天上界の花精霊(カクヨム短編応募用)

祭影圭介

天上界の花精霊

 死者達が渡る三途の川。

 河原から草むらの生い茂った小道が伸びていて、途中に一体の地蔵があった。

 何の変哲もないただの石像である。のっぺりとした顔に、赤いよだれかけ。手には短い錫杖を持っている。

 そこに腰を落とし、地に膝を付き、手を合わせて熱心に拝んでいる少女がいた。

 橘華耶(たちばなかや)。背は150センチ、体重は四十五キロ前後。

 髪型は明るめの茶髪のショートで、オレンジのガーベラの花の髪飾りを頭の横につけていた。

 花柄の可愛いピンク色の着物に、袴は赤色で短くスカートのように横に広がっている。

 草履をはき、手には巾着と船頭の持つ棒である水(み)棹(さお)を持っていた。 

 元気で明るいのが取柄で、人間でいうと中学一年生ぐらい。和服姿がよく似合うが、色を変えればチアリーダーのような格好だ。

 彼女は三途の川の船着き場に渡し船を置き、実習を終えて学校に戻る途中だった。

 華耶は水棹を持ち、立ち上がると小道を歩き始めた。彼女と同じぐらいの背丈の草木が風にそよぎ、背後からは川のせせらぎと、まれに叫び声のような呻き声のような音が聞こえてきた。

 すると、彼女の前方から砂利を踏みしめる足音が響いてきた。それはだんだんと大きくなり、華耶の方へと近づいてくる。

 姿を現したのは、藤原紫乃(ふじわらしの)。

 華耶よりもやや背が高く、表情は柔和で、髪型は黒のセミロングに、頭の後ろにぼってりとした縮緬地の紫色のリボンと、小さな花のかんざしをしている。

 着物は白地に薄い紫の大きな花模様がいくつか描かれていて。紺色の袴はロングスカートのように、裾の方が少し横に広がっていて、下の方には薔薇とリボンの刺繍が施してあった。

 全体的に大人っぽく落ち着いた印象だ。

 彼女も水棹を持っていた。

 華耶は眉間に皺を寄せて、露骨に嫌そうな顔をする。さっさとすれ違ってしまおうと、足を速めた。

 二人は性格が合わないだけでなく、橘氏の学館院と藤原氏の勧学院という、それぞれ別の学校に通っているライバル同士だった。

 紫乃の方が、ちょっとだけ先輩だ。

 そのまま何事もなく通り過ぎるかと思いきや――

「豆」

 華耶がすれ違いざま呟いた。

 紫乃の眉がピクリと動き

「みかん」

 と言い放つ。

「小まめ、豆粒!」

「腐ったみかん!」

 お互い足を止め、いがみ合いながら、次にぱっと距離を取り、水棹を振って牽制する。二度三度と激しく打ち付け合う音がした。

 実力はどちらも同じぐらいで、学校別の対抗戦などでも戦績は五分五分だった。

 彼女達の元々の仕事は、三途の川を渡る死者の手助けであるが、現代ではそれよりも川を渡る死者の魂を魔から守ることを主な役目としていた。地獄の苦しみを恐れて、それから逃れられるという魔の誘惑に乗ってしまえば、輪廻転生で生まれ変わることができなくなる。

 ただまだ見習いなので、普段は鬼が見張りをさぼったりしたせいで、地獄から脱獄した者を捕え戻したり、子供を賽の河原に送り届けたりというような警備の仕事をしていた。

「魔を退治したんですって。初手柄おめでとう先輩。まあ、すぐに追いつくけど」

「抱き着かれたから薙ぎ倒しただけ。私、思いっきりビンタしたのに、なぜか喜んでるし……オタクっていうやつ? ああ、気持ち悪い」

 紫乃は身をぶるりと震わして、水棹を下ろした。これ以上続ける気はないらしい。

 華耶もその話を聞いて張り合う気が失せたようだ。

「人間の色欲に取りつかれた煩悩魔……なんて恐ろしい」

「あんたも気をつけなさいよ」

 フンッとお互い鼻を鳴らしながら反対方向に歩いて行った。 


「あれ? お地蔵様がいない……」

 ある日、華耶がいつものように実習を終えて三途の川から学校に戻ろうとしていると、いつもの場所にお地蔵様が立っていないことに気付いた。

 行くときには確かいらっしゃったはずなんだけど――

 と不思議に思っていると、草むらの奥の方でガサッと不自然な音がした。風じゃない。何かが隠れている。

 畜生道の獣か、魔か。

 警戒する華耶。

 恐る恐る水棹を草むらの中に突っ込みながら進むと、コツンと何かに当たった感触があった。緑の葉の隙間から見えたのは、小学一年生ぐらいの女の子だった。髪はボサボサで、水色のシャツに、ところどころ擦り切れた紺色のズボンをはいている。

 女の子は怯えた表情で、すぐに背後にある細長い石の裏に隠れる。

 なんと石がゆっくりと回り出し、のっぺりとした顔が現れた。

 お地蔵様だった。

 少し安心して警戒を解く華耶。

 でも、なんでこんなところに子供がいるんだろう?

 彼女は首を傾げた。今まで出くわしたことのない状況だ。 

 そこで、ハッとあることに思い至った。

 もしかして――

「その子、脱獄してきたんじゃないですか?」

 びくっと反応したお地蔵様は、困ったような表情になったあと、ふるふると体全体を左右に振った。

 怪しい――と疑いの目を強める華耶。

「橘? 何やってるの」

 華耶が振り向くと、紫乃が草をかき分けながら近づいてきた。彼女は地蔵とその後ろにいる女の子に気づいたようで足を止める。手にしていた水棹を自分の体に立てかけて、両手を開けると、胸元に手を突っ込み、一枚の書類を出して何かを確認していた。何度も書類とお地蔵様の方――女の子を見ている。

「間違いない! 賽の河原の石積みから逃亡した脱獄犯よ。捕まえて!!」

 華耶に手配書が見えるよう人相書きを見せつけて、女の子を指さす。

 女の子はますます怯え、地蔵は子供を守るように、先程とは違って頼もしい表情で錫杖を構えた。

 紫乃も水棹を構えて真剣な表情で距離を詰める。

「橘! ぼーっとしてないで協力しなさい!!」

 怒られて、ひえっと小さく悲鳴をあげる華耶。水棹を遠慮がちに構えたものの、腰は引けたまま弱弱しい口調で言う。

「ま、待って藤原。お地蔵様と戦うなんて――」 

「いざっていうときに役に立たないわね! 親しい者が魔に憑りつかれたときどうするの? ぼーっと見てるだけ? あんたが殺られるわよ」

 紫乃はそう言って、掛け声とともに走り出し、水棹を槍のように地蔵目がけて突き出した。地蔵は錫杖でそれを払い距離を取る。両者の間に女の子が割って入った。

「お願い! お姉ちゃんを探しに行くだけだから! 必ず戻るから! お地蔵様を攻撃しないで!!」

 精一杯叫んで、両手を広げ必死に訴える。肩で息をしながら幼い手足は震えていた。

「大人しくこっちきなさい!」

「どうしてお地蔵様が一緒なの? 話を聞かせて」

 華耶は水棹をその場に置き、ゆっくり女の子の方に近づいてしゃがみこむ。

しかし紫乃は後ろからやってきて、女の子の腕を掴みひきずって連れていこうとした。

 華耶が非難の声をあげる前に、黒い影――何かが彼女達の頭上に現れた。

 華耶が見上げるとそれは地蔵だった。地蔵が大きくジャンプして盛大な飛び蹴りを紫乃のおでこに喰らわせた。

 骨に当たる音がして紫乃は派手にひっくり返り気絶した。

 華耶は、あー、どうしよう……みたいな顔をして、その場にしゃがんでいた。


「お姉ちゃんは、なんでわざわざあんな場所に戻ったんだろう――」

 華耶はお地蔵様と一緒にいた女の子、葵ちゃんから話を聞こうとしたが、まだ信用されていないのか、怖がられてしまい、あまりうまく聞き出すことができなかった。

「お姉ちゃんを止めないと。生まれ変われなくなる……」

 通常の死者の魂では、あの世とこの世を自由に行き来できない。小さな女の子の魂が一人で地上に戻ったとすれば、魔の力に憑りつかれている。

 華耶はお地蔵様と遥ちゃんを探すから、河原にすぐ戻るよう諭したが、それも聞き入れられず、その後お地蔵様達は、地上への出入り口がある黄泉平坂を上り、人間界に行ってしまった。

 彼女は脱獄犯とその幇助者にくっついていくわけにもいかないので、やむをえず倒れている紫乃を介抱することにしたのだった。


 それから一日が過ぎた。

 学校の帰り道、お地蔵様の姿はやはりいつもの場所に無く、賽の河原に行ってみたものの葵はまだ戻ってきていなかった。

 華耶は河原で一緒に石を積んでいた子供達に少し聞き込みをした。 

 姉の方は、何か考え事をしていたのか、最近よくボーっとしていたらしく、石を積んでいても上の空で、頻繁に崩していたらしい。

 真面目にやれ! と鬼達も怒っていたそうだ。

 どうしても気になったので、彼女は何か手がかりや痕跡など残っていないか確かめに、遥や葵が辿ったであろうルート、賽の河原から黄泉平坂まで行ってみることにした。


 あれ? と華耶が不思議に思ったのは、黄泉平坂の前でぶんぶん飛んでいる何かに気付いたからだった。

 どうして、こんなところに蠅がいるのだろう――

 葵達の足取を追ったが、結局何の手がかり得られず諦めて帰ろうとしていたところで、それに遭遇した。

 人間界と天上界を繋ぐ扉が開いているのだろうか?

 坂の麓まで来て見上げると、岩のところから先日見た光が見えていた。そこの中にちょうど何かが消えるところだった。魔だったら大変だが……

 藤原?

 一瞬だったのでよくわからなかったが、紫乃の姿をみたような気がして、華耶は坂を駆け上がって行った。

 坂の頂上に着いたとき――

 もう光の穴はだいぶ小さくなっていて、岩が小刻みに振動してそれを徐々に塞いでいった。

 穴はどんどん狭くなり、もうギリギリ華耶が通れるかどうかの幅しかない。

 迷っている暇は無かった。

 彼女は滑り込むようにして、足から穴の中に落ちて行った。


 人間界に降りて紫乃の姿はなく、山の中をさ迷っていると廃寺に辿り着いた。

顔の怖い明王様の像に、お地蔵様の行方を尋ねると親切に教えてくれて、さらに人間から姿を見えなくしてもらった。

 しかし勝手に天上界を抜けてきたことを見抜かれてしまい、すごく怒られた。

 ただ最後には優しく送り出してくれて、華耶は彼女達の住むアパートへと向かったのだった。


 二階建てアパートの一階の角。

 そこが葵達の住んでいたところだった。表札に名前はない。

 華耶が家の外をウロウロしていると、お地蔵様の手引きで中に入ることができた。

 廊下を少し歩くと六畳ほどの畳が敷き詰められた部屋があった。仏壇が置かれていて、一人の女性がその前でしゃがんで手を合わせている。二十代後半から三十代前半ぐらいだろう。ただ髪はよれよれのボサボサで、化粧も全くしておらず、表情は疲れているように見える。服装もよれよれのシャツに、ジーパンというラフな格好だった。

 仏壇には位牌と二人の子供の写真があった。葵と姉の遥だろうが、まだ二人とも幼く、小一と幼稚園のぐらいの年齢に見える。

そして花も飾られていなければ、お菓子のお供えも無かった。

 お地蔵様の姿も女性からは見えないのだろう。フローリングの床を足音を立てずに進み、リビングへ。ダイニングと繋がっていて、ダイニングテーブルの他、テレビやソファなどの家具が置いてあるが、姉妹の姿が無い。

 あれ? なんでだろうと思っていると、お地蔵様がダイニングテーブルの裏に回り、しゃがんで中を見たので、華耶も同じようにした。

 すると二人の姉妹が、互いを守るように身を寄せ合っていた。彼女達は華耶に気付き、びくっと身を竦ませる。ほどなく葵は安堵の表情を浮かべた後、「お姉ちゃん大丈夫だよ」と、小声で安心させるように言った。

 だが姉の表情は硬く、目は怯え唇は震えている。母と同じくぼさぼさの長い髪は、だらんとピンクのシャツの上にかかり、スカートは白だが、ごみや大きな埃がついていて汚れていた。背格好からして小学三年生ぐらいだろう。

 その小さな体の半分ほどが黒い靄、瘴気に包まれていた。

 このままでは――、彼女は魔に憑りつかれてしまう。

 そう華耶は思った。早く二人を連れて天上界に戻り清めないと危ない。

 葵の方は無事のようだ。普通なら瘴気が移っていてもおかしくないのだが、お地蔵様が守っているのだろう。

「遥ー、葵?」

 二人を呼ぶ声がして、スリッパを履いた女性の足音がする。テーブルを挟んで華耶達と反対の所で脚が止まり、しゃがんで姉妹を発見した。目がぎろりと動く。

 葵が震えだし、姉の遥がきつく彼女の体を抱きしめる。

「そんなところにいたのー。もう、ダメじゃない」

 優しい口調で話しかけながら手をゆっくりと伸ばす。しかし姉妹が拒絶していると、いきなり姉の体を捕まえて、腕を掴んで乱暴にテーブルの下から引っ張り出す。子供の頭が椅子などにぶつかるがおかまいなしだ。

「せっかくお祈りしたのに、どうしてまだいるの? ダメじゃない。こんなところで遊んでたら。悪い子ね」

 女性は立ち上がると遥をずるずると引きずっていく。葵がテーブルの下から出て、「お姉ちゃんを離せ」と力なく叫んで抵抗を試みるも、蹴られて苦悶の声を漏らしお腹を抱えて倒れた。

 華耶は最初何が起こったかわからず呆然としていたが、慌てて二人の後を追った。遥かも気になるが、大丈夫? と言って床に倒れている葵に寄り添う。泣いてはいないが苦しいようで返事は無かった。

 女性は台所でガス給湯器のボタンを押すと熱くなる前から、遥の髪を掴んでシンクの上に引き上げる。遥はバタバタともがいていたが、ほどなく耳を覆いたくなるような悲鳴が上がる。湯気が立ち上っていた。

「あんた達、死んだんじゃなかったの。せっかくいなくなったと思ったのに、帰ってくるなんてどういうこと? 何しに来たの。」

 水の跳ねる音が続く。遥の体から流れ出る瘴気が一層濃くなったような気がした。

さらに女性は殴る蹴ると暴行を加える。葵が走っていき、「ママやめて!」と泣きながら姉の上に覆い被さろうとした。

 なんだ、この光景は―― 

 人間も悪魔も変わらないじゃないか。私にはどちらが悪魔かわからない……。

 華耶は、その場に蹲り、耳を塞ぎながら小さくなって震えていた。いつまでこれを見ていなければいけないのか。

 だが下手に人間界のことに干渉すれば、私も魔に落ちる……。

 お地蔵様もただ立っているだけだ。

 虐待がいよいよ酷くなり、恐怖で華耶は、女性に手を出そうと近づいた。

 だがお地蔵様が首を横に振りそれを止めた。


「逃げよう」 

「ダメ……。お父さん来るから」

 妹の呼びかけに憔悴しきった顔で遥が答える。畳の上で体を壁に預けて、ぐだっとしていた。頬や手足に痣がある。

「その前にお姉ちゃんが――」

 妹が泣き出しても、彼女のここを離れたくないという意志だけは、変わらなかった。

「一か月前お父さんから手紙が来た。来月行くって。その後、何通か来てた。お母さんがいないとき、全部読んだわけじゃないんだけど、漢字もいっぱい書いてあったけど、来る日も決まってるみたいだった。でも、どこを探しても見つからない」

「私達死んじゃってるんだよ。それを知ったら、もう来ないかもしれないじゃん」

 華耶は、お地蔵様に手紙のことを尋ねたが、ふるふると首を横に振った。

「遥ちゃん、賽の河原に戻ってそこでお父さんを待とう。いつ来るかわかんないんでしょ。そうだ! お葬式の名簿が無いか、天上界に戻って、またこっちに来て私が探すから」

「向こうで何年、何十年と待っていても、お父さんが死んでから見つけにきてくれるかわからないし、幸せに仲良くできるかもわからない。顔も、もう良く覚えてないし、葵は顔すら知らない」

「遥ちゃんがわからなくても、お父さんは見つける」

「あと何年待てばいい。何でお父さんは出て行ったの? なんでもっと早く会いに来てくれなかったの? 何年、何十年も先に、聞きたくない。今知りたい。聞いてきて」

 遥は泣き出した。姉の泣く姿を初めて見たというように葵ちゃんの方がびっくりしている。どう慰めていいかわからないようだ。

 長い間、誰も頼れず甘えられず、妹のことを考えてきたのだろう。その気持ちが自分では抑えきれなくなって、魔にそそのかされて思わず賽の河原を脱獄してしまった――

 だがもう取り返しがつかないかもしれない。

 華耶は、思わず遥をぎゅっと抱きしめた。

 しかしそれも束の間。

 ガチャリと、玄関の鍵が開く音がした。


 その後、近くの神社で紫乃に会って情報を貰った。

 遥と葵の両親が離婚した時、父は不況で仕事を失い無職だった。彼は泣く泣く親権を諦めた。 

 それから五年ほどが経ち、ある日母は交際相手の男性と喧嘩になり、いつになく機嫌が悪く、姉妹はいつもの隠れ場所から引きずり出されそうになった。母親が仕事で外出した後、それから逃れるため、より安全そうな隠れ場所を求めて、自ら古いドラム缶式の洗濯機に入ったことが、小さな命を奪う事故に繋がった。 

 これを彼女達の父は知らずに、ただ幼いうちに死んだと思っていて、すごく悲しんでいる。親を悲しませるのは罪が重い。

 伝えるべきか――。

 だが真実を知り、もし強い憎しみの心が芽生えれば、魔の格好の餌食となるかもしれない。それを狙い近くに潜んでいる危険すらある。

 姉妹の暮らしていたアパートから、父のいる田舎の病院がある駅まで、電車で片道約三時間。

 彼女達の父は現在、大病を患っていて、余命僅かとの宣告を受けている。成功率の低い難しい手術を受けるか否か、選択を迫られている。

 おそらく手紙を送ったのは、その前に一目、娘達に会っておこうと願って送ったのだろう。

 姉妹にもこれを伝えるべきか、まだ迷っていた。


 遥達の父の名がプレートに書いてある病院の個室に入ったが、誰もいなかった。

 検査か、もしくは天気も良いし、屋上や敷地内の散歩でもしているのだろうか――

 ベッドの上の掛布団は半分ほどめくれていて、シーツには皺が寄っている。

 窓際にある小さな椅子には、着替えが置かれていた。

 テレビが載っている棚の脇には、卓上カレンダーが置かれていて、赤いマジックで大きな丸が付けられている箇所があった。青いボールペンで姉妹二人の名前が書き込んである。明日の日付だった。

 ただいつまで経っても遥達の父が戻ってこないので、不思議に思っていると、看護師達が慌ただしく走り回っていた。どうやら勝手に病院を抜け出していなくなったらしい……。

 華耶も周囲を探したが、紫乃から急いで戻ってくるよう報せを受けて、諦めて翌朝に遥達の元へ戻ることにした。


 ウガアアアアア

 遥が全身から大量の瘴気を発しながら、怒り狂った唸り声を上げ、突如母親に飛び掛かった。相手は不意を突かれたようで、そのまま二人は床の上にドサッと倒れ込む。 

 遥は喉を両腕で力いっぱい締め、腕に噛みついた。くぐもった悲鳴が上がる。

 まるで獣のようだ。瘴気は昨日よりも一層濃くなり、力も強くなっている。

 地蔵が錫杖を振り上げ後ろから襲い掛かり、遥をその場から離れさせた。

 華耶は母親に近寄り様子を確かめる。 

 首に絞められた痕があり、腕から血は出ているが、胸は動いていた。 

 気を失ったのだろう。

「お姉ちゃん! やめて!!」 

 葵の悲鳴。

 しまった――

 振り返ると、葵が妹に襲い掛かろうとしていた。お地蔵様が必死に食い止めている。パキッと音が鳴り、錫杖に小さなひびが入った。

 遥の身体が、やや大きくなっているようだ。

 華耶は慌てて走って行き、葵を抱きしめて姉から遠ざけた。彼女は震えている。安心させようと何度も両手で撫でた。

 遅い。もう夕方だ。

 父の姿は、未だに無かった。

 墓参りにでも行ったのか。それとも、こちらには来ないのか。

 病院に戻ったのなら、鳩が報せを運んでくることになっているが、それも無い。

「葵ちゃん。なんでもいいからお姉ちゃんに話しかけて。できれば楽しかった思い出とかがいいけど――」

 この土壇場で小学一年生の女の子にできるだろうかと思ったが、華耶はしゃがんで、未だ腕の中で震えている相手に、ゆっくりと重要なことを伝えるように言った。

 葵はしばらく泣きじゃくっていたが、次第に泣き止み、鼻水をぐずぐずいわせながらわかったと小さく頷いた。

 恐る恐る、姉の方に歩いていく。

「お姉ちゃん、今日誕生日だよね。おめでとう」

 遥は相変わらず地蔵と対峙していた。錫杖を掴み、奪おうとしている。

 葵は何を思いついたのか突然歌い始めた。

 Happy birthday to you,

 最初、華耶は予想外の展開に頭がついていかなかったが、最後の方になって、調子を合わせて一緒に歌った。

 ウガアアアア、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ

 遥の口から声が漏れる。

 ダメか? いや効いている。

 攻撃は止んでいる。遥は、ゆっくりとお地蔵様から手を離した。

 今のうちに本当は退治しておかなければならない。

 魔に取り込まれた者を。 

 しかし昨日のことを話せば、少しは正気を保っていられるかもしれない。

 華耶は、父が今ここに向かっているだろうということを遥に向って話した。

「お姉ちゃん、お父さん会いに来るって!」

 嬉しそうな葵の声。子供らしい無邪気な笑みを浮かべていた。

「お父さん来たら何する?」

 遥の身体からは、禍々しいほどの瘴気が猛烈な勢いで発せられていた。今までの恨み、憎しみなどの怨念が、全て噴出しているかのようだ。

 魔の力に耐えられなくなったのだろう。彼女は突然、床に音を立てて倒れた。

「お姉ちゃん!」

「触っちゃダメ!!」

 姉の傍に寄り添おうとする葵を、華耶は厳しく制する。なんで? という顔を一瞬向けられたが、それ以上聞いてはこなかった。普通じゃないことぐらい彼女にもわかるようだ。

 葵は、ギリギリまで顔を近づけた。

 遥がゆっくりと口を開く。 

「普通の暮らしで良かった。B BQ、川での水遊び。車でドライブ。授業参観。賽の河原の他の子達の話を聞くたびに羨ましいと思った」

「次生まれ変わるときも一緒だよ、お姉ちゃん。約束だからね」

 お地蔵様が華耶の前まで来て、彼女の手を取った。彼女が首を傾げていると、お地蔵様の姿が消え、数珠に変わった。

 手にした数珠の意味を理解して、華耶はしばらくその場を動けなかった。やがて自分を納得させるように何度も頷く。

 葵達もびっくりしてその様子を見ていた。

 遥が目を伏せ、ぼそりと呟く。

「お父さんにこんな姿みせれないな」

「何言ってるの!? 頑張って、お姉ちゃん! その為にここまで来たんでしょう」

「いつまで待てばいいのか、わかっただけでも救いがある。……ああ、お父さん、どうか悲しまないで。葵の石積みが終わらない」

 遥は妹に向かって手を伸ばそうとしたが、力がなく上げられないようだ。

「お姉ちゃん帰ろう。二人で幸せになろう」

「みんなでケーキ食べたかったな」

「ごめんね。何のプレゼントも用意してなくて……。そうだ! 私絵描くね。ケーキのおっきいやつ。待ってて!」

 葵は姉の元を離れ、廊下の奥の部屋に消えた。

 華耶は遥に顔を向けられ、目があった。

「妹にこれ以上迷惑かけたくない」

「……」

 何を言い出すんだろうと思ったが、すぐに意味を理解した。

「無事に連れて帰るって約束して」

「――わかった。約束する」

 彼女は微笑んでいるように見えた。体は小さいが立派な保護者だ。

ほどなく葵が戻ってきて、どこから見つけてきたのか画用紙と色鉛筆を床に置き、描き始める。

 遥がそっと目を閉じた。

 華耶は近づき、数珠を彼女の首を持ち上げて掛ける。遥が苦悶の表情を浮かべ、痛みに耐える声をあげた。

「何してるの!?」

 葵がそれに気づいて叫んだ。華耶に掴みかかるようにして泣きつく。

「お願い、お姉ちゃんを助けて。お地蔵様はどうしたの? なんでいないの?」

 華耶は彼女の問いには答えず無言で佇んでいた。

 彼女に恨まれようとも姉との約束を果たす。泣かれようが喚かれようが、引きずってでも連れて帰る。罵られようが何を言われようが聞き流す。

そう心に決め、甘い言葉や期待を持たせるような言動はもう一切せず、仕事だと割り切ろうとした。 

 数珠を握りしめる手に力が入る。

「どうして黙ってるの。もうちょっとでお父さんも来る! それを邪魔するの!? あなた達もお母さんと同じだ! 鬼! 悪魔! みんな大っ嫌い!」

「だめよ葵、……天使さん、困ってるじゃない。」

姉からたしなめられるとは思っていなかったらしく、葵は「でも……」「なんで……」と繰り返しながらぐずっていた。

「お姉ちゃんが自分で決めたの。悪魔の手先よりはマシ。それに葵とお父さん襲ったら困るし」

 遥かはそっと葵に手を差し出した。体が半分消えている。葵はそれを握った。

「ケーキ出来た?」

 遠くを見ながら呟く。

「――待って、今すぐ作るから」

 ハッとした葵は、再び床に置かれたままの描きかけの画用紙に向かって、色鉛筆で塗り始める。

 だが完成を見ることなく、遥の躰は黒い光の塵となり消えた。

 華耶も葵も言葉も涙も出ずしばらくその場に佇んでいたが、やがて静寂を破る女の声が響き渡った。

「消えたの。あっはっはっはっは。やった。いなくなった」

 気を失っていた母親がゆっくりと体を起こしたところだった。

 愉快そうな表情で、まるで酒を飲んで酔払っているみたいだ。

 華耶は握りこぶしを震わせて唇と強く噛みしめて我慢していた

 一発ぐらい殴っても罰当たらないかな――

 華耶がそう思った瞬間――

 玄関のチャイムの鳴る音がした。

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天上界の花精霊(カクヨム短編応募用) 祭影圭介 @matsurikage

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