青い鳥はどこにいる? どこか満ち足りないすべての人のための恋愛小説

楽天カードマンばりにいきなりですが、引用させてください。

「アメリカの民族学者アラン・ダンデスはネイティブアメリカンの民話は全て「欠落」と「欠落の回復」の対から成す、と考えました。何かがない状態からある状態――例えば雨が降らないので水がないから雨を降らす、という過程の中に「物語」が成立し、そして欠落したものを「回復」する人物が「主人公」になるわけです。「欠落」と「回復」は「目的」と「その達成」と同じ意味であるのは言うまでもありません」
 大塚英志『キャラクター小説の作り方』

「欠落」とその「回復」。これが物語の基本構造であることに異論はないでしょう。

別の場所にも書いたのですが、この作者さんは「何か満たされない感覚」を描くのがうまいと思うのです。登場人物――特に視点人物の中にある、何か満たされない感覚。これが普遍的な説得力を持って迫ってくるので、否応なしに引き込まれるのです。

恋愛小説の書き手さんなので、その「何か満たされない感覚」は多くの場合、恋愛によって埋め合わされようとします。物語構造として、「欠落」を「回復」する手段が「恋愛」なのです。

尤も、その手段がいつも適切かというと決してそうではありません。というのも、登場人物が抱える「欠落」というのが曖昧でつかみどころがないものだからです。そもそも、彼らが自らの「欠落」を自覚しているかどうかも怪しい。しかし、読者には確実にその「欠落」の感覚が伝わってくる。そういうデリケートな表現がなされているのです。

ですから、「欠落」という問題設定に対して理論的にこうすればいいと答えが明示できるものではないのです。
実際、恋人関係になったところで心から満たされた状態がいつまでも続くなんてことは現実にもそうそうあるものではないのではないでしょうか。

よって、この話ではメインの男女――篤志と珠里が恋人関係になってからが本番と言えます。恋人関係でありながら、どこか満たされず、すれ違い、そして……という紆余曲折を辿るのです。

それはあたかも青い鳥を求めてさまようチルチルとミチルのように。

この作品が周到なのは、彼らの彷徨を、それぞれに「相手役」を配して表現していることでしょう。それはたとえば、「エリートサラリーマンの哲朗」であったり、「後輩のサコ」であったりするわけです。

物語とは「欠落」の「回復」ですが、同時にその過程で起こる「葛藤」を表現するものでなくてはならないと思います。

たとえば、篤志と哲朗は社会的身分からしてまったく違う人物です。珠里に与えられるものもおのずと違ってきます。珠里は二つの人生の選択肢の間で葛藤することになるわけです。それはすなわち、自分が人生で本当に求めているものは何なのかという自問自答でもあります。
そうした煩悶を繰り返し、ときに失敗すればこそ、自分が本当に求めていたものが浮き彫りになってくるのです。

かように、一筋縄ではいかない男女関係を構築することで恋愛小説として波乱を演出しつつ、「何か満たされない」人たちの普遍的なドラマを効果的に描いているのが本作だと思います。

心に何か満たされないものを抱えたそこのあなた。青い鳥を探すあなたにぜひ読んでほしい一作です。

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