第14話 道しるべ

(一)


「英太郎――――!」

 左之吉は、英太郎の名を呼び続け、森の中をただがむしゃらに走っていた。

 右の目を通して、英太郎の気配は確かに感じていた。しかし、その気配も徐々に弱くなり、曖昧になっていく。

「くそっ……どこにいるんだ!」

 お辰に無謀だと言われたが、その通りだった。英太郎の気配を辿ろうにも、方向がまるで分からない。森の妖気に邪魔されるためか、それとも、英太郎があやかしにもう既に取り込まれてしまったためなのか。気持ちだけが焦った。

「英太郎! おい! 何か……何か答えろ!」

 左之吉は立ち止まり、乱れた息を整える。瞼を閉じた。英太郎の視界に自分の目を合わせる。そこにあるのは、闇。ただ黒い闇だけが広がっている。

「英太郎……俺の声が聞こえねぇとは言わさねぇぞ。おい! 気ぃ失ってんのかよ! 英太郎! 何とか言え!」

 左之吉の声は、ただ木々の中の静寂に吸い込まれる。闇の向こうから返す声はない。

「帰るんじゃねぇのか……夕月も、お辰も揃って、三途の川に帰るんじゃねぇのかよ?! 自分ひとり、身代わりになって良い格好しようとしてるんじゃねぇよ、馬鹿! おい! 英太郎、教えろ、お前のいるところを……答えろ! 何とか言ってくれよ……!」

 喉が枯れる程、叫んだ。ぴくりとも揺らぐ事のない、視界の向こうの深い闇に向かって。

 拳を握りしめる。

 影が襲ってきたあの時、この手で英太郎の腕を掴めていたのなら……。ふりほどけない程強く、英太郎を捕まえていられたなら……。

 過ぎ去った後悔を思えば思う程、やりきれなさと苛立ちがが胸に募った。

「ちくしょう……!」

 力任せに、拳を己の膝に叩きつけた。

 その時だった。

 閉じた瞼に映る暗闇の中に、ふっと白いものが浮かび上がった。

――あれは……

 今まで頑なに黒一色で塗りつぶされていた世界に、突如現れた何か。左之吉はそれを凝視した。輪郭がぼんやりとしているが、人の姿であるようだった。

 心をさらに、右の目に集中させる。ぼんやりとした「その者」の姿が徐々にはっきりと見えてくる。

 今、左之吉に見えているモノは、すなわち、この森のどこかにいる英太郎が目にしているモノなのだ。左之吉の声が届かないとしても、英太郎はまだあやかしに取り込まれてはいない……つまり、消えてはいないという事だ。

 英太郎の前に現れた「それ」は、敵なのか味方なのか。左之吉は、息を詰めて見つめる。その正体を見極めようとした。

「夕月……?」

 左之吉は、思わずその名を口にした。英太郎の前に佇んでいるのが、幼い童女だったからだ。

 しかし、よく見れば、夕月とは雰囲気がだいぶ違っている。その一方で、かつてどこかで会った事のある子供のようにも思えて仕方がない。

 一体、何者なのか。

 思い出せそうで、思い出せない。

[お前は……誰だ?]

 不意に英太郎の声が頭の中に響いた。やはり英太郎もこの光景を見ている。

 子供の姿が大きくなった。英太郎が一歩前に進み、少女に近づいたのだ。

 その途端、左之吉の右の頬に温かいものがツ、と滴った。左之吉は目を開き、指先で頬を拭う。

「涙……?」

 薄く濡れた指先を見つめ、眉根を顰める。なぜ、自分が涙なんか……。

――いや、これは俺の涙じゃなくて……英太郎の涙だ。

 気が付いた時、胸の奥がドクンと跳ね上がった。稲妻に打たれたような衝撃が脳天に走る。

「もしや……あれは、英了の……」

 左之吉が覗き見た、英太郎の前世。病の床で薄く微笑んでいた、痩せ衰えた娘。あの娘の病が癒え、肉付きも良くなれば、きっとこのような姿であるに違いないと左之吉は確信した。

 だが、なぜ英了の娘が急に英太郎の前に現れたのか。英了の娘は、遙か昔に死んでいる。幼くして死んだ者の魂は賽の河原で石を積み続けなければならない。それに、運良く石積みの苦役から逃れられたとしても、もう既にどこかの世に転生しているはずだ。

 今、英太郎の視界に映っている「英了の娘」が本物であるはずがない。だとすれば、これは、英太郎の中に封じられたはずの英了の記憶が紡ぎ出した幻だ。水晶の花の香に乗せて、影のあやかしが創り出すまやかし……。

 娘の姿は、またひとつ大きくなった。英太郎が、徐々に娘に近づいていく。娘は嬉しげに微笑み、手を伸ばす。

[お前は……一体……]

 おそるおそる何かを探るように、英太郎もゆっくりと己の手を前に差し出した。左之吉の右の眼尻から、またも涙の滴が落ちる。英太郎の中で、前世の記憶が蘇りつつあった。

 ふと、クククク、と忍び笑うような声が聞こえる。娘の白い顔に、真っ赤に血濡れた悪鬼の顔が重なる。英太郎は気づいていない。

「英太郎……! 近づくな! 罠だ!」

 左之吉は叫んだ。しかし、やはりその声は英太郎には届かない。

「英太郎! 英太郎……! 思い出すな! お前の行くべきところはそっちじゃねぇ! 俺の声を聞け! 英太郎……!」

 虚空に向かって力の限り叫ぶ。声が枯れる。こんなにまで叫んでいるのに、英太郎はあやかしの罠に絡め取られたまま、娘の幻に向かっていく。

 堰を切ったかのように、涙が次から次へとこぼれ落ちた。英太郎が泣いているのか、自分が泣いているのか、左之吉にはもはや分からなかった。

「ちくしょう……なんでっ……」

 左之吉は、その場に崩れ落ちた。

 自分の見ている前で、英太郎を失ってしまう。そう考えるだけで体が震え、手足に力が入らなくなった。作衛門を己の手にかける時でさえ、こんなに激しい哀しみに打ちのめされなどしなかったのに。

 耳鳴りすら響くように感じる、無音。

 その静寂の中に、自分を呼ぶ声が遠く、微かに聞こえた。


 ……の、き……ち……


 きっと幻聴だ。この森は、目だけでなく耳までも欺こうとしている。

 唇を噛みしめ、うずくまる。

「さ、の、き……ち……」

 静寂をかき乱し、自分ではない者の声が呼んでいる。

 声は次第に大きくなった。

「左之吉……!」

 たたたたた、と勢いよく駆ける足音。

 この走り方。覚えがあった。三途の川の堤を、人魂提灯を揺らしながら、転がるように走っていた、あの……。

「夕……月……?」

 左之吉は掌で涙を拭い、顔を上げた。

 そこには、汗だくになって息を切らした夕月がいた。左之吉の前に仁王立ちをしていた。

「あのっ……よくわかんないんだけどっ……目が覚めたら、お辰様がいて……左之吉がっ、英太郎……探しにいったから……助けてあげなさいって……」

 頬を赤くし、息を弾ませながら懸命に話す。完全に元の夕月だった。左之吉に襲いかかってきた凶暴な鬼の面影はもう微塵もない。

「ね……左之吉。安心して。英太郎、見つかるよ。私、道しるべ持ってるから!」

 夕月は、左之吉の前にぺたりと座り込み、ずいっと自分の掌を差し出した。開かれた手には、滑らかな青い石がころんとひとつ載っている。行徳沖に浮かんでいた舟の上で、あの日、夕月が眺めていたものだ。

「道しるべ、だと?」

「そう……これは、道しるべ。旅の神様が言ってたんだ」

 夕月は微笑む。

「……私、何があったか、よく覚えていないの。でも、左之吉も、英太郎も、お辰様も、私の事を探しにきてくれたんだよね?」

「……ああ」

「一人で心細くて、寂しくて……でも待ってたんだ。左之吉達が絶対に来てくれるって。だから、会えて嬉しい」

「俺もだよ……お前が無事で良かった」

 左之吉は手を伸ばし、夕月の茫々とした髪を撫でた。夕月はくすぐったそうに目を細める。

「左之吉も、英太郎も、私を助けてくれた……だから、今度は私が助けるよ」

 夕月の言葉は力強かった。

「ねぇ、信じて……英太郎のところに行けるって。信じればいけるよ。この石が英太郎のとこに連れて行ってくれる」

 左之吉は、青い石と夕月を交互に見やった。束の間、考え込む。

「よし……信じるぜ」

 青い石を載せた夕月の手を包み込むように、左之吉は自分の掌を重ねた。立ち上がる。

「行くぞ、夕月……英太郎のところへ!」

「うん!」

 二人は顔を見合わせ、頷き合った。

 重ね合わせた二つの掌の間から、透き通った青い光が溢れる。

 眩く煌めく光は、水面のように揺らめきながら、二人の行く手に道を創った。

 黒い木々の影も、水晶の花も、光の中に掻き消え、もうそこはない。

 しっかりと互いに手を握り合ったまま、左之吉と夕月は地を蹴って走り出す。

 青い光が指し示す、その先へ向かって。


(二)


 左之吉と夕月の重ね合わされた掌の中から、道しるべの石の光が放たれ、その光は渦をつくり、やがて不吉な青い靄へと変わっていく。

 気が付くと、辺りには、青い靄とともに、咽せてしまいそうになる程の腥い匂いが充満していた。血の匂い。

 全てを霞ませる靄の中では、すぐ隣にいる夕月の顔すらぼんやりとして見える。

 すぐ傍で、べたべたべた……、と湿ったものを打ち付ける音が聞こえた。夕月がびくりとして、怯えたように左之吉に身を寄せる。

 靄の中で蠢く影がある。しかし、形がはっきりしない。べたり、べたりと音を立てて蛇のようにうねりながら左之吉達に近づいてきたかと思うと、いつの間にか消えてしまう。しかし、少なくとも今は襲ってくるような気配はなかった。

「英太郎……どこだろ?」

 夕月が囁き声で言った。

「さぁ……だが、こいつが俺たちをここに連れてきた」

 左之吉は、夕月の掌から青い石を摘み上げ、自分の顔の前にかざした。

「英太郎はこの近くにいるって事だろう? なぁ、道しるべとやらよ……」

 左之吉の言葉に答えるように、石は再び輝きを放ち始めた。トクントクンと、まるで生きているかのような石の脈動が指先に伝わる。

 全てを覆い隠していた靄が、ゆっくりと薄らいでいく。

 やがて視界に赤黒いモノが飛び込んできた。

 汚れた血の塊のようなものが、幾百匹もの巨大な蚯蚓か蛭のようになって、左之吉と夕月の周りを取り囲んで壁をつくっていた。血の塊達は、そこらじゅうをヌメヌメと這い回っている。塊同士がぶつかりあう度に、ベタリ、ベタリ、と水気を含んだ音が響く。

「うわあっ、気持ち悪いぃ……!」

 夕月が後ずさって悲鳴を上げた。

「落ち着け、夕月。石を見ろ!」

 青い石からは真っ直ぐに光の線が放たれていた。道を示している。英太郎に届く道を。

 光は、もつれあう血の海の向こうを指し示していた。

 左之吉は首刈り鎌を手にした。光の射している場所をめがけて赤黒い塊に斬りつける。斬ったそばから、血の壁はごぼごぼと泡を噴き出させながら溶け崩れた。

「夕月……! 離れるなよ!」

 左之吉は再び、道しるべの石ごと夕月の手をしっかりと握る。夕月を引っ張りながら、走り出した。

 夕月もつんのめりそうになりながらも、左之吉にぴったりと着いて、懸命に走る。

 左之吉は走りながら、行く手に横たわる血の塊達を次々に斬っていく。血の塊達は、特に襲いかかってくるわけでもなく、斬るのは容易かった。おそらく、この化け物達はあやかしの分身のようなものだ。本体はきっとこの先にいる。

「英太郎……!」

 呼びながら、束の間、己の視界を英太郎の視界に合わせる。英太郎が見ているはずの闇は、今はもう赤い血の色に一面染められていた。しかし、その赤の中心にいるのは、やはり、少女の幻影。血塗れの娘が、無垢な微笑みを浮かべて佇んでいる。

「英太郎ぉ! いい加減に目ぇ覚ませ!」

 左之吉は、行く手に立ちふさがる、ひときわ大きな血の壁を切り裂く。

 裂いた破れ目を通して、渦を巻く血の海が、泡立ち、波となってうねっているのが見えた。

「英太郎!」

 叫んだのは、夕月だった。

 血の海の中、体の半分程も埋もれかけた英太郎の姿が確かにあった。そして、そのすぐ傍らには、あやかしの顔がぽっかりと浮かび、ニタニタとした笑みを浮かべている。

 あやかしの顔の傷からは、ぼたぼたと湧き出すように血が流れ落ちる。その血がかたまったモノが、まるで別の命を得たかようにもぞもぞと蠢き出しているのであった。

 左之吉は、振り払うように夕月の手を離した。

「だめ……左之吉!」

 取り縋ろうとする夕月を押し返す。

「危ねぇから、お前はそこにいろ!」

 左之吉は一人、あやかしに真っ直ぐに向かっていった。

 勢いに任せ、正面から斬りつける。かわされた。しかし、手応えはある。血に覆われたあやかしの体から赤い泡が噴き出す。もう一度、鎌を振るう。今度は幾分か刃が食い込んだ感触がある。それとともに、英太郎の体を呑み込んでいた血のうねりの層が、一瞬だけ薄くなったように感じた。

 左之吉は、ついに首刈り鎌を放り出した。泡立つ血をかき分けながら、両腕で英太郎を抱える。

「うおおおおおお……!」

 吼えながら、渾身の力で英太郎の体を血の塊の中から引きずり出した。

 血で滑る地面の上に、二人一緒に転がり、倒れる。

「英太郎!」

 左之吉はすぐに起き上がり、英太郎の肩を揺すった。

 英太郎はぐったりとしながらも、真っ直ぐに目を見開いていた。しかし、その視線はあらぬ方を向き、左之吉を見てはいない。まだ幻に捉えられているのか……。

「英太郎! しっかりしろ!」

「……」

 英太郎の唇が微かに動いた。誰かの名を呼んでいる。聞き覚えのない名だ。しかし、左之吉には、英太郎が、いや、英太郎の中の英了が誰を呼んでいるのか、分かる気がした。

 英太郎の目から一筋の涙が滴り落ちる。そして、ふっと糸が切れるように、瞼が閉じられた。

 左之吉は英太郎の頬の涙を指で拭い、気を失った英太郎の体を抱きかかえた。

 その直後だった。

「いやあああああ!」

 夕月の悲鳴が響いた。はっとして振り返る。

 血と泥で練られたような、どろりとした赤い塊が、ごぼごぼと泡立ちながら夕月の体にまとわりついていた。

 あやかしの顔が、キキキキキ……、と甲高い声で笑いながら夕月を見下ろしている。

「いや……やめて! ……お母様!」

 追いつめられた夕月が叫んだ、信じ難い言葉。左之吉は耳を疑った。

――夕月の母、だと?

 あやかしは、なおも笑う。狂ったように。

「夕月!」

 左之吉は英太郎を腕に抱えたまま、立ち上がる。しかし、武器となる首刈り鎌は先程捨ててしまっていた。瞬間、頭の中が真っ白になる。

 その時、不意に、じゃらり、と鉄が擦れるような音が響いた。

 長い鎖が宙を舞い、あやかしの体に巻き付く。夕月を捕らえていた血塊の動きが、突如としてぴたりと止まった。

「間に合ったみたいねぇ」

 鎖の端を手に握り、血の塊の間を器用に避けながら悠々と歩いてきたのは、お辰だった。

「なんて汚らしい場所……着物が汚れちゃうじゃない」

 お辰はきょろきょろと辺りを見渡しながら、心底嫌そうに顔をしかめていた。

「お辰……」

「馬鹿ねぇ、貴方は。ま、貴方のその無鉄砲のおかげで、こうしてこの人を追いつめる事ができたのだけど、ね」

 お辰は左之吉を見て薄く微笑むと、鎖でがんじがらめにされたあやかしを指さした。

「紅葉……」

 お辰はそう呟くと、ゆっくりとあやかしに歩み寄る。優美な仕草の中にも、毅然とした空気が漂い、どこか冷たい恐ろしささえも感じさせる。

「貴女には、長い間、無間地獄の支配を任せてききた。でも、貴女は亡者達の苦しみを弄び過ぎたわ……だから、当然の報いねぇ。亡者達の怨みに取り込まれ、醜いあやかしになってしまったのも」

 お辰は冷たい微笑みを口元に浮かべたまま、懐から何かを取り出した。

「そればかりか貴女は、現世の生死の理まで乱してしまった……貴女の咎は私が罰するわ。紅葉。無間地獄の主としての貴女の役目を解きます。そして、貴女が弄び嘲笑した亡者達、その一人一人の全てが負った罪の分だけ、地獄の底で罰を受けてもらうわ。罪をあがなうまで、何億年とも、何兆年とも続く苦しみを味わいなさい」

 お辰が手に持ってすっと掲げたのは、小さな手鏡だった。

「さぁ、紅葉……地獄へお帰り」

 グオオオ……とあやかしが獣のように吼えた。しかし、暴れようとすればするほど、お辰の鎖はあやかしの体に深く、きつく食い込むようだった。

 鏡が光る。あやかしの顔も体もぐにゃりと捻れ、鏡に吸い込まれていく。ぬめぬめと蠢いていた無数の血の塊の群も、また、忽ちのうちにクシャリと崩れ、乾いた粉となって鏡に吸い込まれた。

 やがて、全てが鏡の輝きの中に取り込まれ、後には黒い闇だけが残った。

「お辰様……この鏡」

 静寂の満ちる中、夕月がお辰の手の中にある鏡をおずおずと見上げていた。

「ああ……これはお前にも見覚えがあるものよね。これはかつて私が紅葉にあげたものなのよ。私は無間地獄にこれを探しにいっていたの」

 お辰は、手鏡をそっと夕月に差し出した。

「お前が持っておおきなさい」

「……はい」

 夕月は素直に鏡を受け取った。その鏡面は、よく見れば、ところどころ欠け、ヒビ割れていた。まるで、一度割れた鏡の欠片をつなぎ合わせたかのようだ。

 夕月は、鏡をしばらくじっと眺めた後、懐に大切そうに仕舞う。

「お辰……助かったぜ」

 左之吉は、英太郎を背中に背負って、お辰達の元へ歩み寄る。

「ところで、数馬はどうした?」

「他の死人達と一緒に、火車が先に三途の川まで連れて行ってくれてるわ」

「そうか……だが、俺たちゃ、どうやって帰ればいいんだ?」

「どうやって……?」

 お辰は不思議そうに首を傾げた。

「何を言ってるのよ? 三途の川はすぐ目の前よ?」

「は?」

 左之吉は、意味が分からずに眉根を顰める。

 さらさらとそよぐ川のせせらぎが聞こえた。

 飽きるほどに見慣れた川が、眼下にゆったりと流れている。

 橙色に、藍色に、藤色に、山吹色に……英太郎の店の前で色とりどりに揺れる人魂提灯。ちゃぽん、ちゃぽん、と盥の中で目玉達が水しぶきを上げて泳ぐ音。

 左之吉は、口を開けたまま絶句した。

「信じれば、思うままの場所にいけるって、夕月にも言われなかったかしら?」

 お辰は、そんな左之吉の様子を見て、クスクスと可笑しそうに笑った。

 空を染める青い闇。しかし、三途の川の対岸からはうっすらと橙色が滲み始めていた。

 地獄の夜が明けようとしている。


(三)


 朝焼けにほんのりと色づく空の下、未だ夜の色を宿した川は滔々と流れている。三途の川。死んだ者が彼岸に行くために渡る川。底知れぬ「死」の深淵を思わせる言い伝えの川でありながら、その風景は思っていたよりも穏やかでのんびりとしたものだった。

 数馬の前には白い着物を着た千鶴が佇んでいる。二人のすぐ傍を流れる三途の川の水面を緩やかな風が撫で、千鶴の耳の横の後れ毛もそっと揺らした。

 今、数馬の目の前にいるのは、哀れな異形になり果てた千鶴ではない。数馬のよく知る、愛らしいままの元の姿の千鶴であった。

「千鶴……行ってしまうのか。この川の向こうへ」

 数馬の言葉に千鶴は、寂しげに微笑んでコクリと頷いた。

「旦那様とお別れするのは、辛い……でも、私は一度死んだ身です。やはり行かなければなりません……」

「また生き返り、わしとともに暮らすことはできぬのか」

 千鶴は首を横に振った。

「村の人たちと一緒に、私もこの川を渡ります」

 千鶴の目には、静かだが、揺るぎない決意が宿っていた。

「旦那様が私を助けにきてくだすったおかげで、私の魂もあやかしとならずに済んだのです。だから、私は思い残すことなく、旅立つことができる……」

 気が付くと、千鶴はいつの間にか、腕に光るものを抱えていた。姿形はよく見ることができないが「それ」は千鶴の腕の中でもぞもぞと動いていた。

「これを……」

 千鶴に差し出されるまま、数馬は光の塊を腕に抱き取った。じんわりと温かい。

「さようなら……」

 千鶴の囁き声とともに、柔らかな吐息が耳元にかかった。

 朝日が数馬の顔を照らす。瞬きをする間に、千鶴の姿は白い光の中に溶けるように消えていた。

「千鶴……」

 数馬は呆然と立ちすくんでいた。もう二度と生きて千鶴に会うことはないだろう、という実感が胸に湧き上がる。しかし、不思議なことに悲しみはなかった。千鶴は、安らいだ心のまま、あの世に逝くことができた。それに、数馬もいずれまた、この川岸に立ち、そして自らも川を渡るのだろう。

 その時こそ、きっと己の魂は千鶴の魂とひとつになることができる。

「数馬。支度ができたぞ」

 振り向くと、左之吉が立っていた。

「渡し場からあの舟に乗れ。現世まで連れて行ってくれる」

 左之吉が顎で示す先には、一艘の小舟が浮かんでいた。船頭がいる。よく見れば、清吉じいさんだった。

「先生、おらが送っていくだよ」

 清吉じいさんは数馬に手を振った。歯の欠けた口を開けて皺だらけの顔でくしゃりと笑う。

 数馬は揺れる舟に乗り込んだ。

「左之吉、世話になった。お前にはどんなに礼を言っても言い足りないくらいだ」

 数馬は、渡し場に立つ左之吉を振り返った。

「お互い様ってやつだ。俺も、お前がいなきゃ帰ってこられなかったし、夕月も助け出せなかったからな」

「……また、会えるのを楽しみに待っている」

「おう、俺もだ。だが、あんまり急いでこっちに来るんじゃねぇぞ」

 左之吉がニッと笑って手を差し出した。数馬はその手をしっかりと握り返した。

「じゃあな」

「ああ……さらばだ」

 舟がゆっくりと岸を離れる。数馬の腕の中にはやはり透き通った、繭のようなものが抱えられていた。繭の内側で、もぞもぞと動く、小さな手足と頭。未だぼんやりとしか見ることの出来ないそれが、千鶴の遺したかけがえのない形見なのだと、数馬は、今はっきりと感じることができた。

 ギイギイと軋む櫓を漕ぎながら、清吉じいさんが歌う。数馬も幼い頃に聴いた事がある、漁師達の舟歌だ。

 川面に朗々と響く歌声は子守歌となり、数馬の意識はやがて透明な光の波の中に沈んでいく。瞼が自然に重くなる。

 眠りに沈みきる寸前、眩しい程に晴れ渡った空の青が瞼の裏にくっきりと焼き付いた。

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