第13話 火車に乗って
(一)
左之吉は、何とも言えぬ奇妙な感覚を味わっていた。
自分も最早これで終わりかと思ったし、覚悟もした。だが、気が付くと傍には、もう会うこともないと思っていたお辰がいた。英太郎がいた。夕月も元の姿に戻っていた。
助かったのだ。
お辰の妖力によって傷も癒え、痛みも消えている。
まるで長い悪夢から突然、目覚めたかのようにだった。しかし、まだこの夢は終わっていない。曲がりくねりながら頭上を覆う枝葉の間に揺れる水晶の花を見上げて、左之吉はそう思う。
「英太郎さんが、三途の川への道を繋げてくれたわ。他にも、この森に来ている者達がいるはずね? 火車に乗せて皆を帰すから、連れてきてちょうだい」
お辰が左之吉に言った。歪んだ妖気の漂う森の中でも毅然として立ち、この事態を収拾すべく、おそらく頭の中は目まぐるしく動いている。先程まで、左之吉の突然の口付けに驚き、頬を赤くしていた純朴な乙女の姿が嘘のようだ。
「……俺の他にもう死神は誰もいねぇよ。俺が消した」
左之吉は乾いた声で告げた。自分が手にかけた仲間達の事を思い出すと、お辰の顔を真っ直ぐに見られないような気持ちがした。
「そう……」
お辰は、左之吉の腰の帯に差した首刈り鎌にちらりと目を向け、ただ頷いた。他には何も言わない。左之吉は、ふと、どす黒いものが急に胸の内にわだかまっていくのを感じた。
「ま、閻魔王庁のモンにとったら死神なんざぁ、ただ魂を運ぶだけの道具。代わりはいくらでもいるんだろ? 何人消えようが、気にする事じゃあねぇんだろうけどな」
「……」
吐き捨てるように言った左之吉の言葉に、お辰は何も答えなかった。
怒っている様子ではない。穏やかな表情の中に、どこか寂しげなものが見て取れた。
英太郎は、すやすやと眠る夕月を腕に抱えたまま、二人の間に流れる気まずげな沈黙を、やはり何も言わずに、少し困った様子で見守っていた。
「……生きている人間がこの森の中にいる。あやかしが集めていた死人達の魂もな。連れてくる」
左之吉は、それだけ言うと、お辰達に背を向けて走り出した。
木々の間を縫うように駆けながら、なぜあんな事を言ってしまったのだろう、という悔恨が渦を巻く。
死神はただの道具。上の者の中には、確かにそう思っている者も多いだろう。しかし、お辰だけは違う。閻魔大王とも、小野篁とも、お辰だけは違うのだ。左之吉はずっとそう思ってきたし、これからもそう信じていたかった。
不意に、血の匂いが鼻についた。左之吉は立ち止まる。
「数馬! 数馬、いるのか?!」
木々の向こうにむかって呼びかける。数馬が怪我でもしているのではないかと案じたのだ。
すぐに答える声はない。しかし、気配はある。何か、沢山のモノが地面を這いずり蠢く気配。あやかしの妖気ではないが、人の気配でもなさそうだった。
ややあって、がさがさとした雑音の中に、掠れるような、微かな声が聞こえた。弱々しいが、それは確かに松原数馬の声のようだった。
「数馬……!」
左之吉は声のする方に向かって歩を早めた。
立ち並んだ木が途切れ、ぽっかりと開いた空き地のような場所に出る。
「数……」
左之吉は息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、目を疑うような光景だった。
地面の窪みには、幾つもの赤黒い血だまりが出来ていた。その合間を幾十もの異形達が体をくねらせて動き回っている。
蜘蛛のように長く折れ曲がった脚をガクガクと揺らしながら不格好に歩む巨大な虫のようなモノや、全身を長い毛に覆われた獣のようなモノ。体の半分が腐れ、ぐずぐずと泥のような赤い汁をまき散らしながら這い回っているモノもある。
しかし、どのモノも多かれ少なかれ、元は人間であった面影をうっすらと残していた。
そして、這い回る異形達の中心には、数馬が力なく座っていた。着ているものは血を吸って汚れ、腕や顔には痛々しい痣が出来ている。数馬は腕に何かを大切そうに抱えていた。
「数馬……」
左之吉は異形達を踏まぬようにしながら、数馬にゆっくりと近づいた。数馬の腕の中を見る。それは鱗に覆われ、長い手足を持った、一見すると蜥蜴か何かの類のようだった。しかし、その首から上は、間違いなく人間の女のものだ。長い黒髪が数馬の傷だらけの腕にかかっている。数馬の掌が、腕の中の異形の頬を愛おしげに撫でた。女の顔をした異形の口からは、ピイピイと甘えるような鳴き声が漏れる。
「左之吉……」
数馬は泣きはらした真っ赤な目で、左之吉を見上げた。
「それは……お前の女房か」
数馬は頷く。左之吉は溜息を吐き、改めて周りの異形達を見回した。
一度は生き返ったものの、再び肉体から引き離されてあやかしに捉えられた死者の魂達。肉体から離れた魂はそもそも脆いものだ。この森に連れてこられ、あやかしの妖力に長い間当てられた死人達は、魂が記憶していたカタチをねじ曲げられて、彼ら自身があやかしになりかかっている。
あの影のあやかしが、一度生き返らせた人間を攫ってこの森に連れてきたのも、こうして人間達を異形の姿に変えて自らの中に取り込もうとしていたからかもしれない。
どうにか、千鶴という女の魂だけでも数馬とともに現世に送り返してやれないものかと思っていたが、こうなっては最早手遅れだろう。
「左之吉……頼む。千鶴を連れていってくれ……成仏させてやってくれ」
数馬は青白くなった唇を震わせながら言う。さんざん泣いた後であろうに、数馬の目尻からは新たな涙が滴り、血のこびりついた頬を濡らした。
左之吉は、ふと数馬が羨ましくなった。死神である左之吉は、泣く事などない。しかし、もし自分も数馬のように泣く事ができていたなら……作衛門に手をかけた時に涙の一粒でもこぼす事ができていたならば、お辰にあんな八つ当たりをする事もなかったかもしれない、等とぼんやりと思った。
「わかった。お前の女房は俺が彼岸に送り届ける。村の他の奴らも、だ」
左之吉は、自らの暗い思念を振り払うように、力を込めてそう言いながら、数馬の肩を抱えた。ふらつく数馬の体を支えて、無理矢理にも立ち上がらせる。
「それと、数馬。お前も戻るんだ、現世に。こんなところで死ぬな。お前はまだその時じゃねぇ。精々、生きろ……俺が迎えに行ってやる時までな」
数馬は、ぐぅっと喉を鳴らし、俯いてまたハラハラと涙をこぼした。数馬の流す涙は、腕の中の千鶴の髪を、鱗を濡らす。千鶴は夢見るような眼差しで、ゆったりとした穏やかな笑みを浮かべ、いつまでも泣き続ける数馬をただ静かに見上げていた。
(二)
火車はぐぅっと猫らしい伸びをひとつしてから、ブルブルッと身を震わせた。火炎に包まれた体から、ぽぉんっと弾けるように、まあるい「光の毛玉」が幾つも飛び出てくる。ぴかぴかと光る毛玉は異形と化した村人達を一人一人、包み込んで中に取り込むと、再び火車の体へとすぅっと戻っていった。
「ああやって魂を運ぶってワケか……」
左之吉も、英太郎も呆気にとられて火車の様子を眺めていた。
姿形の変質してしまった死人達の数は三十を超える。この者達をどうやって運び出せばいいのかと左之吉は頭を悩ませていたのだが、お辰達と合流してからは、それが全くの杞憂であった事がわかった。
乗り物なのか猫なのか、よく分からない火車だが、お辰の配下だけあってその能力はやはり侮れない。
毛玉は、千鶴を抱えた数馬の傍にもふわふわと飛んできた。数馬は眉根を潜め、訝しげに宙を浮く毛玉を見ていた。
「大丈夫だ、数馬。女房をこいつに渡してやれ」
左之吉の言葉で、数馬は戸惑いながらも腕の中の千鶴を光の毛玉に差し出した。ふわりとした光に覆われながら、千鶴も数馬の手から離れ、他の者達と同じように火車の体に吸い込まれていく。
「これで千鶴も、村の者達もあの世に……」
「ああ……この森の妖気で皆、あんな姿になっちまっているが、三途の川に着いたら元の姿に戻るようにするさ。心配するな」
「かたじけない。お前には随分と世話になったな……礼を言うぞ」
数馬は左之吉に真っ直ぐに向き合うと、深々と頭を下げた。
「おい、よせよ」
かしこまった数馬の態度に、左之吉は苦笑した。
「これからお前も、俺たちと一緒にあの火車ってやつに乗ってこの森を抜けるんだ。そうすりゃ、やっと一件落着ってわけだ。あのあやかしはお前がやっつけてくれたしな。こっちからも礼を言うぜ」
左之吉がにやりと笑うと、数馬もやつれた顔に微かな微笑みを浮かべた。ここに来てから初めて見た数馬の笑顔かもしれない。
お辰、英太郎、左之吉、数馬の四人は火車の背中に乗り込んだ。夕月は英太郎の腕に抱えられて眠っている。眩い光を放つ火車に、数馬は何度も目を瞬かせていた。
火車は走り出す。木々が後ろに流れた。
左之吉は行く手を見つめる。
三途の川では、もうそろそろ夜は明けただろうか?
穏やかな青い空を映して流れる川面……死者達は死神に手を引かれて、土手道を歩いてゆく……緩やかな風に翻る、目玉売り屋の赤い幟。盥に張られた水をはねとばしながら泳ぐ目玉達……。
それは飽きるほど見慣れた風景だった。だが、今の左之吉には、そのひとつひとつが何よりも懐かしいものに思えた。
風が頬を打つ。目を細めた。
森はいつまでも途切れない。立ち並ぶ木々はどこまでも無限に続いていく。
どこまでも……。
「なぁ、お辰さん。何かおかしくないか? こっちに来る時、こんなに長く走ったかな……」
英太郎が不意にぽつりと呟いた。
「そうねぇ……そろそろ、道に繋がっても良い頃なんだけど……」
お辰も振り返り、怪訝そうに首を傾げる。
お辰、左之吉、英太郎の三人は思わず顔を見合わせた。それぞれが、ふと、名状し難いような不穏なものを感じ、張りつめた空気が流れる。
「おい! 靄が出てきているぞ!」
数馬の叫び声に、三人とも弾かれるように辺りを見渡す。
視界の先は仄青くじっとりと霞んでいた。青い靄。いつから現れたのか……忽ちのうちに靄は濃くなっていく。
「火車……止まりなさい!」
お辰に命じられ、火車はぶわっと体を広げるようにして止まった。
火車の体の毛が逆立つ。フーッと、靄の向こうの何かを威嚇するような息を吐いた。
蠢く青が濃くなり、渦を巻き、寄り集まり、ひとつの影になっていた。青の影の中、赤いものが浮かび上がる。甘い花の香の中に、鉄錆びた生臭さが漂った。
赤いものは、顔だった。
ところどころ切り裂かれ、削ぎ落とされ、元の形が分からない程に潰れ、血にまみれた顔が、ちぎれかかった舌をだらりと垂らしながら、ググググ……とくぐもった声で笑った。
「おのれ! まだ生きていたのか!」
数馬は刀を抜き放って火車の背から跳び降りた。
「待て、数馬! 行くな!」
左之吉の制止は届かない。数馬は影に真っ直ぐに向かっていく。
影は、そんな数馬をあざ笑うかのように、靄の中を高く高くふわりと舞い上がった。
あやかしの顔が、血をまき散らしながら数馬の頭上を飛び越した。左之吉達のいる方へ真っ直ぐに向かってくる。
「夕月を狙っているわ……渡さないで!」
お辰の声にも焦燥が滲んでいた。左之吉は、英太郎の腕に抱かれた夕月を見た。夕月は気を失ったまま、未だ目覚める気配もない。
すぐ頭上まで伸び上がった影。見上げれば、長い鞭のようなものが、影の中から百足の脚のように無数に伸びてゆらゆら揺れていた。手のようでもあり、蛇の大群のようでもある。左之吉は、突如の事に唖然とした。
火車が身にまとう炎が火柱となって噴き上がる。火車は、影を焼き尽くそうとしていた。
しかし、あやかしの動きは思いの外素早い。炎を避け、真っ黒な腕達がこちらに向かって降り注ごうとしている。
「左之吉!……頼んだ!」
英太郎の声とともに、左之吉の胸に勢いよくぶつかってきたものがあった。咄嗟に抱き留める。夕月だった。
気が付くと、英太郎は一人、火車の背の上に立ち上がっていた。
英太郎の左の目が空に向かい煌々と光を放つ。その青い光に引き寄せられるように、影はのたくりながら、稲妻のような速さで英太郎に向かう。
「馬鹿っ……英太郎!」
影が、束ねられた細い紐のようになって伸びた。幾重にも英太郎の体に巻き付く。
「ぐっ……」
影の紐は、英太郎の首にも食い込んでいた。英太郎の体がぐらりと傾ぐ。
「英太郎……!」
左之吉は、英太郎の腕をとろうと手を伸ばした。
しかし、パシリと軽い音がして、その手は弾かれた。英太郎が自ら、振り払ったのだ。
「く、る……な……」
英太郎は絞り出すような声でそれだけ言うと、左之吉に背を向けた。そして、全身に黒い影をまとわりつかせたまま、火車の炎の外へ躍り出た。
そこには巨大な影の塊と、あの血塗れの顔が待ちかまえている。
影の塊は脈打つように揺れ、英太郎の体を闇の中に呑み込む。赤い顔は、キキキキキ、と、耳を引っかくような音で笑う。
風が起こった。
青い靄も、あやかしの影も、火車の炎さえも、引き裂き、かき乱す、つむじ風。
目を開けていられなかった。
「英太郎ぉ――――!」
左之吉は、夕月を胸にしっかりとだき抱えたまま、叫んだ。
返事はない。
あの男は、夕月を助けるために自らをおとりにして、あやかしに取り込まれたのか。しかも、何の躊躇いもなく……。
「馬鹿野郎……!」
左之吉は、ギリリと奥歯を噛みしめた。
脳裏によぎるのは、娘の死を悲しみ、一抹の躊躇いもなく、鑿で喉を突いて果てた仏師・英了の事だった。
風が止み、再び目を開ける。消えていた。青い靄も、あやかしの黒い影も、真っ赤な顔も……そして、英太郎の姿も。
ただ静かに、同じような形をした木々が、見渡す限りどこまでも並んでいるだけだった。まるで、全てが幻であったかのように……。
「お辰。夕月を頼んだぜ」
左之吉は、夕月をお辰に押しつけると、おもむろに立ち上がった。
「……どこ行くの?」
お辰が怪訝そうな顔で見上げている。
「あの馬鹿……英太郎を探してくる。あのあやかしは、この森から出られない……だから、英太郎もきっと森のどこかにいるはずだ」
「無謀よ……探すたって」
お辰の言葉が終わらないうちに、左之吉は火車の背から飛び降りていた。
「待ちなさい!」
引く止めるお辰を無視し、森の奥に向かって走り出す。
「馬鹿はあんたよぉ!」と、怒気を含んで叫ぶ声が背中越しに聞こえた。
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