ログアウト!

野良ガエル

ログアウト!

 後悔先に立たず。

 後悔はいつも、今さらという段になって思考の前に立ち塞がる。


 紙が、ない。書類が。何度も視界の端に捉えていたあの紙が見つからない。

 

 なぜ、どうしてないのか。

 なぜ、どうしてとっとと回収しなかったのか。

 いつでもできたことだった。だから、直前でもできると思っていた。

 否、できるはずだったのに。

 なぜ?


 疑問符が身体に纏わりつく。

 悪魔が書類を隠したとでもいうのか。

 それとも、ここは平行世界だとでもいうのか。

 思考は飛躍するが、実際は底なし沼に首まで使っているような状況である。

 今、過去の自分の愚かさを呪うことはその愚かさを更新し続けることに他ならない。そんな暇はない。一刻の猶予も。

 だというのに、頭の片隅ではお気に入りのアニメのOP映像やら漫画のワンシーンがリピートしている。天国に手招きするような脳内の天使たちは、つまり俺に死ねと言っているのだろうか。止まらない逃避、まるで自傷行為だ。


 とにかく、探せ。

 机の上。机の下。引き出しの中。棚。押入れ。

 少なくとも部屋の中にあるはずだ。なければおかしい。外に持っていく理由がない。

 しかし、動かし続けた手は暫くして止まる。

 見慣れた汚部屋を見る。


 本棚の本は縦横関係なく積まれ、際どいジェンガのように不安を煽る。

 通販の負の遺産、畳んでもいない無数の段ボールが口を開けて嘲笑う。

 飲みかけで捨てられたペットボトルの大群が、恨めしそうにこちらを見ている。

 机は物置、もうずいぶんと本来の機能を果たしていない。椅子も同じく。ついにはストーブの上さえ臨時の物置と化しており、小銭や鍵が放置されていた。

 押入れにはぬいぐるみやCD、DVDが雑多に詰め込まれて、出しっぱなしの布団の帰る場所はもうない。

 

 積み重ねられた俺自身の怠惰は、確かに大きな罪と呼ぶに相応しい混沌を形成していた。

 ただ、その混沌も見るだけなら一瞬である。宇宙を星空として一瞥するように。

 そして、もう何度も何度も見てはいる。

 しかし紙は見当たらない。


 手を止めて、頭を回す。俺は同時にはできない人間なのだ。

 冷静に考えよう。当たり前のことを考える。

 紙が見えない。ということは、紙はどこかに埋まっている。

 だが、この部屋の中でわざわざ見えないところに、たとえばなにかの下に置いたりするなんてことがあるだろうか。いくらなんでも、愚かな自分でも、流石にそれはないのではないか。仮にも重要な書類だったのだから。

 とはいえ、外に持っていく理由も、やはりない。


 紙はどこだ。

 部屋の内か、外か。

 全てを探している暇はない。

 内か、外か、どちらに残り時間を賭けるかのギャンブルに身を投じなければ。

 しかしこの賭け、勝ったところで得るものはない。消費し続ける時間を止めるだけ。ハイリスクノーリターン。迷い込んだ時点で負け確定の賭場。

 だが、決断の時は迫っているのだ。



「っ、あったぁーーーーっ!!」

 思わず漏れる歓喜と安堵。

 紙は部屋の外にあった。

 俺は賭けに勝利した。

 得るものはないが、負の連鎖を断ち切ることに成功したのだ。


 まだ間に合う、少し余裕をもって間に合うぞ。

 俺は肌身離すまいと書類をコートのポケットに捻じ込むと(既にくしゃくしゃなので問題ない)、一目散に玄関に向かう。壁のフックにかけてある車のキーを、


 手に取ることはできなかった。


 鍵が、ない。車のキーが。

 スペアなど、とうの昔に無くしている。

 つまり、間に合わない。

 神は、いない。


「っ、くそっ、クソっ、糞ぉーっ!!」


 自業自得の果てにある呪詛の言葉は、最低最悪の排泄行為だ。でも、止められない。口から糞を垂れ流しながら、それでも探し続ける。


 鍵は、さっきどこかで見たような気がする。

 でも、思い出せない。なぜいつもの場所以外に置いたのか。その理由も場所も思い出せない。理由なんてどうでもいい、鍵の在処、それだけでいい。


 あぁ、畜生。

 自分はいつもこうだ。

 何の前触れもなく、少し前のことを忘れてしまう。それも頻繁に。

 自分が何者なのかは覚えている。家族だって数少ない友人だって覚えている。好きな作品に至っては気持ち悪いくらいに覚えている。

 なのに、ほんの少し前のことを不意に思い出せなくなる。


 もしも自分の記憶を、どれだけいいだろうか。

 もしも、どれだけ生きやすいだろうか。

 だがそれは無理な話だ。

 忘れてしまったものは、どうしようもない。

 

 たとえそれが数秒前の自分だったとしても、接続が切れたら再びその自分になることはできないのだ。

 一度ログアウトしてしまったら、もうログインすることは叶わない。

 ほんの僅かな情報量の差が、奈落へと続く裂け目となる。

 

 そんなことがずっと続いてきた。

 そんなことが死ぬまで続くのか。

 誰か教えてくれ。

 まだ完全には消えていないはずの記憶。俺の中には残っているはずの映像。頭のどこかに保存されている鍵の在処の情報。

 誰か、誰か誰か誰か誰か!!!


 無意味な嘆き。それをする度に真実の記憶から遠ざかっていく気がする。

 無意味な動き、混沌とした己の罪に当たり散らすように、無駄に激しく動く。

 

 燃えるごみの袋がひっくり返り、スナック菓子の袋に詰めたティッシュ屑が溢れ出す。コード類に引っかかりながら無理やり手を動かし、何本かが根元から抜ける感覚。足の裏でCDケースの断末魔が聞こえる。布団を吹っ飛ばすように捲り上げる。冬場の暖のない室内で汗が噴き出る。思わずコートを脱ぎ捨てる。運動分と冷や汗の比率。全てが皮肉。醜い精神性、全てがイビツ。脳内の片隅ではお気に入りのアニメのOP映像や漫画のワンシーンが倍速でリピート。探す動きに紛れて数ページめくるエロ漫画で不意に高まるリビドー。反射で動く身体。せめてこんな時ぐらい鋼の意思を!


 

 あぁ。

 もうすぐ、来てしまう。

 車を飛ばしたところで間に合わない、物理的な限界。

 俺はいつも、手遅れになってから冷静に現実を見る。

 こんな愚かな俺を、誰でもいい、救っておくれ。








 そのとき、

 頭の中に電気が走った。

 天の奇跡か、なにか。光るもの。なにかが流れるということは、繋がっているということ。俺はそのケーブルを、慎重に辿っていく。

 そうだ。昨日はあまりに眠くて、部屋に持ち込んでしまった鍵をいつもの位置まで持っていく気力がなかったのだ。あの汚部屋で、物を置ける残された場所っていったら、


「おおおぉぉああったあぁぁあーーーーっ!!!」

 終わった。

 ストーブの上にあった鍵を両手で抱える。図らずして、祈るような姿勢になる。


 諦めかけていたが、鍵はあった。

 神は、いるのかもしれなかった。

 愚かな俺にお告げをくれたのだと思えた。

 そのくらい、不意に忘れてしまったことを思い出せたという事実は、俺にとって奇跡的だった。


 だから、深く感謝する。

 人々を上から見る上位存在を仮定し、名前も知らぬその者に、短時間だが全力の祈りを捧げる。次は絶対にこうならないようにするとの誓いを込めて。



******



 勢いよくドアが開き、そこから息を切らした一人の青年が顔を出す。

 彼の表情は憔悴しきっていたがどこか晴れやかで、青年は鍵をきつく握りしめながら、この寒空の下を駆け抜けていった。






【Endless!】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ログアウト! 野良ガエル @nora_gaeru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る