7 光 -ひかり-

 朧は溝伏山を下り、さまざまなことを「知る」ことからはじめました。

 山を統べるあやかし狼は、ただそこに在るだけでは意味がないのだと、身をもって知りました。

 春の芽吹き、夏の陽射し、秋の実り、冬の忍。

 ケモノとして、ヒトとして。

 それぞれの立場で見やり、考えながら過ごし、あちらこちらの村里を訪れ、見識を深めました。

 溝伏山の周囲をぐるりと巡りながら、朧は己の未熟さを恥じました。

 山へ戻っては白蛇のもとを訪れ、得てきたことを述べ助言を乞い、ふたたび走り出します。

 そうした生活を続けているうちに、山にはケモノがつどってくるようになりました。

 どこかへ姿を消していた種も住まうようになると、呼応するように山の実りは増えてゆき、それは麓の村々へと還元されてゆくのです。

 統治とは、こういうことなのだ。

 頂に立ち、ぐるりと遠くを見渡しながら、朧は感慨深く思いました。



 ヒトが入ってこない山奥へ、ちいさな小屋を建てました。

 奉納された供物の一部を持ち帰り、備蓄として置いておくことにしたのです。

 ヒトの姿を取っていると、ヒトの食事が合うのでしょう。山をおりて暮らすうちに、朧はすっかりヒトとして過ごすことに慣れていました。

 勿論、ケモノとしての本能はそなわっています。狼の姿で駆けるときの高揚感は、ほかでは得られない心地です。

 けれど、高いところに生っている果実を採ったり、邪魔な石を動かしたりするときは、ヒトの姿のほうが便利なものです。

 山に住むケモノたちの生活を助けるためにも、ヒトの手は重宝しました。

 これもまた、統べる者のつとめだと朧は考えます。

 心だけでなく、躰もずっと逞しくなった朧ですから、ヒトの姿であっても立派な体躯をした若者となりました。立ち寄った村で過ごしていると、色めいた声をかけられることもしばしばです。

 しかし、朧は狼です。

 ヒトとして暮らすこともできますが、あやかし狼はヒトよりもずっと長い時を生きるのです。ともに暮らすのは、むずかしいことでしょう。

 誰かとともにあることを思うとき、胸に飛来するのは「ちせ」のことでした。

 わずかなあいだ、ともに過ごしたちいさな女の子。

 いまの朧ならば、ちせがあまりよい生活をしていたわけではないと想像がつきます。

 ちせを探そうとしたこともありました。

 しかし、山を取り囲むように大小さまざまな村があり、いったいどこからやってきたのかわかりません。乱暴に扱われていたので、すでに命の火を消してしまっているかもしれません。

 そう考えたとき、朧の胸は軋み、まっくろな闇につつまれたような気持ちに囚われるのです。


 祭事がおこなわれる秋。

 山の頂から眺めると、陽光を浴びた稲穂が一面に広がり、黄金色に輝きます。

 麓にある祠や祭壇には、いくつもの村から、それぞれに供物が捧げられます。

 豊穣の証は、平穏の象徴。

 山を統べる者にとっても、よろこばしい時節です。そんななか、よくない話を聞きました。

 あやかし狼に従う犬狼たちが、朧に代わってヒトのなかで流布する話を伝えてくれます。それによると、贄を捧げようとしているさとがあるというのです。

 贄という言葉は、朧がもっとも嫌うものです。

 なにも知らなかったころとはちがいます。それの意味するところを、朧はもう知っているのです。

 命を犠牲に成り立つ平和なぞ、どこにもありません。たったひとりを見せしめにして、差し出すことに、いったいなんの意味があるというのでしょう。

 かつての「ちせ」のような存在をつくってはいけません。


 ヒトのなかにまぎれ、朧はなにが起こっているかを探ります。ヌシの伝説は村によってちがいがありますが、根本こんぽんに流れているものは「不可侵」です。

 山へは不用意に立ち入らず、領域をおかさないこと。

 ヒトとケモノは争い交わることなく、互いを尊重しあいながら暮らしていくことが、繁栄につながっていくとされています。

 しかし都の一部では、不死の言い伝えがありました。

 溝伏山は、ケモノが伏しているような形をしていることから付けられた名と言われます。しかし、ふるい文献に記された溝伏山は「不死山」とされており、のちに「伏」と改められているのです。

 文字は意味を持ち、時とともに都合よく変じられていくもの。

 富と権力を持つ者にとって、そこに長く君臨できる「不死」は、魅力あるものなのだろうと、白蛇は語りました。

 あやかしの朧には理解できない考えです。

 長く生き続けるということは、己を知る者が次々にいなくなるということ。

 永遠の孤独など、なぜ望むのでしょうか。


 選ばれた贄の齢は、十七だといいます。

 月夜の晩。娘を救うため、朧は山道の入口で待ちました。

 やがてあらわれたのは、黒く塗った輿こしと、米や野菜を積んだ荷車です。荷を引いた男たちと、刀を携えた身なりの整った男が入り混じる一行は、朧を認めて立ち止まりました。

 黒髪をうしろでひとつに結わえた朧の姿は、木立を背にしていることもあり、暗闇に埋没してみえます。月明かりを受けた瞳は銀色にひかっており、男たちは息を呑みました。

 夜更けに、人目を忍んでの行動です。まして、ヒトひとりを山中へ放置しようとしているわけですから、うしろぐらい気持ちがあるのでしょう。

 男のひとりが刀を抜いて、朧へするどい視線を向けて問いました。

「このようなところで、なにをしておる」

「そちらとておなじことであろうよ。夜の山へ立ち入るなど、死ににゆくようなものだ」

「ゆえあってのこと。我々はめいを受け、山のヌシへ献上に参ったのである」

「ヌシは、そのようなものは望まぬ。去れ」

 朧が言うと、男たちは顔を見合わせます。けれど刀を下ろすことなく、剣先はこちらをとらえつづけます。

 荷運びに雇われた小作人らしき数名は、ただならぬ雰囲気に怯え、かたまっていました。

「去れ。贄など、必要ない」

「――貴様、なぜそれを知っている」

 朧が告げると、場の空気が変わりました。男たちが、次々に口を開きます。

「貴様、いったいどこの手の者だ」

「ヌシの力をたまわるのは、義時さまが先。戻って主君に伝えるがよい」

「――いや、生かして帰すべきではない、か」

 手前にいた男が踏み込んだと同時に、朧は背を低くして横へ飛び、刃を避けました。次いでやってきた二人目の斬撃は後退することで避け、距離を取りながら体勢を整えなおします。

 彼らが構えているような刀身の長いものは持っていません。半分にも満たない短刀では、太刀打ちできるわけもないでしょう。

 落ちている枝で刃を受け止めるには限界がありますし、そもそも朧は戦いをしたいわけではないのです。

 思案する朧の背後から、数匹の狼があらわれました。朧の声を聞きつけて、助力にやってきたのでしょう。

 けれどそれは、朧の望むことではないのです。

「しずまってくれ」

 唸り声をあげる狼に告げると、一同は問いかけるように朧に顔を向けました。

 数体の狼に囲まれる朧の姿は、どこか異様に映ります。

 折しも今宵は満月。

 ケモノとヒトの境界が混じり、溶けていく日。

 天上から降りそそぐ月光が肌を粟立たせ、朧は腕を掻き抱きました。

 ざわざわと、身体の内側からなにかがやってきて、侵食していく感覚に襲われます。

 取り囲んだ狼たちが、天高くに向けて咆哮します。

 その中央で、朧は己の身体が変容していくのを感じました。

 刀を構えた男たちがすこしずつ後ずさるなか、地面に置かれた輿が揺れ、人が出てきました。

 目の端にとらえた贄の娘を見たとき、朧はさらに粟立ちました。

「……ちせ」

 ぽろりと漏れた言葉は風に乗って届き、娘と視線が絡みます。目をまるく見開いた娘は、一歩、足を踏み出しました。

 朧は距離を取ろうとしましたが、ヒトとケモノの意識が混じった身体は思うように動かせず、がくりと膝をついてしまいます。

 地に着いた箇所から、皮を剥ぐようにして黒い体毛があらわれ、広がっていきます。

 一度大きく膨れあがった身体は着物を裂き、その下の肌は黒く密集した毛に覆われてゆくのです。

 化け物。

 誰かが悲鳴とともに叫びました。

 男たちはこぞって逃げ出し、一帯からヒトの気配がなくなりました。

 狼たちが高く低く啼き、朧のなかにあるケモノもまた叫び声をあげますが、頭の片隅に残った理性が、ヒトとしての意識をなんとかとどめています。

 唸り声が地鳴りのように響くなか、ひとり残った娘の声が届きました。

「――あなたは、朧なの?」

「ち……せ」

「朧っ」

「来るな、ちせ」

 近づく気配に、朧は拒絶の声をあげました。

 しかし動くことは叶わず、変容を留めることもできず、朧は必死に声をはりあげました。


 来ないでくれ、見ないでくれ。

 俺は、ヒトではない、ケモノなんだ。

 狼で、あやかし狼で、ちせとはちがう生き物。

 偽っていた。

 悟られぬように、ヒトの真似をして。

 騙していたんだ。


 うずくまり、地へ伏せて動かない狼の躰に顔を寄せ、娘――ちとせは囁きました。



「……本当は気づいてたんだと思う。朧はきっと、人間じゃないんだって」

 出会ったときの軽い足音と、息遣い。

 草を敷きつめた洞穴での暮らし。

 拙い言葉、気配、温度。

 そのすべてが人間ヒトとは異なっていることに、どこかで気づいていたけれど、誰かとともにある暮らしや、与えられるやさしさをうしないたくなくて。

 見ない振りをしていたのだと、ちとせは思いました。

 出会ったばかりのころ、決してこちらに触れようとはしなかったことや、伸ばした手が避けられていたこと。その理由は――

「朧は、狼だったんだね」

「……俺は嘘をついていた」

「それはわたしだっておなじだよ、目が病気だったことなんて、一度もないもの」

 くすりと笑う声に、朧は顔をあげました。

 記憶にある姿よりも肉がつき、ふっくらとした丸みを帯びた身体つきとなった十七歳の娘が、すぐ近くで微笑んでおり、朧の胸は大きく音を立てました。全力で駆けたあとのように、鼓動が速くなります。

「わたしね、ヌシの花嫁になるためにここへ来たんだ」

「そんなのは駄目だ」

「どうして?」

「あやかし狼は、千年を生きるから。一緒にはいられない」

 ちせはヒトなのだから、ヒトとして、ヒトのなかで暮らすべきだ。

 軋んで痛む胸をおさえながら、朧は言いました。

 するとちせは、花が開くように笑みを浮かべたのです。

「あのね、わたしの名前、本当はちとせっていうの」

 言いながら指を使い、地面に字を描きます。

「千歳、と書くの。朧とおなじ、千年を生きる名前。だから、きっと平気だわ」

「ちとせ」

「ちせでいい。ねえ、朧――」

 己の首を掻き抱いた娘の声は、耳の奥に甘くやさしく響きました。

 朧の胸は歓喜に震え、愛しい娘の耳許へそっと答えを返したのです。



   ◆ ◇



 季節の実りを湛え、流れ出る清水によって人々の暮らしを支える溝伏山は、自然豊かな美しい山です。

 迷うこともなく自由に歩き、恵みを手にすることができる、人々に愛される山でした。


 山の頂にあるのは、月を受けて銀色に輝くおぼろ岩。

 それに寄り添い、支えるように置かれているのは、ちとせ岩。

 夫婦めおと岩とよばれるそこにはちいさな祠があり、ふたつの岩は合わせて夫婦円満の神さまとして祀られています。


 強い風が吹く晩には、山の頂あたりから、岩のすきまを抜ける風音が、遠吠えのように響き渡ります。

 村人たちが言うには、あれは山のヌシがつがいを求め、啼く声なのだとか。



 満月の夜、耳を澄ませてごらんなさい。

 今日もおぼろ岩が、愛しい妻の名を呼んでいる声が聞こえることでしょう。


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朧とちせ 彩瀬あいり @ayase24

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