新遠野物語
澄田こころ(伊勢村朱音)
第1話
芳名帳に書かれたミミズのような字を、じっと見ていた。白い紙にとけていきそうな薄墨のミミズ。筆ペンなんて使い慣れないから、みんなひどい字を書いている。日常ではない薄墨色の文字。
大学からの親友秋山が死んだ。地元の大学で出会ってから十年以上の付き合い。一時期疎遠になったが、ひょんなことからまた交流を再開した親友。
家族ぐるみの付き合いをしていたから、訃報は秋山の姉からすぐに届いた。朝の通勤途中、駅までの歩道を歩いていると、アクセルとブレーキを間違えた車にはねられた。八月のこの暑さに、頭がボーっとしたそうだ。
享年三十一歳。早すぎる親友の死。心がその事実に追いつかない。できれば今日の通夜にも出席したくない。薄情だと言われても、人の死が醸し出す負の感情から逃げ出したかった。
重い足取りで、なんとか通夜の祭場につくと、秋山の姉に故人の会社関係と友人用の受付をたのまれた。父親は地元で有名な企業を経営している。秋山はその会社を継がなかったが、社長の息子である。喪主である父親の会社関係の弔問客が多く、受付を分けたのだ。
正直ほっとした。俺は、受付の仕事が忙しいふりをして一度も式場には入らず、秋山の死顔や遺影さえ見なかった。
「ひさしぶりだな、青木。元気にしてるか?」
友人関係の受付なので、秋山と共通の友人に声をかけられたのも一人や二人ではない。今目の前に立ち汗を拭っている男とは、大学卒業以来合っていなかった。男の名前は馬場。
*
「おい知ってるか? 秋山の奴彼女できたらしいぞ」
講義が終わり荷物を片付けていたら、階段教室の下段に座っていた馬場がわざわざ振り返って話かけてきた。知らないと一言そっけなく答えると、不服そうにまだ話かけてくる。
「なんだ、おまえらいっつもいっしょにいるから知ってるかと思った。彼女かわいいんだって。いっしょに歩いてるの見た奴が言ってた。いいよなー顔がいい奴は」
まるで、顔のおかげで彼女ができたと言いたげだ。あいつはおまえより中身もいいんだよ。心の中で俺は毒ついた。なんだか気分がささくれている。別に馬場がうっとうしいわけじゃない。イラつかせるのは、俺が知らなかったという事実。
*
「元気なわけないだろ。バカか」
おどけて言ってやると場所柄を忘れていたと言わんばかりに、馬場は口を手で覆った。久しぶりに会う仲間も多く、同窓会気分なのだろう。
「すまん、不謹慎だった。最近まで仕事で海外に出てて、ついみんなの事懐かしくて」
俺は、気にするなと肩を小突いてやった。
「おまえも大変だったよな。最近あった同期の奴に聞いたんだ。嫁さんの事……」
そこまで言って、後ろからおされ、馬場は前につんのめった。後ろの女性は、でかい体を押しのけ言った。
「もう、後ろに人が並んでるのにこんなところで世間話しないの」
彼女はさっさと筆ペンを走らせ、ごめんねと目であやまり、馬場の腕をつかみ向こうへ連れて行った。彼女も大学の同期だった。遠くから、あんたは昔からデリカシーがない、と罵倒する声が聞こえてきた。
その声をぼんやり聞きながら、先ほど会った同期の奴らの顔を思い出していた。腫物にでもさわるような、憐みの表情。しかし、その顔にははっきりと書かれていた。「嫁さんどうなったんだ?」
俺の妻は、数年前から行方不明。東北へ旅行に行ったきり、帰ってこない。俺はおいていかれた、哀れな夫というわけ。幸いなことに、一人娘はおいて行ってくれた。父子家庭になった俺を気の毒がって、しばらく連絡を絶っていた秋山が、数年ぶりに連絡をくれた。それから、よく三人で出かけた。
男二人に幼児という風変わりな組み合わせで遊園地へでかけた時、秋山が言った。
「俺たちなんだかゲイカップルみたいだな」
唐突に真顔で言われた俺は、爆笑した。秋山がゲイであるはずがないから。
*
「彼女の
野球観戦のため、待ち合わせをした駅前で突然紹介された。一番って……馬場は知ってたみたいだけど。そう言いかけて、やめた。馬場は「らしい」としか言ってなかった。
秋山の隣に楚々とした雰囲気で、立っている彼女。馬場が言っていたことは正しい。俺は心の中で、呟いた。
まじまじと見るわけにもいかず、俺は初めましてと言って頭を下げた。
「秋山君が言ってた通りの人ね。真面目でとっても優しそう」
屈託なく笑う彼女に少々腹がたった。というか、秋山は俺をそんな風に思ってたのか。真面目……子供のころから耳にタコができるほど言われてきたセリフ。俺の曇った表情に彼女は気づいたようだ。
「あっごめんなさい。なんか偉そうにいって。でも、真面目って堅物とかそういうマイナスのイメージではないんです。他人の思いをくみ取って、それに最適なかたちで答えることができる人が真面目だと私は思います」
「そうそう、青木は柔軟な真面目で、操は頑固な真面目なんだよな」
秋山はそういって豪快に笑った。その横で彼女は「頑固」という言葉に納得できないと、口をとがらせた。
「似てるって言いたいんだよ。だから、二人は気が合うと思ったんだ」
なだめるように秋山が言った。そんな二人を見ていたら、ささくれた心は一変した。
その後、三人で野球観戦に行くのだろうと思ったら、彼女はあっさり帰っていった。
「いいのか? 三人で行きにくかったら俺帰るよ」
「いいんだ。青木との約束が先だったんだから。操も誘ったんだけど、男同士の付き合い大事にしてだってさ。なっ真面目だろ?」
驚いた。普通男友達を優先すると、たいてい「私と友達どっちが大切なの?」というセリフがくるものだ。実際、俺も昔付き合ってた子に言われたことがある。
「いい子だな」俺が言った言葉に同意するように、秋山は眉を片方上げて笑った。
*
もうすぐ通夜の開式が迫っていた。この時間さすがに弔問客も少なく、香典をまとめていると、うつむく俺の横を誰かが通り過ぎる気配がした。
顔を上げ振り向くと、受付をすまさず会場に入ろうとする髪の長い女性の後ろ姿が見えた。会場内は寒いくらいクーラーが効いている。しかし、その女性は薄い黒のセーターを着ていたのだ。ずいぶんと寒がりな人だな。そう思い、呼び止めるタイミングを逃してしまった。
葬儀場のスタッフに香典を渡すと、会場に入るよう促された。ちょっと一服と、喫煙ルームを探すふりをして、壁際のソファーに沈み込む。
目を閉じると先ほどの黒いセーターの後ろ姿が浮かんだ。芳名帳に名前を残したくなかったのだろうか? いや、ただ単に急いでいただけかもしれない。
なんにせよ、もう死んでしまった人間の交友関係を詮索するものではない。しかし、あの女性が秋山にとって大事な人であってほしい。そんな虫のいい考えが頭の中をよぎった。
*
大学の学食は昼のピークをすぎ、自主休校した生徒や、時間つぶしの学生たちの気だるい時間が流れていた。
「昨日見たドラマに、一番好きな人とは結ばれないってセリフがあったの」
三回生になり、本格的な就職活動を前にして、悠々とした時期を過ごしていた。俺たち三人はよく学食にたまっていた。学内だけでなく、休日も三人で過ごす事が多かった。秋山が言ったように、俺と彼女はとても気が合った。
「そもそも結ばれるって、どういう事なのかな。体が結ばれる? 心が結ばれる? 婚姻っていう制度で結ばれる? どれだと思う?」
俺と秋山は顔を見合わせ、また始まったなと目で合図し口の端を下げた。
「うーん、俺は心だと思うな」
秋山が、少女漫画のような事を言う。
「昨日のドラマって不倫のやつだろ? じゃああのドラマの中では、結婚って事じゃないのかな」
「私も最初はそう思ったの。でも、結びって終わりって意味もあるでしょう? 結婚したら終わりなのかな?」
他愛ない会話を楽しむというか、答えがでない哲学的な彼女の疑問に振り回されるというか。こっそり、秋山に二人の時もこうなのかと聞いたことがある。答えはイエスだった。その言葉に安堵したことを、二人には言えない。
結局いつも通り答えが出ないまま、学部の違う彼女と別れ、秋山と講義棟に移動した。
「さっきのセリフ俺は嘘だと思う」
そのお題はもう終わっただろう。にわかに話し出した秋山に、半ば呆れていった。
「一番好きな人ってやつか? じゃあさっきそう言えよ」
「言えるわけないだろ。なんかプロポーズみたいだし」
なぜそのような思考になるかさっぱりわからない。
「俺は、一番好きな人と結ばれるつもりだし。いや、結ばれるって確信してるから」
あーそういう事か……二人が付き合って二年以上たった。もう秋山は先の事を考えているんだな。二人が結婚しても友人に変わりはないだろう。でも俺は、今この瞬間を大事にしたかった。
しかし皮肉にもあのセリフは秋山にとって、真実となってしまった。
大学卒業間近、彼女の母親が脳梗塞で倒れたのだ。母一人子一人の母子家庭で育った彼女は、半身不随になった母親の介護に献身的にあたった。秋山もそんな彼女を手伝い、経済的にも援助できるよう結婚を申し込んだ。しかし、秋山の両親はそれを許さなかった。
息子に介護などさせたくない。好き好んでしなくてもいい苦労を背負わなくても、ほかに女性はいくらでもいる。そういう理由だった。もちろん秋山は反発し、家族と縁を切ってまで、結婚準備を進めていた。
市役所に勤務しだした俺が、ようやく仕事に慣れ始めた夏の夜。居酒屋に呼び出された。
クーラーは効いているが、酒の臭いと食べ物の臭いが充満した店内は、居心地のよい場所ではなかった。秋山はそんな店の一番奥で酒を飲んでいた。酒が弱いのに、ビールの大ジョッキが空になっていた。
「おい大丈夫か? なんか顔色悪いぞ。今日操ちゃんの家に行くんじゃなかったのか」
「行った」と一言いい黙り込む。ただならぬ気配をさっし、俺はわざと明るい言葉をかけた。
「こんなとこで、油売ってたら操ちゃんに怒られるぞ」
うつむいていた秋山は顔を上げ、横に座る俺の顔をみた。その目は瞬きもせず虚ろだ。
「家族を捨てるような人とは、結婚できないって言われた」
彼女の言葉だとは信じられなかった。でも、その言葉の表層をはがせば、奥に秋山を思う気持ちが
*
通夜が始まった。僧侶の読経が地を這うように聞こえてくる。覚悟を決めて立ち上がると、目の前を影が横切った。その影は先ほどの黒いセーターの女性だった。一人ではなく男と連れ立って、階段の方へ歩いていく。この会場は二階だった。通夜が始まったばかりだというのに、帰るのだろうか?
その理由を問いただしたく後を追った。ちょうどエレベーターが二階に止まっている。先回りしようと、ボタンを押した。一階につき、ホールを見回すと、二人の人影は外へ向かうガラス戸の向こう側に見えた。慌てて後を追う。
葬儀場は県道沿いに建っていた。七時を回った夏の時刻、まだほんのりと辺りは明るい。酷暑の太陽に焦がされたアスファルトから、熱気が上がってくる。探している二人は、県道の向こう側へ移動していた。信号を待っていると間に合わない。家路を急ぐ車列を縫うように、渡った。
薄暗い中でも目立つ、男の白いワイシャツ。あの男は何者だろう? 葬儀場のスタッフだろうか? なぜ弔問客と連れ立って歩いているのだろう? いったい二人はどこへいくのだろう。
二人の影は、工場が立ち並ぶ工業団地へと向かう角を曲がった。プンと潮の香りがする。浜辺で嗅ぐ、さわやかな匂いではなく、この暑さのようによどんだ磯くさい臭い。俺はそくざに顔をしかめた。この町は港町で、海は日常の風景だ。しかし、ここ数年、俺は海へ近づいていない。
車の往来が途絶えた工業団地内の道は、暗く沈み海へと続いている。この先に堤防がある。しかしいつの間にか霧がたちこめ、前方が陰鬱にかすみ、向こう側が見えない。
もう、引き返そう、あの女の正体なんて知らない方がいい。死人のプライバシーをのぞくなんて行為は、下衆の勘繰りに他ならない。もうやめろ引き返せ!
そう心の中で叫んでも、霧の中白いワイシャツに引っ張られ、足が勝手に動いていく。霧でかすんで見えないが、はっきりと辺りの景色が、脳裏に浮かんでいる。ここに一度来たことがある。花火を見るために、操と二人で。
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