最終話 終章『この未来《さき》ずっと』 凪咲と空と
夢の途中で、凪咲の目が醒めた。
「いまのは……朝海くんの…………」
一度に多くの彼の想いが流れてきて、理解はできていても、処理が追いつかない。それでも、空のあの言葉だけは、凪咲の心に鮮明に刻まれていた。
――俺は、凪咲のことが……好きなんだ。
あの夢で流れてきた彼の言葉の中に、偽りはひとつもない。
ならばこの言葉も……
どうしようもなく切なくなる。
体の奥の奥の奥が疼いてしかたないのに、手が届かないから慰めることもできない。
凪咲は布団の中で自分の両腕を抱いて身悶える。
――会いたい
彼に想いを伝えたときは、溢れそうになる想いを必死に抑えていた。
けど、これはもう……無理だ。
「溢れる想いを抑えきれない」なんてフレーズは、恋愛小説やラブソングの歌詞の中にありふれているけれど、実際に体験するのははじめてだった。
彼らの言っていたことは決して大袈裟なものではなかったのだと、凪咲は身を以て知った。
心が命じるままに、凪咲はベッドから体を起こすと、そのまま家を飛び出した。
七月の明け方はまだ涼しくて、澄んだ空気が凪咲の肌を撫でる。
外はまだほの暗く、東の空が暁に染まっていた。
凪咲は空の家に向かって、海岸沿いの道を走る。
空の家とは近いとは言っても、会いたい気持ちが強ければ強いほど、遠いように感じる。
あまりに強すぎて、明け方に行くのは迷惑ではないかとか、空が寝ていたらどうしようだとか、そんなものは一切考えてる余裕がなかった。
彼が幸せになれないなんておかしい。
受け入れてはいけないなんてことない。
空のアパートが見えてくる。
階段を駆け上り、部屋の前で足を止めると、息を整えるのも忘れて扉をノックした。
「朝海くん………朝海くん、いる?」
返事はない。
もう一度ノックするが、反応は変わらない。
無意識に凪咲の手がドアノブに伸び、回す。
鍵が掛かっていなかった扉がすうっと開いた。
少し開けたところで凪咲は驚いて一度手を止めるが、すぐに勢いよく開けて中に入っていった。
入ってすぐの台所にも、その奥の洋室のリビングにも、空の姿はない。
残るは襖で遮られた和室だけだ。
取っ手に手を掛け、ゆっくりと襖を開ける。
暗がりの部屋の中で、空がいないことだけは分かった。
こんな明け方にも関わらず、扉の鍵が開けっ放しで、家にもいない。
凪咲の不安は大きくなるばかりだった。
急いで探しに行こうとしたところで、和室に置かれた仏壇に目が留る。
置かれた遺影の少女は空の妹――夢で聞こえてきた名前からすると結生ちゃん、だろうか。
部屋が薄暗くてはっきりと顔が見えなかった。
凪咲は近づいて、結生の遺影に顔を近づけた。
写真に写る少女の顔を見て、凪咲は驚いた。
そして、全てを思い出し、全てが繋がった。
すぐに空の家を飛び出した。
空のいる場所には見当がついている。一度目も、二度目も、彼はあの場所を選んでいる。
凪咲は再び海岸沿いの道をひた走る。
呼吸が速くなるほど、潮のかおりが濃く鼻腔を通ってくる。
水平線からは朝陽が顔を出し始め、空に漂う薄い雲を七色に彩っていた。
凪咲が中学三年生の頃、二人部屋の母の病室に、一週間だけ一緒になった少女がいた。
名前は『ゆい』。
空の部屋に置いてあった遺影の少女だ。
その一週間の中で一度だけ、凪咲は母と結生に出汁巻き卵を作っていったことがあった。
彼女の兄が夜遅くに面会に来ると言っていたので、彼の分も一緒に。
結生とはすぐに仲良くなった。
友達になってほしいと言われて、もう友達だと答えると、彼女は声を上げて喜んでいた。
そして、友達である凪咲にひとつのお願いを遺していた。
それが―――
――あのね、わたしの夢を、凪咲お姉ちゃんに受け取ってほしいの!
波打ち際に見える人影。
空が海に身を投げた日と同じ場所に、彼は立っていた。
浜へ続く階段を降り、彼の背を目指して砂浜を駆ける。
「朝海くんッ!」
まだ遠すぎて聞こえないだろう距離から叫ぶ。もっと速く足が動けと願いながら。
「朝海くんッ!」
何度目かの呼び声で、空は振り向いた。
凪咲は足を緩め、呼吸を整えながら空に歩み寄る。彼は凪咲がこの場にいることに驚いてはいないようだった。その理由は、凪咲にはすぐわかった。
「朝海くん……もしかして、朝海くんも……?」
「ああ。……やっぱり、凪咲だったんだな」
やはりそうだった。
凪咲の夢に空の記憶が流れてきたように、凪咲の記憶もまた、空の夢に流れていたのだ。
「あの子の友達になってくれて、あの出汁巻き卵を作ったのは、凪咲だったんだな」
凪は小さく頷いた。
「それじゃあ、私と結生ちゃんの約束も知ってるよね。なのにどうして……どうして、幸せを避けようとするの」
「幸せになることに、向いていないからだ」
昨日のセリフをそのまま再現するように、空は口にした。
「幸せになることが、怖いってこと?」
「いや、幸せを喪うことが怖いんだ」
空は目を伏せ、眉根に皺を寄せる。
「俺は、俺にとっての幸せが何かを知っている。そして、同じようにその幸せを喪う悲しみも」
強く震えるその拳に、いったい何が握り締められているのだろうか。
あるいは何を、掴みたかったのだろうか。
「人は幸せを追い求める生き物だ。なぜなら、人は孤独では生きていけない生き物だからだ。けど俺は、手にした幸せをありのままに抱きしめることができない。いつか喪ってしまうんじゃないかという恐怖ばかりが大きくなっていくだけなんだ」
「だから、結生ちゃんのところに行こうと……?」
だらんと空の手が降ろされる。全身の力が抜けたように、力なく俯いた。
「幸せなんて脆いものに怯えながら生きていくことに、俺はもう耐えられなかった。けど、その所為で……この指輪の所為で凪咲を巻き込んでしまった」
弱々しい声で呟いた。
凪咲は空に歩み寄り、波打ち際に並んで立つ。
「ううん。きっと、そうじゃない」
面を上げた空が、隣に立つ凪咲に顔だけ向ける。
夢の中で、空は凪咲の命を喰いものにして助かったと言っていたけど、そうではないと凪咲は考えていた。
「きっと、私達を助けてくれたのは、結生ちゃんだよ。結生ちゃんが描くはずだった未来を、この指輪を通して私達にくれたんだよ」
半分以上顔を出し始めた朝陽に向けて指輪をかざしながら、凪咲はそう言った。
「だってこの指輪は、結生ちゃんの夢だから」
凪咲のその言葉で空が結生の本当の想いを受け取れたことは、彼の目から零れ落ちた涙が語っていた。
凪咲は空に歩み寄り、優しく抱きしめた。
「結生の夢…………あの子に、夢なんてあったのか」
「うん」
空は凪咲の肩に額をつけ、小さく嗚咽を漏らし始めた。
「ずっとベッドの上にいて……外を知らず、友達と遊ぶこともなかったあの子に……本当にそんなものがあったのか」
「うん。朝海くんが、あげたんだよ」
子供のように泣く空の震える背を、凪咲はそっと撫でた。
「あの子には、普通に生きてほしかった。普通に生きて、普通の幸せを手にしてほしかった。
父さんと母さんの代わりに俺が授業参観に行って。運動会にも参加して。そして将来はあの子の結婚式で祝福して…………そんな、普通を見せてあげたかった。
―――それが、俺の幸せだったから」
「うん」
凪咲の声も震える。
「けど、なにひとつあげられないまま、あの子は逝ってしまった。
本当に…………本当に、俺はあの子の他になにもいらなかったんだ。
愛しさが大きいほど、失った悲しみも大きい……。
怖かった。
あの恐怖に怯えるくらいなら、もう二度と幸せなんていらないと思った。
そう思ったら、もうこの世界に立っている意味さえわからなかった。
それなら、俺はもう……」
「安心して」
空の心にそっと触れるように、優しく囁いた。
「私は朝海くんを遺してどこかへ行ったりはしないって約束する」
そして、
「私、朝海くんのことが―――――好きです」
凪咲も、昨日のセリフを再現するように囁いた。
答えは知っていたけど、凪咲は空の言葉を待った。
体の横に垂らされていた空の両腕が、凪咲の背にまわされる。
空は力いっぱい凪咲を抱きしめた。
「ああ、俺もだ。俺も、凪咲が好きだ! 俺も凪咲と、ずっと一緒にいたい」
いつも落ち着いた佇まいの彼が、余裕のない声で言った。
それが逆に、凪咲の心に真っ直ぐに突き刺さり、これ以上にない幸福を感じた。
やっと、届いた。
やっと、掴んだ。
やっと、重なった。
たしかに幸せは脆いかもしれない。
いつの日か喪ってしまうかもしれない。
それでも人が幸せを求めるのは、そこにかけがえのないものがあるからだ。
自分はそれを、この人と一緒に掴みたい。
そして、このさきもずっと、決して離れたりはしない。
朝焼けに輝く海を横目に、互いに見つめ合う。
緩やかに揺れる波の音色に包まれながら、二人は指輪へ誓うように、キスをした。
×
――あのね、わたしの夢を、凪咲お姉ちゃんに受け取ってほしいの!
――結生ちゃんの夢?
――うん! わたしね、元気になって、大きくなったらね、お兄ちゃんのお嫁さんになるんだ!
×
〈完〉
この未来《さき》ずっと~指輪が導く物語~ Jinmrai @J_M_R
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