第9話 森の中の彷徨
(一)
数馬は意を決した。
左之吉とともに屋敷の外へ足を踏み出す。
木々が、大地が、空が歪み、ざわざわと揺れている。全てのものが形を保つことが出来ず、ぐにゃぐにゃと崩れ、流れ、溶けていくかのように感じた。
鼓動が速くなる。不安と恐怖で止まりそうになる足をなんとか前へ前へと動かしながら、数馬は左之吉の背を追って黙々と歩いた。
こうして歩いている自分の体も、気が付かぬうちに、どろりと崩れかけているのではないかという妙な気持ちになってくる。
屋敷の内から見て陽炎のように見えていた景色は、いざその中に飛び込むと、思っていた以上に数馬の精神を翻弄してくる。やはり不用意に外に出ない方が良かったのではないか、とふと思う。しかし、自ら動かなければ、千鶴に繋がる手がかりを得ることは出来ない。数馬と左之吉は、こうして森を歩き回ることで、再びあやかしが襲ってくる時を待っているのだ。
「数馬、大丈夫か? 離れるなよ」
左之吉が振り返り、おもむろに数馬の手を取った。数馬は一瞬、どきりと驚いたが、左之吉は何でもないように数馬の手を引き、捻れた木々を器用に避けながら前を歩いていく。
「……いつも死人の手を引いて三途の川の堤を歩いてるのさ。生きている人間の手を引いて歩くのはこれが二度目だ」
左之吉がぽつりと呟くように言った。
「一度目は、火事に巻き込まれて気を失っていた娘を、死んだと勘違いして三途の川まで連れていっちまった。あとちょっとで川の向こうに送ってしまうところだったぜ」
数馬は黙っていた。左之吉は構わずしゃべり続ける。左之吉自身も、この森に不安を感じているのかもしれない、と数馬は思った。
「ありゃあ、いつの事だったか……大きな火事があったんだよ。芝から火が出て、あっという間に江戸を焼き尽くした。浅草の方まで焼けた。お前は覚えてないか?」
江戸は火事が多い。数馬が深川に住んでいた時も、夜半に半鐘の音で起こされるのも稀な事ではなかった。しかし、それ程までにひどい大火事が果たしてあっただろうか。
思い当たる事と言ったらひとつだけだ。
「お前は、もしや丙寅の大火の事を言っているのか? 文化三年の……」
「ああ、多分それだ」
「松原の父に聞いた事がある。幸い、深川までは火の手は回らなかったが、大川(隅田川)を渡って浅草から逃げてきた人々で道がごった返し、大変な騒ぎだったと……。しかし、それはわしの生まれる前の話だぞ」
「何だ、そうなのか。お前、意外と若ぇんだな」
左之吉はそう言って軽く笑った。
不思議な男だ、と数馬は思った。見た目は数馬よりも若く見えるが、事によると、人の寿命など比べものにならないくらい長く生きているのかもしれない。
死神。人の魂を彼岸に運ぶ者。しかし、見た目は普通の人間と何も変わらない。数馬の手に触れている左之吉の掌は、死の冷たさとは無縁のように温かい。だが、その一方で、首筋を切られるような大怪我を負っても、今はもう嘘のように傷が癒えている。否が応にも、この男が普通の人間とはかけ離れた何かなのだと実感せざるを得なかった。
死神である左之吉には、もしや「死」というものがないのかもしれない。しかし、左之吉は、自ら「首を斬れば終わり」と言っていた。数馬は、千鶴を取り戻したいがために左之吉を斬ろうとした。再び千鶴と出会えば、数馬は衝動的に、やはり左之吉に刃を向けることになるだろう。首を斬り落とすかもしれない。左之吉は一体、それを分かっているのか……。それとも全て分かった上で、数馬に対してまるで昔からの友のように、気安く接しているというのか。
「おい、数馬」
物思いに耽っていると、不意に左之吉が振り返った。まるで数馬の胸の内を読みとったかのように。
「お前は何か勘違いしているようだから言っておくがな、俺ぁお前と同じで、どうしても助け出したいヤツがいるからここに来てるんだ。生き返ったやつらの魂を彼岸に連れて行くためじゃねぇ。第一、仕事で来てるわけじゃねぇのに、そんな面倒くさい事やるもんか」
「では……お前は千鶴を連れていかないと言うのか。見逃してくれると……」
どちらともなく、立ち止まる。数馬は左之吉を真っ直ぐに、じっと見つめた。
「見逃すも何も、お前の女房の魂は俺の係りじゃねぇ。お前が女房を生き返らせようが、どうしようが、俺には何の関係もねぇってことだ」
「そうか……ありがとう」
数馬は心から礼を言った。左之吉は何も言わずにニヤリと笑う。
二人はまた歩き出した。風景の歪みが、先程よりもひどくなっている気がする。
「お前が助け出したい者とは?」
数馬は、ふと思いついたように、先を行く左之吉に尋ねた。
「お前が青い靄の中で見たという子供の影。それが、おそらく俺の探しているヤツだ」
「あの影が……?」
「ま、俺の妹分ってとこだな」
話しているうちに、突如、二人を取り巻く木立の形が崩れ、砂の塊に水をかけた時のようにぐしゃりと潰れた。目に映るもの全てが、ほんのりと青みがかっている。靄が出てきたのだ。
青い靄。その向こうで一本の巨木がそそり立ち、天に向かって枝葉を広げているのがうっすらと見えてくる。
靄の青は濃くなる。渦巻く靄の中、クククク、という忍び笑いがすぐ傍で聞こえた。数馬の肌がぞっと粟立つ。
「ようやく、おでましのようだな」
左之吉が言うと同時に、青の中に白い顔がぼうっと浮かび上がった。大きく裂けた口から赤い血がぽたりぽたりと滴っているのは、数馬が傷を負わせたためか。顔は、引き裂かれて血にまみれた口を歪め、にたりと笑う。
数馬は咄嗟に左之吉の手を振り払い、腰の刀を抜いた。
「この化け物は、わしが斬る……!」
数馬は左之吉の前に出て、あやかしに対峙する。
「お前は先に行ってくれ。あの木の中にお前の探す妹分とやらがいるはずだ」
「……」
左之吉は束の間、迷うような気配を見せたが、すぐに頷いた。
「分かった。頼んだぞ。……お前がここで死んだら、俺が特別に魂は拾ってやるからな」
左之吉はそう言うなり駆け出した。
「縁起でもない事を……」
数馬は苦笑し、左之吉の背を見送る。
あやかしは、影に覆われた体を青く光る靄の中でブルリと震わせ、キイイイイイ……と甲高い声を上げた。不快な鳴き声とともに、あやかしの口から真っ赤な血しぶきが撒き散らされる。
「来るならば来い。今度こそしとめてやる」
数馬はあやかしに向かって刀をゆっくりと持ち上げ、真っ直ぐに構えた。
(二)
「うぉおおおお……!」
数馬は雄叫び、影に覆われたあやかしに向かい、がむしゃらに突進した。もはや剣術も何もない。手当たり次第に斬りつけた。あやかしの墨のように黒い体が千切れ、血が飛び散る。
しかし、そこで痛みを感じたのは数馬の方だった。
「つぅ……!」
肌を貫くような痛みに、数馬は思わず顔をしかめた。あやかしの返り血を浴びた腕を見る。そこだけが痣のように青黒く変色していた。
「この、化けモノが……!」
数馬は舌打ちをし、再び斬りつけた。
赤黒い血がぱっと霧散し、青い靄を一瞬だけ紫色に染める。数馬は、思わず「あっ」と叫んだ。強い痛みが、またしても数馬を襲ったのだ。針で突き刺すような、鋭い痛みだ。
あやかしの血は強い毒気を含んでいるのだと、数馬はようやく気がついた。返り血によって数馬自身も傷を負ってしまう。
あやかしはその事を分かって、敢えて挑発するような動きを見せながらも、自らの体をわざわざ数馬に斬らせているようにも感じられた。
しかし、自分の体に傷を負い、血を流してまでも数馬を傷つけようとするとは、あやかしにとっても「捨て身の戦法」なのではないか、と数馬は考えた。
――おそらく、こやつも追いつめられているのだ。
数馬は痛みをこらえ、再度、あやかしに向かって刀を構え直す。痛みが数馬の頭を冷まし、冷静な心を取り戻させつつあった。
――この化け物が何ゆえ、死神を襲い、生き返りの村人たちの魂を靄の中に閉じこめたのか……それは分からんが、妖気によって生み出したこの森にわしのような生身の人間を連れ込んでしまうというのは、あやかしにとっても思いもかけない誤算だったのだろう。左之吉の言っていた水晶の花と刃……わしには見えぬばかりか、効かぬらしい。あやかしにとってもわしは厄介な存在……一刻も早く排除してしまいたいからこそ、こうして捨て身で向かってくるのだ……焦りが出れば、動きに綻びも出よう。
勝機はある、と数馬は自らに言い聞かせる。しかし、確実にあやかしを倒すためには、やはり数馬自身も捨て身でかかる必要があった。ある程度の返り血を浴びる事を覚悟で、あやかしに決定的な一太刀を叩き込まなければ。
その時だった。
キイイイイイ……という耳の奥を引っかくような甲高い声とともに、あやかしの体を形作っている影が震えながらブワッと膨れ上がった。あやかしの血塗れの口が大きく開かれ、喉の奥から、ごぼぼぼぼっと断続的な音を立てて大量の血が天に向かって噴き上げる。
赤く、腥い雨が降りかかってくる。突然の事で避ける事が出来ない。あやかしの血が数馬の体を濡らす。
「ぐわぁ……ああ……!」
赤い血が肌を焼き、脳天に突き抜ける激痛が数馬を襲った。意識が飛びかける。数馬は辛うじて刀の柄を握りしめたまま、その場に膝をついた。
――だめだ、気を失っては……何としても千鶴だけは助け出さねば……
「ち……千鶴……」
数馬は朦朧としながら、愛しい妻の名を呼んだ。
……旦那様……
柔らかな声が耳元を通り過ぎる。数馬は、はっと正気を取り戻す。
幻聴なのかと重い周りを見回すと、青い靄の中に幾十もの人影が見えた。人影たちは、数馬とあやかしの周りをぐるりと取り囲んで立っている。
――これは……村の者たちの影か?
数馬が屋敷の中で青い靄にとらわれた時に見た、あの影たちだ。清吉じいさんも、おトキも、竹造もいる。
影たちはざわざわと揺らめきながら、ゆっくりとあやかしに向かっていく。
キキキキキ……と、あやかしが鳴き声を上げる。なぜか急に怯えた様子で、明らかに逃げようとしていた。そこに、体格の良い竹造の影ががっつりと組み付く。その後ろからも、他の村人達の影があやかしに取り付き、押さえつける。
あやかしが影達を振り払うように暴れると、何人かの影は吹き飛ばされたが、それでも後から後から影達はあやかしに向かって組み付いていった。
村人達の影と幾度ももみ合ううちに、あやかしは遂に完全に動きを封じられた。
「みんな……わしに加勢してくれているのか」
数馬は痛みを堪え、ふらふらと立ち上がる。自分でも気が付かぬうちに、頬に温かい涙が伝わっていた。
村人達に押さえつけられたあやかしの前に、一人の女の影がつっと歩みでる。
「千鶴……!」
数馬は叫んだ。
……旦那様……どうか、わたしに向かって刀を斬り下げて……
千鶴の影は数馬に向かって両手を広げ、消え入りそうな程か細い声で、だが、はっきりと囁いた。
「千鶴……わしにお前を斬れというのか?! そんな事を……わしにはとても……」
……私はもう元の体を失い、魂だけになった身です。斬られても傷を負うような事はありません。間に私がいる事で、貴方があやかしを斬ってもその血を浴びないで済むわ……さあ、どうか……私を狙って刀を振り下ろせば、その向こうにいるあやかしを斬れる……だから……
細く、儚げな千鶴の声には、必死の覚悟が滲んでいる。
「千鶴……」
数馬は覚悟を決めた。
「わかった……お前と村の者たちが作ってくれた好機だ……決して無駄にはせぬ」
数馬は刀を上段に振り上げた。大きく一歩を踏み込む。
両手を広げた千鶴に向かって、渾身の力で刀を振り下ろした。
腕に衝撃が伝わった。何かを強く、深く、びりびりと引き裂いていくのを感じる。激しく噴き上がる血しぶきを受けて、千鶴の影は真っ赤に染まった。しかし、千鶴の言った通り、数馬には一滴の返り血もかからない。
気が付くと、あやかしの影は顔の中心から真っ二つに切り裂かれていた。
キイイイイイ……という鳴き声。だが、その声も今はもう弱々しい。
引き裂かれたあやかしの体は二、三度びくり、びくりと跳ねるように蠢いた後、風に吹き散らされるかのように霧散し、消えた。そして、あやかしが消えるとともに、辺りを厚く覆っていた青い靄もだんだんと薄くなっていく。
靄が消えゆく後には村人達が、そして千鶴が横たわっていた。
「千鶴……!」
数馬は、あやかしの血を浴びて体中がぐっしょりと濡れた千鶴を抱き起こした。
「ちづ……」
しかし、数馬は絶句した。
腕の中にいたのは、数馬が知っている千鶴の姿ではなかった。千鶴の腕や首、顔は、ささくれ立った玉虫色の鱗に隙間無くびっしりと覆われていた。しかも、片方の腕の形はもはや人間のものではなく、甲虫の脚を思わせる程細く尖り、黒光りする堅い殻で覆われている。
「千鶴……お前は……」
千鶴は数馬を見上げ、寂しげな笑顔を浮かべてゆっくりと首を横に振った。姿形が変わっても、その笑顔は、数馬がよく知る優しい千鶴そのものだった。
周りをよく見回せば、村の者達も全て、人としての形を失い、異形のものと成り果てているようであった。
清吉じいさんは、体中に長い毛が生えて、わうわうと鳴いていてまるで犬のようだ。おトキの体も蜘蛛のように手足が細く、長く伸びて、奇妙に折り曲げられている。竹造の腐乱した体は、亀の甲羅のようなものと融けあっているようだった。
数馬は呆然としながらも、腕に抱えた千鶴をそっと抱き締める。千鶴は心地よさそうに目を細めた。何も言わない。もう人の言葉を話す事もできないのかもしれない。
千鶴も、村の生き返り達も、もう二度と現世には戻る事はできないのだ、と数馬は悟った。
(三)
[おい、靄が……!]
英太郎の言葉に、巨木に向かって駆け続けていた左之吉の足が止まる。
青白い光をはらんでいた靄が、いつの間にか薄れていた。辺りの木々の形がはっきりと浮かび上がってくる。
「ああ……靄が晴れてきたようだ……」
[数馬がとうとう、あのあやかしを倒したのかもしれないな]
「……なら良いんだが」
左之吉はひとまずは胸をなで下ろす気持ちだった。数馬は女房を救い出せただろうか。今頃は、女房と手を取り合って互いに再会を喜び合っているかもしれない。
「あの化けモンが倒されたってんなら、きっと作衛門達も今頃正気に戻っているかもしれねぇな」
僅かな期待に縋る気持ちで呟いた。仲間や友とこれ以上戦うのは、やはり避けたかった。
死神たちの邪魔が入らなければ、あとはあの巨木の中に閉じこめられているらしい夕月を解放してやれば良いのだ。一刻も早く行ってやらなければならない。左之吉は、再び走り出そうとした。
その時、目の前にひらりと光の粉が舞った。
嫌な予感がする。
左之吉は腰の帯に差した首刈り鎌の柄を掴んだ。
ひゅっと、空を切る音。左之吉は横に跳んだ。木々の間から、水晶の刃を携えた死神たちが飛び出してきて左之吉の周りを取り巻く。
左之吉は、ちぃっと舌打ちをした。あやかしが倒され、青い靄が消え去ったとしても、死神達は依然として操られたままのようだった。
木の上では、透き通った花弁を広げた水晶色の花が満開に咲き乱れている。どこからともなく風が吹く。木々の枝葉が揺れる度、水晶色の花からは亡者の苦しげな呻き声が訥々と漏れ、不協和音となって森に満ちた。光の粉が左之吉に向かって降り注ぐ。甘い花の香が漂ってくる。
「英太郎……やはり戦うしかねぇみてぇだ」
[ああ……今からお前の目に俺の力を注ぐ]
「よし、俺の視界は頼んだぞ」
左之吉は首刈り鎌を構え、目の前にいる死神に飛びかかる。右の目にチリチリとした熱さを感じるが、今の左之吉にはそれが何よりも頼もしかった。
死神たちの刃が襲いかかるより前に鎌の刃を振るう。喉を斬り裂かれた死神達の首から噴き上がった炎が、彼らの体を包み込み、焼き尽くす。
左之吉はもはや何も考えていなかった。考えてしまえば、迷いが生まれる。行く手を塞ぐ死神達には、老いも若きも男も女もいた。その全ての喉に、左之吉は鎌の刃を突き立て、引き、切り開く。
そうしなければ前に進めない。夕月のいる場所に辿り着けない。
――考えるな。手を動かせ。足を動かせ……!
左之吉は、胸の内で幾度となくそう自分に言い聞かせた。
心など失ってしまえばいい。しかし、右の目に感じる熱さが否が応にも左之吉の心を正気に引き戻そうとする。
死神たちが左之吉の手によって次々に炎に巻かれて消えていく光景を、英太郎も今、つぶさに見ているのだ。ふと、そんな事に思い至り、痛むはずの無い心が音を立てて軋み、ひび割れるような気がした。
「はあ……はあ……はあ……」
どれ程の死神達の首を斬り、「無」の向こうへ消し去ったのか。
いつの間にか行く手を阻む死神はいなくなり、水晶の粉と亡者の呻き声が降り注ぐ森の中を、左之吉は一人、力なくよろめきながら、どうにか前に向かって歩いていた。
倦怠感に体が包まれ、頭がぼんやりするし、息も上がっている。少しでも気を抜けばその場に倒れてしまいそうだ。英太郎のおかげで幻術に惑わされる事はなかったものの、花の香を吸い込んだ事が今になって体に響いているのかもしれない。
[大丈夫か、左之吉……周りにもう敵はいないようなら、少し休んだ方が良い……]
左之吉の身を気遣う英太郎の声にも、心なしか疲労が滲んでいた。妖力を使わせ過ぎてしまったのかもしれない。
左之吉は、手近にあった木の幹に、立ったままで体をもたせかけた。束の間、目を閉じる。座り込んでしまえば、もう二度と立ち上がれないような気がしていた。
ザリッと土と落ち葉を踏む足音。うなだれていた顔を上げ、瞼を持ち上げた。
「作衛門……」
視線の先には友の姿があった。その手には透明な光を放つ水晶の刃が握られている。
「やはりどうあっても……俺の邪魔をしたいらしいな、作衛門」
左之吉はゆっくりと体を起こし、首刈り鎌を握りしめた。ふっと軽い目眩に襲われる。地面がぐらぐらと波打っているような気がした。息を吐き、両足に力を込めてなんとか己の体を支え、前を向いた。
「……お前とは会いたくなかったぜ。さっきの死神達の中にお前がいなかったから、内心ほっとしていたんだ……」
左之吉の言葉に、作衛門はやはり眉一つ動かす様子はなかった。
「お前たちをここに連れてきたあやかしは、おそらくもういない。靄も晴れた……だが、お前も、他の連中も目を覚ましてはくれないのか……なぜ……」
左之吉が全て言い終わる前に作衛門は動いていた。
[左之吉……!]
頭の内で響く英太郎の叫び声も、どこか夢の中の楽の音のようにぼんやりと聞こえた。
光の刃が左之吉に振り下ろされる。
キィン、と鋭い音が耳を打った。
遠のきかける意識を辛うじて繋ぎ止め、左之吉はほぼ反射神経のみで首刈り鎌を振るい、作衛門の繰り出した刃を弾き返していた。
しかし、その反動を受け止める力がもう残っていなかった。手から首刈り鎌が滑り落ち、左之吉は仰向けにどさりと地面に倒れ伏した。
起きあがる気力すらも残っていない左之吉を、ぞっとするような冷たい目をした作衛門が見下ろしている。作衛門は左之吉の傍らに片膝を突き、左之吉の髪を乱暴に掴んでぐいっと頭を引き上げた。作衛門と真っ直ぐに目が合う。何の感情も宿さない瞳に、深い藍色の光が揺らめいている。
作衛門の手に握られた水晶の刃が左之吉の首筋に触れた。
「くっ……」
そのまま喉を掻き斬ろうとする作衛門の手を、左之吉は咄嗟に掴み、力を振り絞って押しとどめる。
「俺だって……ここでお前に消されちまう訳にゃあいかねぇんだ……俺は……夕月をっ……」
腕の感覚は徐々になくなってくる。口で強い事を言っても、作衛門が本気で振り払おうとすれば、今の左之吉の手など簡単に振り払える。そうすれば、左之吉も他の死神と同様、首を斬られて終わりだ。呆気ない。死神としての魂の消滅など、こんなに呆気ないものだったのか。
左之吉は、地獄の刑場に引き出されて斬首された死神達の姿を思い出した。そして、自らが首刈り鎌で魂を刈り取った死神たちの顔を思い浮かべる。
自分とて、彼らと何も変わる事はないのだ。運命に抗う事もなく、ただ消えていく。それだけだ……。
左之吉は、混濁の激しくなる意識の中、作衛門の手を掴んだ腕の力をわずかに弱めかけた。
[左之吉! こちらを見ろ!]
英太郎の声が、飛びそうになる意識を呼び戻す。
「英太郎……?」
[俺がお前の視界を覗くことができるように、お前も俺の視界を見る事ができる。作衛門と目を合わせたまま、俺の視界を見るんだ……早く!]
言われるがままに、左之吉は、作衛門の藍色の左目と、自らの右の眼窩に収まった英太郎の目とを合わせた。その向こうに、不意に、慣れ親しんだ目玉売り屋の風景が現れた。相変わらず、三途の川は夜の闇に覆われているようだったが、店先には人魂提灯の明かりが色とりどりに揺れている。
[左之吉、これを見ろ]
視界の先に英太郎の掌があった。その上にはひとつの目玉がころんと乗っかっている。
[だいぶ前だが、作衛門はうちの店で目玉を買った。藍色の瞳の目玉を片目だけな。今、作衛門の左の眼窩にはまっているのがその時の目玉のはずだ。そして、今お前が見ている、俺の掌の上の目玉がその片割れだ]
盥の水から上げたばかりと思しき目玉は、まだ水気を含んでしっとりと濡れている。瞳の藍色が人魂提灯の明かりを受けて、ぼうっと微かに光を帯びていた。
英太郎のもう片方の手の指先には、先端の尖った鈍色の串が握られている。
[作衛門はお前の友だし、俺にとってもそうだ。だが、今の俺にとってはお前の方が大切なんだ。だから……俺はこうする。……許せよ]
そう言いながら、英太郎は、指先に持った串を目玉の藍色の瞳にブスリと深く突き刺した。
作衛門の絶叫が響く。
髪を掴んでいた手が離れ、左之吉は再び地面の上に転がった。
はっと気が付いて体を起こす。作衛門が顔を両手で押さえて、獣のような声を上げながら転げ回っていた。指の間からどす黒い血が溢れだしている。
「作衛門……」
作衛門は英太郎の術によって左目を潰されたようだった。
左之吉は足下に落ちている首刈り鎌を拾い上げ、土にまみれてもがき苦しんでいる作衛門の肩口を足の膝で押さえつけた。首筋に刃を当てる。作衛門は左の手で血だらけの顔半分を押さえながら、残された右の目で左之吉を見上げた。その目からは既に冷たい狂気の気配は消えていた。
「左之……吉……」
掠れた声を震わせ、作衛門が左之吉の名を呼ぶ。左之吉は瞠目した。胸の奥がどきりと音を立てる。
「作衛門……正気に戻ったのか」
「すまない……」
作衛門は、潰された目を押さえていた手を左之吉に向かって差し伸ばした。血の溜まった左の目からはチロチロと小さな炎が燃え上がりつつあるのが見えた。血が炎に変わっては、死神の魂はもう助からない。
作衛門の魂が体の内から焼かれつつある。
「謝るなよ」
左之吉は、思わず赤黒く染まった作衛門の手を取り、強く握り締めた。作衛門は、泣きそうな顔でふっと微笑み、握り返す。作衛門の掌は温かかった。
「俺も……謝らねぇから」
そう囁きながら、左之吉はもう片方の手に持った鎌の刃先を、ぶすりと作衛門の喉元に突き刺し、沈める。横に引いた。迷いはなかった。
作衛門の喉から血よりも赤い、鮮やかな炎が噴き上がる。
炎は作衛門の体を瞬く間に覆い、焼き尽くしていく。勢いを増す炎の熱気が左之吉の体をも包みこんだ。しかし、その場からは動けなかった。
左之吉が握りしめていた作衛門の手もやがて炎に舐め尽くされ、灰も残さずに消えた。左之吉は座り込んだまま、自分の掌をしばし呆然と眺めていた。英太郎も何も言わなかった。
左之吉はやがて顔を上げた。
ゆるゆると立ち上がり、重い体を引きずるように歩き出す。
行かなければならないのだ。夕月の元へ……。
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