第2話
「あれ? 青木くんだよね。久しぶり」
大学卒業後、市役所の介護保険課に勤め始めた俺。その窓口に操が手続きをしにやって来たのだった。秋山との仲が壊れたことで、疎遠になっていた。久しぶりに見る操は少しやせていた。
「お母さんの具合どう?」
「今は、落ちついて在宅ケアにかわったの。でも、マヒは残ってて、リハビリを続けてる」
そう言ってほほ笑む顔には、昔のような溌剌とした明るさはなかった。
「俺まだ新米だけど、相談にはのれるから。介護サービスもあるし、利用できるものは利用していこう」
操は礼を言い、相談日の予約をして帰っていった。生活費はどうしてるんだろう? 貯金を切り崩してるのだろうか? 聞きたいことは山のようにある。
でも、これで終わりじゃない。また会える。力になりたい。そう強く思えば思うほど、操に会ったことを秋山には言えなかった。
生ぬるい潮風を払うように、漆黒の海の上にあがる花火。俺は花火よりも隣に座る操の顔を、こっそり見ていた。
母親の介護者は一人ではなかった。叔母さんが手伝ってくれている。その叔母さんとデイサービスの助けをかり、操は週三日ほどアルバイトに出ていると聞いた。
今日も叔母さんに母親を見てもらうからと、俺を花火に誘ってくれた。花火大会の会場からは離れているが、この堤防の上は、人も少なく穴場の観覧スポットだった。
薄闇の中、色白の顔に映る花火の余韻。秋山はこんな美しい顔を見たことがあっただろうか? 二人でいるとどうしても、ここにいるべきもう一人を思い出す。
「今、秋山君のこと考えてたでしょう。私も」
眼差しは花火を見上げたままが、操が言った。
「勘違いしないでね。私もう秋山君の事なんとも思ってないから」
「嘘だろ」
思わず言ってしまった。嘘だと思いたいのは、俺のエゴだともわかっている。それでも、ここにいないもう一人の気持ちを、くみ取ってやりたかった。
「ばれたか……」
そうおどけて言うが、溌剌さをなくした暗い目で俺の顔を見つめる。
「俺は、秋山を思う気持ちもふくめて、君が好きだ」
秋山がいなければ、操と出会っていなかった。最初からずっと三人だった。もう、今さら二人っきりにはなれないんだ。
その一年後に操と結婚した。
*
堤防のコンクリート壁が、目の前に突然現れた。あたりに二人の姿はない。堤防の上を見上げる。その上を歩いていた。二メートル以上はあるだろう高い壁。
俺は堤防の突端に手をかけ、腕と足に力を入れた。手のひらに、小石が食い込む。その痛みに耐え、懸命に上がり前をむき、向こう側の夜景を臨む。生臭い潮風が頬をなぜた。
日は完全に落ち、暗闇がグラデーションとなり眼前に迫ってくる。あの日、色鮮やかな花火を映し出していた海峡はタールの色に沈む。
霧は晴れた。慎重に立ち上がる。夜目にも見える白いワイシャツ。そのすぐ横を黒いセーターが歩いている。俺はたまらず駆け出した。
秋山の通夜に、お前が現れるんじゃないかと怖かった。本当はすぐにわかったんだ、あの後ろ姿を見た時から。
「操!」
あらん限りの力をこめ叫んだ。カラカラに乾いた喉の奥が痛い。ぴたりと歩みを止めた女が振り向き、にこりと笑った。
飛行場のゲートへ手を振り消えていった、あの日の操がそこに立っていた。何も変わらないまま。
いや、変わっている。容貌などはそのままだが、まとう雰囲気が違う。あの頃の操は、追い詰められた顔をしていた。
結婚後、すぐに子供を授かった。つわりがひどく、産後もなかなか体調が戻らなかった。しかし、介護と育児を、完璧にこなさなければならない。その強迫観念にも似た思いに、操はとらわれていた。
俺が手伝おうとしても、大丈夫としか言わない。操をがんじがらめにしばりつけるものから、解放してやれなかった。
潮風に長い髪をもてあそばれている操は、すべてのものから解き放たれ、なんと清々しい顔をしているんだろう。あの学食で俺たちに哲学的質問をぶつけていた、快活な操がそこにいる。
聞きたい事は山のようにあるのに……何も言わない俺にかまうことなく、白いワイシャツの背中をちらりと見て、操は言った。
「私これから、この人と夫婦になるの」
ためらいのない決然とした声にたじろぎ、ゴクンとつばを飲み込んだ。
「何を馬鹿な事を言ってるんだ。はるかは、どうするんだ。お前の帰りをずっと待っていたのに。もう今年小学一年になったんだ。あの時一歳だったのに」
何の憂いもなかった操の顔がかすかにゆがむ。はるかに会いたいに決まっている。
「もう、あなたはわかっているんでしょう?」
はるかの事を聞かれると思っていた俺は、唐突な問いに呆然とした。操の言おうとしている意味がまったくわからない。ゆがみが消え、凪いだ海のように穏やかな表情が俺に答えを出すよう迫る。
この六年間何をしていたんだろう。お前を探さず、ずっと帰りを待っていた。
「俺は今でもおまえの事を愛している」
陳腐なセリフを聞いても、凪いだ表情は変わらない。こぶしを握り締め、あたりに正解がおちていないかと、落ち着きなく視線を走らせた。すると血走った目が、操の足元にくぎ付けになる。焦燥感に首を締めあげられ、息も絶え絶えに声を絞り出した。
「おまえは生きている。死亡届はまだだしていない」
コンクリートの上には、そこにあるはずの操の足がなかった。
*
六年前、リハビリを根気よく続けた操の母は快方に向かった。医師から介添えがあれば旅行にいってもいい、と言われるまで回復した。母親と二人で旅行に出かけてはどうかと言い出したのは俺だった。
日常ではない場所へ行き、少しでも気分転換になればと思った。操は素直にうなずき、一歳になるはるかの世話を俺にまかせ、二人で旅立った。
文学少女だった義母の希望で、行き先は遠野物語の舞台となった東北に決まった。旅先でレンタカーを借り、二泊三日の予定で回るはずだった。旅行二日目の三月十一日。あの日から二人の消息は途絶えた。
目をそむけたくなる現実が、テレビから流れ続けたあの日から三日。ようやく旅行会社の手配で被災地に入ることができた。
あの日あの場所は、磯の臭いと汚物がまじりあった強烈な臭いがあたり一面満ちていた。そこにあったはずのものが、巨大な水の力でなぎ倒され、つぶされ、ひしゃげていた。
義母はすぐに見つかった。二人が借りたレンタカーは写真屋の二階部分に突っ込んでいた。その中で、介護保険証を携帯していた義母一人が発見された。窓はすべて割れておらずしまった状態。中に操はいなかった。
震災時、高台に逃げる車で、道は渋滞していた。そこに津波がせまり人々は車をおいて逃げたそうだ。きっと、体の不自由な義母は、自分をおいて逃げるように操に言ったのだろう。
遺体安置所に指定されていた、小学校の体育館へ向かった。受け付けで名前をいい警察官に付き添われ、中へ入った。床には青いブルーシートがはられ、その上に百はかるく超える数の遺体が整然と並べられていた。
忙しそうに、警察官や医者と思しき白衣の人、消防団の法被を着た人達が立ち回っているのに、何も音がしない。恐る恐る、一歩足を進めると、ジャリっと砂の音がした。
指定された番号の遺体を確認した。毛布にくるまれた義母は、きれいな顔をして横たわっていた。病気で亡くなったのではないかと錯覚しそうになったが、固く閉じられた唇から、時折真っ黒な液体が流れ出し、それは鉄の臭いがした。
家に連れて帰るため複雑な手続きをしたが、遺体を運ぶ車両の手配に二日かかると言われた。その期日をのばしてもらい、操を探した。
最初はあちこちの避難所を探し歩いた。どこを探してもいない。身元不明の二十代女性の遺体が上がったと連絡があり、遺体安置所へ引き返した。
納体袋のチャックを震える手で開けた。しかし操ではなかった。日頃、信心など特にない俺も、さすがにこの時神か仏かわからない何かに感謝した。
操は生きている。車から出て、高台に向かう途中、けがをしたのだろう。そうだそうに違いない。ひょっとすると、口もきけぬほどのけがをしているのかもしれない。
今度は病院を回ったが、どこにもいない。そうこうしているうちに、義母の遺体を連れ帰る期日となった。
地元で葬式をだし、俺はまた被災地に戻り、操を探した。飛行機で東京まで行き、レンタカーを借り、車で行けるところまで行く。後は、長靴をはき食料の入った重いリュックを背負い被災地を目指す。何か所も歩いて安置所を回り、若い女性の遺体を何体も何体も、見て回った。
続けて有休をとるのはむつかしく、三、四日してまた地元に帰る。仕事が落ち着くとまた被災地へ向かう。そんな生活をしていると、どちらが現実かわからなくなってきた。
被災地から遠く離れた地元は、テレビさえ見なければ、震災前となんら変わることがない時間が流れていた。ただ、街が薄暗く、スーパーから特定の品だけが姿を消した。
身元不明の遺体は、どんどん土葬や火葬されていく。遺体の腐敗が進んできたためだ。俺がみて回った遺体も最初のころに比べ、だんだんとその容貌だけでは判断がむつかしくなってきた。逃げ出したい気持ちに縄をかけ、その幾多の顔を俺は正視し、操の面影を探し続けた。
何体目の遺体だったろう。納体袋のチャックに手をかけ俺は願った。
今度こそ、操であってくれと。
どんな遺体を見ても、操でないと安堵していたのに……絶望から目をそらし、「まだ生きている」そんなはかない希望を見ていたのに……
絶望が俺を容赦なく背後から蹴り上げた。
操の無事を確認するために、遺体をさがしているのか。操の死を確定させるために、遺体をさがしているのか。
俺が、探さなければ操は生き続けるのではないだろうか。
危うい逃避の公式にすがりつきなんとか正気を保つため、被災地へ行かなくなった。
秋山が、俺たちの結婚以来久しぶりに連絡をくれたのは、その頃だった。秋山といると、操の面影が実態をもってその場にいるような気がしてうれしかった。
市役所の上司は休みなら気兼ねなくとっていいと言ってくれたが、俺はただ大丈夫ですとしか言えなかった。同僚はたまに飲みにさそってくれた。
はるかを預けていた両親は、何も言わず子育てを手伝ってくれた。はるかは、祖父母から母親の死を教えられているようだが、俺の前では何も言わない。小学生になったからと、最近家の手伝いをしてくれるようになった。
俺だけが操の死から逃げ出した。
*
六年という時間を隔てて操と俺は今向き合っている。その隔たりを超えていくには、何もかも捨てなければならない。
白いワイシャツがゆれ、ゆっくりと振り向く。秋山だった。
今度は、お前が操といくのだな。
生前と変わらない秋山の精悍な顔。しかし、どこかさみし気で、詫び言を言いたげに唇が少し開いている。
昔から、おまえが羨ましかった。その羨望はあこがれだったと思う。操の中にある俺の面影もいっしょに連れて行ってくれ。俺は、ともにいけない。
覚悟を決めようと、大きく息を吸いこんだら、きつい潮の香りにむせ、せき込んでしまった。最後までしまらない自分に、自然と頬がゆるむ。
俺の自嘲的な笑いにつられたのか、二人の顔にもうっすらと笑みが浮かんだ。その表情を目に焼き付けようと瞬きをした瞬間、二人の姿は掻き消えていた。
*
「お父さん見て、うろこ雲がキラキラしてきれい」
手をつなぐはるかの声に促され、俺は空を見あげた。
秋の高い空一面にうろこ雲がうかび、西日に照らされ、オレンジ色に輝いていた。
「ほんとだ、きれいだ」
「本物のお魚を海の底から見てるみたい。お母さんも見てるかな?」
「見てるよきっと」
「海の底からかな? それともお空からかな? どっちだと思う?」
首を九〇度にまげ、口をポカンと開けて空を見上げるはるかの顔がかわいくて、その口調が母親そっくりでおかしい。
「はるかのすぐ傍でみてるよ」
きっと一人ではなく、二人で見守ってくれている。
はるかの顔一面に笑顔が広がり、俺とつないだ手をぶんぶんと振り回した。左手に持ったスーパーの袋がガサガサと音をだしてゆれる。おかしくて、うれしくて、泣きたくなって笑った。
さあいっしょに家へ帰ろう。
この日、市役所に操の死亡届を提出した。
了
新遠野物語 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei
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