第12話 青い瞳がつくる道
見つめる先に、針の先程に小さい光の点があった。英太郎の左目の深く青い瞳は、光の向こうを凝視する。三途の川を取り巻く闇が、光を中心に押し広げられた。闇は歪み、引き裂かれ、破れ目ができる。その破れ目は「道」であった。英太郎を望んだ場所に導くための……。きっと、この道を辿った先に、水晶の花の咲く、妖鬼の森がある。そこには左之吉がいる。夕月がいる。
「あの爺さん……旅の神というのは本当だったのか……」
英太郎は、闇の中にぽっかりと浮かぶように出現した「歪み」を見つめながら呟いた。
英太郎は己の左目を抜き取り、そして、老爺が置いていった例の青い瞳の目玉と取り替えたのだった。ここまで追いつめられなければ、おそらくあの老爺の言うことを信じてみる気にはならなかっただろう。
しかし、青い目玉の持つ力は充分過ぎるほど確かだった。この目玉は、三途の川に縛り付けられているはずの英太郎を、今一番望む場所に導こうとしていた。
――間に合ってくれ。俺が行くまで持ちこたえてくれ……左之吉!
英太郎は祈るような気持ちで「道」に向かって足を踏み出した……つもりでいた。
しかし、気がつくと、ガクリと力が抜けて、いつの間にか土の上に片膝を付いていた。体が重い。立つことができない。
「なん、で……?」
焦りを感じながら、足に力を込める。しかし、起きあがったところを、体がぐらりと傾ぐような目眩に襲われ、前にのめった。まるで丸太のように体が言うことを聞かず、為す術もなく、転がって倒れる。
――旅の神の目玉は持ち主をどこへだって連れて行ってくれる……その代わりにお前さんの魂を喰っちまうかもしれねぇがな……
耳の奥を引っかくような、老爺の不気味な笑い声が蘇る。
目玉が魂を喰う……「道」を開く代償として、持ち主に宿った力を吸い尽くすという事だったのか。
さらに、そればかりか既に英太郎は、左之吉の目に力を送り込むために己の妖力を使い果たしてしまっている。青い目玉を使った事で、いよいよ体を動かすための力すら無くなってしまったように思えた。
「ちくしょう……こんな時に……」
英太郎は冷たく堅い地面に爪を立てた。どんなに焦っても、辛うじて腕で体を支えながら、土の上をずるずると這うように進む事しかできない。
唇を噛みしめて必死で体を起こし、闇を睨んだ。
――こうなったら、俺の魂が食い尽くされて無くなっても構わない。この「道」の入り口でできる限り大きくこじ開ける……それで、誰かが異変に気が付いてくれれば……誰でもいい、通りがかった獄卒でも、死神でもいい。俺の代わりに道を通ってあの森へ……。
左の目がカッと熱くなる。旅の神の青い瞳が輝きを放った。人魂提灯の明かりの滲んだ闇がぐにゃりと波をうち、歪みが大きくなる。
「誰か……気が付いてくれ……」
喉から絞り出した声は掠れ、闇の中に溶け込んでいく。
しかし、折悪しくも、夜の三途の川はひっそりと静まり返るばかりで、堤の土手道を通りがかる者の影は見えなかった。
絶望が胸を締め付ける。
もう手遅れかもしれない。左之吉も、夕月も、もう……。
「すまない……」
消え入るような声で呟き、目を閉じかけた。
その時だった。
「英太郎さん」
涼やかな声とともに、金木犀の香りがすぐ近くでふんわりと香った。
「やぁだぁ……こんな所に随分と大きな穴を開けちゃったのねぇ」
英太郎は思わず目を見開いた。
夜目にも鮮やかな、藤色の派手な打ち掛けが顔の前で翻る。娘の白い顔がニイッと微笑んで、英太郎を覗き込んでいた。
「お辰さん……」
「私が留守にしている間に、随分と面倒な事になってるみたいね」
お辰は、くすりと笑って英太郎の手をとる。そのまま、ふわりと立ち上がった。英太郎もつられて立ち上がる。驚いた事に、お辰の手に触れているだけで、今まで石のように重かった体が嘘のように軽やかに動けるようになった。
「こ、これは……」
「うふふ……英太郎さんも意外に無理をするのねぇ」
驚いて腕をぐるぐると回している英太郎を見て、お辰は相変わらず笑っている。
さすが閻魔大王の血を引く娘だけある。その妖力は桁違いだ。
しかし、なぜ今、ここにお辰がいるのか……左之吉の話だと、何かの用事で無間地獄にまで出掛けているのではなかったか。
「本当はね、こんな所に道を開いたらいけないのよぉ? でも、しょうがないわねぇ。英太郎さんのやった事だから、閻魔王庁とは関係ないって事で大目に見てあげるわ」
混乱する英太郎に気づいているのかいないのか、お辰は普段とと変わらぬ調子でにこにことしゃべり続ける。
「お辰さんっ、そんな事より左之吉が危ないんだ。夕月も……。早く行ってやらねぇと」
「分かってるわ」
心が急くばかりの英太郎を宥めるように、お辰はやんわりと頷いた。
「一緒に行きましょう? この子が連れていってくれるから」
お辰が指し示す先には、火の粉を散らして赤々と燃え盛る巨大な火炎の塊があった。おそらくは、噂に聞くお辰の乗り物「火車」というものだ。
「……これに乗るのか?」
英太郎は戸惑った。こんなものに乗ったら、全身が火だるまになってしまうかもしれない。
「そうよ。早く乗って」
お辰は、何でもない事のように英太郎を火車へと促す。
こうなればしょうがない。今は躊躇う時間すら惜しいのだ。英太郎は意を決して炎の塊の上に飛び乗る。
しかし、灼熱の熱さを覚悟していたものの、意外にも熱くはなかった。そればかりか乗り心地は柔らかだ。よく見れば、座ったところはビッシリとしなやかな毛で覆われている。おそるおそる掌で撫でると、目映いばかりの炎に包まれた火車は、にゃあと一声鳴いた。
「……猫、なのか?」
「そうよぉ? だって、どう見ても猫じゃない?」
英太郎の前に腰掛けたお辰は、さらりとそう言って、火車の耳の後ろと思しき場所を撫でた。火車がごろごろと喉を鳴らす。
どう見ても、と言ったって、眩しすぎて何も見えないじゃないか、と言う言葉を、英太郎は済んでのところで呑み込んだ。
「さぁ、火車。あの道を辿ってちょうだい。できるだけ急いで、ね」
火車は、にゃあーご、と返事をし、次の瞬間には矢のように「道」を疾駆していた。闇も光も一緒くたに混ざり合い、激流のような速さで後ろに流れた。風が逆巻く。常軌を逸した速さで走り続ける猫の背が上下に大きく波打ち、気を抜くと振り落とされてしまいそうだった。英太郎は思わすお辰の背にしがみついた。左之吉に知られたら激怒されるかもしれないが、今は致し方ないだろう、と自分に言い聞かせる。お辰の背は、火車よりも柔らかく、ほのかに香る金木犀の匂いはなぜか心を落ち着かせた。
行く手に青い光が現れる。火車は躊躇う事もなく光の中に突っ込んで行った。気が付くと、火車は森の中を木々を縫いながら器用に走っている。景色に見覚えがあった。左之吉達が囚われている森だろう。
「お辰さん、教えてくれ……この森は一体何なんだ? そして、影の塊みたいな化け物……お辰さんは知っているんだろう?」
英太郎は、お辰の背に問いかける。
「この森も、そして、この森を作り出したあやかしも、地獄の亡者達の怨念が表出し、カタチとなったものよ」
前を向いたままで、お辰が答えた。
「怨念?」
「責め苦を受け続ける死人達の怨みが、地獄の底には澱のように溜まっている……それが何かの弾みで噴き出す時、地獄には夜が訪れるの。でも、普通はただそれだけ……幾ら深い怨みが寄り集まっても、死神達に害を為す程の力は持たないはずなのよ」
お辰が、ふぅっと深い溜息を吐いた気配がする。
「……よりしろになった者がいたの。解き放たれた亡者達の念は、よりしろを芯にして集まり、強い力を持った。それが、死神達を襲ったあやかしの正体。亡者達の怨みは、まず、自分達を地獄の世界に連れ込んだ死神達に向かうでしょうからねぇ……」
「その、よりしろっていうのは……」
「夕月の母親よ」
「え……」
意外なその一言に、英太郎は絶句した。
「紅葉という名の鬼……無間地獄を支配していたけれど、残忍な性格だった。その冷酷さで亡者達ばかりでなく獄卒達からも恐れられていたけれど、それがかえって仇になったのねぇ。亡者達の怨みの全てを吸い寄せてしまった。そして、自らあやかしとなり、この森をつくり出した……」
「夕月が、その紅葉という鬼の娘だっていうのか」
「そう……」
お辰は言葉を切った。束の間の沈黙があった。英太郎からは、お辰が今、どんな顔をしているのか、知ることはできない。
「夕月は……夕月だけは、あのあやかしから遠ざけてやるべきだと思ったのよ。でも……」
お辰の声が微かに震えていた。お辰は空を見上げる。その視線の先には、天を突く程の巨大な木があった。あやかしに連れ去られた夕月が囚われていた木だ。
怨念の渦に取り込まれ、あやかしと化した母と、死神になろうとした娘。一度引き離されたはずの二人は、最悪の形で再び出会ってしまったというのか。
不意に、火車が後ろ足で地を蹴る。高く高く跳び上がり、火車はそのまま空へと駆けた。森を眼下に見下ろしながら、忽ちのうちに巨木が近づいてくる。
「英太郎さん、左之吉達のいる所は分かる?」
お辰が振り返った。
夕月の母、紅葉という女に思いを巡らせていた英太郎は、そこではっと我に返った。
「ああ……左之吉なら、あの大きな木の根本辺りにいるはずだ。だが、正確な場所は……」
木々の枝葉に遮られて、地上の様子がなかなか分からない。
英太郎は、右の眼窩にはまった左之吉の目に心を集中させる。
――左之吉……! どこだ?!
英太郎は、心の中で左之吉に呼びかけた。
微かな鼓動と、乱れた息遣いが聞こえる。
左之吉の鼓動だ。左之吉はまだ消えてはいない、と確信した。まだ手遅れではない……助ける事ができるのだ。
「……あそこだ! 降りてくれ!」
左之吉の気配を辿った英太郎が指さす方向に、火車はすぐさま真っ直ぐに降りていく。
「左之吉! 夕月!」
英太郎は地上に着くなり、火車の背から飛び降りた。
血の匂いに、甘い花の香りが絡みついて鼻を打つ。お辰の金木犀の香りとは違う、毒々しさをも感じさせるような、ねっとりとした香りだった。
少女の姿を辛うじて保った「鬼」がゆらりと立ち上がる。
牙の伸びた口元からは血が滴っていた。顔中が朱に染まっている。その足下には血の海が広がる。そして、血にぐっしょりと濡れて、襤褸のように転がっている人影……左之吉だった。
夕月は、ウウウ、とうなり声を上げて、爛々と光る目を英太郎に向けた。今にも襲いかかりそうに血塗れた牙を剥いている。
「夕月……」
英太郎はひるんだ。正直、今の夕月には何を語りかけても通じないように思える。
その時、ふと、夕月の胸元で光るものがあるのに英太郎は気が付いた。きらりとした、青い光。
「うっ……?!」
青い瞬きに呼応するかのように、英太郎の左目が急激に熱を持った。
英太郎自身、何が起きたのか分からない。左の瞳が、突然、眩い程の輝きを放つ。
「あぁ……!」
不意に夕月が声を上げた。
「……あああ……あ……」
夕月は、胸の辺りを苦しげに両手で押さえた。その手の指の間から、まるで湧き水が滾々と噴き出すが如く、透き通った青い光が溢れ出てくる。
青い光は夕月の体を取り巻く。
夕月の長く伸びた爪が縮む。口の両端から飛び出た牙が消えていく。鋭く尖った角も小さく、丸くなっていく。
「夕月……」
英太郎が呆然と眺めているうちに、やがて夕月は完全に元の姿を取り戻した。急に力尽きたように、ガクリとその場に崩れ落ちる。
「夕月……!」
英太郎は倒れた夕月に駆け寄った。抱き起こす。怪我はしていなかった。呼吸も穏やかで、ただ気を失っているだけのようだ。英太郎は安堵の溜息を吐いた。
しかし、夕月の身に一体、何が起こったというのか。そして、あの青い光は……。
英太郎は夕月の胸の上に重ねられた手をそっと外した。夕月の手には何かが握り締められている。顔を近づけてよく見てみると、それは、びいどろで造られたかのように滑らかな、青い色の石だった。見覚えがあった。旅の神を名乗ったあの老爺が、目玉とともに、英太郎の元に残していったものだ。
「そうか……この石と俺の左目の青い瞳が呼び合って、夕月を元に戻す事ができたのか……」
英太郎は得心した。夕月を静かに地面の草地の上に横たえる。ひとまず夕月の身は安心しても良さそうだった。
だが、問題は左之吉だ。
「左之吉……!」
英太郎は、血だまりの中に倒れ伏して気を失っている左之吉の傍らに寄り、頬に触れて耳元で呼びかけた。瞼がぴくりと動いたが答える声はない。
左之吉は、夕月の爪や牙で全身をズタズタに切り裂かれ、まさに虫の息といった有り様だった。特に首元の怪我が酷く、出血も激しい。幾ら死神とはいえ、ここまで酷い怪我をしてはさすがに危ない。血がまだ炎に変じていないのが不思議な程だった。
「左之吉! 左之吉……!」
必死の思いで何度か呼びかけると、左之吉はうっすらと目を開いた。
「左之吉……気が付いたか!」
「……英、太郎……? なんで……ここに?」
「詳しい話は後だ。とにかく、夕月は無事だぞ。よくやってくれたな……」
英太郎は左之吉の手をとって握り締めた。左之吉は、「そうか」と一言呟いて、微かに微笑みを浮かべた。
「三途の川に繋がる道を開いた。帰るぞ……起きあがれそうか?」
英太郎の言葉に左之吉はこくりと頷く。しかし、英太郎が左之吉の体を支え起こそうとすると、動こうとするだけで傷が痛むのか、苦しげに顔を歪めた。
旅の神の目玉が開いた「道」がいつまで保つかも分からないので、出来る限り急がなければならないのだが、怪我を負った左之吉を無理に動かすのも躊躇われた。
「英太郎さん、ちょっとそこをどいて」
気がつくと、背後にいつの間にかお辰が立っていた。
お辰は、豪奢な着物が血で汚れるのも構わずにその場に座り込んだ。左之吉の頭を自分の膝の上に乗せる。
「全く……しょうがないヤツねぇ」
お辰はぶつくさ言いつつ、左之吉の胸の上に手をかざした。すっと、左之吉を取り巻く空気が静かに揺らぐ。
次の瞬間には、あれほど酷かった左之吉の体の傷が綺麗に癒えていた。
英太郎は嘆息した。「すげぇな」と小さく呟く。お辰程の強い力を持つ者は、閻魔大王を除いては、もはや地獄には存在しないような気がした。
「……お辰?」
左之吉は何が起こったか分からないように、呆然とお辰を見上げている。
「左之吉……貴方も随分、暴れたみたいねぇ」
お辰は呆れたように言うが、その口調はどこか優しげだった。
「本当に、お辰か……? また、幻じゃあねぇだろうな?」
「何よぉ、その言い方。せっかく助けにきてあげたんじゃない。本物に決まってるでしょう?」
お辰は、眉根を寄せ、少し苛ついたように唇を窄めた。
「信じられねぇなぁ……ちゃんと確かめてみねぇと」
左之吉はそう言うと、おもむろに体を起こした。お辰が何かをしゃべろうとする前に、その唇を塞ぐように自分の口を重ね合わせる。
お辰の耳が、見る見るうちに真っ赤になっていくのが、英太郎から見てもはっきりと分かった。
「良かった。やっぱり本物のお辰みてぇだな」
左之吉はそう言ってにやりと笑う。
どうやらすっかり元気を取り戻した様子だ。
やっぱりこいつはタチが悪い、と英太郎は溜息を吐いた。心配をして損をしたかもしれない。
「何をっ……!」
耳だけでなく、首も頬も赤く染めたお辰は、肩を震わしながら左之吉を突き飛ばす。
「無礼者ぉ……!」
普段は使わないような言葉を叫びながら、動揺を露わにした。
地獄一の妖術の使い手であっても、どうしても適わないモノはやはりあるんだろう、と英太郎は密かに思った。
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