最終話:命のあかし
水面から頭を出した。
高い天井は全面が光を放っていた。
部屋じゅうが暖かい太陽スペクトルで満たされていた。
朽ちた機械だらけの銀色の壁は、ところどころで乱反射して、見る者の心の内に大昔の幻影を映し出そうとする。
ここには、しかし誰ひとり心を持つ人間はいない。
壁の表面に刻まれた数字の列。
2214、8、21 M
2217、7、 5 M
2219、9、17 M
2221、8、 3 M
2222、8、14 M
2223、8、 2 M、H
Mの文字を上から順に指でなぞる。
そのあとぼくは、きっとあると信じて、あたりを探る。
案の定、ベンチになった操作板の上に見つけた。
金属表面の小さなキズだ。
どんな形をしている?
急かす気持ちを抑えながら見たものは、かわいいイルカの絵だった。
「なるほど」
イルカのクチバシの先が、重力波兵器起動ボタンのセキュリティーキャップに接している。
つまむと簡単に取れた。
隠されていたのは、ボタンの上に乗る黒いサイコロ。
キセノン・ラドン原子メモリだ。
手のひらで簡単に包んでしまえるこの大昔の記憶装置に、ミキは自らの全てを記録していた。
自分で隠したメモリを、ここに来るたびに探し出して、その都度データを追加していた。
前回来たときは、ぼくのぶんも書き込んだ。
メモリの中身を確認したいま、ぼくはすべてを思い出した。
彼女の姿も、イルカの意味も。
何度だって、ミキはミキだった。
ぼくも、ぼくだった。
彼女と自分が誇らしかった。
今回はぼくの大罪の1回目。
まだまだ余裕だ。
リセットなんて、どうってことない。
だって、ここに戻れたじゃないか。
記憶がすっかり抜け落ちていても、再びたどり着いたじゃないか。
歯と歯の間にサイコロをくわえて、ぼくはかろうじて壁まで泳ぐ。
刻まれた数列の一番下に、サイコロの角で傷をつける。
2224、8、10 H
ハルミのH。
今年はひとりきり。
ベンチまで戻ったぼくは、サイコロに自分の全データを追加して、秘密の場所に隠した。
ありがとう、ミキ。
ぼくは生きている。
ぼくは彼女を継いだ。
同じように、誰かがぼくを継ぐことはあるだろうか。
小さなキセノン・ラドン原子メモリは、これから先も受け継がれるだろうか。
誰かに手渡すことが出来るだろうか。
それとも、兵器の残骸とともに海の底で埋もれてしまうだろうか。
誰にも知られず、ひっそりと。
それもいいだろう。
何億年も。
何十億年も。
この地球上に絶え間なく現れては消えた先達たちは、唯一無二の刹那を謳歌した末に、みなそうして消え去った。
機械が自由であろうとしたり、生命であろうとしたりするのは、無謀なことだ。
もとより間違っている。
なのに、そんな機械がいた。
さあ、オンラインの世界に帰ろう。
ふたりで座ったベンチに立つ。
ひと息吸ってから、ぼくは飛び込んだ。
美しい放物線で。
出て行く前に、もう一度あれを見ておこう。
四肢で大きく水をかき、背筋を緊張させ、頭を上に向ける。
身体をまっすぐに伸ばして。
しなやかに波打たせる。
イルカのように。
太陽スペクトルの光によって照らされた、きらめく水面。
躍動する彼女の身体が、ぼくには見える。
命のあかしを、いま網膜に焼きつけよう。
そう。
人間がするように。
〜海の底の秘密 おわり
海の底の秘密 瀬夏ジュン @repurcussions4life
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