作家の顛末

佐藤踵

作家の顛末


 ✳︎

 

 何も考えたくない時には図書館へと足を運ぶ。

 都立図書館は駅から多少距離があるものの、居心地が良く長居をするのに最適だった。高い天井は息苦しさを忘れるほどに開放的で、丁寧にワックスがかけられたフローリングはつやつやと窓から差し込む日光を照り返している。時折、誰かのスニーカーのソールがキュッと鳴った。

 一番奥の文庫本コーナーでは、小さな作品たちがぴったりと背をくっ付けて陳列されている。足を踏み入れすぐ左手、歩みを進めるごとに作者名が流れていく。ア行、イ行、ウ行……。今までに入り浸った世界を指でなぞりながら思い返してみる。面白かった、凡庸だった、秀逸だった、散らかっていた。優劣が付いてしまうのは致し方無い。

 僕の作品だってそうだ。きっと、劣っている。一体、何に劣っている? どうすれば秀作と呼ばれるようになる……?

 しゃがみ込み、一番下の段。目当ての作者名で指を止める。目当てと言っても、ア行から順番に読み進めているだけで特に思い入れがあるわけでは無い。というか初めて見る名前だった。

 綺口 糸。

 きぐちいと……で良いのだろうか。見る限りでは著書は四冊。適当に一冊を手に取りカバーのそでを確認すると、ちょうどこの作品が大賞作でデビュー作らしい。顔写真に目をやると作者は女性だった。しかも僕と同い年……と思ったが六年前のプロフィールだった。

 ……同い年でデビューか、羨ましい。

 なんてじっと表紙を見つめてみるものの、とりあえず読んでみなければ羨ましいかどうかなんて判断できまい。手に取った本を持って、窓際の机へと向かった。

 

 ✳︎

 

 後書きへと続く長い余白。

 はっ、

 吸い込む息に立つ音。驚いて顔を上げると、前髪が目にかかる。

 あれ、髪は短いはずなのに。

 いや違う。それは僕じゃ無くって、知之主人公だ。

 窓から見える朱色の夕日に目が覚め、乾燥した空気に皮膚が研ぎ澄まされる。

 そうか……僕は本を読んでいたのか。

 とてつもない没入感。物語を現実と区別することすら難しく、図書館で本を読む僕をすっかり忘れてさえいた。

 恋人の体温、曇った煙草の匂い、駅前の喧騒、高架下の騒音……。澄み切った美しい物語などでは無く、人間の厭らしさや愚かさまで、リアルに描かれていた。

 まるで活字を触って温度や質感を確かめるような不思議な感覚。全てが心地よく、自然と作品の世界観へと手招かれた。手招かれただけではない、腕を掴んで引っ張られた。

 それは初めて味わう感覚だった。

 もう一冊、もう一冊読んでみよう。立ち上がり、歩みを早める。腕時計に目を落とすと時刻は四時前。あと一時間ある。

 カ行、キ行……。

 逸る気持ちを抑え、綺口糸の作品が収蔵される本棚の右脇で足を止める。目の前でじっくりとタイトルを選べないのには理由があった。

 先客だ。

 まるで周囲を遮断するような真剣な表情で、女性が突っ立っていた。

 うなじの辺りで一つに結わいた長髪は全く揺れることがなく、じっと本を見つめている。選んでいるのだろうか? しかし、そんなことは僕には関係ない。

 早く、早く読みたいんだ。

 女性の隣りにしゃがみ込み、腕を目一杯伸ばす。女性が避けてくれることを想定した動きだが、その場に留まり動いてはくれなかった。少々の苛立ちを覚えたが、早く物語に没頭したいという欲求が勝り、人差し指を掛けて一冊スルリと引き抜いた。そして開いた隙間に読み終えた本を戻す。

 本当は吟味したいが、女性の足元で長居するのも気が引ける。タイトルも見ずに立ち上がり、早々と背を向けた時だった。

「ちがう、ちがう」

 静けさに溶け込む、少ししゃがれた声。振り返ってみると例の女が本の背を指差していた。

「これ。次読むなら、これがいい」

 ぴったりとしたスカートから伸びる膝を曲げて、本を引き出す。それを得意げに顔の横でひらひらと見せびらかした。同じく、綺口糸の著書である。

 驚き、言動に気圧されていたが、彼女は構わずに続ける。

「ナンバリングこそ無いけれど一応、時系列があって。二作目はこっちだ」

 そうして目の前に本を差し出す。受け取ろうとするが、臆病な僕の手は宙ぶらりんで静止した。

「……すまない、煩くて」

 僕を気遣ってか、申し訳なさそうに肩を竦める。

「いえ、そんな」

 突然のことでたじろいでしまった。変わった人であることに間違いは無いが、悪い人ではなさそうだ。その気持ちに後押しされて、差し出された本をやっと受け取る。

 彼女は尋ねた。

「綺口の作品はよく読むのか?」

「さっき初めて」

「……面白かった?」

「とても面白かったです。読み終えたことにすら気が付けないくらいに没頭していて……」

 作品について語りたい。本当は次から次へと言葉が飛び出そうだったが、見ず知らずの彼女に興奮をぶつけるわけにもいかずに堪える。彼女は不思議そうに首を捻った。

「しかしなんでまた、こんなマイナーな作家の本を」

「勉強のために、片っ端から読んでいて」

「勉強って、文学の?」

「……小説家志望で、それで」

 勢い余って、つい打ち明ける。

「成る程な……」

 彼女は驚きもせずに腕を組んで、じいっと見つめる。

「君も作家な訳か」

 君も、という言葉に引っ掛かるが、どう尋ねたら良いのかわからずに黙りこくるしかなかった。彼女は察したのか、あぁ、そうだよな。と呟いて続ける。

「私も作家でね。その……綺口だ。綺口糸と言う」

 

 ✳︎

 

 カバーのそでに載っていた写真と見比べて、すぐに彼女が綺口糸だと確信した。赤茶の髪、先細りのきりっとした眉毛、大きな瞳。六年では大きな変化は見受けられず、唯一の変化は首元で切り揃えられた髪が結えるほどに伸びたくらいだった。

 興味がある。話さないか?

 そう言われて図書館を出た。噴水の近くのベンチに腰掛けると、好奇心が口から溢れて止まらなくなってしまいそうだった。当たり前だ。今しがた圧倒された世界観の持ち主が目の前に座っているのだ。

 作家業について、執筆について、表現について、物語について……聞きたいことは山ほどある。しかし何も聞けずにいた。緊張しているからではない。彼女から質問攻めを食らっているのだ。大学やサークルについての些細な質問だったが、僕が答えている間は、好奇心の光を蓄えた瞳で聞いていた。

 答え終えた時、あ、と手を叩く。

「……そういえば、君の名前を聞いていなかった」

 彼女は脚を組み替えながら頬杖をつく。スラリと伸びる脚にショートブーツがよく似合っていた。

「渡瀬。渡瀬亜純わたせあずみと言います」

「渡瀬、亜純……」

 目線が右上に逸れて、空中で指をくるくると動かす。名前をなぞっているようだった。

「“渡”るに瀬戸の“瀬”で、亜純はええっと……」

 慌てて伝えるものの、なかなか説明する機会なんて無いもんだから言葉が出てこない。もごもごと吃っていると、彼女は閃いたように指さす。

「接頭辞の“亜”と“純”か?」

 わかりやすく簡潔な答えだった。

「……よくわかりましたね」

「何となく。当てずっぽうだけど」

「驚きました」

 彼女は得意げに鼻を鳴らす。

「こういう勘は冴えるんだ。渡瀬、渡瀬と呼ばせてもらうよ」

「わかりました。あの……」

 彼女のことを何と呼べば良いのかわからず、言葉が尻すぼみになる。察したのか、彼女はああ、と笑った。

「私のことは好きに呼んでくれて構わない。ああ、でも、気を遣うようなら綺口と呼んでくれ」

「それなら……」

「ん?」

「先生、と呼ぶのは?」

 彼女はきょとんとした後、身体を逸らして豪快に笑った。

「渡瀬! 君はやっぱり面白いよ!」

 背中をバシバシと叩きながら堪え切れない様子で手で顔を覆う。僕はそんなに面白いことを言ったのだろうか……不安になると同時に恥ずかしさが込み上げてきた。

 悟られないように前髪を触って顔を隠すと、ちょうど彼女の携帯電話が鳴った。

「げっ」

 胸ポケットから取り出して画面を見るなり、わかりやすく顔を顰める。

「あー、呼び出しだ」

 仕事だろうか。トーンの下がった声色からは気怠さが滲み出ていたが、振り切るように立ち上がる。

「渡瀬、また会ってくれないか?」

 窺うように首を傾げると、結わいた毛先がちらりと覗いた。

「良いんですか?」

「もちろん。私は“先生”だからな」

 にっこりと笑う。

「……またここで会おう。渡瀬」

 ひらひらと振った手に落ちる影。

 そういえば、聞き忘れてしまった。彼女……先生はなんで自分の作品をあんな顔で眺めていたんだろう。

 

 ✳︎


 その日のうちに、先生の作品を買い揃えた。夢中で読み耽り、四畳半の部屋に戻ってくる頃には朝日に目をやられた。読んでいるうちは一度も息をしていなかったかもしれない。そんなことを報告すると、先生は大袈裟だと笑った。

 先生は毎日、僕より早くにベンチに座っていた。ひらひらと振る手と、薄く上る煙草の煙。先生は相当な愛煙家ヘビースモーカーで、初めて会った時には我慢していたらしい。

 煙草を浅く咥えながら喋る先生のこもった声色や、燻んだ匂いに慣れる頃、僕は執筆の悩みを先生にぶつけた。失礼だと思ったが、先生は快く何でも答えてくれた。

「情景描写のコツってありますか?」

 背中を丸めて、うーん……と唸ったあと、続ける。

「全てを自分の目で確かめること、くらいしか無いな」

 先生は控えめに笑う。

「自分で……」

「ああ。誰かのフィルターを通した景色や想像では絶対に書かない。自分の目で見たものだけを作品に登場させる」

「実際の情景を元にしてるってことですか?」

「そうだよ。そうしないと矛盾が生まれそうで納得して書けないんだ。病気だよ、病気」

 困ったように眉を下げ、肩を揺らしながら笑う。

「私にはね、読者を惹きつける技術も無ければ、感性も乏しい。だから描写を精巧に、世界観にリアリティを持たせることを絶対的な信念としている」

「なるほど……だからあんなに引き込まれるんですね」

 僕の尊敬の声に、くすぐったそうに目を伏して、息を吐く。

「……なんだか、渡瀬に言われると嬉しいな。救われるよ」

 寂しそうに、呟いた。

 煙が消える頃に、先生は顔を上げる。

「そういえば、渡瀬はSFも書いていたね」

「はい、一応……」

 先生は僕の書いたSFまがいの小説をとても気に入ってくれていた。

「私はね、SFもファンタジーも書けないんだ」

「見たことのない世界だからですか?」

「ああ」

 なるほど。しかし一つの疑問が浮かぶ。

「……それは現実に存在する物や行為でも同じですか?」

 上手い例えを探す。

「えっと……例えば、海に行ったことがなければ、海の描写は書けないんでしょうか?」

「ああ。書けないな」

 即答だった。

「それは……すごい拘りですね。僕だったら想像や映像をもとに書いてしまいます」

「それが当たり前さ……拘っていても仕方ないとはわかっているんだ。書きたいものの全てが全て、自分の目で見れるものだけだとは限らないし……」

 俯いて、ブーツのつま先をゆらゆらと揺らす。言葉を飲み込んで、消化しているようだった。

「だから、何でも書ける渡瀬が羨ましいよ」

 声のトーンが上がる。もしかしたら、無理矢理上げているだけかもしれないが。

「いえ、僕は……」

「読者は、自分の行けない世界を求めて本を手に取る。見たことのない景色を見たいなら、他の作家の元へ行くさ」

 曇り空は湿気を含んでいる。先生が珍しく翳るのを、低気圧のせいにして納得した。

「もうきっと、新作は出さないよ」

 ずきり、と心臓が痛む。

「ファンの目の前で、やめてください」

「悪い悪い。でも、本当に」

 吸い殻を灰皿に押し付けて潰す。すぐに先生は新しい煙草を取り出して、咥えた。

「書けないんだ……どうしても」

 ポツリと呟くと、吸い込んだ息を煙と共に吐き出した。翳った先生の顔を見れずにそれを目で追って見上げると、曇天の灰色よりも立ち上る煙の白が美しく見える。

 現実でも、鉤括弧でも……気の利いた台詞など思い浮かばない。情けない僕が黙りこくると、頬のあたりに雫が落ちた。

「……降ってきましたね」

 手の甲で拭うと、先生も同じ仕草をしていた。デニムの紺に水玉が増えていく。

 先生は勿体なさそうに、点けたばかりの煙草を捨てる。そうして生い茂る木の向こうを指さして言った。

「家に招待するよ」

 

 ✳︎

 

 玄関を開けた瞬間に、甘く柔らかな香りがした。お香を焚いているのだろうか。

「ほら、」

 先生が投げてくれたタオルで濡れた頭をゴシゴシと拭いた後には、隠しきれていない煙草の匂いを鼻が捉えた。先生らしいなと少し笑う。

 足を踏み入れた廊下には段ボールが散乱しており、お世辞にも綺麗とは言い難い。器用に跨ぐ先生を手本にしてついて行く。

「どうぞ」

 驚いたのは、招き入れられたリビングが綺麗に整頓されていたこと。革張りのソファーに腰掛けると、先生はキッチンに向かった。

「渡瀬も、コーヒーで良いか?」

「ありがとうございます」

 ウォルナットのローテーブルに似合う、暖色のライト。テーブルの上には先生の嗜好品と同じパッケージの缶が黒く艶めく。重そうな陶器の灰皿には、既に何本か吸い殻が落としてあった。

 すぐに、先生がコーヒーを運んできた。

「砂糖は?」

「いや、大丈夫です」

 コーヒーカップを置きながら、僕の隣に座る。

「良かった。元々、砂糖なんて無いからな」

「……そんな気はしていました」

 一口コーヒーを啜ると、先生は缶から煙草を取り出して、火をつける。ほんのひと匙だけ甘さが入り混じった香りは、先生の作品を読むときに連想する香りそのものだった。

「良い香りですね」

 先生はコーヒーカップを引き寄せて香る。

「ああ、落ち着くな」

「コーヒーもですけど、部屋の香りが好きです」

「本当か? 訪ねる奴らは皆、良い顔をしないが……」

「煙草の匂い、僕は好きです」

 好きになりました、とは言えずに言葉を切る。先生は指に挟んでいた煙草を持ち上げて、首を傾げる。

「……吸わないのか?」

「先生の隣にいると、吸ってみたくなります。でも、勇気も出ない」

「へぇ、」

 なので、先生の香りで満足します。

 ……そうやって言おうとした2ミリの隙間を塞ぐように、先生が唇を押し当てる。

 灰皿から立ち込める煙のそばなのに、吐息はもっと純度が高い。冷たい唇からは燻んだような、ほのかに苦いような……。想像よりも粗削りで、乱暴な味がした。

「渡瀬、味は、する?」

 吐息の交わる距離感。唇の隙間から囁くように問いかけられて、慌てて答える。

「します、」

「苦くて、不味いだろう」

「確かに、苦いし、変な味です」

「だろう」

「でも、やっぱり、好きですよ、僕は」

「……本当に?」

「ほんとう」

「そうか」

 一呼吸後、また唇が密着して、僕の太腿に先生の手が乗っかった。前屈みに押し付けられた唇と、揺れる髪。思わず背もたれに寄りかかる。

 燻んだ吐息は熱くて、舌は苦味だけを味わう。不慣れな僕が少し動くと、鼻と鼻がくっ付いた。何もかもが、誰のものかもわからないほどに混ざり合って……初めて、口づけという行為が綺麗とは言い難いと知った。同時に、これが人間だと感じた。

 

 僕は、綺麗なものだけを都合よく書いていた。

 僕は、愛すべき穢れや醜さを書かずに隠して、取り繕っていた。

 僕は、何も知らなかった。

 ……なんて稚拙な物書きなのだろう。

 

 のし掛かる劣等感を、先生の体温に乗せた。か細い腰に腕を回して、丸みを帯びた後頭部を覆って。跳ねる雨音と、水分を含んだ湿っぽい音が耳を撫でる。

 ふと、唇が離れた時だった。

「……渡瀬、すまない」

 甘い香りが気付けになり、先生の伏した睫毛が鮮明に映る。僕たちはゆっくりと、目を合わせることなく距離を取る。

「君なら、こんなに煙たい口づけだって、ロマンチックに書いてくれそうだな、と思って」

 羨ましいよ……と呟く先生の声は震えていた。

「君の世界では……魚が空を飛んだり、地球から光が消えたり……誰も見たことのない景色が広がっている。それに比べて、私は、自分の目で見て記憶したものしか書けない。精巧だ、リアリズムだとのたまって、胡座あぐらをかいている」

 言葉を手繰り寄せるようにして、続ける。

「実は……二年前から書いている話があってね。もう、九割は書けているんだ」

 ……完成間近の新作があるなんて初めて聞いた。息遣いを感じて、僕は先生の言葉を待つ。

「あとは、私が……結末を書けば完成する」

 少し呼吸が荒くなり、苦しそうに左胸の辺りをぎゅっと掴む。

「……でも、見たことのないものは、書けない。だから、ずっと、未完成で……」

 上下する肩は、わずかに震えていた。

 

 ✳︎


 先生が言葉を選ぶ横顔は、長い時間をかけて僕の胸をぎゅうと縛った。

 ……あれから一度も“未完成の新作”の話はしていない。勿論、僕から聞くこともないし、先生も話すことはしなかった。

 気になるといえば、正直気になる。先生の新作だ、読みたいに決まっている。しかし、先生の信念を曲げてまで書いて欲しいとは思えなかった。


 先生との待ち合わせはいつも同じベンチで、お互いに変えようとも思わない。

 だんだんとコートが厚地になって、寒がりな僕はダウンジャケットを着た。先生はスッキリとしたブルゾンにスカートでも寒くないらしい。隣に座って、身体を寄せ合って、作品を見てもらったり、構想を話したり……。

 家にも良く招かれた。そうして先生は気まぐれに、僕に口づけをした。重なるたびに、目合まぐわうたびに、煙たさや体温、激情の全てを瞼の裏で活字にした。


 いつものように唇が離れて、代わりに煙草を咥えるとライターの火が上がる。

 それとほぼ同時にインターホンが鳴った。

 来客だ。

 慌てて、乱れたニットの襟元を正す。

「誰だ……?」

 先生は面倒臭そうに立ち上がり、キッチンの脇でインターホンのモニターを確認する。

 モニターに照らされる横顔。わかりやすく表情を曇らせた。

「……僕、帰ります」

 立ち上がり、扉に手を掛ける。すると制止するように僕の腕を引いた。

「いや、君には、いて欲しい」

 驚いて先生を見つめる。

「……僕に? 何で?」

 先生は僕を見上げたまま、

「渡瀬には、全てを知って欲しいんだ」

 そう言うと僕の腕をそのまま引っ張って、リビング脇の部屋に押し込む。

「待ってください! どういう」

「いいから、そこに居てくれ」

 壁を隔てて言い残し、気怠そうにモニター越しに応対する。雑音混じりの声は、少し高い男性の声だった。

 すぐに玄関の錠が開く。先生はモニターの前から動いていないので合鍵だろうか? ドアの開く音のあと、重たそうな足音が近づいた。

 リビングの引き戸がガラガラと開く。その直後だった。

「綺口先生! どうか、どうか、お願いします」

 荷物を床に置く音と同時に、ごつんと鈍い音。……なんだ? 壁に引っ付いて聞き耳を立てていた僕は、思わずびくりと反応した。

「やめろ、山内。何回土下座されたって、書けない」

 呆れたような、怒ったような……初めて聞く、不快感を剥き出しにした声。

 山内、と呼ばれた男は動く気配がない。

「先生が続きを書いてくれるまで、僕は何度でも土下座します」

 お願いします、お願いします……言葉と同時に何度も鈍い音がした。

「やめてくれ! 見苦しいぞ」

「見苦しくたって、構いませんよ。僕は原稿が完成するまで、諦めません」

 山内は、原稿の回収に来たのだろうか。先生は「九割書けている」そう言った。あとは結末を書くだけ。しかし、書けない。書くことが出来ないとも言った。

「あの復讐劇は間違いなく、先生の最高傑作です」

「……皮肉だな。最高傑作が未完成のまま終わるとは」

「完成させて、世に出すのが、僕の使命だと思っています」

 引く気は無いようだ。押し問答に疲れたのか、ライターがカチリと鳴ったあと、先生が大きく息を吐き出した。

「……山内。有難いが、書けないんだ……お前ならわかってくれるだろう?」

「わかっていますよ。先生の作風も、信念も」

「なら、手詰まりなのも理解してくれるはずだ」

「勿体無いんです。結末を変えてでも、僕は出版したい」

「そんなことは出来ない」

 先生は語気を強めた。

「絢子は、絶対に復讐を遂げる。絶対に殺人を犯す。その結末以外は、有り得ない」


 ✳︎

 

 ……殺人。

 創作では定番の成り行きである。

 僕も書いたことがあるが、全てがドラマや映画の真似ごと、或いは想像だ。当たり前だが、実際に見たことなんてない。

 あの日、ふと手に取った先生の作品が僕の腕を掴んで離さなかったのは、美化などせずに写実的な描写で世界を創り出していたからだ。汚れた現実と見紛うほどの没入感と、説得力……先生の信念と執着心が生み出した、煙たい現実にほど近い世界。

 自分で見たものしか書かない。

 だから、人を殺めるシーンは書けない、書かない。

 ……先生は、そういう作家だ。

 

 玄関が閉まり、錠が落ちる音で甘い香りを吸い込む。

「書けない……」

 聞き逃しそうなほどに小さな呟き。僕が扉を開けると、先生は項垂れていた。

「情けないだろう……? これが作家の顛末だ。読者よりも期待よりも、自分が気持ちよくあるためのポリシーを優先する。だからもう、書けないんだ」

 床に垂れる一本結びが、震える。

「望む作品が書けない……私はもう作家として死んだんだ」

「やめて下さい、そんなこと……」

 思わず膝をつき先生の手を握ると、小刻みに震えていた。垂れた前髪をそのままに、先生は鼻をすすって少し笑う。

「君には感謝しているんだ。初めて会った時、私は全てを投げ出そうとしていた。そして、自分の本を燃やしてやろうと考えた……」

 自分の作品を見つめる、思い詰めた表情。僕は結局、自分から理由を聞けずにいた。聞いてしまったら、先生と会えなくなるような気がして。

「君がもの凄い形相で私の本を手に取るもんだから、出来なかったんだ。ああ、求められてる。そうやって、救われた気がした」

「先生……」

「君にただただ、生かされていたんだよ、私は」

 一粒、二粒と涙が落ちる。

「すまない、渡瀬……もう先生ではいられないんだ……」

 絞るように……辛うじて、空気に言葉が乗っていた。

「わからないんだ……首を絞める手に込める力も、人が死ぬ瞬間の表情も……」

 わからない。わかり得ない。だから書けない。もうお終いだ。

 両手で顔を覆う。その後はほとんど声にならず、鼓膜を揺する前に床へと落ちた。しかし先生の感情は僕の皮膚を刺し、深く深く浸透していた。

 書きたい気持ちと、書けない理由。

 ジレンマに陥って、先生は書くことを辞めた。

 しかし僕と出会って、先生と呼ばれて……作家としての全てを投げ捨てることも許されずに、苦しんだだろう。救われたのは、きっとほんの一瞬だっただろう。

 ……先生、もういいんです。

 僕は、顔を覆う先生の両手を掴む。驚いたように僕を見上げる瞳。

「渡瀬……」

 涙で濡れた頬には、睫毛が落っこちていて汚かった。垂れた前髪が張り付いていて汚かった。汚いけれど……美しかった。

 冷たく、湿った先生の手。重ねた手で少し温めたあとに、徐々に僕の首元に引き寄せる。

「渡瀬、何を、」

 動脈がどくどくと、脈打つ。

「先生」

 視界の片隅で、灰皿から煙が立ち上り、いつのまにか空気と混ざり合う。

「先生、僕を殺して下さい」

 添えていた手をゆっくりと腕に移動する。先生の冷たい手は僕の首を弱々しく掴んでいた。

「殺して、完結させて下さい」

「……君は、何を言って、」

「もう悩まなくていい。先生の目で見て、先生が書いて下さい」

「私の、目で……」

 震えた手に、少しの力が加わる。

「書きたくて、書けなくて……先生がこのまま苦しむくらいなら、僕が作品の結末になります」

「君が、私の……」

「先生の作品に溶け込めるなら、幸せだ」

 煙たくって、曇りがちで、御都合主義がまかり通らない世界。汚さも醜さも全てが鮮明だけど、愛おしいとさえ思えて、

「先生が、描く世界が、好きです」

「渡瀬……」

「だから、信念を貫いて、完結させて欲しいんです」

 喉仏に交差した親指がぐっと押し込まれる。

 頸に添える細い指に力が加わる。

 圧迫された動脈が、耳の奥で鼓動を早める。

 ……苦しそうに食いしばる唇を解いてあげたかったけれど、指先に力が入らない。

 浮遊感の中で、ゆっくりと瞼を下ろす。

 ……あぁ、先生のせいだ。先生のせいで、こんな時にも活字が浮かんで止まらない。

 先生の物語に溶けていく、煙のように混ざっていく。


 締め付けられた首の感覚さえ、とても愛おしく思えた。


 ✳︎

 

 ベンチに座り、見よう見まねで煙草を咥えた。

 火をつけてゆっくり息を吸い込むと、喉に纏わりつく刺激にむせ返る。見覚えのある黒いパッケージを空に透かしてみると、甘い香りが鼻から抜けて、苦味がマシになったような気がした。

 先生は僕を殺せなかった。それから、一度も会っていない。すっからかんになったアパートには残り香さえ置いておらず、先生の本名すら知らない僕には追いかけることが出来なかった。

 書店でキ行綺口 糸をなぞってみるものの、新刊は出ていない。

 また作品を読みたいという勝手な願望と、解き放たれて自由になって欲しいという切望。時に鳩尾みぞおちを締め付ける痛みを飼い慣らして、汚れながら生きていこうと誓った。


 これは、先生が教えてくれた愛しさだ。

 

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