最後の竜騎士(五)
凱旋門の上空を舞台に、サラマンドラとファイアドレイクの激しいドッグファイトは続いている。
サラマンドラは被弾によって左尾翼の機能を喪失し、右主翼のフラップと
風防のガラスは枠を残して吹き飛び、コクピットには容赦なく冷気が流れ込む。
いまや満身創痍の竜がなおも飛び続けているのは、ユーリの類まれな操縦技術と集中力の賜物だった。
それも長くは持たない。
電熱服を着込んでいるとはいえ、凍てつくような夜気はユーリの肌を刺し、容赦なく体力を奪っていく。
サラマンドラの機体もいよいよ限界を迎えつつある。
ふたたび被弾したなら、今度こそ確実に撃墜されるだろう。
≪そろそろ終わりにするとしよう≫
シュローダー大佐は無線機越しに告げる。
ユーリは答えず、操縦桿を握り込む。
フライトグローブに包まれた手指の感覚が鈍くなっている。
寒さのせいか、それとも過度のGがかかり続けたために鬱血を来しているのか。
そのどちらにせよ、身体が言うことを聞くのはあと数分といったところだ。
もっとも、それまで生きていられる保証などどこにもない。
≪さよならだ、ユリアン≫
ジェットエンジン特有のするどく甲高い吸気音を響かせて、ファイアドレイクが接近する。
搭載する全火器を一斉に発射し、サラマンドラを破壊するつもりなのだ。
サラマンドラの姿がふっと消失した。
むろん、この世から忽然と消え失せた訳ではない。
ひらりと機体を翻し、ほとんど垂直の急降下に入ったのだ。
≪血迷ったか? ……小細工を弄するのは勝手だが、逃げられると思うなよ≫
サラマンドラは地表すれすれで機首を上げる。
動かない片側の
シュローダー大佐はファイアドレイクの胴体側面に内蔵された大型ダイブブレーキを展開して速度を殺し、サラマンドラの追撃を開始する。
凱旋門へと続く大通りにはいまなお爆撃の生々しい爪痕が残っている。
焼夷弾の熱で溶けたアスファルトは水面のように波打ち、黒焦げの自動車や戦車の残骸がそこかしこに転がっている。
すこしでも操縦桿の力加減を誤れば、たちまちプロペラが地面を叩くほどの超低空飛行。
飛ぶというよりはほとんど地面を滑るように、サラマンドラとファイアドレイクは廃墟の街を駆け抜けていく。
二機の巻き起こす旋風がごおごおと渦を巻き、炭化した街路樹を震わせる。
先ほどからファイアドレイクの搭載火器は沈黙している。
サラマンドラを射界に収めても、シュローダー大佐は一向に引き金を引こうとはしなかった。
べつにかつての部下に情けをかけている訳ではない。三百機超という前人未到の撃墜スコアをもつ隻眼のエースは、攻撃のタイミングを慎重に見極めているのだ。
敵機の後ろについたことで舞い上がり、無駄に弾をばら撒くのは新米パイロットがしばしば犯すミスである。
戦闘機に搭載されている航空機関砲の発射速度は、製造メーカーや口径によって差はあるものの、じつに毎分数百発から数千発におよぶ。
考えなしに連射すれば十秒と経たずに弾切れに陥る。そうなれば、どんな高性能な機体もただの鉄の塊でしかない。戦闘機はあくまでも火力を運搬するための手段であり、究極的にはパイロットでさえその目的を滞りなく果たすための部品のひとつにすぎないのだ。
シュローダー大佐は、ユーリとサラマンドラを確実に葬り去るべく、いずれ訪れる
そうするあいだに、凱旋門はもはや目と鼻にまで迫っている。
高度を低く保ったまま、ユーリは迷うことなくスロットルを全開。
すべての制約を解かれたX型
あまりの熱量に冷却が追いつかず、水温計は早くも危険域を指し示している。
このままでは発動機に致命的な損傷が発生するおそれもある。
ユーリは強制排熱装置のボタンを押し込む。
転瞬、乾いた音とともに眼前で火花が散った。
コクピット前方に仕掛けられていたごく少量の火薬が炸裂したのだ。機首を覆うカウルが勢いよく爆ぜ飛び、秘されていた”竜の心臓”――異形のX型発動機があらわになる。
サラマンドラは液冷方式を採用しているが、緊急時にはカウルそのものを強制排除して熱を大気中に放散し、発動機を損傷から守るのである。
むろん、カウルを失えば空気抵抗がおおきく増大するうえに、剥き出しの発動機に被弾すればひとたまりもない。
もはや後はない。ユーリは操縦桿とフットペダルに全神経を集中させる。
凱旋門まであと数百メートル。
門の内部は焼け焦げた廃材や瓦礫で埋まっている。大柄なサラマンドラが通り抜けるのは至難の業だ。
(一か八かだ――――)
サラマンドラに続いてファイアドレイクも凱旋門へと飛び込んでいく。
銃撃音とともにまばゆい光条が夜気を切り裂いた。ファイアドレイクが発砲したのだ。
サラマンドラはわずかに機体を傾けて回避する。
先ほど吹き飛ばしたカウルが目くらましになったことも幸いした。
曳光弾が混じった銃砲弾はサラマンドラを掠めて凱旋門に命中し、もうもうたる白煙があたりに漂う。
猛烈な勢いで投射された二◯ミリ砲弾は、数千年の歴史にも耐える大理石をまたたくまに粉塵へと変えていく。
サラマンドラは粉塵に身を隠すようにして凱旋門をくぐる。
視界ゼロ。数秒前の記憶だけを頼りに、ユーリは傷ついた機体を操る。
≪お前らしくもないな、ユリアン。自分から墓穴に飛び込むとは――――≫
シュローダー大佐は呆れたように吐き捨てる。
戦闘機が三次元的な機動を行えるのは、遮るもののない大空を飛び回っているからこそだ。
どんなに運動性にすぐれた機体でも、狭い空間ではまともに回避行動は取れない。
そんな状況で攻撃を受ければ、逃げることも反撃することも出来ずに撃墜されるのが関の山なのだ。
サラマンドラがファイアドレイクの攻撃を間一髪かわすことが出来たのは、たまたま幸運が重なっただけのこと。
そして、まぐれは二度は続かない。
シュローダー大佐は照準を補正し、今度こそサラマンドラを撃墜すべく攻撃準備に取り掛かる。
「せいぜい安らかに眠れ――わが魂の息子よ」
シュローダー大佐はひとりごちて、スロットルレバーに備え付けられた発射ボタンを押し込む。
粉塵が視界を覆っている。
それでも、サラマンドラがにいることは分かっている。
十二・七ミリ機銃と二◯ミリ機関砲、合わせて十条の火線が前方の一点に集束する。
サラマンドラは凱旋門を抜けるまえに炎に包まれ、空中分解するだろう。
いまや最後の竜騎士となったユリアン・エレンライヒを懐に抱いたまま、最後の火竜はこの世から消滅する。
決着はついた。――そのはずだった。
粉塵を抜けた先でシュローダー大佐とファイアドレイクを待ち受けていたのは、大通りの果てまで続くうつろな夜闇だけだった。
サラマンドラの姿はどこにも見当たらない。
百戦錬磨のシュローダー大佐も、予想外の事態に驚きを隠せなかった。
あれほど巨大な機体が瞬時に消え失せるはずはない。
機体がひどく損傷し、満足に飛び回ることさえ出来ないとなればなおさらだ。
ならば――奴は、サラマンドラはどこへ消えたというのか?
ファイアドレイクをすさまじい衝撃が襲ったのは次の瞬間だった。
顔を上げたシュローダー大佐の目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
サラマンドラだ。
ユーリの駆るサラマンドラはいったん上昇したあと、空中で着陸脚を下ろし、そのままファイアドレイクにのしかかったのだ。
もともと空・海軍の共通主力機として開発されただけあって、サラマンドラの着陸脚は空母への着艦にも耐えるほど頑強に作られている。陸上機とは思えないほど逞しく無骨な”竜の爪”は、ファイアドレイクの主翼めがけて振り下ろされたのだった。
シュローダー大佐はジェットエンジンを用いて緊急離脱を図るが、もはや遅い。
サラマンドラはファイアドレイクを押しつぶすような格好でじょじょに高度を下げていく。
そのあいだにもファイアドレイクのプロペラは断末魔のように回り続け、サラマンドラの腹をずたずたに切り裂いている。
ガソリンと冷却液、そして”竜の血”が入り混じった液体が雨のようにファイアドレイクの機上に降り注ぐ。
≪ユリアン! 貴様――――≫
「脚を使ってはいけないなんてルールはなかったはずだ。そうだろう、大佐」
≪このまま相討ちに持ち込むつもりか? バカな真似はよせ≫
「言われなくてもあんたと一緒に死ぬつもりはないさ」
ユーリは操縦桿を引き、機首を上げる。
傷だらけのサラマンドラはわずかに機体を持ち上げ、ファイアドレイクから離れていく。
いつ墜落しても不思議ではない状態だが、それでも、サラマンドラにはまだ飛ぶだけの余力が残っているのだ。
一方のファイアドレイクには、もはや羽ばたく力さえ残っていない。
プロペラはゆがみ、主翼の
いくらジェットとレシプロの
ほんの数十秒前まで勝利を確信していたシュローダー大佐とファイアドレイクは、いまや為す術もなく墜落を待つばかりだった。
≪お前の勝ちだ、ユリアン。一本取られたよ≫
「くだらんおしゃべりをしている暇があったら脱出しろ、大佐。この高度なら飛び降りても死にはしない」
≪俺は部下の指図は受けない主義だ。どうするかは自分で決める≫
無線機の向こうで恐ろしげな音が鳴り響いた。
ファイアドレイクが地面に激突したのだ。
サラマンドラのガソリンを浴びているところに、墜落の衝撃でジェット燃料や弾薬にも引火したらしい。
ユーリは割れた風防から顔を出し、背後の道路を見下ろす。
漆黒の機体はすでに炎に包まれている。いまさら脱出を図ったところで手遅れなのはあきらかだった。
≪まさかお前に火をもらえる日が来るとはな――≫
飛行服の懐からたばこを取り出して、シュローダー大佐はしみじみと言った。
≪やはりお前は俺の最高傑作だよ、ユリアン。最後の戦いが黒星で終わったのは残念だが、相手がお前なら諦めもつく……≫
「俺はあんたの作品じゃない。それに、ユリアン・エレンライヒという名前はもう捨てた」
ユーリはひと呼吸置いてから、途切れつつある無線にむかって決然と言い放つ。
「俺はユーリ。サラマンドラ航空郵便社のユーリだ」
わずかな沈黙のあと、シュローダー大佐はからからと乾いた笑い声を上げた。
これから死ぬ人間にむかってあらためて名乗るおかしさに耐えかねたのだろう。
どうあがいても避けられない破滅を前にしてなお、隻眼の
≪ユリアン――いいや、ユーリ。一足先に先に向こうで待っているぞ。お前はなるべくゆっくり来い……≫
無線はそれきり途絶えた。
大竜公国のトップエース同士の死闘はついに決着したのだ。
それは同時に、ひとりの男の妄念が生み出した
ユーリはようやく人心地がついたように深く息を吸い込む。
勝利の喜びを噛みしめようにも、いまのユーリはそれどころではなかった。
機体の各所に甚大な損傷を被ったサラマンドラは、こうして飛んでいるのが不思議なほどなのだ。
どこかで応急修理をしなければ、とてもマドリガーレまで帰ることは出来そうにない。
「……帰ろう。俺たちの家に……」
誰にともなく――
いや、はっきりと愛機サラマンドラにむかって、ユーリは呟いた。
傷だらけの竜と最後の竜騎士が夜空を渡っていく。
夜明けはまだ遠い。
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