第9話 僕はいずれ冒険に出なければいけない。

 9

 

「何か思い出しそう? あと気分は大丈夫? 顔色がどんどん悪くなってるけど」

 佐伯さんは、僕の顔を覗き込んで心配そうに言う。

 

学校の校舎の前にたどり着いた僕は、とても大きななにかに飲み込まれてしまいそうな感覚に襲われていた。吐き気とは違う何か、込み上げる感情の波や渦に翻弄ほんろうされて、自分が今どんなことを思っているのかよく分からなかった。

 

 何かが、頭の中で引っかかっている。

 それが、正しく流れるはずの水を詰まらせている、そんな感じがした。


「大丈夫。少し眩暈めまいみたいなものがしただけ。多分、なにかを思い出そうとしているんだと思う」

「本当に? でも、ここで少し待っていて」

「待っていてって?」

 

 僕は首を傾げた。


「このまま追体験で無理やり記憶を呼び覚ますような危険な方法を取らなくても、この学校には事件の内容を知っている先生たちがいるはずでしょう? 私が関係者を装って話を聞いてくる。それで、その話を私があなたに伝える。これが、私のプランB。まずは安全なほうで行きましょう? だから、あなたはここで休んで待っていて」

「だったら、僕も――」

「だめ。あなたがついてきたら、先生たちが事件の話をしてくれるわけがないでしょう? 私がうまくやるから、私を信じて?」

 

 佐伯さんは、とても真剣な顔で僕を見てそう言った。

 どうやら、僕の様子はそれほどまでにひどいらしい。

 

 当初の予定じゃなく、プランBに変更しなければいけないくらい。

 

 僕は佐伯さんに心配をかけている。

 とても。

 そのことで、僕の胸は強く痛んだ。


「わかった。プランBで行こう。いろいろ迷惑をかけてごめんね」

「迷惑なんかじゃないわ。私が好きでやっているんだもん。だから、あなたは私に任せてここで待っていればいいの」

 

 佐伯さんは、にっこりと笑って言ってくれた。

 その笑顔がとてもかわいくて、僕はますます佐伯さんに好意を抱いた。


「佐伯さん、今度一緒に給食を食べようよ。一人で席に座って食べるんじゃなくて、二人で一緒に食べよう」

 

 僕がそう言うと、佐伯さんは僕の言いたいことを、僕の思っていることをすべて理解したみたいに頷いてくれた。


「ええ、そうね。楽しみにしているわ」

 

 そう言うと、佐伯さんは校舎の中に消えていった。

 校庭のベンチに一人で座った僕は、佐伯さんが消えていった校舎と、広々とした校庭をぼんやりと眺めた。

 

 校庭の隅には、体育倉庫がある。

 僕は、よく体育倉庫の裏に行っていた気がした。

 

 僕の頭の中の女の子に呼ばれて――


「そうだ。僕は僕の頭の中の女の子によく呼び出されていた気が? でも、何をしに体育倉庫の裏なんかに?」



「ねぇ、とっても素敵な場所を教えてあげる。放課後、体育倉庫の裏に来てね」

 


 僕の頭の中に、彼女の声が響き渡る。

 これまでよりも鮮明で、

 より輪郭をもったような声音が。

 

 僕は、その声に導かれるままに体育倉庫の裏に向かった。

 

 佐伯さんにここで待っていてと言われたけれど、僕はどうしてもじっとしているわけにはいかなかった。これまでせき止められていたものが、水の流れを塞いでいた何かが、ようやく外れようとしているのを感じた。

 

 僕は、重大な何かを思い出そうとしてる。



「もうっ、おそいって。もっと早くこれたでしょ? 本当にドンくさいしノロマなんだから」

 


 体育倉庫の裏についた時、僕は胸の奥底から湧き上がってくる不快感と、とても惨めな感情にさいなまれた。

 

 この場所で、何かとても嫌なことがあったような気がした。

 はっきりとは思い出せないけれど、僕は下腹部を抑えながら逃げるように体育倉庫の裏を後にした。

 

 僕は校舎裏に回って、普段は生徒たちが使わない通用口から校舎の中に入った。

 なんとなく、あの体育倉庫の裏で何かがあった時、僕はこの通用口からこっそりと校舎に入っていたような気がしたからだ。

 ネズミのようにこっそりと。


 僕の行動は何かを思い出したり、何かを考えて動いているというような感じでまるではなかった。僕の体が経験としてそれを覚えているみたいに、僕はとてもスムーズに校舎の中を歩いて行った。


 これが、追体験というやつなのだろうか?

 

 僕は、自分がこれからどこに向かおうとしているのかまるで分らなかった。

 けれど、このまま体が記憶しているままに足を進めていけば、この冒険の終わりにたどり着けるという確信だけはあった。


 僕は、失ってしまった記憶の真相に近づいている。

 僕の心臓は、それに近づくにつれて大きく鼓動した。

 まるで数字を数えるみたいに、少しずつ心臓の音も大きくなっていった。


 そして、僕の気分はどんどんと悪くなっていった。

 今にも足を止めてしまいそうなほどに。


 僕の体は真っ直ぐに冒険の終わりに――真相に近づこうとしているのに、それ以外の何かは、記憶や感情といったものが、それを止めようとしているみたいだった。

 

 僕は今、校舎の廊下を一人で歩いている。

 薄暗い廊下は無人で、どことなく薄気味が悪かった。

 踏み入れてはいけない場所に足を踏み入れてしまったみたいに。


 通用口の脇に靴を脱ぎ捨てて、今は靴下一枚で廊下を進んでいる。足の裏のひんやりとした感触も、なんとなく過去に経験があるような気がした。そういえば、僕は靴をよくなくしていて、そのたびに母が心配をしていたような記憶があった。

 

 僕の体が次に向かったのは、校舎の端にあるトイレ。

 このトイレは生徒たちの教室から遠く離れた場所にあるので、ほとんど誰も使わないトイレで――「幽霊トイレ」と言われていた。


 記憶を消去される前の僕は、こんなトイレで何をしていたんだろう?



「早く入って。とっても面白いことが始まるから」

 


 またしても、

 僕の頭の中の女の子の声が聴こえる。

 

 僕をこのトイレに連れてきたのは、

 彼女だったのだろうか?

 

 いったい何の目的で? 


 それも、

 男子トイレなんかに?

 

 僕は、体が動くままに男子トイレの一番奥の個室に入って、便座に腰を下ろした。そして,個室の扉を真っ直ぐに見つめた後、僕はトイレの天井に視線を向けた。


 あの時も、

 こうして天井を眺めたような気がしたからだ。

 

 そうだ。

 

 あの時、

 上からなにかが――



「あはは、どう? すごく面白いことが起きたでしょう? 私のかわいいマウス。濡れネズミちゃん」


 

 僕は一瞬、

 頭の中が真っ白になった。

 

 何が起きたのか、

 何を見たのか、

 何を思い出したのか、


 まるで分からなかった。

 

 だけど、

 あの時、

 僕は――


 僕は頭から水をかぶったような、そんな気分になった。

 びしょ濡れになったような気が。


 そして、込み上げてきた吐き気に耐えられず、僕は便器の中に胃の中の物を全て吐き出してしまった。


 自分の嗚咽おえつと、

 すえた匂いと、

 涙でゆがんだ視界のせいで、

 個室の中は最悪だった。


「はぁはぁはぁ。そんな、そんなこと信じられない。嘘だ。そんなの嘘だよ」

 

 口元をぬぐった僕は、泣きそうな声でそう漏らした。

 本当に、今にも泣きだしそうだった。

 何もかもが信じられない気分だった。

 

 だって、

 僕の頭の中の女の子は――


 いつだって僕のことを特別なあだ名で呼んで、

 いつだって僕に楽しそうに話しかけてくれた。

 

 僕たちは、

 とても特別な関係だったはずなのに。



「あはは。マウス――私のマウス。実験用のネズミちゃん」

 


 僕の頭の中の女の子の声が聴こえる。

 

 これまでよりも大きな声で、

 耳を塞ぎたいくらいに大きな声で聴こえる。

 

 だけど、

 耳を塞いだってその声は響き続ける。

 

 だって、

 

 その声は、

 僕の頭の中で響きわたっているのだから。


「嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ――」

 

 僕はそう呟きながら、逃げるように男子トイレを後にした。

 僕は、廊下を走りながらどこかへ向かっていた。

 

 頭の中はぐちゃぐちゃで、これが僕の今の感情なのか、それとも思い出した記憶の中の感情なのかまるでわからなかった。今と、思い出した過去とがコップの中で混ざり合ってしまったみたいで、僕は今の僕がいつの僕なのかさえ判断できなくなっていた。

 

 そして教室についた時、僕は決定的な記憶を思い出した。



「今から、私のマウスのお葬式を始めます」

 

 

 僕の頭の中の女の子が、教卓の前に立って言う。

 これから何かとても素敵なことが始まるといった表情で――


 お葬式と。


 大きな瞳はワクワクと輝き、口元は綺麗な弧を描いた不気味な笑みを浮かべている。

 

 教室中からガラスをひっかいたような嫌な笑い声が響き渡って、自分の席で小さくうずくまっている僕に振り注ぐ。まるで、夏の豪雨みたいに。

 僕は体をがくがくと震わせながら、ただひたすらにこの時間が過ぎるのを願っていた。

 

 教室に入った僕は、自分の席だった机と椅子の前に立った。僕の体は過去を思い出し、その時の感情すら思い出したようにガクガクと震えている。これから来る嵐に怯えるみたいに。濡れたネズミのように。

 

 僕は、黒板のほうを見つめた。

 

 パーティの始まりを告げるように彼女が手を叩くと、クラスの男子たちが僕を羽交い絞めにして黒板のほうまで連れて行こうとする。その時、僕はすでに泣いていて、大きな声で「やめてよ」「許してよ」と叫んでいた。一人の男の子が「うるさい」と僕のお腹を殴り、僕は痛みと恐怖に叫ぶことをやめた。



「私のマウス。私のかわいい実験動物。あんなにかわいがってあげたのに、先生に告げ口するなんて――本当にダメなネズミ。でも、先生も見て見ぬふりだったでしょう? だって、なんの証拠もないし、イジメ問題なんて今どき面倒くさいだけだもんね。まともに向き合おうとなんて、誰も思わないわよ」



 僕の頭の中の女の子は、鋭く細めた目で僕を見つめると、まずは僕の頬を思いきり叩いた。まるで、しつけのなっていない動物にお仕置きでもするみたいに。


 そうだ、僕は最初から彼女に人間扱いなんてされていなかった。

 ずっと物や動物――彼女の言う実験動物のマウスとして扱われてきたんだ。


 入学式の日から。

 ずっと。



「ねぇあなた、あなたって体も小さいし、痩せこけてみすぼらしいし――まるで汚いネズミみたい。そんなんじゃ、誰もあなたと友達になんてなってくれないでしょう? でも、安心して、私があなたの特別な女の子になってあげる。あなたは、私のかわいい実験動物になるの。ねぇ、マウス?」



 その言葉通り、僕はその日から彼女の実験動物になった。

 はじめは彼女の命令を聞いて、使い走りのようなことをやらされるだけだった。でも、他のクラスメイトが面白がって参加すると、事態はどんどんと悪くなっていった。どこまでやったら僕が怒るのかとか、どれくらい痛めつけたら泣いて許しを請うのかとか、そんな実験めいたことをし始めた。


 そのうち実験のようなことに飽きると、彼女たちは僕を都合の良いストレス発散の道具として扱うようになった。

 

 僕は、そんな嵐みたいな毎日を必死に耐えた。

 いつか、この嵐が過ぎ去るだろうって信じて、抵抗せず、反抗せず、ただ彼女たちの顔色をうかがって日々を過ごした。


 でも、

 嵐が過ぎ去ることはなかった。

 

 そのうち母に学校でのことを怪しまれ、それでも母に話せなかった僕は――勇気を振り絞って担任の先生に相談した。でも、先生は僕の話をまともに聞いてはくれなかった。イジメが自分のクラスで起きているわけがないと、頑なに信じてくれなかった。


 その顔はどことなく引き攣っていて、自分自身にイジメなんてないと言い聞かせているみたいに見えた。



「イジメ? そんな大げさな? 学校生活ではよくあることなんだよ。スキンシップの一環みたいなものだな。先生のクラスでもあったよ。でも、すぐに打ち解けてクラス全員が親友同士にみたいになった。君も、もっと心を開いてクラスメイトと接してみるといい。そうだ。それが一番だ」



 僕は、その言葉に目の前は真っ暗になった。

 まるで、全ての道が閉ざされてしまったような気分になった。

 

 そして、その数日後に僕のお葬式がはじまった。



「お葬式をするのに、その洋服は邪魔よね? 丸裸にして棺桶に入れてあげるね」



 僕の頭の中の女の子は、「棺桶」と歌うように言いながら教室の隅に置かれた掃除道具用のロッカーを指した。



「放課後まで棺桶に入れておいて、最後はロッカー事燃やしてあげようかしら? それとも、この間みたいに水責めのほうが良いかしら? 水葬ってあるのかな? ねぇ、どっちがいい?」

 

 そういった彼女の顔はとても残酷で、僕を取り囲んでいる他の生徒たちも、同様に残酷だった。


 誰一人、

 僕を人間だと思っていない。


 誰一人、

 僕をかわいそうだと思っていない。


 同情も、

 憐憫れんびんもない。


 ただ、何をしてもいいネズミとしか思っていないんだ。

 そのことが分かった。


 上半身を裸にされてしまった僕は、下半身も同じように裸にしようとする男子生徒に抵抗して亀のようにうずくまった。背中にたくさんの足の裏が降ってきて、それが僕の骨をきしませて、頭の中に雷が落ちたように目の前を真っ白にさせる。


 僕は叫び声を上げながら、

 ポケットの中に手を伸ばした。


「そうだ。あの時、僕はここにうずくまって、それで、そのあと――」

 

 僕は、ポケットに手を伸ばした。

 僕の理性のようなものが、危険を察知する本能のようなものが――その先に進んじゃいけないと言っている。

 

 頭が割れるみたいに痛かった。


 忘れたはずの記憶の、最後の扉を開けてはいけないと言っている気がした。

 だけど、僕はその最後の扉に手を伸ばしてしまった。

 

 思い出したのは――


 真っ赤な記憶。


 僕は、佐伯さんの言葉を思い出した。



「だけど、わかっているの? その女の子の記憶があなたの頭の中に強く焼き付いているってことは、その女の子の記憶は――強いストレスと強いアドレナリンをもってあなたに記憶されたのよ? それってつまり、その女の子がもしかしたら、もう――」


 

 佐伯さんの言っていることは、全て正しかった。

 そう、その記憶は――僕の頭の中に強く焼き付いている。


 簡単には消せないくらい、

 しっかと染み付いているんだ。

 

 強いストレスと、

 強いアドレナリンによって。


 そして僕は、

 僕の頭の中の女の子は、

 もう二度と会うことができない。

 

 だって、

 僕の頭の中の女の子を殺したのは――


 僕なのだから。

 

 あの時、僕はポケットに忍ばせていたナイフを取り出した。


 そのナイフは担任の先生に相談を拒絶されたショックで、半ば衝動的にネット通販で買ったものだった。使うつもりなんてなかった。ただポケットに忍ばせておけば小さな勇気が持てた。それだけだった。何かあった時、そのナイフを見せて酷いことをやめてもらえたら、それくらいの気持ちだった。


 だけど、あの時の僕は――

 

 僕は叫びながらナイフをポケットから取り出すと、一人の男子生徒に切りかかった。多分、顔と首のあたりを切ったような気がする。そのあとで、めちゃくちゃにナイフを振り回して何人かの生徒を切りつけると、クラス中が大きな悲鳴で包まれた。席に座っていた生徒たちが教室の外に出ようと一斉に駆け出した。


 まるで地獄みたいな光景だった。

 

 僕の足元には血を流した男子生徒が転がっていて、

 僕は教卓の前で腰を抜かしている一人の女の子を見つけた。


 それは、僕の頭の中の女の子だった。

 彼女に再会するために、

 僕はこの冒険をはじめた。


 彼女の声に導かれるように、

 僕はこの場所にたどり着いた。


 そして、

 僕は彼女に再会した。


 記憶の中で。



「私のかわいいマウス。冗談よね? 少し遊んであげただけじゃない? そりゃあ、私だってやりすぎちゃったところもあるけど、あなただって悪いのよ? 抵抗しないで、いつも黙ったままやられっぱなしで。そんなんだから、みんながつけ上がっちゃったのよ。私はみんなのことを止めたのよ? 本当よ?」

 

 僕はそう弁解する彼女の首元に、ナイフを突きつけた。

 返り血が噴出して、まるで赤い花が散っているように見えた。

 

 そこで、僕の記憶は完全に閉ざされた。

 今、教室には誰もない。

 

 僕一人だけが、教卓の前に立っている。

 僕は、過去から戻ってきていた。

 

 そして、僕の冒険が終わったことを知った。


「僕が、僕が全部やったのか? そんな? あんなことを、僕が? そんな」

 

 僕は、自分のしたことが信じられなかった。

 あんなことを自分ができるとも思えなかった。


 でも、あの記憶は間違いなく僕のもので、その記憶ともに浮かび上がってきた感情も、間違いなく僕のものだった。何より、あの時のナイフの感触を、僕の体が――この両手がしっかりと覚えていた。


 それは決して拭い去ることができない汚れのように、僕の体中に――

 この両手にこびりついている。


「ううう、ああああああああああああああああああああ」

 

 僕は、声にならない呻き声を上げた。

 まるで獣みたいな声で鳴いた。

 

 僕は、今すぐにこの場所から逃げ出したかった。

 その時、教室に誰かが入ってきた。


「もしかして、全部思い出したの?」

 

 佐伯さんだった。

 彼女はとても不安そうな顔で僕を見つめて、そう尋ねた。その表情には濃い恐怖の色が浮かんでいて、僕に近づくことを恐れているみたいに見えた。

 

 彼女の後ろには、僕がこの中学校に通っていた頃の担任の先生がいた。

 僕の相談をまともに聞いてくれなかった先生。

 頑なに信じてくれなかった先生。

 

 僕の道を閉ざした先生が、

 そこに立っていた。


「ねぇ、もう帰ろう? 今日、この場所で思い出したことなんて全部忘れて、今すぐ私たちの街に帰ろう。こんなところ、いても仕方ないよ。これからは二人で一緒に給食を食べようって――そう約束したでしょう?」

 

 佐伯さんは、僕の消された記憶を知っているみたいだった。

 たぶん、先生が話したんだ。


「どうして、君がここに? そんな、君の記憶は消去したはずじゃ? 君のせいでクラスメイト全員が『記憶消去』をすることになって、それで私のクラスは――」

 

 その先生は、

 僕のことを信じられないといった顔で見ていて、

 その目は恐怖で震えていた。


 またしても、先生は僕のことを信じられないみたいだった。

 多分、先生は永遠に僕のことを信じてくれないんだと思う。


 先生も僕のことなんて人間とは思っておらず――きっと、実験動物くらいにしか思っていないんだ。

 

 そう思ったら、

 僕はどうにかなってしまいそうなくらい混乱した。

 

 あの時の記憶が蘇り、

 あの時の感情が流れ込んでくる。

 

 そして、僕を過去に引き戻すほどに激しい嵐に飲み込まれた。

 気がつくと、僕はおかしくなってしまったみたいに叫び声を上げて――ポケットの中のものを取り出していた。

 

 また、赤い花が散る光景を見た気がした。

 全てが終わる色を見た。

 

 記憶が閉ざされてしまう前、

 僕は佐伯さんことを思った。

 

 そして、とても申し訳なく思った。

 

 佐伯さんが――「あなたなら、消えてしまった記憶を思い出して、それと向き合い、乗り越えられるんじゃないかって。私の姉ができなかったことを、あなたならできるんじゃないかって、そう思っているし、そう信じたい」


 そう言ってくれたのに、

 そう信じてくれたのに、


 僕は過去と向き合うことも、

 乗り越えることもできなかった。

 

 ただ、嵐に飲み込まれてしまうことしかできなかった。

 佐伯さんの恐怖で歪んだ顔が、僕の脳裏に焼き付いて離れなかった。

 


 扉が閉まる大きな音が聞こえた。



 1


 今日、僕は新しい中学校に転入した。

 転校には慣れているので特に不安はない。それに、記憶が消えてしまっていることにも。だけど、こんなに短い期間に二度も転校するのは初めてだったので、そのことが少しだけ不思議だった。

 

 でも、今日から僕も中学二年生だ。

 新しい環境にも慣れていかなくてはいけないので、消えてしまった記憶のことばかりを考えているわけにもいかない。


 それでも、僕は消されてしまった記憶のことを考えずにはいられなかった。

 

 だって――

 

 僕の頭の中には、知らない女の子がいる。

 その女の子は、いつも僕に話しかけて――いつも僕を呼んでいる。


 まるで、僕をどこかに連れて行こうとするみたいに。

 

 僕を特別な冒険に誘うみたいに。

 僕はいずれ冒険に出なければ行けない、そんな予感を感じていた。

 僕の頭の中にいる、知らない女の子に会いに行くために。

 

 名前も知らない。

 顔もわからない。

 

 もちろん今どこにいて、何をしているのかさえ不明な――

 そんな女の子に、会いに行くために。


 そしてもう一人、僕の頭の中には別の女の子がいるような気がした。

 その女の子は僕に寄り添って、僕を励ましてくれている。


 僕は、その女の子の言葉に救われたような気がした。

 その女の子は、今も僕を信じ続けてくれているような気が。


 だから、僕はもう一度――

 

 もう一度?

 

 僕はいったい、

 何を忘れてしまったのだろう。



「あなたなら、消えてしまった記憶を思い出して、それと向き合い、乗り越えられるんじゃないかって――、そう思っているし、そう信じたい。これからは二人で一緒に給食を食べようって――そう約束したでしょう?」

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僕の、頭の中の女の子をめぐる冒険。 七瀬夏扉@ななせなつひ @nowar

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