EPISODEⅢ - Infection


EPISODEⅢ - Infection



 精神科医、桐崎義光は酷く焦った様子でノートパソコンを開いた。それは、ある症状に関する記録を、中森という同じ精神科医である友人にEメールで送るためであった。彼はその症状を発症した患者を観察するために、もう三日間睡眠を摂っていなかったが、もはや休んでいる暇は無かった。

 そもそも、この記録を作ることになったのも、その症状の患者が警察から彼の病院に輸送されて来たのが事の発端である。そんなことは二十数年も精神科医を続けてきた桐崎でも初めてのことだった。

「一体何故、こんな事が起きたんだ……!?」

 桐崎は独り、疲れた声で呟いた。その声は空調の効いた部屋に僅かに響き、そして空しく消えていった。

 そして、桐崎はEメールの本文制作画面を開き、キーボードを叩き始めた。カタカタという音を立てながら桐崎の両手の指がキーボードを走る。

 彼はふと部屋の壁に掛けられた振り子時計を見上げた。時計の秒針はゆっくりと右に向かって回っている。

「……まだ猶予はある……か。くそったれが……! 頼むからこいつを書き終えるまで何も起こらないでくれ……!!」

 桐崎は腕時計を視界に入る位置に置き、パソコンのディスプレイに視線を戻した。



 謎の症状に関する報告書


 中森、この報告書を見たら、直ぐに行動を起こしてほしい。できるならば私も自ら動きたいが、おそらくこの私にもあまり多くの時間が残されているとは思えない。

 今からお前が読むものは、決してフィクションでも不謹慎な冗談でもない。全て事実であり、何とかしなければならない問題だ。

 この言葉が、後に大袈裟な言葉だったと言われるか、正確な予測であったと言われるかは、現時点では判らないし、私には知る術も無いことであろうが、敢えて言っておこう。

 これは人類の歴史の岐路になりうる問題になるかもしれない。

 その諸悪の根源はある症状だ。その症状は極めて珍しかった。……否、新しかったのだ。

 その症状を発症したのはある住宅団地に住む高校生だった。突然大声で叫び、近隣の住民に通報され、警察が身柄を捕らえたのが今月の十六日の晩のことである。担当の警官の話では、意味の解らない独り言を延々話し続け、取り調べもできない状態だったという。精神が壊れていることは誰の眼にも明らかであり、警察は一種の異常さを感じ取り、翌日十七日、精神科医である私の元へその高校生を送ってきたのである。

 私の診察に際し、彼は興奮した様子で妙なことをずっと言い続けていた。


 ――――時が戻っている。


 彼の目には、この世界の時が逆行しているように見えているようだった。

 私がその高校生を診察したとき、それは単なる幻覚であると診断できた。そして警察には薬物の使用があったか検査するよう指示するつもりだった。

 しかしながら、数刻もしないうちに、もう一人患者が運ばれて来たのだ。

 その患者は三十歳のOLだった。なんでも、最初に来た高校生の住む家の隣家に住む女性だそうだ。そして驚くべきことに、彼女には高校生と同じ症状が起こっていた。

 彼女は高校生と違い、幾分冷静に状況を話すことができた。彼女の話では、最初に自らの異変に気がついたとき、目に映る時間の逆行は緩やかで、現実の光景に強く依存したものであったという。つまり、時間の逆行には二段階の症状があるようだった。

 初めに、自分の見ている現在の風景の「時間概念」のみが逆行する。正確には、時間概念により直接的に結びついているものだ。

 例えば、時計がそうだ。時計の針の逆回転、デジタル時計なら数値の変化、砂時計ならば砂が下から上へと上がる、といった具合だ。

 そして太陽光もその一つだ。太陽光の与える朝、昼、夜の変化も時間と密接に繋がっている。

 それらが全て本来の流れと逆に流れていくように見えるようだ。

 次に、発症者の記憶に蓄積した時間が巻き戻る。しかし、この症状に関しては不確かなことが多い。

 第一の症状は加速度的に巻き戻しのスピードを上げる。その速さが一定の速さを超えると、時間概念との関係が薄い光景も遡っていく。

 その症状が広がっていくと、最終的に自分の人生を逆再生した映像を見ているかのような状態になる。

 つまり、この段階に達した発症者は、完全に現実の映像を見られなくなる。視覚が奪われるのだ。

 幸いしたのは、聴覚に関しては一切のダメージが無かったことだ。一人目の発症者である高校生は精神に異常をきたしていたが、二人目の発症者である女性は若干の混乱はあるものの、詳しい症状を聞くことができた。

 その日、私は発症者二名を入院させた。この時点では、珍しい症状の患者が二人も同時に出たことに驚くばかりだったが、後にこの感情は単純に恐怖に変わっていった。

 十八日、午前のうちに前日の発症者二名と同じ症状の患者が四人運ばれてきた。全員、初めの二名の発症者の住む住宅団地の住人だった。ここで私はある仮説を立てた。この症状は伝染するのではないか、と。しかし、精神病の類であるならば、それが感染する可能性は薄くなる。仮に、脳に細菌が侵入し、患者全員に同じ症状を発症させているならば、感染のしようもあるが、それにしたって奇妙だ。感染力が強すぎる。飛沫感染のレベルを大いに越えている。

 十九日、謎を残したまま感染は広がった。

 今度は一人目の発症者である高校生を取り調べた警察官だった。三人の警察官が続けざまに運ばれ、次いで十数時間後には前日十八日に運ばれた団地の住人の家族、そして警官三人の家族が、同じ症状で運ばれてきた。

 ここで私は確信した。確信せざるを得なかった。これは間違いなく「感染」だ、と。

 そして同時に私は恐怖した。これが感染ならば、私はどうなのだ? 全ての患者と顔を合わせている自分が、同じ症状に感染しないとは限らないのではないか?

 翌二十日、私は遂に恐ろしい事実を知ることになった。

 十六日に発症した高校生と三十歳の女性が死亡したのだ。それが何を意味するのか、私には十分に分かっていた。

 発症したら最期、死に至るということだ。

 この症状が感染するとして、発症までの潜伏期間は患者によってまちまちである。例えば、死亡した女性は高校生を介して感染したとすれば、数分間という短時間で発症に至ったことになる。

 私自身が感染していたとしたら、今は潜伏期間ということだ。つまり、四日間発症しなかったことになる。

 この症状は一体何なのだ? もはや、私の手に負える問題ではない。

 この謎の症状が国中に蔓延したらとんでもないことになる。

 私は感染したかもしれない。この症状を発症した何人もの患者を診てきたのだ。

 中森、頼む。この症状の謎を解明してくれ。そして、感染をストップさせるんだ。私にはどのくらいの時間が残されているのか、見当も付かない。私が死んだなら、そのときはお前がこの事件を止めるんだ。


 桐崎義光



 桐崎は汗が滲む額を白衣の袖で拭った。

 震える指でマウスに手を置き、画面上のカーソルを「メール送信」のボタンに合わせ、静かにクリックした。

「……頼んだぞ、中森」

 桐崎には、自分が感染したという予感があった。瞳の奥が熱く熱を持ち、死の感覚が脳から離れようとしないのだ。

 桐崎は時計をじっと見ていた。

 彼の目に映る時計の針はまだ、右に回っている。


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