した様子で答えた。

「君の言うとおりにするよ」


 張良と叔孫通は視線を交わし合った。良い流れになりつつある、と確認しあったのである。しかし呂后よりも戚姫を愛する心の強い皇帝のことである。おそらく諦めはしないだろうと考えた張良は、さらに策を加えた。


 数日後に酒宴が催されることになり、太子もその席に呼ばれることになっていた。そこで張良は、建成侯呂沢に会って一つの要請をしたのである。

「あの四人を? 酒宴に呼べというのか。招待があったのか」

「そうではない。陛下は彼らの存在を把握しておらぬ。太子に親しくはべっている連中が、かの四名であるとは夢にも思わぬはずだ。太子が世嗣としての立場を確立するには、これが最後の機会であると言えよう」


 酒宴の席ではかの四名が太子の後ろに従っていた。いわゆる商山の四皓である。いずれも年は八十を超え、髭・眉とも真っ白であり、それが清廉さを際立たせている。衣冠も注意深く整えられており、彼らがいる空間には、一種の霊気が宿っているように見えた。いわゆる仙人の霊気である。

 劉邦は、彼らの醸し出す雰囲気に興味を引かれ、周囲に問いただした。

「彼らはいったい、何をしている者か?」

 するとその四名は進み出て、それぞれに自分の姓名を答えた。

「東園公」

「甪里先生」

「綺里季」

「夏黄公」

 劉邦はこれに大いに驚いた。

「わし、いや朕は数年そなたたちを探していたというのに、そなたたちは朕を避けておられた。いま、そなたたちはどういうわけで太子に従っているのか」

 四人はそれぞれ異口同音に答えた。

「陛下は士を軽んじ、よく人を罵られますが、私らは義としてそうした恥辱を受け入れられません。それゆえ、恐れて隠れていたのです。しかし密かに聞きましたところ、太子は生まれつき仁孝恭敬で士を愛し、天下には太子のために死ぬのを本望としない者がいないとか。それゆえ我々は山を下りてここに参ったのです」

 劉邦はこれにぐうの音も出なかった。しかし彼は皇帝らしく威厳を保ち、どうにか次のような言葉を発してみせたのである。

「そなたたちを煩わすが、どうか最後まで太子を護り助けてやって欲しい」

 皇帝は四人が自分の長寿を祝福して立ち去る姿を見送ったが、その目はどこかうつろであり、立ち姿はまるで敗残者のようなものであった。

 やがて劉邦は、戚姫を呼びつけた。

「見よ」

 彼は四人の後ろ姿を指さしながら、

「朕は太子を替えようと思っていたが、すでにかの四人が太子を補佐している。すでに羽翼が整ってしまっていては、どうにもならぬ」

 と、諭すように言った。

「それでは……?」

 戚姫は悪い予感がしたのだろう。青ざめた顔色でその真意を問いただした。

 劉邦は答える。

「うむ。……呂后はまさしくそちの主人であるぞ」

 これを聞き、戚姫は泣き崩れた。彼女は、天下を統べる権勢を欲したわけではなく、もっとも皇帝から愛されたという証が欲しかっただけであった。それが正室の座であり、太子の母という地位であったのだ。

「わしのために楚舞を舞うてくれ。わしはそちのために楚歌をうたおう」


鴻鴈高飛,一舉千里。(鴻鵠こうこく高く飛んで、一挙に千里)

羽翮已就,橫絕四海。(羽翼すでに就って、四海を横絶す)

橫絕四海,當可奈何。(四海を横絶すれば、当に如何すべき)

雖有矰繳,尚安所施。(矰繳いぐるみあれど、何処に施さん)

            注:「矰繳」は狩猟用に糸をつけた矢で射る弓のこと


 戚姫は涙を流し、人前も構わず大いに泣いた。皇帝劉邦は酒をやめ、そのまま席を立った。この二人が、実質的に呂后の膝元に屈した瞬間である。その受け止め方も人によって様々であった。


 酒宴の席に参加していた穎陰侯灌嬰は、張良の傍にやって来て耳打ちするように尋ねた。

「子房どの。すべてあなたの講じた策なのでしょう? これでよかったのでしょうか」

「穎陰侯どのか。よかったかと問われれば、よかったと答えるしかない。少なくともこれで太子が廃嫡される危険はなくなった」

「太子が廃されることは、やはり危険ですか。それは、やはり道理の問題でしょうか」

 問われた張良は、首を振って強くそれを否定した。

「いや、違う。そんなことではない」

「では、どのような問題が……? 正直なところ、私は太子を廃することで呂后の権勢を抑えることが出来たら、それはそれで結構なことではないかと思っていました。なぜなら、淮陰侯が亡くなったのも、彭越が殺されたのも、黥布が叛乱を起こしたのも、すべて呂后が起因しているからです」

「それはそうだ。しかし、現在の状況で太子の身分を剥奪したとして、呂后が黙ってそれを眺めているはずがあるまい。おそらく国を二分する戦争となってしまう。私は、ただその危険を除こうとしただけだ」

「しかし、呂后はこれで権勢を強めてしまいます。陛下がいるからこそ、まだ表面上はしおらしい態度をとってはおりますが……正直に申せば、陛下の御寿命はあと僅かだ。そのあとのことを考えると……」

「言いたいことはわかる。君は淮陰侯に憧憬していたから、彼を殺した呂后を恨んでいるのだろう。そして同じようなことが陛下の死後に起きるはずだと危惧している。確かにそうだ。功臣の誰もが死の危険に怯える日々が待っているかもしれない。だが、それには耐えなければなるまいよ。これ以上民衆を戦いに巻き込むわけにはいかぬ。太子を廃嫡してしまえば、戦いは必ず起きてしまうのだから……」

 張良の返答は、直面する危機への対応を前提としており、王朝の理想を追求したものではなかった。灌嬰はこの点に満足がいかないようであった。

「あまり聞いていて釈然としない話ですな。私は、子房どのが仰るとおり、呂后を憎んでいます。いつか、淮陰侯の仇をとってやろうと思っているのですよ。望ましくない人物が国政を握るということに、子房どのは抵抗を感じないのですか?」

「だから、耐えろと言っているではないか。私もささやかなことながら、将来に向けて対策はしてあるのだ。つまり……私の息子たちが将来訪れるであろう呂后の治世の実態を暴くべく活動中だ。我々が生きている間は無理だろうが、必ずや後世の人物が実態を明らかにしてくれる。そのとき、彼女は名誉を失うだろう」

「気の長い話ですな。私は淮陰侯の仇を討てないのですか……」

 灌嬰は嘆息して立ち去った。やはり彼は武人であり、策謀家ではなかった。対して張良は武人ではなく策謀家であったため、次のように思ったのである。

——無心で理想を追求できればどれだけ楽なことか。

 と。



 黥布はついに長沙へたどり着いた。百余名の部下を引き連れ、雄々しい姿を維持していたが、実際は落ち武者であることに変わりはない。しかし思ったほど、彼に悲壮感はなかった。

「負けるときは、潔く結果を認めることが大事だ。再起を期すためにはな」

 口ではそのように黥布は言う。しかし本当に再起を期す意思があるかどうかは、定かではなかった。おそらく、本人にもわからなかったに違いない。

「この先どうするか……」

 何気なく放たれたそのつぶやきに、不疑は事の重大さを感じた。黥布は口でこそ再起を期すと言いながら、この時点での見通しが立っていない。長沙への入国は、彼自身の命をつなぎ止めるための逃避行に過ぎなかったのである。しかし見方を変えれば、逃れる場所があるだけ、将来に希望が持てるということである。


 しかし問題は、この長沙国が黥布にとって安住の地になり得るかどうかであった。初代長沙王である呉芮が存命であれば、希望はあったかもしれない。しかしすでに息子の呉臣がその後を継いでいる現在では、対応は異なるだろう。異姓王でありながら、朝廷からその権利を認められている立場とあっては、みだりに朝廷と対立する要素となる人物を匿おうとは思うまい。呉臣は関わり合うことを嫌がるのではなかろうか……不疑は言葉にはしなかったが、このときそう感じた。


「呉芮どのが生きていれば、このわしを死んだものとして匿おうとしただろう。罪人の顔に刺青を施したうえでその首を斬り落とし、証拠を偽造するのだ。息子の呉臣がそこまでしてくれれば助かるが……わしとしてはひとまず保護をしてもらい、越へ入国する道を確保してもらえればそれでいいと思っている」

 呉臣には多くを求めず、次にたどり着く地を紹介してくれればよい、と黥布は言う。

「越で兵を募り、勢力を拡大して……という段取りですか」

 そう上手くいくのか、と問い返したい気持ちを不疑は抑えた。

「不疑どのは、危うくなったら逃げればよい。この先のことを心配する必要はないのだ。わしが死んだら、それまでのことだ。貴公はそれを記憶にとどめさえすればよい」

 確かに不疑の務めは記録であり、観察であった。彼がすべきことは、剣をとって黥布を護ることでも、皇帝に直訴することでもなかった。皇帝や呂后が行った政治的手段によって、誰がどのような運命を迎えたか……それを後世に正しく伝えるための記録を残さねばならなかったのである。

「長沙王呉臣がどのように我々を扱ったかも、忘れずにな」

 黥布はそう言い残して先へ進んだ。彼はすでに自分の迎える死の運命を、逃れられないものとして意識していたようであった。


 呉臣は確かに黥布の義弟おとうとであり、初見の際には黥布を「義兄あに」と呼んだ。押しかけるように訪問した淮南軍に対して迷惑そうな表情も見せず、長旅を終えた兵たちに食事までも振る舞った。

 その呉臣は言う。

義兄君あにぎみ。今回は、他に道がなかったとはいえ、思い切りましたな。皇帝陛下を相手に一戦交えるとは……」

「今の状況でその勇気がある人物はわしを置いて他にあるまい。朝廷にはいい薬になっただろうよ」

 まさに黥布の言いたいことは、このひと言に表れているのではなかろうか。しかし、呉臣はこの言葉によい反応を示さなかった。

「しかし、ことはそれで終わるはずがない。義兄君を朝廷が許すことはないでしょう。つまり義兄君はこれから先の一生を、逃亡者として過ごすことになります。その覚悟がおありか」

 呉臣の問いは至極まっとうなものであり、特に黥布を傷つけるような不遜さを示したものでもなかったが、黥布はこれに明確な返答を与えることを避けた。

「今の時点ではよくわからぬ。しかし、お上は戦場で弓矢を腹に受けた。年老いているわけだし、もう先は長くあるまい。お上さえいなくなれば、形勢を逆転することはいくらでも可能だろう」

 黥布は時勢が好転するまで待つつもりだというのである。だが、待ったところで時勢が黥布の思うように変化するとは限らない。しかも皇帝がこのまま死を迎えるとは限らなかった。

「かつて皇帝陛下は広武山の谷を挟んで項羽と対陣していたことがありまして、その漢側の陣営に私も属していたことがあるのです。その際、陛下は項羽によって放たれたの直撃を受けて、卒倒なされました」

 呉臣は突然昔話を始めた。不疑などにとっては興味深い話ではあるが、直接の関係はなさそうな話題である。黥布は気乗りしない調子で先を促した。

「ああ、そのようなことは確かにあったようだな」

「矢は陛下の左胸に深く突き刺さっていました。しかし陛下はそれを自ら引き抜くと、兵たちに向かって『足の親指にあたった』と説明されたのです。服には血がにじみ、額には脂汗が浮かんでいました。にもかかわらず陛下は気丈に振る舞い、漢は楚に勝利したのです」

「……何が言いたいのだ」

「義兄君。あの方は、死にはしません。それこそ不死身ですよ」

「何を言う。実際に年をとっているし、体調も崩し気味だ」

「たとえ体が衰えたとしても、その魂は生き続けましょう。言い換えれば、陛下がお亡くなりになっても、その意を継いだ者たちが、漢という王朝を護っていく……おそらくその流れは変えられません」

「では、わしはどうするべきか。義弟よ、お前はわしにどうせよと言うのだ」

 黥布の表情が厳しいものに変わった。怒りを宿しているのか、目元の刺青が燃えるように浮かび上がった。

「私に出来ることは、王朝の支配が及ばない地域に義兄君をお連れすることだけです。すなわち……諸民族が混在する越に義兄君をお連れして、そこでの再起を期待するばかりです」

「まるで厄介払いだな」

「とんでもない。……今の私には、これが義兄君にしてあげられる最大限の融通です。この長沙国に義兄君を匿ったとしたら、義兄君も私も朝廷に滅ぼされます。長沙は異姓ながら朝廷に存続を認められた諸侯国なので、独自の軍隊はそれほど多くない。認められている以上、自衛の必要性がないからです」

「…………」

「お考えください。義兄君はまだ朝廷に反撃できる兵数を整えてはおりません。その間は朝廷の捜索の網をかいくぐって、逃げ延びねばならないのです。ここにいては捕まるだけです。匿った私も命の保証がありません。淮陰侯韓信と楚将鍾離昧の話はご存じでしょう?」

「……知っている」

 韓信は、垓下の戦いで楚を討ち破り、項羽を敗滅させたのち、将軍鍾離昧を自身の屋敷に匿った。二人は幼少期からの知り合いであり、韓信は自身の立場を省みず、義を重んじて鍾離昧を匿ったのである。しかし結果は悲劇であった。立場の違いが二人の関係性を微妙に歪め、鍾離昧は自刎し、韓信は逮捕されて王号を剥奪されたのであった。

「無理を言うつもりはない。越に至れば状況が改善するというのであれば、その申し出に従おう。……韓信は自刎した鍾離昧の首を持って皇帝のもとを訪れたが、それでも逮捕されたのだ。義弟よ、そのことも忘れずにな」

 黥布は、凄みを含んだ口ぶりでそう言い加えた。かくして淮南軍の生き残り部隊は、越の山中に向かうこととなったのである。



「都では」

 道中呉臣は言う。どうやら彼に黥布を裏切る気持ちはなく、越への道のりを共にするつもりらしい。

「燕王盧綰が謀反して、現在討伐の軍が向かっているとのことです。……これでかつて七名も存在した異姓の諸侯王は、ついに私ひとりだけになりました」

「燕王が謀反……どのような?」

 馬上の黥布は、訝しげにこれに問い返した。

「陳豨の叛乱に乗じて、漢の防衛体制の情報を匈奴に提供していたようです。それによって戦いは決着が付かず、鎮圧に相当の時間がかかったと」

 黥布はこれを笑い飛ばした。

「そんなものは、謀反とは言わぬ。燕王も実に小さな罪で爵位を失ったものだ」

 呉臣はそれを真顔で受け止めた。彼としては笑い事ではないと言いたいのだろう。

「異姓の諸侯王とは、ほんの小さな罪でも廃位される立場なのです。どうか義兄君にも、そのことをわかっていただきたい」

「苦労が絶えぬ、と言うのか。しかし義弟よ、お前はその最後のひとりとなった。しかもその立場は保証されている。これがなぜかわかるか」

 呉臣はこれを黥布が自分を賞賛している言葉と感じ、誇らしげに答えた。

「さあ、手前などにはわかりませぬな」

「何もしなかったからだ」

 胸を張る呉臣に、黥布は冷たく言い放った。しかし、その真意がわからない呉臣は自己賛美をやめない。

「本来ならば、朝廷は諸侯に王などを称させず、すべての土地を直轄の郡として治めたいところなのです。だがそれには莫大な予算がかかる。つまり民衆に課される税が増えることになるわけです。郡国制とはこれを抑えるために考えられた非常によくできた制度なのですが、その意義を正しく理解している者は、あまりいないでしょうな。もしかしたら皆無かもしれない」

「……郡国制とは」

 黥布はやや考えながらこれに答えた。その口調には大いに不満が含まれていた。

「民衆を守ると同時に、功臣を滅ぼすのに都合のよい制度さ。行儀よく朝廷に尽くしてきたお前のもとには、彭越の肉は届けられなかっただろうな」

「彭越の肉? なんのことですか」

「呂后は彭越に謀反の罪を着せて殺し、その肉を塩漬けの燻製にして諸侯に配ったのだ。これが我慢できることか。あの女め……。しかしわしは結局あの女の思い通りに踊らされてしまい、武力による謀反に踏み切ってしまった。我ながら浅はかだったとは思うが……しかし後悔はしていない。あのような仕打ちの前に黙って従うことこそ、仁義に反する」

 確かにあの一件さえなければ、黥布の蜂起はなかったと思われる。呉翏と賁赫の問題に対しても、より柔軟に対応していたはずだった。何よりも呂后は罪深い存在であり、黥布にとっては許すべき人物ではなかった。

「義弟よ、お前が行儀よく従っている帝室というものは、そういう存在だ。確かにお前にはないかもしれぬが、わしには叛くべき理由があるのだ」

 黥布はそう主張したが、呉臣にそれが伝わったかどうかは定かでない。結局、帝室に対する思いは人それぞれであり、与えられた立場によって感じ方も違うのである。呉臣は、明らかに自らの立場を維持しようとしており、そのため帝室に従順であった。一方黥布はすでに臣従の態度を捨て去っている。二人が協力し合う事など、どだい無理な話であったのだ。


「不疑どの」

 黥布は、兵の中に隠れるようにして従軍していた不疑を呼び寄せた。そして耳打ちするように声を潜めて話し始める。馬上のことであったので、聞き取りにくい。

「呉臣とは……どうも意見が合いそうにもない。わしは、おそらく越に入る前に消されるだろう」

「は?」

「そのとき、貴公は密かに森を抜けて危地を脱するのだ。貴公が生き延びなければ、わしは安心して死ぬことも出来ぬ」

「…………」

「わしは子房どのから貴公を預けられただけで、貴公はわしの部下というわけではないが、これまで面倒を見てきたつもりだ。そこで最後に一つだけ任務を与えたいと思うが、いいだろうな」

「……はい」

「わしの死を確認したら、りくに残してきた呉翏の保護を頼みたい。淮南の地ももはや危険であるから、どこか安全だと思われる場所に逃がしてやってくれ」

「心得ました……しかし」

 黥布は自らの死期を悟ったというのだろうか。それにしても不疑は突然のことでどう言葉を返すべきか悩んだのである。やっとのことで口をついた言葉が、以下のようであった。


「呉翏さまには、どう説明すればよいのですか」


 黥布は、このとき笑ったようであった。顔に刻まれた黒い縞の刺青が微妙に形を歪めたのである。

「あの者には、ただ黥布は死んだとだけ伝えて貰えればいい。また、ありもしない浮気を疑った罰が下った、と付け加えておくがいいだろう」

「そのような……ご冗談でしょう」

「あながち冗談とも言えない。意外に人の運命というものは、そういったところで定められるのかもしれないぞ」

 これは黥布の最後の主張なのかもしれなかった。謀反に失敗したから滅びるのではなく、あくまで個人的な理由で死を迎えるのだと……呂后の挑発に乗せられて兵を挙げ、それが故に滅びたとは認めたくないらしい。……しかしそれはすべて不疑の推測でしかなかった。


「無論、実際にそのような場面になったら抵抗はする。しかし、この状況ではそれもままならないだろう」

 呉臣は、すでに手を回しているのかもしれなかった。一行は鄱陽湖はようこに向かっているらしく、その一帯は、かつて番君はくんと言われた呉芮の本拠である。父親の本拠であれば、息子である呉臣の顔も利くに違いなく、不疑にはそれが良いことにも、悪いことにも思われた。


 ところが呉臣は一行を目的地まで案内することなく、使者にそれを引き継いで自分は帰ると言い出した。

「あまり首府を留守にするわけにも参りませぬ。また、義兄君と一緒に行動していることが明るみに出ると、お互いの安全のためによろしくありませんので、私はこれで失礼しようと思います」

 もはや黥布はこれに対して反問もしなかった。

「よかろう。これまでの善処を感謝する」

 おそらく裏に意図があると感づいていながら、詮索しようとはしない黥布であった。

「鄱陽まで至れば、とりあえずは安全です。しばらくは行動を慎重になさってください。勢力を拡大するのも状況が落ち着いてから……」

「わかっている」

 やがて呉臣はその場を後にし、長沙の首府である臨湘りんしょうへと引き返した。それまで随伴していた部下たちの大半を連れ帰り、自らの護衛としたが、彼はその連中に鄱陽への先回りを命じたのである。



「鄱陽近辺の民家を数軒接収して、彼らを宿泊させるのだ。そこで盗賊を装い、彼らの武具や馬をすべて奪うよう手配せよ。報償は充分に用意する」

 呉臣は部下にそのように指示した。彼の本心は、黥布を文字通りの平民とすることであった。

「気付かれて抵抗された場合は、どうすれば良いのでしょう」

「その場合は……」

 部下の質問に呉臣はやや言葉を詰まらせたが、やがて答えた。

「殺してしまえ」


 部下たちはしばらくの間それに答えることが出来ず、身を固くするばかりであった。

「返事はどうしたか」

 結局、呉臣にとって義理の兄弟の存在など迷惑なだけなのである。朝廷に特例として存在を許された異姓諸侯国……それを治めるためには、反逆者の親類などがいてはならなかった。部下たちは、自分たちの王の真意を初めて知ったのである。

「民を買収し、必ずや成功させます」

「うむ」

 信じられないことではあるが、これが呉臣にとっての正義だった。


 黥布は、もはや自身の運命を逃れられないものとして受け止めていたようであった。鄱陽が呉芮ゆかりの土地だということを思い出しては、感慨に浸っている。

「寿春や六もいいが、鄱陽湖も良いところだな。昔呉芮どのから話には聞いていたが、この湖には海豚イルカが住んでいるらしい。冬には渡り鳥が多く飛来するそうだ」

「淮南王さま、今そのように呑気なお話しを……」


 不疑はどう取り合って良いのかわからずに将来の話をしようとしたが、黥布はそれを遮った。

「わしはすでに淮南王ではない。思い切って叛旗を振りかざしたのだから、もうそのような呼び名でわしのことを呼ぶのは、やめてほしいものだ。……おそらくこの鄱陽湖付近で、今夜は一泊することになるだろう。しかし、不疑どのは泊まるな。わしらが宿営したのを確認したら、ひとり脱出して淮南へ逃れてくれ」

「では今夜にも何かが起こるというのですか」

「わしは、明日の朝に目覚めることはなかろう。再び朝日を拝める機会はもう失われた」


 しかしそこまで覚悟ができているということは、しかるべき予防策も打てるのではないか。


「百余名の味方しかいない状況では、二百名の軍に囲まれたらおしまいだ。呉臣はわしの軍勢をその目で実際に確かめ、そのうえで行動に移す……こちらとしては、多い兵を隠して少なく見せることは出来るが、少ない兵数を実際より多く見せることはできない。もはや万策尽きたとしか言いようがないのだ」


「私ひとりが脱出することが可能であれば、黥布どのご自身もひとり危地を抜けることも可能でしょうに」


「確かにそうかもしれないが、しかしわしひとりがここを抜け出して、後の世をどう生きるというのだ。ひとりであれば、誰かに庇護を求めなければならない。そうすると、また他人に迷惑をかけてしまうのだ。……念のために言っておくが、わしは呉臣を恨んではいない。むしろ、奴に重すぎる判断をさせてしまったことを申し訳なく感じているのだ。韓信や彭越が生きていたら、彼らを頼っただろうが……もはやわしが安心して自分の身を預けられる相手は、この世には存在せぬ」

 それも事実であった。すでに天下には黥布以上の剛勇は存在せず、彼を匿いきれる人物など、ないと言いきれる状況であった。しかしそのことが王朝支配の盤石を意味しているかと言えば、そうとも言いきれない。天下を支配しようとしている王朝そのものが、未だ信用できない存在だったからだ。


「あるいは呂后さえいなければ、わしは今でも平穏に暮らしていたかもしれぬ。……とすれば、恨むべきは呂后だ。不疑どの、生きて帰ったら呂后の不実を白日の下に……」

 そこまで言ったところで、会話は途切れた。使者の案内で鄱陽湖のほとりにある邑にたどり着いた一行は、そこに宿泊することになる旨を伝えられたのであった。


 黥布には、接収した民家一軒が宿泊場所として与えられた。三名ほどの護衛を置いて就寝することになったが、そこに不疑の姿はすでにない。彼は鄱陽湖を一望できる小高い丘の上にいた。草むらに身を潜め、丘の麓にある邑の動静を見守っている。


 夜が更け、松明の火だけが視認できるころになると、状況を把握することが難しくなった。点々と光る松明の火が動かないうちは、黥布は無事なのであろう。しかしそれが激しく動くような事態になっても、不疑には助けにいくことが出来ないのであった。


 やがて複数の光が明滅を繰り返し、前後左右に入り乱れる様子が目に入った。現場が混乱していると推測されたが、声は不疑のもとに届かない。彼は歯を噛みしめ、緊張しながらそれを眺めることしか出来なかった。

 その状態がしばらく続いた。しばらくといっても半時ほどか、それとも数刻でしかなかったかもしれない。しかし不疑にはそれを判断する余裕もなかった。

 そのとき西から複数の、しかも大量の光が移動してくる光景が目に入った。不疑にはそれが光としか判別できなかった。しかし状況から見て、それが軍勢であることは明らかだった。


 その光の集団から、さらに小さな光がいくつも放たれるのがわかった。おそらく火矢だろう。火矢は一箇所に集中して浴びせられ、やがてそれは巨大な炎となった。


——ああ、終わった……。


 炎に焼かれているのは、黥布が宿泊した民家であろう。あるいは黥布なら家が焼かれても生き残っていることも考えられたが、このとき彼は確かに終わったと感じたのである。

 なぜなら、松明の光がそれ以降動かなくなったからだった。不疑は、このことによって黥布の死を確信したのである。


 不疑は、静かにその場を立ち去った。彼は淮南に戻らなければならず、呉翏を保護しなければならなかった。呂后の挑発によって無謀な挙兵をし、皇帝になりたかったとうそぶき、義弟の裏切りによって死んだ黥布のことを、彼女に伝えねばならず、後世にも語り継がねばならなかったのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る