第10話 地獄花の記憶

「あ、ちちうえ!」

 夕月の隣に座っていた「彼」が突然顔を上げて、嬉しそうに叫んだ。夕月もつられて「彼」が見つめていると思しき方向に目を向ける。しかし、そこには依然として人の気配はなかった。

「……誰もいないよ?」

 夕月は不思議そうに首を傾げた。

「いるよ。ぼくはわかるよ。ちちうえがむかえにきたよ!」

「彼」の顔は未だぼんやりとしていてよく分からない。しかし、興奮した声の調子から喜んでいる事はよく分かる。

 夕月は立ち上がった。薄緑色の柔らかな草で覆われた平原は地平の彼方まで続いている。やはり人影は見えなかった。

「ねぇ、君の父上様ってさ……あれ?」

 振り返るが、誰もいない。いつの間にやら男の子は忽然と姿を消していた。

「いなくなっちゃった……」

 迎えに来たという父のところへ行ってしまったのだろうか。

 名前も分からなければ、姿形すらよく分からない男の子。それでも、今さっきまで確かにここにいたはずなのに、今はもう幻のように消えて無くなってしまっている。並んで草の上に座り、沢山おしゃべりをしたような気がする。でも、何を話していたんだっけ? 何も思い出せない。

――あの子は一体何だったんだろう?

――そもそも、あの子は本当にここにいた?

――私、初めからこの場所に一人っきりだったんじゃないの?

――私は、ずっと一人で……帰り方も分からない……

 忘れかけていたはずの不安が、夕月の心を黒い雨雲のように覆っていく。

「左之吉……英太郎……」

 縋るように、今一番会いたい二人の名を呼ぶ。あの子の父が迎えに来たというのが本当なら、左之吉と英太郎も、もしかしたらこの近くにやってきているのではないか。微かな希望が頭によぎる。

 しかし、夕月の声に答える者は何もいなかった。

 二人にはもう二度と会えないのかもしれない。私はずっと一人……。そんな気がして、夕月の両目からは我知らずぽろぽろと涙がこぼれた。

 やがて、夕月の涙に呼応するかのように、辺りの風景も徐々にぼんやりと滲んでくる。緑の平原を覆い隠すように、再び靄が出てきたのだ。しかも、その靄は乳白色のものとは違い、不気味な程に青く暗い色を宿し、ほんのりと淡い光を帯びていた。

「何……これ?」

 恐怖と不安が一層強く胸を締め付ける。

 逃げなくては。でも、どこへ? 前にも後ろにも、既に、得体の知れない青い靄が生き物のようなうねりを見せながら漂っている。

 頭が痛い。目を閉じると、瞼の裏がちかちかと明滅した。

 間断無く続く頭痛が、思い出してはいけない記憶を連れてくる。

――……様……姫様……。

 声が聞こえる。誰だろう?

――夕月様……夕月様……。

 痛みを堪えて、おそるおそる、うっすらと目を開けた。

 目の前にあったのは、薄茶色の毛並みに覆われた牛の顔と、白い毛がのっぺりと生えた馬の顔。それは、牛頭ごず馬頭めずだった。しかし、お辰のところにいたような童の牛頭・馬頭ではない。背丈は大人のものだし、顔も大きかった。女物の着物を身にまとっている。

「夕月様……どこにいってらっしゃったのですか?」

 牛頭が咎めるように言った。

 この牛頭がなぜ自分の事を知っているのか、という事より、彼女が言葉を発した事に夕月はまず驚いた。お辰のところにいた童の牛頭・馬頭は、黙ったままで一言もしゃべらなかったからだ。牛頭・馬頭と呼ばれる鬼達は大人になるとしゃべれるようになるのかもしれない、等と夕月はぼんやりと考える。

「奥方様がお探しでしたよ。ささ、早くあちらへ」

 馬頭がそう言って指し示す先には、立派な黒塗りの門があった。

「あれはなあに?」

 夕月は、馬頭の面長の顔を見上げて尋ねた。

「ほほほ……何をおっしゃいます。あれは姫様のお住まいになられているお屋敷ではありませんか」

 馬頭は、ブルルっと鼻を鳴らして笑った。

「姫様」とは自分の事を言っているのかな? と、夕月は人事のように考えながら門を眺める。門の向こうに大きな立派な屋敷の影が浮かび上がっていた。

 なぜか懐かしい気もするが、やはり思い出せない事が多すぎた。

 英太郎や左之吉と出会う前、自分は一体どこにいたのだろう? なぜ、自分はお辰に連れられ、お辰の部屋で左之吉に引き合わされたのだろう?

 死神になりたかったけど、それも自分から言い出した事ではなかったような……。

――そうだ。お辰様から、死神になりたくなぁい? って訊かれたのだった。私は、鬼はいやだった。死神の方がいろんな場所に行けて楽しそうだと思ったから……はい、って答えた。だから……。

 記憶の糸を辿っていく。

――でも、私はなんでお辰様のところにいたの? その前は……? その前に……私は?

 手繰り寄せようとしても、糸はどこかで絡まっているのか、明確な記憶はなかなか頭に浮かび上がってはくれない。

「……っ!」

 ぶり返すように、頭の中の痛みがズキズキと強くなった。

 目を閉じたはずなのに、青い靄の渦が目の前にちらつく。

――夕月……夕月や……

 女の声。馬頭の声でも、牛頭の声でもない。

――さぁ、目を開けて。あの花をごらん。

 ふふふ、と含み笑いの吐息が聞こえる。甘い花の香りが鼻をくすぐった。

 女の声の他に、どこからか微かな呻き声が聞こえる。

――夕月……目を開けて。綺麗な花よ。水晶のように煌めいているよ……

 抗い難いような声の響きに誘われて、夕月はゆっくりと目を開けた。

 なぜか、広い座敷に座っていた。ここは、さっき見た屋敷の中なのだろうか。

 いつの間に着替えさせられたのか、桜色の鮮やかな色の着物を着ている。色合いは美しく、生地も上物のように思えるが、重苦しいし、帯が締め付けて窮屈だった。

「夕月……ごらん。あの花を」

 隣に座っている女が、夕月の耳に口を近づけ、そっと囁いた。白い顔。真っ赤な唇にうっすらと冷たい笑みが浮かんでいる。

 女が手に持った扇で示す先……障子が開け放たれた部屋の外には、濡れ縁の向こうに庭らしきものがあった。新緑の葉を生い茂らせた庭木の枝のところどころ、何かがきらきらと光を放っている。女はその光を指して「花」と言っているらしかった。


 ううう……うう……ううううぅぅ……


 くぐもったような呻き声が沸き上がる。声は女の手元から聞こえる。

 女は小さな手鏡を持っていた。

 女は夕月の視線が鏡に注がれているのに気が付くと、にこりと笑って鏡を夕月に差し出した。

 夕月は反射的に鏡を受け取る。

 こわごわと覗き込むと、透き通って平らかな鏡の面に赤錆た色が映し出された。

 それは燃えさかる炎の色であり、毒々しい血の色でもあった。めらめらと揺らめく炎に裸の人間達が炙られている。呻き声はこの人間達が上げているのだった。

「この者達は地獄の炎に責められる罪人……亡者達」

 女は鏡を指差し、うっとりと微笑む。女の指の先の朱色の爪も、鏡の炎を映しててらてらと輝いているようだった。

「亡者達の苦しみ、もがく声はなんと甘美な事でしょう。亡者達の怨念を吸い取って、私の地獄花はより一層美しく咲くのですよ、夕月……」

「はい、お母様」

 夕月は、頭で考えるよりも前に返事をしていた。

 そうか、この女は私の母なのか、と夕月は改めて思う。その人の横顔をじっと見上げれてみれば、頭上には、鬼の一族の証、二本の角が生えているのが分かった。

 記憶は徐々に明確な輪郭を持って蘇ってくる。

 紅葉。そうだ、それがこの女……夕月の母の名だったのだ。


 ギャッ……。


 不意に鏡から短い悲鳴が上がった。

 円い鏡の面に血が飛び散る。見れば、亡者達の痩せた体に、髪を振り乱した五、六人の女鬼達が取り付いている。長い爪を突き立てては肌を切り裂き、鋭い牙の生えた口で噛みついては肉を削ぎ落としていた。

 きらり。

 庭木の花達の放つ光が強くなる。鏡の上に映り込んだ光は輝く波の模様を描いて揺れた。

「お前の姉達が勤めを果たしている。亡者に終わりのない責め苦を与え、私の花を美しくする……。夕月や……お前もいずれ姉達に混じり、あのように亡者達を鳴かせるのですよ」

 朱い爪に飾られた紅葉の手が、夕月の頭を撫でた。

 夕月の胸には、名状し難いような嫌な気持ちが広がった。

――私はあんな事はやりたくない。お姉様達のようにはなりたくない。けれど、私は鬼……私はなぜ鬼に生まれてしまったのかしら?

 目尻に溜まった涙が滴り落ちてしまわないよう、夕月はそっと目を閉じた。

 忘れかけていた痛みが、再び頭の内側を揺らす。

 頭の内側で何かが暴れている。ここから出せと叫んでいる。

 そして、再び目を開ける。今度は夕月はたった一人、屋敷の庭に佇んでいた。紅葉も、牛頭も、馬頭もそこにはいなかった。

 目の前には、透き通った花弁の地獄花が光の粉をまき散らしながら揺れている。


 うう……う……うううぅ……


 亡者の怨みを吸った花は、彼らの苦しみの声を真似て唄う。花弁には責め苦に悶える彼らの姿が映し出される。亡者の体から流れる赤い血は、花の煌めきに変わる。

 夕月は手を伸ばす。花をぐしゃりと揉みつぶすように乱暴に掴み、むしり取った。

 こんな花は全て潰れて無くなってしまえばいい。そうすれば、お母様はどんな顔をするだろう? 美しい顔を歪ませた母を想像すると、夕月の心は快感と恐怖が入り交じった気持ちで、不思議な程に高揚した。

 甘ったるい香りの充満する庭木の下で、次々と花をむしり取る。握りつぶせば、透き通っていた花弁は白く汚らしく濁った色になった。

 夕月は、このいたずらに時を忘れて夢中になり、気が付くと全ての花はぐしゃぐしゃに潰れ、足下の小石や土にべっとりと張り付いていた。

「夕月……何をしているのです!」

 苛立ちのこもった、甲高い声が聞こえる。

「お母様……」

 夕月がはっとして振り向くと、母・紅葉は濡れ縁に立ちすくみ、目を吊り上げた恐ろしい形相で夕月を睨んでいた。

「お母様……私……」

 夕月は何か言おうとしたが、続く言葉が出なかった。蛇に睨まれた蛙の如く、体が震え、動かない。

 その時、視界の中でふうっと立ち上ったものがった。

 煙のような、靄のような、青黒い影。潰れた花々から湯気のように噴き出し、ひとつの大きな塊になっていた。

 影は夕月の頭の真上でぶわっと広がった。

――呑み込まれる……!

 夕月は、びくりと肩を震わせてしゃがみこんだ。

 しかし、影が襲いかかったのは夕月ではなかった。


 ひいいいいいいぃぃぃぃ……ぎいぃぃ……!


 突然、空気を引き裂くような悲鳴が響きわたった。

 驚いて顔を上げる。

 濡れ縁の上で紅葉が青黒い影に絡み付かれ、髪を振り乱しながら、胸をかきむしってのたうっていたのだ。

 紅葉の手足が、体が、ぼきぼきと鈍い音を立てて折れ曲がり、影の中にどろどろと融けていくのを夕月は呆然と眺めた。

 地獄の亡者達の怨念の塊に、紅葉は今まさに、呑み込まれようとしている。体はぐずぐずと融けているのに、苦悶に満ちた白い顔だけが影の中にぽっかりと浮かび上がって見えた。

「ゆうう……づぎぃぃぃ……!」

 影に呑み込まれながらも、白い顔にはまった二つの充血した眼球が、ぎょろりと夕月を見据えた。

「封印……をっ、おま、え……わ……といてしししし、しまったぁ……ねぇええ……!」

 紅葉の白い顔が吼えた。幾重にも重なった影がぶわりと震えて広がる。

「わぁ……わぁ……わぁるい、こだことぉおお……あんなにぃい、がわいがってぇ……やったのにぃい、ねぇえええ……」

 苦しみに醜く歪んでいたはずの白い顔の中、真っ赤な唇が、それだけ別の生き物であるかのように、口角を上げてにやりと笑った。口の端からは赤紫色のねとねとした粘液に覆われた長い舌が飛び出し、のたくっていた。

「ひっ……ひっ……ひぃっひひひひひひぃ……」

 影と溶け合い、完全に化け物と化した紅葉は、泣き声とも笑い声ともつかぬ音を立てて濡れ縁からずるずると這い降り、夕月の方へ向かってくる。

「やっ……!」

 夕月は短い悲鳴を上げて後ずさった。

 這いずる化け物の体の下で、地獄を映す手鏡がパリン、と音を立てて割れるのが見えた。

「いや……いやだ……!」

――これはもうお母様ではない……この化け物に捕らわれたら、きっと私も壊されてしまう! あの手鏡のように!

 夕月の体を恐怖が駆けめぐる。極限まで達した恐怖は焼け付くような熱を持っていた。

 その時、夕月の頭の中でパチン、と何かが弾け飛んだ。

 激しい痛みが、脳天から体中を突き抜ける。

 そして、その痛みは、夕月の中に眠っていた衝動に急激に力を与えた。

 夕月は、思わず息を呑む。

 気が付くと、自分の爪も、牙も、鋭く尖って伸びきっていた。それはまるで、鏡に映し出されていた姉達と同じ。

 夕月の中で、鬼が目覚めつつあった。

 頭の奥を痛みがかき回す。意識が霧散していく。何も考えられなくなる。

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