第15話 流転
(一)
若草色の草原が地平の彼方までも続いるのを夕月は見ていた。
これは夢だ、と思う。なぜならば、ここはいつか夢で見た場所にそっくりなのだから。
夕月は思い出す。あの時は、たった一人で心細く、当て所もなくさまよい歩いていたところ、旅の神を名乗る老爺に出会った。不思議な男の子にも会った。
今はあの時のような、胸を刺すような荒涼とした不安は感じない。これは夢だと分かっている。目を覚ませば、そこには自分の親しい人たちがいる。自分を温かく迎え入れてくれる人たちがいるのだ。
しかし、それでも夕月は会いたいと思った。あの夢で出会った二人に。
「来なすったね」
ガラガラと掠れたしゃがれ声がする。
「旅の神様……」
振り向くと、ぼろぼろの編み笠を被った老人が立っていた。
夕月は懐から青い石を取り出した。
「ありがとう……この道しるべ、とても役にたったの」
夕月は老爺に石を差し出したが、老爺は受け取らなかった。
「その石はお前さんの好きにするといいさ」
老爺は、蚯蚓のような唇を震わせてケケケ、と笑った。枯れ木のような腕に埋め込まれた目玉たちがきょろきょろと動く。
「俺ぁ、借りを返しただけさ……あの目玉売りにな」
「英太郎に……?」
「実はな……旅の神なんてのは嘘なのさ。俺ぁ、ただのあやかしさ」
老爺はそう言って、編み笠を取った。毛の一本もない、ごつごつとした岩のような禿頭が現れる。蚯蚓のような唇の他には、目も鼻もなかった。
「俺も人間だったんだ……」
老爺は、深く吐き出す息とともにポツリと言った。
「薬師でな。だが、金を持ったやつの病しか診てやらんかった。銭の払えねぇ貧乏人は死ぬに任せればいいと思ってた。……あいつは俺に説教垂れやがった。冷たい人間だと。お前はそんなやつじゃなかったと。そんな説教じみた事を抜かした後、あいつは死んだ。俺が診てやらなかった娘の後を追ってな」
「……」
「あの言葉が俺にとってのたったひとつの道しるべだったのかもしれねぇ、と思ったのは、俺自身も死んだ後さ。だが、生きている間の俺ぁやり方を改めるなんてなぁせんかった。あいつの言葉がずっと耳に残っていながら、だ。だからだろうなぁ、俺がこんな化けモンの姿になっていつまでも浮かばれずにさまよってるのは」
老爺の言葉は、夕月に語りかけているというよりも独り言に近かった。
「おじいさん」
「何だ」
「またいつか目玉売りのお店に寄っていってよ」
「……」
「だって、おじいさん、いっぱいあるんでしょ、目玉」
夕月は老爺の腕の目玉と目を合わせてニッと笑った。
「ははは……そうさなぁ」
老爺も笑った。蚯蚓のようにぐにゃぐにゃした口がかっぽりと開いた。
「またいつか、な。俺の話は目玉売りには内緒にしておけよ」
「わかった。二人だけの秘密ね」
夕月は、素直にこくりと頷いた。
風が吹く。束の間湧き上がった、つむじ風のように激しい風。思わず目を閉じた。耳元でゴウ、と唸る風音の中に「じゃあな」という声を幽かに聞く。
再び目を開けた時には、もう老爺の姿はそこになかった。
「また、ね」
夕月は囁いた。
草地の柔らかな感触を足の裏に確かめながら歩き出す。
もう一人の「彼」に会うために。
「夕月……?」
声をかけてきたのは彼の方だった。
あの時の彼は、幼く、そして姿形もはっきりと見ることができないくらいにぼんやりとしていた。
しかし、今、夕月が目にしているのは、優しげな目元の精悍な少年だ。夕月を見つめる少年の瞳には、嬉しさと驚きが綯い交ぜになったような色が滲んでいた。
「夕月……もう会えないかと思ってた。君に会ったのはずっと前のことだったから」
声にまだあどけなさがあった。声が大人のように低くなるのはもう少し後なのかもしれない。
「あら……そんなに前だったっけ?」
夕月は首をかしげた。現世に住む者と地獄に住む者とでは、時の流れの感覚が違う。
「うん。僕が生まれる前で、まだ母上の中にいた時だったから」
「そっか……」
夕月は納得した。かつて夕月が夢で出会った彼はまだ胎児だったから、形がぼんやりしていたし、名前も分からなかったのだろう。
「そうだ。僕も名前を付けてもらったんだよ。雄馬っていうんだ」
「雄馬……ふふ、かっこいい」
夕月が率直にほめると、雄馬は照れたような微笑みを浮かべた。
「ね、雄馬……これをあげるね」
夕月はふと思いついて、手に握りしめていた青い石を雄馬に渡した。
「いいの?」
「うん。雄馬に持っていてもらいたいの。それを見たら、私を思い出してね」
雄馬は掌の上に乗った小さな青い石をしばらく眺める。
「……ありがとう。でも、また会えるよね?」
雄馬は少し不安げに、夕月の顔と青い石を見比べた。
「会えるよ……必ず、また」
いつ会うことができるのか、夕月は言わなかった。
次に夕月が雄馬と会えるのは、きっと雄馬がその人生を全うした時だ。
夕月は死神なのだから。
夕月も、雄馬も、それ以上は互いに何も語らず、どちらからともなく草の上に腰をおろした。
二人は肩を並べ、膝を抱え、青く澄み切った空をいつまでも黙って見上げていた。
(二)
白い花びらが風に吹かれ、川面にほたりほたりと舞い落ちるのを数馬は飽きる事なく眺めていた。花の欠片を載せた水は海へと流れていく。
そういえば、あの森には水晶色の花が咲いていると左之吉が言っていた。呪いの妖花は、生者である数馬には見えなかった。しかし、もし見えていたのなら、この桜に似て愛らしく、そして怪しく妖艶な花影を目の当たりにしたのだろうか。
「千鶴……」
千鶴が亡くなってから、いつの間にやら四十年もの月日が流れた。それでも、こうして一人で川を眺めている時に自然と口をついて出るのは、いつも変わらず、愛おしい妻の名前だった。
四十年。長いようで短かったこの年月のうちに、様々なことがあった。時代も変わった。目まぐるしい動乱の中で沢山の人間が死んだ。江戸幕府は瓦解した。数馬があれ程までに憧れてなりたがっていた武士というもの達も、結局は国に切り捨てられ、時代の波に呑み込まれて消えていった。
四十年前、千鶴が亡くなる前後に数馬が体験した不思議な出来事は、今に至るまでほとんど誰にも話していない。話したところで到底信じてもらえるようなものではないだろう。それに数馬自身、あの一連の出来事は、千鶴を失った悲しみに耐えかねて、己が無意識のうちに作り出した幻だったのだろうと思っている。
第一、死んだ者が次々に生き返った等と、そんな事を覚えている者は数馬の周りには一人もいなかった。浜で生き返った竹造の姿をともに目撃したはずの五郎蔵でさえも、そんな事は知らないと怪訝な顔をしていた。清吉じいさんも、おトキも、死んだら死んだままで生き返りはしなかった。
そして、千鶴も……。
「お父さん」
シャリシャリと、道に撒かれた貝殻を踏んでこちらに歩いてきたのは、息子の雄馬だった。
千鶴は、雄馬を産んだ直後に亡くなった。
男やもめになった数馬は、雄馬の養育を兄夫婦に任せた。雄馬は兄夫婦の息子として育ち、数馬の事はずっと叔父と思っていた。自分が真実の父であると打ち明けたのは、雄馬が二十歳を過ぎてからのことだ。そのせいか、父と子の間にはどこか他人行儀な空気が流れていた。
「お父さん、大丈夫なんですか? あまり長く外にいると体に触りますよ」
雄馬は、数馬の隣に腰をかけた。桜の木の下に二人並んで座り、川を眺める格好になる。
数馬は、自分よりも体の大きな雄馬の顔を見上げ、目を細めた。大きな目や鼻筋のあたりがやはり千鶴に似ていると思う。雄馬は、今は尋常小学校の教師をしている。所帯も持ち、三人の子供もいる。数馬は四十年間ずっと、頑なに独り身の一人暮らしを通していたが、この頃体がめっきりと弱ってきた。病がちな老父の事を、雄馬はことあるごとに気にかけてくれていた。
「今日はね、体の調子が良いんだよ……花が綺麗だからゆっくり眺めたくてな」
「そうですか。具合が良いのなら……」
雄馬は、微笑んで頷いた。口数は少ないが、心根は亡き妻に似て優しく、穏やかだ。
「こうして、江戸川の流れるのを見ているとなぁ、古い友人に会えるような気がしてくるんだよ」
「友人、ですか」
「ああ……ちょうどお前が生まれた時分に会って、いろいろと世話になったんだ。またいつか会うという約束をしていた。だいぶ時が経ったが、そろそろ、ひょっこりわしに会いに来てくれるんじゃないかと思ってな……」
そう言って、数馬は痩せた体を桜の木の幹にもたせかけた。目を閉じる。ギイ、ギイ、と清吉じいさんが櫓を漕ぐ音がどこからか聞こえてくるように気がした。
数馬は息を吸い込み、古い舟歌を歌いだした。途切れ途切れの、掠れるような歌声。数馬が機嫌の良い時によく口ずさむ歌だ。
雄馬は黙って耳を傾けていた。父の歌声を聴くと、懐かしいような、切ないような、悲しいような気持ちになる。父が年老いてからは、特に。
父の歌を聴くともなしに聴いているうちに、雄馬は、ふと、胸のあたりがほんのりと温かくなったのを感じた。首を傾げ、懐からある物を取り出した。掌に掴み出されたのは、小さな青い石ころだ。硝子細工で出来ているかのように滑らかで、日の光にきらきらと輝いている。雄馬が子供の頃から大切に身につけている石だった。
確か、幼なじみの女の子にもらったものだったと思う。今となっては、その子の名前も、どこに住んでいたのかさえも思い出せないが。
その石が急に、じん、と温かみを帯びたような気がした。
しかし、気のせいだろう、と思い直す。
いつの間にか、父の歌は止んでいた。
振り向いた。父は桜の木に背を預けたまま俯き、気持ちよさそうに眠っているようだった。
久しぶりに外に出て疲れたのだろう。しばらく、このままゆっくり寝させておこうと雄馬は思った。
雄馬は、石を指で摘む。春の陽光にかざして、その輝きをじっと眺めた。
父がかつて友人と再会の約束を交わしたというように、自分も、この石をくれた少女と「いつかまた会おう」と言い合った気がする。所詮は子供の頃の約束ではあるが、なぜか今、雄馬はあの少女に無性に会いたいような想いに駆られていた。
明治二十一年、春。
松原数馬は、桜の木の下で穏やかな眠りに抱かれたまま、二度と目を覚ますことはなかった。享年七十三歳。
(三)
「雄馬、すっかりおじさんになってたなー」
十三歳程の年頃の少女が、両手を頭の後ろに組みながら溜息をついた。頭の後ろに結わえた髪が揺れる。頭にぽつんと盛り上がった二つの角が玉虫色に光っていた。
「はは……それは、わしもこのような爺になるくらいだからのう」
「俺達とは時の流れが違うんだ。文句言うなよ、夕月」
「文句は言わないけどー……ちょっとフクザツっていうか。会った時は、私より小さかったのにー」
数馬、左之吉、夕月の三人は、三途の川のほとりを並んでてくてくと歩いていた。白い死に装束姿の数馬の手は、左之吉が引いている。
「なんだよ、じゃあ連れていかない方が良かったのかよ」
「そんな事言ってないよ。おじさんになってても雄馬に会いたかったんだもの!」
左之吉がからかうように言うと、夕月はムキになって言い返す。数馬と左之吉は、互いに顔を合わせて思わずおかしそうに笑いあった。
「……それにしても、お前達も、この三途の川も、何も変わっていない。安心したよ。現世があまりにも変わってしまったから」
数馬が、ふと、しみじみとした口調で言った。
「そうでもないさ……地獄も、三途の川も変わる時は変わっていく」
左之吉も川面を見ながら、珍しくしんみりと返す。
時を超え、生死を分かつ川は、太古の昔から無数の死者を彼岸に送り、生死の営みを見守り続けてきた。同じ事が永久に繰り返されるように見えて、やはり時は何かを変えていく。
あれから、地獄には夜は訪れてはいなかった。三途の川の上には、いつでも透き通った青い空が広がっている。人魂を見ることもなくなった。仄かに光る人魂は、夜の闇の中でしか見ることができないのだ。
左之吉は、時折、夕月が作っていた色とりどりの人魂提灯の明かりの群を思い出す事がある。
闇の底に咲く、美しい光の花々……。
今も見えないだけで、この河原には数限りない人魂達が飛び交っているに違いない。そして、その中のどこかには、消えていったはずの死神達の魂も闇に縋りつくようにひっそりと紛れているのではないかと、左之吉には思えてならなかった。
「変わらないといやぁ、お前もそうだぜ、数馬」
左之吉は、暗い思考から自らを無理矢理引き離すように、言葉を紡いだ。
「馬鹿な……わしはすっかり老いぼれてしまったよ」
「そういう事じゃねぇよ。第一、お前も今は霊魂になった身だ。体の老いは関係ねぇ。人間ってのは生きているうちに、どこかしらすれたり歪んだりするもんだが、お前にはそれがねぇって事だよ。お前はまっすぐなままだ……俺も安心したぜ」
左之吉は数馬の手を引きながら、あやかしの森の中を二人きりでさまよった日の事を思い出していた。
今までに数限りない死者の手を引いてこの道を歩いてきた。それこそ変わり映えのしない仕事だ。しかし、今こうして、この男の手を引いて川沿いの土手道を歩いた事だけは、きっといつまでも忘れる事はないだろうと感じていた。
行く手には、やがて赤い幟旗が見え始めた。目玉売り屋の幟だった。
店先には、左之吉達を迎えるように、英太郎の姿が見えた。その隣には、お辰もいる。お辰は、現世の流行を取り入れてか、最近では異国風の着物をよく身につけていた。筒袖で裾の広がった着物はなんとも珍妙に見えるが、それを口に出したらどんな恐ろしい目にあうかも分からないので、黙っていようと思う。
そして、そのお辰の隣には、白い着物を着た一人の女が微笑みながら佇んでいた。
数馬が、はっと息をのむ気配がした。
「お辰の計らいでな。特別に連れてきてもらったのさ」
数馬は答えなかった。何も言葉が出てこないようであった。左之吉の手を握りしめている手が微かに震える。すっかり若い頃の顔に戻った数馬の頬を、幾筋もの涙が流れ落ちた。
「千鶴……!」
やがて数馬の手が自然に左之吉から離れた。数馬は走り出していた。千鶴もこちらに向かって駆けだす。死神は死者の手を離すな、と獄卒にはよく注意を受けるが、今日くらいは良いだろう。それになんといっても、今は、地獄の仕切役のお辰が咎めもせずに見守っている。
涙を流しながら堅く抱き合う二人を見て、お辰も「良かったわねぇ」と目元を潤ませていた。
「お辰と俺も、あんな風になればいいんじゃねぇのか」
左之吉が冗談めかして言うと、お辰に無言で睨みつけられた。
肩をすくめていると、ニヤリと笑った英太郎と目があう。
「お疲れ」
英太郎は、左之吉に湯のみを差し出した。
「……仕事の最中に呑むなって言ってたのは、お前じゃなかったか?」
「今日は特別だ」
「私も、ね」
お辰が、いつの間にか白い指に杯を掲げていた。
「あの二人の門出の祝いよ。あの子はずっと今まで、あっちの岸でご亭主の事を待っていたんだから……」
そう言ってクスリと笑う。
数馬達の二人分の赤い杯は、店先の床几の上に置かれている。
「ねー私の分は?」
夕月が不満そうに唇を尖らせた。
「お前は水で我慢しな」
英太郎が夕月の額を軽くこづく。
左之吉は笑いながらも、なぜか心の奥に小さなささくれのようなものを感じていた。
この目玉売り屋も、いつまでもここにあるわけではないのだ、と、今日はなぜかそんな事を考えてしまう。英太郎は、いつか現世に送られて生まれ変わる日が来るのだ、と。
三途の川の土手道にぽつりと佇む目玉売り屋。店先に並ぶ盥と、その中で飛沫を散らしながら泳ぎ回る目玉達。
そして、口うるさく、生真面目で、心配性の同居人。
その全てが消えた三途の川の光景を思い浮かべると、なぜか胸の奥にちくりと小さな痛みが走った。この痛みが、人間のいうところの「寂しさ」というやつなのかもしれない、とふと思う。
しかし、先の事をくよくよ考えるのは性に合わない。
今は、英太郎も、お辰も、夕月も幸せそうに笑っている。そして、それは左之吉も同じだ。
それでいい。今は。
「どうした、呑まねぇのかよ」
しばらく考え事にふけっていた左之吉に、英太郎が不審そうに尋ねてくる。
「何でもねぇよ」
全く、いちいちうるさい男だ、と思う。正直、鬱陶しいと思う事のほうが多い。それなのに、あの日からずっと、左之吉と英太郎の片目はずっと取り替えられたままで、お互いの右の眼窩にはまっているのだった。
左之吉は湯のみを傾け、ぐびりと一息に酒を煽る。
その時、ふと、緩やかな風とともに、視界の端に仄かな光が通り過ぎた気配がした。
咄嗟に顔を上げる。しかし、そこには何もない。
見上げた先には、いつもと変わらない空の青さだけが広がっていた。
(了)
青闇妖影鬼談 三谷銀屋 @mitsuyaginnya
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