カロンの渡し舟

紺道ぴかこ

カロンの渡し舟

恭香きょうか、起きて……恭香!」

 体を激しく揺さぶられ、恭香は目を開けた。視界に入ったのは、よく見知った姉の顔だった。

涼香りょうか姉さん……?」

 ぼんやりした調子でつぶやくと、涼香は安心したように表情をほころばせた。

「よかった、目を覚ましてくれて。それじゃ、行くわよ」

 涼香に手を引かれ、立ち上がる。思わずうなずいてしまったが、踏みしめた草の感触に疑問を抱いた。手をつないだまま歩き出した涼香の背中へ訊ねる。

「ここはどこなの?」

「見ればわかるでしょ、森の中よ」

 辺りを鬱蒼とした木々に囲まれているのだ。ここが森であるのは間違いないだろう。しかし、恭香が聞きたいのはそういうことではない。

「どうして私、こんなところにいるのかしら?」 

「なんでこんなところにいるのかは……あたしが聞きたいくらいだわ。あたしはあんたを探しに来ただけだし」

「そうなのね。私、また居眠りしちゃったのかしら……」

 恭香に背を向けたまま、涼香が軽く肩を揺らして苦笑を漏らす。

「それで、どこに行くの?」

「……うちに帰るのよ。それ以外なにがあるの」

 そっかとうなずき、涼香に手を引かれながら柔らかい草の上を歩く。足取りに迷いがないところを見ると、帰り道を完璧に把握しているのだろう。さすが姉さん、知らない間に知らない場所で眠り込んでしまう自分とは大違いだ、と恭香は心の中でつぶやいた。

「それにしても、私どこまで来ちゃったのかしら。うちの近くにこんな森はなかったわよね?」

 涼香は心ここにあらずといった様子で「そうね」と小さく口にした。らしくない返答に首を傾げる。「知らないわよ、あんたが勝手に来たんでしょ」くらいの返答は予想していたのだが。

「もしかして、お父さんの実家の近くかしら。よく一緒に虫取りとか木登りとかしたわよね」

 幼い頃住んでいた場所は見渡す限り田畑が続いているような田舎であったが、両親を事故で亡くして都会の親戚に引き取られてからは、背の高い建物が多く立ち並ぶ中で暮らすことになったのだ。引っ越した当初は落ち着かなかったが、今はもう人工物に囲まれた生活が当然のように思えていた。つい最近も近所で新しいビルの建設がはじまったんだっけ、と恭香が思考を巡らせていると、「ふふっ」と涼香が小さく笑った。

「恭香ったら、あたしがやめろ、って言ってんのに、がんばって木に登ろうとしてたわよね」

「それは……一緒に遊んでるんだから、私も同じことしたいじゃない」

 快活で行動力のある姉と正反対に、恭香は自身が「大人しい」に分類されると自覚している。それでも幼い頃は、姉と同じことがしたかった。虫取りも木登りも苦手だったけれど、それらを姉がしている姿を見るとうらやましくなるのだ。

「一緒に、か。……ねえ、恭香」

 涼香が足を止め、振り返る。なに、と聞き返そうとして、しかし言葉が出なかった。恭香を見つめるその瞳は、あまりにも真剣な色を宿していたから。

「これからも、ずっと……あたしと一緒にいてくれる?」

「当たり前じゃない」

 答えの決まりきった質問に拍子抜けしながらも、恭香は力強くうなずく。涼香が目を伏せる。握ったままの手が、少しだけ震えているように感じた。

「急にどうしたの?」

 恭香の問いかけに答えようとはせず、涼香は唇を震わせ、言った。

「死ぬときも?」

 おもむろに絞り出された言葉に、一瞬言葉に詰まる。しかし、考えるまでもないことだ。先ほど同様、恭香はきっぱりと答えてみせる。

「もちろん。ずっと一緒だったんだもの、死ぬときも一緒よ」

「……そう」

 涼香が背を向け、再び歩き始めた。

「約束よ、姉さん」

 ささやくような言葉に返事はなかったが、微かにうなずいたのが後ろからでも見て取れ、恭香は安心したように微笑んだ。

 つないでいた手は、いつの間にか離れていた。


 木々の合間を抜けても、見慣れた都会の風景は戻ってこなかった。

 森を抜けた先にあったのは、大きな川。穏やかな流れの向こう側は、白い霧に覆われ見通すことができない。

 川べりには古ぼけた小さな木の舟が停まり、その脇には櫂を手にした少年が控えていた。少年は二人の姿を目にすると、ほうと息をついた。

「ちゃんと連れてきたんじゃのう。あまりにも遅いから来ないのかと思ったわい」

 若々しい見た目に反し、その口調は年老いていた。しかしそれ以上に、恭香には気になることがある。少年の口ぶりからして自分たちを待っていたようだが、少年の姿に見覚えはない。老人のように話す少年など、一度知り合えば忘れそうにもないのだが。

「約束よ、カロン。あっちに連れていってくれるわよね?」

 首を傾げる恭香をよそに、涼香が一歩前に踏み出す。少年は涼香の知り合いのようであるが、違和感を覚える。得体の知れないもやもやが、体全体に広がっていくような感覚に襲われた。

 にらみつけるような涼香の視線に、少年は快活に笑ってみせる。

「無論。もとはといえばこちらが間違えて連れて来たんじゃからのう」

 少年が舟とへりをつなぐ紐に手をかける。恭香は困ったように涼香に視線を送ったが、「乗って」と静かにうながされた。

 聞くのは後でもいいか、と舟に乗り込む。舟はきしんだ音を立て、水面に波紋を作った。見た目は古いが、乗ってみると案外頑丈そうだった。

「じゃ、行くかの」

「えっ? ちょっと待って」

 こぎ出そうとした少年を慌てて制止する。涼香は、まだ岸に残っている。 

「姉さんがまだよ。ほら、つかまって」

「……」

 舟から身を乗り出して涼香に手を伸ばすが、彼女はそれを掴もうとしてくれなかった。胸の前で握りしめたこぶしが、震えている。

「すまんのう、その娘は連れていけんのじゃ」

「……へ? どうして」

 小さな舟ではあるが、あともう一人くらいは乗せられるだけの広さはある。

「恭香」

 抗議を口にしようとした恭香を、涼香の静かな声が遮った。

「あたしは帰れないの。一人で行ってちょうだい」

 姉の言っていることが理解できず、言葉が出ない。そうこうしている間に、少年が櫂を川へと下ろした。

「そういうことじゃ。行くかの」

 舟がゆっくりと動き出し、腰を浮かしていた恭香はしりもちをつく。止める間もなく、舟はどんどん岸から離れていった。

「ま、待って! どこに行くの? 姉さんは一緒じゃないの!?」

「無論、おぬしを帰すのじゃ。あの娘は、自身が言っていた通り帰すわけにはいかぬのでな」

「意味がわからないわ……姉さん!」

 遠ざかる岸に向かい、叫ぶ。陸に残された涼香は、笑顔で手を振っていた。いつもと変わらぬはずなのにどこか違う姉の表情に、胸がざわく。さっき感じたもやもやが、より色濃くなって恭香をのみ込む。

「姉さん、姉さん!」

 舟が進むにつれ辺りは白い霧に包まれ、姉の姿が見えなくなっていく。恭香の意識も、徐々に白い中に飲まれていった。

「先は長いでな。少し、眠るといい」

 舟をこぐ穏やかな音を聞きながら、恭香はまどろみの中へと落ちていく。最後に耳に届いた言葉と一緒に、溶けるように。

「さよなら」

 

 ゆがんだ視界の中で、白が映えて見える。さっきまで辺りを包んでいた霧とは違い、はっきりとした白だ。

 ベッドに横たわった恭香は、白い天井を見上げていた。ぼんやりとする中で、アルコール独自のツンとしたにおいが鼻をつく。部屋に漂うにおいは、ここは病院なのだと教えてくれた。

 すぐ近くで、ピッ、ピッと規則正しい電子音が鳴っている。きしむような痛みに耐えられず、体を起こすことは叶わなかった。仕方なくシーツに身を預けたまま、視線だけを音のする方向へ動かす。

 隣のベッド――電子音を鳴らす機械につながれている人物を見て、はっとした。

「……姉さん」

 隣のベッドに寝かされた姉は、頑なに目を閉ざしていた。体中に巻かれた包帯が、見ているだけで痛々しい。

 傷だらけなのは恭香も同じだが、姉の比ではない。いったいなにが。鈍痛が頭に走り、記憶を呼び起こす。


 二人で買い物に出かけた帰り道。建設中のビルの前を歩いていたときのことだった。凄まじい音を立てて頭上に鉄骨が迫ってきて、そして――。

『恭香!』

 落下する鉄骨を呆然と見上げていた恭香は、叫んだ声の主に突き飛ばされた。おかげで、直撃はまぬがれたのだ。

 恭香をかばった、涼香の代わりに。


「……姉さん」

 痛みに耐え、涼香へと必死に手を伸ばす。呼びかけても、柔らかい頬に触れても、もう手を掴もうとはしてくれない。

 岸から手を振る姿が、最後の言葉が、脳裏によみがえった。

 彼女はおそらく、わかっていた。自分はもう、こちらに戻ることはできないと。

 わかっていて、恭香だけを送り返した。

「嘘つき」

 頬を流れるしずくと一緒にこぼれた言葉は、停止を示す無機質な音にかき消され、消えた。

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カロンの渡し舟 紺道ぴかこ @pikako1107

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