第4話 影の襲来

(一)


 風が障子紙を叩く音に、数馬は目を覚ました。辺りはまだ暗い。深夜だ。何か悪い夢を見ていたような気もするが、どんな夢を見ていたのかをはっきりと思い出すことはできない。

 しかし、風が吹いているのは夢ではなかったようで、庭に面した障子が何故か開け放たれていた。部屋の中には月光の淡く白い光が差し込んでいる。

――なぜ障子が開いているのだ。開けっ放しで寝た覚えはないはずなのに……。

 数馬は半分寝ぼけた心持ちのまま起き上がり、障子を閉めようとした。

 そこで数馬は不意に胸騒ぎに襲われた。隣に寝ている千鶴の方をはっと振り返る。

 千鶴はいなかった。寝床は蛻の殻だ。

 厠にでも行っているのか。だが、几帳面な千鶴のことだ。障子を開けっ放しにして部屋を出ていくなどということは考えられない。

――もしや外に出て……?

 嫌な予感がした。しかし、仮に千鶴が外に出たにしても戸口からではなく、部屋から直接庭先に降りて、しかもおそらく裸足のままで出掛けたということになる。そんなことがあり得るのだろうか。世の中には夢うつつのまま出歩いたりする病もあると言うが、千鶴にはそんな兆候はなかったはずだ。

「千鶴! 千鶴いるのか?」

 数馬は庭へ向かって妻の名を呼んだが、ただ月明かりの下を風がひゅるひゅると吹き抜ける音がするばかりで千鶴の返事はなかった。

 数馬は妻の寝床に手を当てる。夜具にはまだほんのりと温かさが残っていた。どこかへ出掛けたにしてもそう遠くには行ってはいまい。

 数馬は羽織を引っかけ、刀を手に取ると戸口から表に飛び出した。

「千鶴! 千鶴! どこにいる!」

 数馬は近所迷惑も顧みず、声の限り叫ぶ。

「ちづ……」

 数馬はもう一度千鶴の名を呼ぼうとしたところ、あるものを目にして固まった。

 海の方角から青白い靄のようなものが揺らめきながら煙のように立ち上っているのが見えたのである。靄は月の光の中でうっすらと輝き、まるで生き物のようにうねりながら蠢いていた。

――何なんだ、あれは……。

 数馬はしばし呆然と立ち尽くして、海から上空へとこんこんと湧き上ってく不可思議な靄を見つめた。見つめているうちに、ふと、千鶴はあの靄に連れ去られたのではないかという考えが数馬の胸の内に浮かぶ。それは直感のようなものだったが、数馬にとっては何故か限りなく確信に近いものでもあった。

 数馬は走り出した。江戸川の支流である境川沿いの道を辿り、数馬は海に向かって力の限り駆けた。あの靄の下にはきっと千鶴がいる。助けなければ。

 浜へ出る。青白い靄が充満していた。その靄の淡い光の中には思いの外たくさんの人がいた。三十人程の村人達が、皆して黙り込んだまま浜に立ち、こちらに背を向けて海の方を見ている。

「おい、皆! 何をしている!」

 数馬は叫んだが、誰一人として振り返らず、身じろぎすらもせずにただ佇んでいた。

「おい……!」

 数馬は近くにいた女の肩を掴んだ。女は緩慢な動作で振り返る。猫実村のおトキだった。靄のためか、おトキの顔は紙のように白く、病がちだった頃よりも余計にやつれて見えた。おトキは数馬の方を振り返ったものの、目の焦点はまるで合っておらず、血の通わない能面のように無表情だった。数馬はゾクリとした。

 おトキの傍を離れてさらに周りを見渡す。さらに向こうにいるのは清吉じいさんだ。他にも、数馬がよく見知っている村人達が足に根が生えたように浜に並んでじっとしていた。

 数馬は気が付く。この靄の中にいるのは、皆、一度死んで生き返った者達だ、と。

 数馬は愕然として立ちすくんだ。その時、数馬の目の前をさらさらとした光の粒のようなものが風花のように舞った。光の粒は寄り集まる。何かが形作られる。それは人間の形だった。

「竹造……」

 数馬は思わず声に出して呟いた。光の中に浮かび上がった男。海で溺れ死に、そして体を腐らせたまま生き返り、数馬が斬った、あの漁師の竹造だ。竹造の体は靄の中で生前の姿を取り戻していた。

 生き返った者達が浜に集められている。では、千鶴は……。

 数馬は佇む人々の間を縫って駆けた。千鶴を探す。この中にいるはずだ。なぜならば、千鶴は……。

 ごう! と強い風が吹いた。青い靄が揺らぐ。数馬は思わず足を止め、目を細めた。

 風に吹かれたなびく青い靄の中、大きな白い鳥が羽を広げていた。

 数馬はよろめきながら歩み寄る。

「千鶴……」

 鳥のように見えたのは千鶴だった。千鶴は海に向かい、両腕を広げて佇んでいた。夜着が風にはためいて、一瞬、鳥の翼のように見えたのだ。千鶴の膨らんだ腹も風を受けて、着物がぴったりと張り付いている。まるで人とは違う、別の動物のようだった。

 数馬はそれ以上、千鶴に近寄るのをためらった。千鶴はすぐ近くにいる数馬に目を向けることもなく、無表情に、ただ真っ直ぐに海を見つめている。

――千鶴……もしや、また行ってしまうのか、お前は……わしの元から去っていこうと言うのか……あの時のように……

 数馬は思い出していた。ほんの一月前のことを。病を得た千鶴が死んでしまった日のことを。冷たくなった千鶴を目の前にした時の、身をちぎられるような悲しみのことを。

――だが……

 数馬は、悲しみの記憶を振り払うように自分に言い聞かせる。

――千鶴は生き返った……そうだ、千鶴は戻ってきたんじゃないか。わしの元に。自分が死んだことすら忘れて、わしの傍で笑っていた。ついさっきまで笑っていたんだ……生きているのだ!

「千鶴……!」

 数馬は叫んだ。逝かせはしない、もう二度と……その一心だった。

 数馬の声に感応するように、千鶴の肩がびくりと震えた。ゆっくりと振り向き、数馬を見る。

「旦那……様……?」

 虚ろだった千鶴の瞳に光が宿った。

「私……このような所に……なぜ?」

 正気を取り戻したように戸惑いながら辺りを見回す千鶴に、数馬は安堵した。

「良かった、千鶴……」

 さぁ、一緒に帰ろう。数馬が千鶴に向かって手を差しだし、そう言い掛けた時だった。

 どおおぉぉぉん!

 凄まじい地響きが起こった。それと同時に、海から水飛沫が上がるの見えた。冷たい飛沫が滝のように二人に降り注ぐ。靄の中に大きな黒い影が蠢いた。

「きゃああああああ!」

 突如、千鶴が悲鳴を上げた。見ると、いつの間にか千鶴の体に真っ黒な影が大蛇のように絡みついていた。

「千鶴!」

 数馬は刀を抜きはなった。影に斬りつける。しかし、影は意外に硬く、刃を跳ね返される。

 そうしているうちにも影は幾重にも重なり、千鶴の体を呑み込んでいく。

 影の間から、千鶴とは違う白い顔が覗いた。言いしれぬ禍々しさを感じさせる顔だった。白い顔は数馬を見て、嘲るようにニタニタと笑った。

「貴様……千鶴を離さぬか!」

 数馬は再び、刀を振りかぶる。しかし、次の瞬間、殴りつけるような突風が数馬を襲った。

「うっ……!」

 数馬は風に足を取られ、仰向けになって倒れ伏した。すぐに起き上がろうとする。しかし、何かにのしかかられているかのように体が重く、動くことができない。頭のすぐ上で、沢山の影があちらへこちらへと動き回っている、その気配だけが分かった。耳元では、ごおお……ごおおお……という嵐のような轟音、そしてその合間を縫って、微かに人の呻き声のようなものが聞こえてくる。

 数馬は胸の奥を鷲掴みにされるような強い恐怖を感じた。一体、何が起こっているというのか。そして、自分と千鶴はどうなってしまうのか。

 焦れば焦る程、体は硬直し、ますます動くことができなくなった。

――誰か……御仏よ……助けてくれ!

 藁にも縋る思いで仏に祈る。

 しばらくすると、耳元で鳴り響いていた轟音が突如として消えた。体も嘘のように軽くなる。身を起こした。青い靄は嘘のようにかき消え、風は止んでいる。千鶴の姿も、浜に集まっていた人々の姿もない。ただ月明かりに照らされた浜の静寂の中に、数馬だけが一人、砂にまみれた姿で呆然と座り込んでいた。

「一体……どういう事だ……」

 数馬はよろめきながら立ち上がった。狐にでも化かされて悪い夢を見ていたのではないかという気がする。しかし、耳には今も、千鶴の痛ましい悲鳴が生々しい程はっきりと残っていた。

 数馬は沖に目を向けた。暗い海の中でちらり、と青いものが光る。

 数馬は境川の岸に走り、係留してある小舟の一つに飛び乗った。誰の舟かは分からないが、今はそんな事に気を留めている場合ではない。

 数馬は、青い光の見えた場所に向かって懸命に櫓を操った。舟の櫓を漕ぐのも子供の時以来である。なんとかコツを思い出してきたものの、逸る心に反してなかなか舟は進んでくれない。

 それでも、舟は沖に向かって徐々に流れてゆき、ようやく大三角おおさんかくの近くまで辿り着く。大三角は江戸川河口に形作られた三角州である。辺りには一面のヨシが鬱蒼と生い茂っていた。

 数馬は櫓を漕ぐ手を止めた。辺りには再び、先ほどの青い靄が漂い始めた。刀の柄に手を置き、息を潜める。千鶴を連れ去った影の化け物が近くにいるはずだ。音を立てぬよう用心しながら、唾をごくりと呑み込む。

 その時、目の前の水面にゴポリ、と白い泡が立ち上った。ぬらりとした大きな黒い影の塊もその下に見える。

「出たか!」

 数馬は刀を抜こうとした。しかし、その暇も無く、舟はガクンと大きく前後に揺らいだ。

 ごぽっ、ごぼ、ごぽ……ごぽ……

 不気味な音とともに、海面がうねり、ねじれ、渦を巻く。舟は渦に巻き込まれて、木の葉のようにぐるりぐるりと激しく回った。数馬は必死になって舟の縁にしがみつく。

 ククククク……ハハハハハハ……

 笑い声が響く。波飛沫とともに真っ黒な影が数馬に覆い被さる。影の中で、あの白い顔が目と口をいっぱいに開けて哄笑していた。

 水柱が上がる。気がつくと数馬は水の上に叩きつけられるように放り出されていた。舟がついに横転したのだ。渦の中で数馬はもがいた。白い顔はますます数馬を馬鹿にしたように笑い続ける。

 はははははは……はははははは……

 頭の中に笑い声が木霊する。息が出来ない。沈んでいく。まるで体中が影に蝕まれたように、手足の感覚もいつの間にかなくなっていた。

――千鶴……!

 数馬は残された力を振り絞って叫んだ。しかし、声は出なかった。

 意識が闇に覆われ、消えていく。


(二)


「だからさ、お前はいつも心配しすぎだって言ってるんだよ」

 吸い寄せられそうな闇を宿した暗い海の上、仄白い月光に照らされた小舟に揺られながら、左之吉は不服そうに文句を垂れた。舟には左之吉の他、誰も乗っていない。いつもいるはずの骸骨の船頭すらいなかった。しかし、左之吉は、構わずに虚空に向かって話し続ける。

「俺一人だって夕月は取り戻せるんだよ。わざわざお前に見張っててもらう必要もねぇ……もうちっと俺を信用しろよ」

[そういう事は、常日頃から信用できるような行いをしているやつが言う台詞だぜ]

 いるはずのない英太郎の声が聞こえた。声は左之吉の頭の内側で響いているように感じる。妙な具合だ。

 左之吉はふと思いついて、己の目玉を上下左右にぐるぐると動かしたり、やたらと首を振ったりしてみる。

[何をしている?]

 再び、英太郎の声。

「いや……本当に見えてんのかと思ってな……お前に、俺の」

[ああ、俺にも見えている。お前の見ているものが]

 左之吉は、うへぇっと心の中で呟いて、こっそり舌を出す。舌打ちのひとつもしてやりたかったが、そんな音が英太郎に聞かれたらまた喧嘩になりそうなので止めておく。

 昨日、行徳沖の海で夕月が行方知れずになった。それだけではない。死神連中に聞いて回ったところ、左之吉の友人の作衛門も、いつか三途の川で別れたきり戻ってきていないということが分かった。作衛門も行徳沖に仕事に行くと言っていたはずだ。

 行徳沖の海に出向いた死神が行方知れずになるという噂は本当だったのだ。

 左之吉は、夕月と作衛門を探すために、他の死神達には内緒で再び行徳沖に行くことにした。特に、夕月はお辰から預かった娘だから、このまま見捨てるわけには行かない。いや、その事を抜きにしても、左之吉は夕月の事を内心かなり気に入っていた。助けてやらなければいけない、と純粋に思ってもいる。

 そんな時に「俺とお前の目玉を取り替えよう」と言い出したのは英太郎だ。

 左之吉ははじめ、英太郎の言うことの意味が分からなかったが、英太郎によると、片方の目玉を取り替えることで、離れていても互いに相手の視界を覗くことができるようになるのだという。

「万一のことがあった時、知恵は一人よりも二人の方が良いだろう」というのが、英太郎の言い分だった。

 英太郎は、死神でも人間でもない存在だから、三途の川のほとりから離れることができない。夕月の身を案じながら、ただ店で一人待っているだけ、というのも耐え難いのだろう。左之吉なりに英太郎の気持ちを汲んで、英太郎の提案に了承し、右の目玉を交換した。つまり、今、左之吉の右の眼窩にはまっているのは英太郎の目玉なのである。

 己の目を抜き取って、別の目玉をはめ直すのは妙な気分だった。不思議と痛みは生じなかったが、なんとなくソワソワする。そして、その違和感は時が経つにつれ大きくなり、左之吉は今になって、英太郎と右目を取り替えたことを激しく後悔していた。

 要するに、自分のやる事なす事をいちいち英太郎に見張られていると思うとどうにも落ち着かないのだ。しかも、馬鹿がつく程に真面目で、頭の堅い英太郎が事あるごとに何かと口を出してくる。頭の中で英太郎の声が響いてくる度に、正直、煩わしくてイライラするのだった。

[おい、左之吉]

「……何だよ」

 返事をするにも、自然、棘のある声色になってしまう。

[そろそろ何か感じるものは無いのか……夕月をさらっていったという影のあやかし……そいつがいるような気配は……]

「んな事言われても、昨日、来た時も何も感じなかったんだ、あやかしの気配も……あの影は、突然現れて何の気配も残さず去っていった……今更同じ場所に来たところで、そう簡単に気配なんかなぁ……」

 左之吉は面倒くさそうにそう言い掛けたが、何気なく陸の方へ目をやり、そこで思わずぎょっとして固まった。

「何だありゃあ……」

 浜の辺りから、薄青く光る靄のようなものが天空に向かってめらめらと立ち上っていた。

「あやかし……だけじゃねぇ……死人の魂の気配も……しかも、一人や二人じゃねぇな……何十人もまとまってやがる……どういうことだ?」

 海を渡る強い風とともに、突如として押し寄せてきた怪しの気配。昨日来た時は、死んだ者の魂の気配さえ微塵も感じることができなかったはずなのに……。

 思いも寄らぬ程の強い妖気に圧倒され、左之吉は体の内に震えが走るのを感じた。夕月がさらわれる時に夢の中に現れた不吉な黒い影の事を思い出す。あの影に感じた妖気も、こんな風に強く、禍々しく、澱んでいた……。

 しかし、とにかく今はあの怪しげな靄の元に向かっていって、その正体を確かめたい。左之吉は咄嗟に舟の櫓に手をかける。

[おい、待て! 不用意に近づくな!]

 英太郎が制止する声が頭に響く。

「何でだよ! あの靄みてぇなのは、あの影のあやかしが出しているに違ぇねぇだろ! 早く行かねぇと夕月を連れ戻すきっかけを見失うぞ!」

 左之吉は怒鳴り返した。

[馬鹿! 夕月だけじゃなくて、作衛門や他の死神も何人もあの影にやられてるんだぞ! 二の舞になりたいのか?!]

「じゃあ、どうしろって言うんだよ!」

 左之吉は、苛ついたようにガン! と、櫓を足で思い切り蹴った。

 足に痛みが走る。「う」と声を上げそうになったが、英太郎に聞かれると気まずいので何とか息を呑み込んで耐えた。

 櫓にぶち当たってジンジンする爪先をさすりながら、痛みからか、興奮した心が少し落ち着いてくる。苛つきをなんとか抑えて、再び英太郎に声をかける。

「安心しろよ……別に丸腰で行こうってんじゃねぇんだ。俺にはこれがあるからな……この首刈り鎌が……」

 左之吉はそう言って、腰の帯に挟んであったものを抜き取り、目の前にかざした。弧を描く鎌の刃が、月明かりの下でぎらりと冷たく輝く。

 左之吉が、閻魔王庁の蔵の中から「無断で拝借」してきた首刈り鎌だ。獄卒が刑で使う大鎌よりもだいぶ小さく、草を刈る鎌と何も変わらない見かけだが、大鎌と同じようにあやかしや死神の魂を傷つけ、上手く行けば魂を消し砕くことさえ出来る。

[お前はまたそんなものを持ち出してるのか]

 英太郎が呆れたような声を出す。

「借りただけだ。獄卒の刑具だか何だか知らないが、俺みてぇな下っ端でも持ち出せるようなところに置いておくのが悪いのさ」

 左之吉は片手でくるりと鎌を回して見せた。

 鎌の刃が回る向こうの景色は、闇。

「あ」

 左之吉はふと浜のほうを見て、声を上げた。

 さっきまで火の粉の舞うように煌めきながら立ち上っていた青い靄は、いつの間にか嘘のように消えていた。あれほど強く感じていたあやかしと死人達の気配もかき消えている。

「馬鹿っ、光が消えちまったじゃねぇか。お前が引き留めたせいだぞ」

 左之吉は不満そうに唇を尖らせた。

[いや……光が消えたからと言って油断はできないぞ。あのあやかしは死神を狙ってるんだろ?]

「近くいるって言うのか? まさか……」

 ひらり……視界の端に何かが翻る。左之吉は息をのんだ。

[舟の下だ!]

 左之吉が振り向くよりも前に、頭の中いっぱいに英太郎の声が響いた。思わず弾かれるように身を低くし、舟の縁から海をのぞき込む。

 確かに、いる。巨大な魚影。

 いや、魚ではない。それが証拠に、舟の周りには、いつの間にやら陽炎のように揺らめく不気味な青い靄がひょうひょうと空を切るような音を立てて湧き上がり、渦巻き出している。

 その靄の向こうに、蠢く黒い影。そして、漆黒の目を見開いて笑う、白い顔。

 背筋に悪寒が這い上った。

「はは……そっちから来てくれたってワケか」

 左之吉は笑い飛ばそうとしたが、声が上擦った。

 首刈り鎌の柄を握り締める。認めたくはないが、手が震えていた。

[逃げられそうか?]

 英太郎の声が言った。冷静な口調が気に障る。

「逃げるだって? どこへだ?」

[海の中だって、どこだって逃げれるんなら逃げろ。真っ向から向かっていっても勝ち目はなさそうだ]

「は……何言ってやがる。そこからじゃ何とでも言えるだろうがよ」

 左之吉は首刈り鎌を体の前で構えなおした。

「逃げられるような場じゃねぇんだ。ちったぁ黙ってろよ!」

 左之吉は叫び、己の震えを振り払うように鎌を力任せに振り下ろした。鎌の刃はあやかしの白い顔の眉間に真っ直ぐに突き刺さる。

 ごぼり。

 粘り着いた泥の奥で、何かが息を吐き出している……そう思わせる音。それは地獄の底から「夜」が忍び来る音にも似ていた。

 銀色の刃を額に埋めたまま、白い顔は、耳元まで大きく裂けた口をニヤリと歪める。

 ごぼり。再び、音がする。腐乱臭が鼻の奥に刺さる。

「くっ……」

 左之吉は思わず、鎌をあやかしから抜き取り、後ずさった。

 胸の奥が、早鐘のような動悸を響かせて暴れている。こいつはまずい。死神の勘が危険を告げている。やはり意地を張らずに英太郎の言う通りに逃げたほうが得策だったか。しかし、もう後には引けない。

 ごぼ……ごぼり……

 白い顔の額、ぱっくりと割れた傷口から、紅色の汁がどうっと噴き出す。しかし、血ではなかい。どろりとした粘液だ。強い腐乱臭の中に、花の香にも似た甘ったるい匂いが混じる。

 その匂いを嗅いだ瞬間、左之吉は動けなくなった。手足に力が入らない。その場に崩れ落ちた。

[左之吉……!]

 大丈夫だ。ちょっと匂いにやられただけだから。これくらいのこと……。

 英太郎にそう答えようとした。しかし、ひゅうっと言う気の抜けた呼吸音が喉元で鳴ったきり、声にはならなかった。

「げほっ……げほ……」

 舟底に倒れ伏し、身悶えながら、喉がつかえるような息苦しさに咳き込む。

 息をしようとすればするほど、口から、鼻から、赤黒く、腐った「何か」がどろりと流れ込んでくるのを感じた。

 英太郎が何か言っている。しかし、その言葉は意味を為さない音となって耳の奥で反響した。

 真っ黒な影が、白い顔が、動けなくなった左之吉の上にゆっくりと覆い被さってくる。

 屍肉の腐った匂い。甘い花の匂い。鉄錆びた血の匂い。遠くでさざ波のように聞こえてくる、沢山の人間達の呻き声。全てが渦を巻く。

 やがて視界は深い闇に閉ざされ、左之吉は気を失った。


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