6 禊 -みそぎ-

 誰もいなくなったひとりの洞穴で、朧は座っていました。

 もうヒトの形を取る必要なんてないのに、朧はその姿のまま、佇んでいました。

 胸のなかに大きな穴があいた気持ちです。

 風の音も、どこかで野兎が駆ける音も、なにもかもがいつもとおなじであるにもかかわらず、朧にはすべてが空虚に感じられました。

「……ちせ」

 呼んでも声は返りません。

 鈴を転がすような音で「おぼろ」と呼んでくれる声は、もうなくなってしまったのです。

 突如湧き起こった衝動のままに、朧は腕を振り上げて、壁を叩きました。

 落ちてきた土のかたまりを手にすると、壁に向かって投げつけます。

 足元に敷きつめた草を足で乱暴に乱し、ちいさな山となった草を両手でかかえると、空中に撒き散らします。

 洞穴の中を土埃と草の葉が舞うなか、朧は息を吸い込むと、大きな声をあげました。

 おなかを震わせて、ケモノのように叫びました。

 音圧で洞穴も震え、上から砂がはらはらと落ちてきます。

 叫びつづけるうちに、いつしか朧の身体は狼の姿へと変容していました。

 けれど、それに気づかないまま、朧はずっと吠えつづけました。

 いっそ喉など、裂けてしまえばいい。

 ちせがいなければ、言葉なぞ必要ないのですから。



 月が昇る時分、枯れた喉を潤すため、朧は泉を訪れました。

 思えば白蛇に会うのも、ずいぶんとひさしぶりです。ヒトの言葉と姿を与えてもらって以来、願いたいこともなかったからです。

 渇きを癒すために水を飲んでいると、いつのまにか白蛇が姿を現していました。

「――用はない。もう、願うこともない。必要ない」

「手放したか」

 白蛇は問いました。

 なにを、とは言いませんでしたが、朧の頭にはちせの顔が浮かびます。最後に見た、哀しそうな笑顔が頭に浮かび、朧の胸はきりりと痛みました。

「ぬしは、ほんとうに足りぬ」

「……俺は足りないものだらけだ」

 考える朧に、白蛇はしゅるりととぐろを巻いて、夜空を見上げました。

「あやかし狼とは、人狼である」

「それは、なんだ」

「人の姿を持つ狼。それがおまえだ、朧」

「たしかに、白蛇さまに願って俺は――」

「そうではない。ぬしはもともと、人の姿を取っていたはず。忘れておるのか、朧よ」

 あやかし狼とは本来、ヒトの姿を取り、ヒトとケモノを護る種族なのです。幼い時分は、ヒトとケモノ両方を姿を取りながら過ごします。

 しかし幼くして里を出た朧は、そのことを知らず、狼のままで彷徨さまよいつづけたため、ヒトへの変じ方も忘れてしまっていたのです。

「俺は、どうすればいい」

「それはぬしが決めること」

「――ならば、俺は知りたい」

 朧は、知らないことばかりです。

 さまざまな村を通りすぎ、ひとところへとどまったことなぞありませんでした。やっと辿り着いた瑞地村にはもう近づく気にもならず、逃げるように山へ入りました。

 ヒトが供物を捧げるのを遠まきに眺め、近づこうともしませんでした。

 あの男たちが言っていたこと。

 彼らのいうヌシとは、誰のことなのか。

 そして、贄とはなんなのか。

 それらすべてを、きっと白蛇は知っていることでしょう。

「教えてくれ。足りないものがあるのならば、俺はそれを手に入れる」



   ◇



 村に戻ったちとせは、ひどく叱責されました。

 けれど、贄として人間の娘を差し出したこともなかったため、村人たちもどうすればいいのかわかりません。

 やっとのことで自分の家に戻ったちとせを待っていたのは、荒れ果てた我が家でした。

 戸ははずれ、壁の一部もなくなっています。囲炉裏いろりにかけてあった鍋はどこにもなく、かまども壊れていました。水汲みの桶も消えており、荷も見あたりません。古びた布団がぽつりと放置されているのが、唯一の救いといえました。

 ちとせが山へ入って、ひと月ほどです。

 贄であるからには、もう戻ってくることもないと思われたのでしょう。

 ただでさえなにも持っていないちとせの家からでさえ、奪っていくのです。村の荒廃は、さらに進んでいました。

 火の気はなく、ちとせは残っていた布団をかぶり、うずくまりました。

 冷たい板の間は、肌から熱を奪い去っていきます。

 震える指で肌をこすりながら、ちとせの胸は冷たくなりました。

 手が床を這い、無意識になにかを求めます。

 ほんのすこし前まであったぬくもり――踏み固められてやわらかくなった草の敷布を求めて、ちとせは涙を流しました。

 山のどこかから獣の咆哮が聞こえるなか、ちとせは声を殺して泣きました。


 山から無事に戻ってきたことで、ちとせはさらに距離をおかれるようになりました。

 随行した男たちがみな、刃に切り伏せられているにもかかわらず、たったひとり無事で戻った少女を、皆が忌避きひしたのです。

 ある時、立派な身なりをした壮年の男が、村を訪れました。

 十四、五歳の娘を探しているといいます。お屋敷に住む姫とおなじ年頃の娘を求め、あちらこちらの村をまわっていたそうです。

 該当する娘はちとせだけであったため、着の身着のままで村を出ることになりました。

 山裾の街道をぐるりとまわり、辿り着いたのは、一帯を統べる土豪、義時よしときの屋敷でした。下働きとはいえ、村よりもずっとよい暮らしです。

 ちとせが連れてこられた理由は、愛娘であるむつ姫の世話をするためであり、時には彼女にかわり、殿方とやり取りをするためでした。

 文を書くことがたいそう苦手らしく、返事を溜めこんでばかりいます。

 ちとせにしてみれば、読み書きを覚えられるよい機会でしたので、乞われるがままに筆を取り、したためました。

「ちとせは字がとても上手ね」

「お手本がよいのです、姫さま」

「まあ、褒め上手でもあるわ!」

 本来であれば、こんなふうに言葉を交わすことなぞないのでしょうが、睦姫もまたひとりきりだったのでしょう。似た年頃のちとせを近くに呼び、なにくれと世話をやいてくれました。

 そうして過ごしていますと、自然とさまざまな噂話が耳に入ってきます。

 何年ものあいだ、野山をうろついて人を襲っていた野犬たちが、最近になっておとなしくなった話。

 付近に出没していた盗賊たちが、山で化け物に出会って逃げていったという話。

 なかでも溝伏山にまつわる話は、ちとせが知っている言い伝えとはまるでちがっていて、たいへんに興味深いものでした。

 瑞治村とおなじように山の麓に広がっている場所ですが、こちらでは別のお話が残っているのです。

 書き写した草紙も見せてもらいました。

 文字を習ったおかげで、すらすらと読むことができました。

 いわく、山に住むヌシは不老不死であり、その血肉はありとあらゆる病を治す万能の妙薬であるとか。ヌシの怒りをかわぬよう正しく願わなければ、御力をたまわることはかなわないのだそうです。

 都に住んでいるくらいの高い家の主たちにとっては、喉から手が出るほどに欲するものであり、義時もまた、その一人でした。

 ちとせがそのことを知ったのは、屋敷に来てじつに三年の月日が流れたあとのことです。

 いつものように睦姫の前へと参上したちとせは、別の部屋へ招かれました。そこに待っていたのは、一人の老婆です。占いを生業としている白髪の老婆は、ちとせを見やると深く頷きます。すると、脇に控えていた男がちとせの前に立って、言いました。

「時は満ちた。贄の娘よ」

 ちとせは知りました。

 これは、はじめから決まっていたことなのだと。

 自分は姫さまのお世話をするのではなく、姫の代わりにヌシの贄となるために連れてこられたのだということを。

 山にまつわる不死の伝説。

 溝伏山に住むヌシは不死の力を持つ化け物で、かつて山を荒らした者はヌシを傷つけたがために命を落としました。怒りをかわぬよう御力を借りるためには捧げものが必要で、その捧げものというのは若い娘を贄とすること。

 ヌシの花嫁として娘を捧げることで、その家は未来永劫の繁栄を約束されるのです。


「……わたしは、この家の娘ではありませんが」

「おまえの母はかつて、この屋敷で働いておった。その時、義時さまのお手付きとなった」

「お手付き……?」

 ちとせは父の顔を知りません。どこにいるのかも知りませんし、母もまたそれを口にすることはありませんでした。

 義時さまが父親だと言われても、本当かどうかもわかりません。

 ですが、ちいさな村の貧相な娘をわざわざ連れてくるぐらいですから、男の言っていることは事実なのかもしれません。

 直接、会話をしたことなぞないあるじが父親だと言われたところで、まるで実感がわきません。

 もしもそうであれば、睦姫とは姉妹ということになるでしょう。

 やさしくしてくれた姫のことを、ちとせは好いていました。

 こっそりと、甘い菓子を分けてくれたこともあります。

 村で生活していては得られなかった感情。

 誰かを慕い、やさしくする気持ちを思い出させてくれたのは、睦姫です。

「わたしが行かなければ、姫さまがその役を担うのですか?」

「そうだ」

「――わかりました、お受けします」

 本来であれば、三年前になくしていたはずの命です。

 いまさら、なにを惜しむことがありましょう。

 心残りがあるとすれば、あの男の子。

 嘘をついて、目が見えないふりをして、やさしさに甘えた相手におわびがしたい。

 朧のことを思い出し、ちとせの胸はちくりと痛みました。


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