EPISODEⅡ - Panic


EPISODEⅡ - Panic



「あ~あ。あたしも、明日で三十歳か……。早かったわね……」

 尚子が細い指で缶ビールのタブを開けたのは、二階の寝室のクォーツ時計が午後九時を差した頃だった。何気なく、彼女は時計を見つめた。

 このクォーツ時計は、二年前に尚子がこの家に引っ越してきた際に購入したものである。大手時計メーカーの商品であるが、値段は一万二千六百円と、高級というほどでもない。購入後、ネット販売で売られていた同製品の値段が八千八百円であって、少々の落胆をした記憶など、彼女の脳内からは煙のように消えていた。

 結婚しないで住宅団地に家を買った尚子を、彼女の友人たちは揶揄していたが、彼女にとって自分だけの静かな場所を確保することは何よりも優先されるべきことであった。幼い頃から、何かと一人でいることを好んでいたのだ。友人関係を壊さないだけの最小限のコミュニケーションが彼女にとっての「会話」である。明日の誕生日もまた、「最小限のコミュニケーション」が出番を迎えそうなイベントであった。

「……孤独って嫌だわ」

 尚子は閉ざされた窓のすりガラスを見て呟いた。

 それは彼女が一人暮らしの寂しさを嘆いた言葉ではなかった。

 彼女の中で「一人でいること」と「孤独」とでは、意味が大きく違っていた。彼女は常々思っていた。「一人でいたいけど、孤独は嫌だ」と……。家族も友人もいてほしいけれど、彼らがプライベートに深く干渉するのは不快だ、それが彼女の心情であった。

 窓の向こうには、隣家がある。尚子はその家のことを、正しくはその家に住む親子のことを考えると、「孤独」への嫌悪を感じるのだ。

 隣人は少々珍妙であった。

 「最小限のコミュニケーション」を心に決めている尚子がたった一度だけ近所の井戸端会議に参加したことがあった。その起因となったのが、隣の一家の行動であった。

 その一家は父、母、子の三人家族である。しかし、尚子が見たことがあるのは一人息子の高校生だけだった。引っ越してまもなくは何も不思議に思ってはいなかったが、それが数ヶ月続けば異常である。

 近所の噂好きの主婦たちに因れば、母親は週に二、三度帰宅するそうだった。何をしているかまでは不明であるが、決まって帰宅するのは深夜で、何やら如何わしい生活をしていることは間違いなさそうである。父親に関しては誰一人目撃したことはなく、その理由は海外出張であるらしい。

 つまりは、高校生の息子は一人で生活をしているに等しかった。

 その息子が、しっかり者で心優しく、爽やかな好青年ならば同情のしようもあるだろう。しかしながら、彼もまた非常に怪しげな存在なのだ。

 彼は至って普通の高校生である。普通すぎて取柄のないというような学生。すれ違えば弱々しいがそれでもしっかり挨拶をするし、外見も少々地味ではあってもまともである。

 ただ一つ、たった一つだが、見るものをギョッとさせる妙な行動があるのだ。

 彼は毎月決まった一日だけ、高校を休むのだ。その月の十五日、何曜日であろうと必ず十五日が来ると、彼は早朝からどこかに出掛けてしまう。それも、全身黒尽くめの出で立ちで。夏でも漆黒のコートを羽織って――――

 その姿は、怪しげな儀式を思わせるものであった。それを見た誰もが、不快感を覚えるであろうその気味の悪さが隣家に住まう親子と近隣の住民のコミュニケーションをほとんど遮断しているようだった。

 尚子は、隣の学生の奇行は母親との関係にあると勝手に推測していた。母親に対する不信感や反抗心、そして孤独感があの奇怪な習慣を彼に植え付けたのであろう……と。

 「アレ」を見てしまうと孤独が本当に嫌になる、尚子は以前友人にそう話したことがあった。彼女は彼に、底知れない恐怖を感じ取っていた。

 隣の学生が黒いコートを着て自宅から出て行く光景を思い出して、尚子は一気に疲弊した。寝そべって軽く目を閉じると、彼女は激しい眠気に誘われた。

 数秒経って、尚子は眠りに落ちた。



「……っ!?」

 声になりきれていない音を発して、尚子は目を覚ました。

「……な、何!?」

 けたたましい声が家の外から聞こえてくる。 

 それは人の声であり、叫びであると、尚子は瞬時に理解した。彼女のまどろみを一瞬で払ったのはどうやらこの「叫び」であったようだ。

「何の騒ぎ……?」

 少なくとも酔っ払いが叫んでいるといった様子ではなさそうである。

「…………笑い声」

 冷静になってその声を聴くことで、それが「笑い声」であると気付いた。

 彼女は得体の知れない笑い声に恐怖を感じていた。その笑い声は、人間の笑い声とは到底思えないものだった。

「あっ……」

 急にその笑い声は止んだ。再び夜の静寂が戻ってきた。

 尚子は窓を開けて外を見るべきか悩んだ。しかし、彼女の好奇心はいともたやすく恐怖に呑み込まれていった。関わるべきではないと心が叫んでいるようだった。

 ――――ガラガラッ!!

 不意に近くで窓が開かれる音がした。音は極近い所でなったようだ。

「まさか……隣?」

 隣家に住む学生の部屋の窓は、尚子の家の寝室の窓と向かい合うような位置にあった。窓と窓の距離はかなりあったし、高低差も僅かにあった。しかし、鮮明に窓を開く音がすれば、それはあの学生の部屋の窓が開かれたことに相違なかった。

 一瞬、尚子は隣の学生があの奇声を上げていたのではないかと思った。しかし、あの陰気な学生があのようなけたたましい笑い声を上げるとは到底考えられなかった。どうやら、笑い声を聞いて窓を開いたようである。

 そう結論付けた刹那、再び仰々しい笑い声が住宅団地に響き渡った。

「ひっ!!」

 尚子は驚いて声を上げた。

 叫びとも取れるその笑い声は、止む気配もなく大気を震わせていた。その声は先程のものよりもより鮮明で強大であった。

 それが意味することは、唯一つである。


「住宅団地に響き渡る笑い声は隣家の学生のものである」


 尚子の恐怖はピークに達していた。

 ――何なの!? あの子、薬でもやってたっていうの!?

 彼女は再び学生の黒尽くめの姿を思い起こした。なるほど彼は、出掛け先で薬物を買っていたのだ。それならば、納得がいく――――

 尚子は半ば無理矢理にストーリーを作り上げた。そうでもしなければ、自分に危険が及ぶのではないかという不安に引きずり込まれそうだったのだ。

「…………そうよ。……警察!」

 そう言って尚子は電話の受話器を手に取った。警察に来てもらおう、そう考えたのだ。彼女は震える手で一一〇番をプッシュした。

 ――――プルルルルルル……ガチャッ。

『こちら、一一〇番。どうしましたか?』

 電話に出た女性は落ち着いた声で言った。

「と、隣の家の高校生が変なんです!」

『変……と言いますと?』

「急に窓を開けて大声で笑い出して、とにかく普通じゃないんです!! すぐに来てください!!」

 尚子は、自分を落ち着かせ、訴えた。

『そこは、××市××町の住宅団地でしょうか』

「は、はい!」

 警察は電話番号から住所を特定できるが、彼女の言葉のニュアンスから察するに、どうやら近隣住民が既に通報していたようである。尚子は僅かに安心感を覚えた。

『そちらには既に担当が向かっておりますので、ご安心ください』

「はい……分かりました」

『一つよろしいでしょうか、あなたは隣の……と言いましたよね?』

 女性は謎の確認をした。尚子にはその質問が何を意味するのか解らなかった。

「ええ……何でですか……?」

『こちらにも僅かに叫び声のような音が入り込んでいますが、その声の主は本当にその高校生なのですか?』

「……見てはいませんが、おそらくは……」

『確認できませんか?』

「…………」

 尚子は女性の質問に苛立ちを隠せなかった。その言い方は、「頼み」ではなく「命令」であった。

「……やってみます」

 そう言うと、受話器を片手に這う様にして窓へと近付いた。依然として笑い声は発せられ続けている。窓を開ければ、五、六メートル先に笑う少年の姿があるはずだ。

 ゆっくりと、すりガラスのはめ込まれた窓を開けた。開かれたのは五センチ程度であるが、覗き込めばはっきりと見える位置に窓は設置されている。

「何でこんなこと、あたしが……」

 嘆きながらも、尚子は窓の隙間を覗き込んだ。

「…………ッッ!!」

 窓の向こうには、恐ろしい光景が広がっていた。

 けたたましく笑っていたのはやはり隣の学生であった。しかしその姿は、まるで悪魔に取り憑かれたかのようである。目をカッと見開き、手を広げて天を仰いでいる。充血したその目は、獣の眼光の如く鋭く、狂気に満ちていた。

 尚子は恐ろしくなって、受話器を放り投げ、後退りするようにして窓辺を離れた。

「何なの、あれ……!!」

 彼女は一一〇番に電話が繋がっていることも忘れ、その場で身震いしていた。



 何分か経過して、外でサイレンの音が聞こえた。警察が到着したようだ。

 隣人は未だ笑い声を上げている。尚子はすっかり憔悴した様子で、遠目に窓を見つめた。僅かに開かれた窓からは何やら明るい光が入り込んでいる。

「朝……?」

 そんなはずはなかった。確かに今は午後九時から午後十時の間、つまり夜であるはずだ。

 しかし、夜ではあり得ないほどの光が外を照らしている。まるで朝を迎えたかのような柔らかな光だ。

 尚子は現在時刻を確認すべく、壁に掛けられたクォーツ時計に目をやった。

「…………??」

 彼女の目には、ゆっくりと針が逆回転する奇怪なクォーク時計がはっきりと映っていた。


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