EPISODEⅣ - Biology
EPISODEⅣ - Biology
渡部秀真はコーヒーをすすりながら、昼下がりの研究室の小さな椅子に腰掛けた。
「暇だな……。誰か大それた事件でも持ち込んでくれないものか……」
生物学のエキスパート、学問に携わる者なら知らないものはないであろう彼は、大学教授が警察に協力し天才的な発想で難事件を解き明かすような絵空事の主人公に自らを重ねて楽しんでいた。
来年で四十四歳の渡部だが、彼の類稀なる優秀な頭脳に対して、世界の評価は冷たかった。理由は誰の目にも明らかであった。いわゆる変人。彼とまともに、「楽しく」会話できる人類は限られている。彼の助手数名、彼の大学時代からの親友である精神医学専門の医学者、そして、現在の日本の内閣総理大臣である花沢昭一くらいである。
花沢昭一は、総理になる以前から渡部と交流があり、渡部は選挙の度に応援演説をしていた。渡部の一風変わった性格や、斬新な視点で書かれた著書は一般人にはある程度の人気を持っており、花沢の議員としての知名度や、好感度などは、ほとんど渡部が作り上げたといっても過言ではなかった。
そのため、渡部は総理大臣との太いパイプを持っている。
渡部は、そのような「繋がり」を掲げて、勝手に研究室に設置した四十二インチの薄型テレビの電源を点けた。助手がいない研究室はあまりに静かで、渡部は居心地が悪くなってしまったようだった。このテレビも当初は超巨大液晶のものが取り付けられる予定であったが、さすがに非難を受け、「それじゃあ液晶を小さくするからいいでしょ」と訳の解らない理論を呈して半ば強引に取り付けられたものである。
そんなテレビから、耳を疑うようなニュースが飛び込んできて、渡部は仰天した。
『……最新のニュースです。一九〇五年、奈良での捕獲を最後に姿を消し、絶滅したと思われていたニホンオオカミが、群馬県×××市の山間部で発見されました……』
――――ガタッ。
思わず渡部は勢いよく立ち上がった。
「馬鹿な……!! ニホンオオカミが今頃だと!? そんなの話初耳だぞ!」
渡部はしばらく思考を巡らした後、落ち着きを取り戻し、椅子に腰を下ろした。
――――ニホンオオカミ……、剥製ですら世界に五体しかない絶滅種だぞ。信じられん……。
渡部は別のニュースに切り替わった後も、テレビ画面を眺めていた。コーヒーの湯気が画面を仄かに歪ませている。
――――プルルルル……。
「……あぁ?」
渡部は電話の音で目を覚ました。どうやら、ぼーっとしている間に寝てしまったようだった。
渡部は早歩きで電話に近付くと、乱暴に受話器を取った。
「もしもーし、どなたかな?」
「…………」
受話器からは誰の声も聞こえなかった。聞こえるのは何故か電話のコール。
「あぁ、やべっ……」
電話の音は渡部の白衣のポケットから聞こえていた。信じられないことに、携帯の着信音と固定電話の着信音を聞き間違えたのだ。
渡部がポケットから携帯を取り出すと、画面には「I書店編集者 田中涼子」の文字が映っていた。しかし、渡部は画面を見ることなく通話ボタンを押してしまった。
「もしもし」
「I書店編集者の田中です」
「……誰?」
渡部の四十三歳とは思えない無作法な対応に、電話の向こうの田中は呆れているようだった。
「ご冗談を。渡部先生、執筆の調子はいかがでしょうか?」
「執筆? 何だね、それは?」
「まさかとは思いますが、一行も書いていないということはないですよね?」
渡部は記憶を呼び覚ますかのように、天井を見上げた。
「ああ……」
渡部は恍けた声を上げた。記憶が徐々に蘇る。
「先生、何ですか、その嫌な予感しかしない感嘆詞は」
田中の声を聞くうちに、渡部の記憶は鮮明に復元されていった。
数ヶ月前のこと、今電話をしている田中という女性が訪ねてきた。彼女は渡部に本を書かないかと誘いに来たのだ。
テーマは「別視点の生物学」。変人と呼ばれる渡部の斬新な視点から書かれた生物学の本を出版することを、田中は狙っていた。渡部はその日、禁煙を諦めてタバコを解禁し、気分上々であった。その上、この田中という女性がまた面白く、若いのに話しの分かる人間であった。渡部は無論、そそのかされて快くその仕事を引き受けたのだ。
「うんうん……。も、もちろん書き終えたよ、田中ちゃん」
「いつ書き終えますか? 渡部先生」
「書き終えたと言っているじゃないか」
「嘘です」
「僕が嘘をついたことがあるかね?」
「私は一度しか会っておりませんよ、先生?」
「…………」
田中は完全に渡部の心を読んでいた。
「締め切りはいつだったかね?」
「二週間後ですね」
「……わ、分かった」
「ちなみに今どれくらい書きましたか?」
「…………」
「先生、今度焼印でも入れましょうか」
「はい?」
「いやだなぁ、分かっていらっしゃるくせに、先生。締め切りを忘れないように肌に直接刻むんですよ」
「ひぃ!」
渡部は恐ろしさのあまり奇声を上げた。
「あっ、先生。どこに焼印を入れますか? オススメはおでこ……いや両目です」
「田中ちゃん!! 何言い直してるの!? し、しかも、そこはもはや肌でさえないよ!?」
渡部の言葉に田中は「ふふふ」と不気味に笑った。
「では、二週間後の首……じゃなくて、締め切り忘れないで下さいね」
「た、田中ちゃん。首って何ッ!?」
「失礼します」
――――ツー、ツー、ツー。
渡部は白衣で冷や汗を拭い、携帯電話を閉じた。
「まったく、偉大な科学者をおちょくるんじゃないよ……」
渡部は一言ぼやいて、以前田中に渡されたはずの執筆に当たっての資料を探し始めた。研究室を私物化している渡部ならば、研究室に資料をしまっていてもおかしくない。
「どこにしまったかな」
真昼の研究室には、付けっぱなしのテレビの音と、変人科学者の独り言が響き渡っていた。
三十分程経っただろうか。渡部は再び椅子に座り、コーヒーをすすっていた。
「ったく。資料はどこへ行ったのかね~。多分家だな……こりゃあ。いや、別荘か?」
研究室を散らかすだけ散らかして、渡部は早々に資料探しを諦めてしまっていた。探すのが面倒になった、という方が正しいだろう。彼のこの怠惰に何人が気を揉んだか、枚挙に暇がないのだ。
渡部はふと電源の入ったままのテレビに目をやった。
「……今入ったニュースです。本日午後一時四十分頃、都内のS大学附属病院で、一般人の立ち入りが禁止されたとのことです。立ち入り禁止となった理由は現在発表されていません。……」
テレビを観る渡部の手は小刻みに震えていた。
渡部は画面を凝然として見た。渡部は一瞬、姿の見えない黙示録的発見の断片を見たような感覚を覚えた。
病院の封鎖。余程のことが無ければ現代でそのようなことは大々的に行われない。
「S大学附属……」
渡部はS大学附属病院に数少ない友人の一人がいることに気が付いた。S大学附属病院で何があったのか、友人に聞けば分かるかもしれない。渡部は携帯電話を取り出した。
――――コン、コン。
目的の人物をアドレス帳から引き出し、通話ボタンを押そうとしたその時、研究室のドアが叩かれた。
「……ちっ。こんなときに誰だ。……どーぞ」
予定を邪魔されて悪態を吐きながらも、渡部は来客の入室を許可した。おもむろにドアが開かれる。
「……なっ!! お前かよ!!」
「俺じゃ悪いのか? ……渡部、久しいな」
渡部の目の前には、まさに今携帯のアドレス帳から呼び出された、彼の数少ない友人の一人が立っていた。S大学附属病院の精神医学者、中森弘明である。
「今電話しようと思ってたところなんだ、タイミングいいねぇ、中森ぃ! それとも……S大学附属病院の件のお話って事かな?」
渡部は不気味な笑顔を浮かべて尋ねた。
「知ってたか。さすが、話が早いな。しかし、研究もしないでテレビを観ているとはな……」
中森は皮肉たっぷりに応えた。
「別に構わんだろう。研究費出してんだから、国も俺を必要としてるんだろうさ」
渡部はいつもどおりに返した。どうやら中森の皮肉は意味を成さなかったらしい。
「しかし渡部、いい加減やめたらどうだ? それ」
中森は木製のテーブルを挟んだ渡部の合い向かいの椅子に腰掛け、言った。
「何のことだ?」
「……コーヒーをビーカーで飲むのはおかしいだろ」
テーブルには渡部の飲みかけのコーヒーが置かれていた。そして、容器はビーカーである。
「研究者なら、ざらにあることだろーが。気にすんな」
「お前の場合薬品を入れて、洗わずに飲んでいる可能性があるだろう」
中森が指摘すると、渡部は急に黙り込んで、何かを考え始めた。何やら不穏な空気が漂っている。
「……やべっ」
「……おいおい、マジかよ!」
「…………大丈夫、死にはせん!」
「そういう問題じゃねーよ! だいたい渡部、何で研究所を私物化してるくせにコーヒーカップの一つも無いんだ!? この部屋は!!」
「うるせえうるせえ。俺の部屋を俺がどうしようが俺の勝手だろーが」
「お前の部屋じゃねーだろ!! あくまで私物化されているに過ぎん!!」
部屋に二人の怒鳴り声が響き渡った。このような言い争いも、もう見慣れた光景である。二人は大学の同級生。昔からこのような会話は変わらない。
「……で、中森。お前は俺の有意義なコーヒーブレークを邪魔しに来たんだっけか?」
「有意義という部分にツッコミを入れたいところだが、ひとまず流すことにしよう。俺が今日来たのは他でもない、お前に頼みがあったからだ」
「S大付属病院は関わってくるのか? その話」
「ああ。あそこでとんでもない事件が起きている。人類の歴史の分岐点になりかねない大事件がな……」
「いい話じゃなさそうだなぁ、そりゃあ。俺は直感的に気付いたよ。ペストやスペイン風邪みたいな、厄介な災厄が訪れるんじゃないかってな」
渡部はほんの少し真面目さを取り戻したような表情だった。彼の言ったことは嘘ではなかった。事実、彼は感じ取ったのだ。黙示録的な何かを……。
「なるほど、お前はあの封鎖を感染症だと予想したわけか」
中森は興味深げに言った。
「アレは完全に『隔離』だ。そうだろ?」
「違いない。しかし、科学的には感染症じゃあない」
「……冗談だろう? 感染症以外で隔離はない」
渡部は断言した。ただでさえ隔離という措置は何かと問題が多い。それが感染力の強い感染病でなければ他に何が理由になるというのか?
「なぁ渡部、感染はするが、ウイルスも細菌も寄生虫も関与していない症状ってのを見たことがあるか?」
中森は渡部の目をしっかりと見据え、訊いた。
「そんなものは存在しない。もし存在するとしたら……」
「存在するとしたら……?」
「それはお前の分野、精神医学の範疇だ」
渡部は中森を指差して、はっきりとそう言った。
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