最後の竜騎士(六・終)

 オレンジ色のサイドカーから降りたテオは、格納庫ハンガーに足を向けた。

 ユーリとサラマンドラが飛び立ってからすでに四日が経っている。

 昨日は早朝から夜まで日がな一日マドリガーレの噴水広場で待っていたが、ついにユーリは現れなかった。

 失意のままマドリガーレ市内の宿を出たテオは、あてどなくサイドカーを走らせ、気づいたときには飛行場に戻っていたのだった。

 もしかしたらユーリが帰ってきているかもしれないという淡い期待は、しかし、あっけなく打ち砕かれた。

 テオは何もない場所で躓きかけて、あわてて姿勢を立て直す。


「ううん、やっぱりスカートって苦手だなあ……それにこの靴も……」


 今日のテオの服装は、いつも身につけている作業服ではない。

 薄いベージュのコートの下は、レースのついた白いブラウスに、オールドブルーのプリーツスカート。足元はミドルヒールの編み上げブーツという出で立ちである。

 どれも普段なら絶対に身に付けない品々だった。

 

――出来るだけ普段と違う格好をしろ。ひと目でお前と分からないほうがいい。


 別れ際、ユーリが口にした言葉だった。

 マドリガーレ市内の衣料品店でいくつか女物の服を買い、この数日間はそれを着回してきた。

 それにくわえて、いつもは一つにまとめていた髪を下ろし、唇には薄く口紅ルージュを塗ってさえいる。

 

(なんだか自分じゃないみたい……)


 格納庫の窓ガラスに映った姿を見て、テオは苦笑いを浮かべる。

 テオという名前はあだ名のようなものだ。

 人に名前を尋ねられたときは、テオドールと答えることにしている。

 本当は違う。

 テオファニア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ザウアー。

 いかにも貴族風の古くさくて長ったらしい、そしてれっきとした女の名前だ。


 テオは壁際のパイプ椅子に腰掛けると、がらんとした格納庫を見渡す。

 天窓から冬の薄ら日が差し込み、床にまだら模様を落としている。

 かすかな機械油とガソリンの匂い。サラマンドラが飛び立って何日も経つというのに、この場所にはまだ戦闘機の残り香が漂っている。

 自分には心地よいこの匂いも、きっと普通の娘なら耐えられない悪臭なのだろうとテオは思う。


 昔から人形遊びやおままごとよりも機械いじりのほうが好きだった。

 同じくらいの年頃の女の子たちが夢中になっていた読み物には興味も示さず、生家の書庫に入り浸っては機械工学や高等数学の書物を読み漁った。

 もともと恵まれた血筋に生まれついたということもある。

 ザウアー家は、初代大竜公グロースドラッフェン・ヘルツォークに仕えた伝説の錬金術師エアハルト・フォン・ザウエルを始祖とする名門だ。

 やがて錬金術が衰微してからは自然科学へと舵を切り、一族は著名な科学者や機械技師を数多く輩出してきた。

 とりわけテオの祖父クラウスは、いまから六十年ほど前、歴史上初めて飛行機を実用化した人物として知られている。

 新進気鋭の物理学者ヨハン・カールシュタットと手を組み、ながらく机上の空論と思われていた飛行機械を現実のものとしたのである。

 どちらも二十代の、学者としてはほとんど無名の二人の若者が成し遂げた偉業は、文字通り世界の形を一変させた。

 古代から多くの人間が挑戦しては挫折してきた夢の機械は、またたくまにアードラー大陸、そして全世界に普及していった。

 軍事兵器としての有効性を見いだされたためだ。

 飛行機は戦うための進歩をつづけ、やがて戦闘機や爆撃機へと分化していった。

 クラウスとヨハンがみずからの発明を悔やみ始めたときには、飛行機は生みの親である彼らの手を離れたあとだった。


 一族のなかでも、テオは偉大な祖父の血を最も濃く受け継いだひとりだった。

 あるいは男に生まれていたなら、悩むこともなく、幼いころから名声と称賛をほしいままにすることが出来たのかもしれない。

 飛び級を重ねて入学した大学を、やはり飛び級で卒業しても、周囲の大人たちはテオをあくまで女の子として扱い続けた。

 祖父の創業したカールシュタット・ザウアー設計局に実力で入社し、最年少の設計主任として次期新型戦闘機の開発に関わるようになっても、やはり色眼鏡で見られることには大差なかった。

 どれほど努力したところで「子供だから」「女の子だから」と軽んじられ、夜ごと悔し涙を流していた日々……。

 

「ユーリ……」


 テオは俯いたまま、ちいさくその名を呟く。

 自分がありのままでいることを認めてくれた、たったひとりの人。

 戦争が終わったあと、思いがけず始まった二人と一機の生活。

 家族も会社も失い、行き場をなくしたテオは、生まれてはじめて幸せを感じた。

 この日々はいつまでも続いていく。そう根拠もなく思い込んでしまうほどに。

 知らぬまに涙が溢れていたことに気づいて、テオははたと我に返る。

 せめてきょう一日、日が暮れるまではここで待とう。

 それまでにユーリとサラマンドラが帰ってこなければ、そのときは……。

 

 どこからか低い音が聞こえてきた。

 サラマンドラの発動機エンジンの音だ。

 最初は気のせいだと思ったテオも、すぐにそれが現実のものだと理解した。

 格納庫を飛び出し、上空に目を向ける。

 すぐに見つかった。

 最初は青空に浮かんだ黒い点のようだったそれは、じょじょに見知ったシルエットを象っていく。

 翼の一部が欠損しているものの、ゆるやかなV字を描く逆ガル型の主翼は見紛うはずもない。

 サラマンドラは飛行場の上空で円を描くように旋回したあと、速度と高度を落として滑走路ランウェイにアプローチする。

 機体の現状が詳らかになるにつれて、テオは言葉を失った。

 コクピットを覆う風防と左の水平尾翼は完全に失われ、機首のカウルは脱落してX型発動機が剥き出しになっている。流麗な機体は見る影もなく傷つき、飛び散った潤滑油オイルは乾いた黒血を彷彿させた。

 出撃前はあざやかだった紺青色コバルトブルーの塗装さえも、まるで数十年の歳月を経たみたいに色褪せてみえる。

 機械のプロフェッショナルであるテオの目から見ても、ここまで飛んできたのが信じられないほどの損傷ぶりだった。

 やがてサラマンドラが完全に停止したことを確かめて、テオは機体に駆け寄る。

 

「ユーリ!!」


 ユーリは飛行帽を脱ぐと、怪訝な面持ちでテオを見据える。

 ややあって、汗に濡れた灰金色アッシュブロンドの髪をかきあげながらユーリが口にしたのは、再会を喜ぶ言葉ではなかった。

 

「なぜここにいる?」

「なぜって……」

「俺が迎えに行くまで飛行場から離れていろと言ったはずだ」


 そっけないユーリの言葉に、テオは負けじと反論する。


「ユーリのほうこそ、いま何日だと思ってるの? ……約束を破ったのはお互い様でしょ」

「応急修理にだいぶ時間を食ったからな」


 コクピットを出たユーリは、傷ついたサラマンドラを優しく撫でる。

 ラウテンヴェルク上空を離脱した時点で限界を迎えつつあった機体は、ここまで何度も不時着を余儀なくされた。

 ユーリはそのたびに慣れない手つきで応急修理を行い、だましだまし飛び続けたのだった。

 とはいえ、これほどの損傷を被ってはパイロットに出来ることなどたかが知れている。

 潤滑油オイルは破損部からたえまなく漏れ出し、胴体の燃料タンクはずたずたに切り裂かれて使いものにならない。そのうえ機外の計測器を破壊されたことで、速度計や高度計といった飛行に不可欠な計器類もすっかり狂っている。

 ユーリは破損部を補修用テープで塞ぎ、計器の代わりに原始的な天測航法を用いて帰路のルートを割り出すのがせいいっぱいだったのだ。

 サラマンドラがマドリガーレまで墜落せずに戻ることが出来たのはほとんど奇跡と言ってよかった。


「すまん。お前がせっかく整備してくれた機体を――」

「べつに気にしてないよ。ユーリがこんなにサラを壊すのは珍しいけど、このくらいならなんとかなるもの」

「直せるのか?」

「僕を誰だと思ってるのさ。すこし時間はかかるだろうけど、ちゃんと元通りに……ううん、前より綺麗にしてみせるよ」


 得意げに言ったテオは、ふと自分の着ている服のことを思い出した。

 ひらひらしたスカートもヒール付きのブーツも、とても整備向きの格好ではない。

 下ろした髪の毛は肩までの長さだが、しっかりまとめておかなければ機械に巻き込まれるおそれがある。

 

「……と、そのまえに着替えてこなくちゃ」

「待て、テオ――」

「どうしたの?」


 ふいに呼び止められて、テオは首だけでユーリのほうを振り向く。

 ユーリはしばらくまじまじとその姿を見つめたあと、ぽつりと呟いた。


「その格好、よく似合っている。これからはたまに着たらどうだ」


 わずかな沈黙のあと、テオは無言で視線をそらす。

 いまの表情を見られまいとしているのだ。

 頬はたちまちに薄朱色うすあけいろに染まり、耳の先まで紅潮している。


「……ばかユーリ」


 まんざらでもない様子で毒づいて、少女は格納庫の奥へと駆けていった。


***


 冬の澄んだ日差しが飛行場に降り注いでいた。

 格納庫を出たサラマンドラは、誘導路タクシーウェイに入るまえに駐機場エプロンでいったん停止する。

 ラウテンヴェルク上空での決闘から二週間あまりが経った。

 あのあと、テオが昼夜の別なく修理に取り組んだ甲斐あって、傷ついたサラマンドラはすっかり元通りになっている。

 痛みが激しかった塗装も塗り替えられ、機体は新品同然の輝きを放っている。

 唯一変わらないのは、垂直尾翼に描かれた「手紙をくわえたドラゴン」のマークだけだ。

 もともと垂直尾翼はほとんど無傷だったということもあり、修理の際にも交換されることなく残されたのだった。

 

「ユーリ! サラの調子はどう?」


 耳を痛めないようにイヤーマフをつけたテオは、機上のユーリにむかって叫ぶ。


「いまのところは上々だ。これ以上は飛ばしてみなければ分からん」

「あんまり無茶しないでね。まだで本調子じゃないんだからさ」

「分かっている。――それより、操縦桿にすこし引っかかる感じがある。見てくれるか?」


 ユーリは低速で回っていた発動機エンジンを停止させる。

 やがてプロペラの回転が完全に止まったのを見計らって、テオは左の主翼付け根によじ登る。

 コクピット周辺には油圧式操縦装置へとアクセスするためのメンテナンスハッチが設けられている。

 操縦桿に生じた違和感の原因を探るため、テオは狭いハッチの奥に上半身を潜り込ませる。

 テオは忙しなく手を動かしながら、やがてぽつりと呟いた。


「……ねえ、ユーリ。ひとつ訊いてもいい?」

「なんだ」

「このあいだのこと、本当にもう大丈夫なのかなって」


 ユーリへの問いかけには隠しようのない不安が滲んでいる。


「あの夜にすべて終わった。シュローダー大佐は助からなかっただろう」

「でも、ポラリア軍に目をつけられたって……」

「心配か?」

「すこしはね。マドリガーレの政府や軍だっていつまで僕たちを庇ってくれるか分からないんだし」

「大佐も同じことを言っていた」


 ユーリはまっすぐ前を見据えたまま、あくまで坦々と言葉を継いでいく。


将来さきのことは分からないが、俺たちは俺たちのやり方を貫くだけだ」

「もしまたこの前みたいなことが起こったらどうするの?」


 コクピットを覗き込んだテオに、ユーリはふっと微笑みを浮かべる。


「どうにかするさ」

「とか言っちゃって、本当はなにも考えてないんじゃないの?」

「そうかもしれないな。だが……」


 いたずらっぽく言ったテオの頬に、ユーリはそっと指で触れる。


「俺とお前と、そしてサラマンドラがいる。根拠ならそれで充分だ」


 テオは何も言わず、ただ微笑みを返しただけだ。

 テオが機体から離れたのを確かめて、ユーリは再始動装置のスイッチを押し込む。

 発電機ジェネレーターからの電力供給を受け、発動機エンジンが目覚めてゆく。

 はるかな天空を目指して、”竜の心臓”はふたたび力強い鼓動を打ち始めた。


【第五話 完】

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