いるか

雨世界

1……さようなら。僕の友達。

 いるか


 本編


 ……さようなら。僕の友達。


 青波いるかが、その記事を見たのは、冬の午後のことだった。

いるかは東京のいきつけのカフェに入って、そこにいる顔なじみのマスターにコーヒーを頼んでから、いつもの席に一人で座った。


 そして新聞を読むと、そこに『世界で最後の一匹である白い一角くじらが死んだ』と言う記事が書いてあった。


 大きな記事ではない。小さな記事だ。でもその記事がいるかはなぜかすごく気になった。

 なので、よく記事を読んでみると、それはこういう内容の記事だった。


 世界で最後まで生き残っていた白い一角くじらが、嵐の夜のあとに、海岸に打ち上げられるようにして、死んでいるのが、地元の漁師によって発見された。

 漁師が白い一角くじらを見つけたときにはもうくじらは息を引き取っていた。白い一角くじらの死体は、その海岸のある国の国立水族館が引き取るということに決まった。

 白い一角くじらの生態はずっと謎に包まれていたのだけど、その死体のおかげでいろいろなことがわかるかもしれないということだった。


 いるかはマスターがコーヒーを運んできてくれたので、新聞を読むことをやめて、「どうもありがとう」とマスターに言ったあとで、コーヒーを飲むことにした。

(マスターの淹れてくれたコーヒーはいつもと同じ味がして、いつもと同じようにすごく美味しかった)


 世界にはもう白い一角くじらはどこにも存在してはいない。

 彼らは全滅してしまった。

 この世界から消えて無くなってしまったのだ。


 そんなことをいるかは思った。


 いるかはカフェから、(そのカフェには普通の壁の代わりに大きな透明なガラスの壁があった)ぼんやりと外を歩く人たちの姿を眺めた。


 それはなんだか、水族館の風景に見ていた。

 彼らは魚である。

 いるかはそう思った。


 でも次第に、ずっとそんな人の動く流れを見つめているうちに、ふと、彼らは魚なのではない。カフェの中にいる僕こそが、彼らに見つめられる魚なのだ、と思うようになった。

 いるかは自分が水族館の大きな水槽の中で一匹の魚になっている姿を想像した。


 それからいるかは、やがてその想像を膨らませて、水族館ではなくて、大きな荒れ狂う嵐の海の中を泳いでいる一匹の白い一角くじらの姿を想像した。


 いるかはいつの間にか、白い一角くじらになっていた。


 世界で最後の白い一角くじら。


 くじらは誇り高く、嵐の海の中を泳いでいた。冷たい北の海の中を。強い海流の中を。

 仲間もいない。たった一匹のままで強く、強く泳ぎ続けていた。


 でも、やがて巨大な体を持つ白い一角くじらにも、最後のときがやってきた。力を使い果たしたくじらは、波の強さに逆らうことができなくなって、やがて真っ白な海岸に打ち上げられてしまった。


 そこでくじらは、そっと眠るように息絶えた。


 くじらは夢をなにも見なかった。


 いるかはそこで、空想をやめて、元の世界に戻ってきた。


 できれば、世界で最後まで生き残った誇り高い一角くじらには、天国で多くの仲間たちと一緒に穏やかな海の中を、ゆっくりと泳いでほしいと、いるかは思った。


「ごちそうさま。いつも通り美味しかったです」

 マスターにそう言ってから、いるかはお金を払い、いきつけのカフェをでた。外に出ると、ぽつぽつと空から雨が降ってきた。


 手に持っていた新聞を傘の代わりにしながら、いるかは走って、仕事場までの道を急いだ。


 その道の最中、なぜかいるかは、最近亡くなった自分の親友のことを思い出した。その親友の死のことについて、考えてみた。


 すると自然と涙が溢れてきた。


 いるかは自分の涙を見て、ようやく自分が親友の死と言う現実を受け入れられるようになったんだな、と思った。親友の死から、今日で三ヶ月の時間が過ぎていた。


 大人になってから、いるかが泣いたのは今日が初めてのことだった。


(雨は、だんだんと強くなっていた)


 いるかは、来世はくじらになりたい、と思った。くじらになって、力つきるまで、海の中を泳ぎ続けたいと思った。


 力つきるまで。


 あの、なにもない白い浜辺にたどり着くときまで……。


 誇り高く生きたいと、そう思った。


 いるか 終わり

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