いつか、君が聞いていた歌

清野勝寛

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いつか、君が聞いていた歌



 霜月も折り返し、時折雪が降るようになった。人は皆白い息を吐きながら、何処かへと歩いていく。僕もそんな一人。人混みの中はどこか湿った熱気がこもっていて、寒くはない分息苦しい。空を覆う灰褐色の雲が、これから更に冷え込むということを言外に告げていた。

 改札をくぐり、ホームへの階段を上ると直ぐに電車が滑り込んできた。けたたましい停車音が鳴り響いた後、雪崩のように人が降りてくる。その波に巻き込まれないように、体をよじらせホームの端に逃げた。ようやく雪崩が落ち着いたあと、今度は電車に吸い込まれる人の渦に飲み込まれた。転ばないように必死に足に力を入れ、電車の中に押し込まれていく。なんともいえない熱気と臭気が不快だったが、十数分耐えれば済む話。皆同じように苦しい思いをしているのだから、泣き言は言えない。

 動き出した電車に合わせて、人が揺れる。押しつぶされながら、目を閉じる。ふと、懐かしい音が聞こえた気がして、そちらに視線を送る。誰かのイヤホンが抜けて、車内に音楽が流れていた。どこかで聞いた曲だったが、どこで聞いたのだったか。それにしても、今時有線のイヤホンを使っているなんて、珍しい。僕もかつて似たようなことがあって恥ずかしい思いをした経験がある。そしてそれ以降、電車内ではすっかり音楽を聞かなくなった。

 

 学生服を着た女の子だった。その子は慌てて制服のポケットからスマートフォンを取り出し、小さな声ですみませんとつぶやきながら音楽を止めた。顔が真っ赤に染まっている。気持ちは痛いほど分かるので、少し同情してしまう。周囲の人間は気にも止めない人、僕のようにその子を見つめる人、舌打ちをする人と様々な反応をしていたが、例え誰も気にしていなかったとしても、その子はきっと醜態を晒してしまったと思い込むだろう。現に、その瞳には涙が溜まって、今にもこぼれ落ちそうだった。


 そんな彼女のことをぼんやりと見つめながら、僕はさきほど漏れ聞こえた曲について考えていた。僕はこの曲を、とても良く知っているような気がする。誰の歌だっただろうか。どこで聞いたのだろうか。思い出せない。相当昔に聞いたのだと思うが、どうだったか。

 気が付くと、僕はその曲を鼻唄で歌っていた。は、と気付いた時にはもう遅くて、車内の目がその子から僕に向いている。その子さえ、僕を見つめていた。顔に熱が集まってくるのが分かる。ああ、朝から何をやっているんだ、僕は。

「……す、すみません……」

 小さな声で周囲に謝罪し、顔を伏せて目を閉じる。今日は一日この出来事が尾を引いて、憂鬱な一日になるだろう。思わず大きな溜め息が漏れた。

 そんな僕の気持ちなど関係なく、電車はどんどん冬の空気を引き裂いて、先を急いだ。何度か車内の人間が入れ替わって、少しだけ気持ちが楽になる。そうだ、毎日乗る電車の中でだって、出会いは一期一会。もう会うこともないだろう。気にしないでいるのが一番だ。

 ようやく少しだけ気持ちを切り替えられた頃、目的の駅に間もなく到着するというアナウンスが聞こえてきた。僕は目を開き顔を上げる。すると、僕の目の前に先ほどの子がいて、目が合った。その瞬間、目を逸らされる。数度の乗降による人の波に流されてしまったのかもしれない。改めて制服を見ると、近くの進学校の制服のようだった。あどけない顔立ちをしているが、どこか気品のようなものを感じるのは、その制服のせいだろうか。

「あ……あの……」

 少女のことを考えていると、囁くような声が聞こえた。目の前の少女が、今度ははっきりと僕を見つめている。まさか、僕に声を掛けたのだろうか。何も言えず戸惑っていると、続けて少女が囁いた。

「……先ほどは、ありがとうございました」

 何のことか分からなかった。僕はこの子に何もしていない。しかし、少女は明らかに僕に向かってそう言っていた。

「……あの、僕に言っていますか? なんのことでしょう?」

 少女に倣い、僕も彼女に囁き声で問いかける。僕の言葉を聞いて、少女は首を傾げた。別に、おかしなことを言ったつもりはないのだが。

「……私への注意を、逸らしてくれたんですよね?」

 再び、少女の囁き。そこでようやく合点がいく。先ほど僕が何気なく歌ってしまった鼻唄を、この子は超解釈してしまったということか。

「……いや、あれは」

「嬉しかったです。私、目立つのとか苦手で、泣いちゃいそうだったから……嬉しくて。一言、お礼が言いたかったんです。ありがとうございました」

 少女は狭い車内で小さく頭を下げる。大袈裟だなと思う反面、自分も同じ経験をしているので何も言えなくなってしまった。

「ああ……いえ、困った時はお互い様ですから……」

 渇いた笑い声が出た。この歳で朝から見ず知らずの女学生と話をするなんて、気まずくて仕方がない。どんな風に話していいか分からず、先ほどから取引先の顧客と話をする対応になっている。

 その時、ようやく気まずい空気を開放するように電車が目的の駅に到着した。良かった、これで解放される。扉が開いた瞬間、

「本当に、ありがとうございました!」

 乗降中のけたたましい音楽に負けないよう、少女が大きな声で僕に叫んだ。そんなことをしたら、電車の中でまた気まずくなるだろうに。それを伝えることはもう出来ない。


 改札を出て、空を見上げると、先ほどの曇天が嘘のように、晴れていた。不思議なこともあるものだ。

 少女の嬉しそうな笑顔を思い出す。そんなつもりはなかったけれど、感謝されて、悪い気はしない。

 天気のおかげか少女のおかげかはわからないけれど、先ほどとは打って変わって、今日は良い一日になる気がする。我ながら現金なものだ。

 歩き出そうとした時、ようやく少女が聞いていた曲のタイトルと、どこで聞いたのかを思い出した。ああ、なんて懐かしい。思わず口元が緩んでしまう。

 僕は会社までの道のりを、懐かしいその曲を、うろ覚えの歌詞を口ずさみながら歩いた。誰かは僕のことをおかしな奴だと思うだろうが気にしない。僕が歌うこの曲を聞いて、もしかしたら、誰かが元気になるかもしれないと思ったから。


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