第37話 第六章『pain-2』 空
朝海空の両親は、子供の空がときどき恥ずかしくなるくらい、仲睦まじい夫婦だった。
毎年、空の前で結婚記念日を祝い、当時のノロケ話を延々と聞かされていた。空が生まれる前は、必ず二人で旅行に行っていたらしい。
だから、空が五歳の時の結婚記念日に、彼は両親に訊いてみた。
――二人の馴れ初めを聞かせてよ
これまでのノロケ話には、不思議と二人の馴れ初めについては語られてこなかった。
それが、敢えて語らなかったことなのだと悟るには、当時の空は幼すぎた。
彼の両親は驚いて言葉を詰まらせたが、最後には快活に話してくれた。
――お父さんはね、お母さんのヒーローなのよ
――父さんがな、悪いヤツらの手から、見事母さんを救い出したんだ
カッコいいとは思ったが、同じくらい意味も分からなかった。
後になって聞いた話を元に意訳すると、要するに、二人は互いの両親の猛反対を押し切って、かけおちしたらしい。そのとき、すでに母親のお腹の中には、空がいた。
そんなわけで、家は貧乏だったけど、とても仲の良い両親が、空は大好きだった。同じ頃、父親の好きだったバスケに出逢い、地元のミニバスチームに入った。
そして、空が八歳のとき、妹の
年が離れていたためか、親に可愛がられる結生に嫉妬したりすることはなかった。むしろ、自分よりも小さく弱々しい存在に、兄としての使命感みたいなものが芽生えたのか、自分が面倒を見るんだと、両親の手から妹をかっ攫うかのような勢いだったらしい。
必死な空が、逆に両親は愛しくて笑ってしまっていたようだったのだが。
――結生は俺が面倒見てるから、二人でどこか行ってきなよ
空十二歳、結生が四歳のとき、結婚記念日を数日後に控えて、空は両親に提案した。
自分が生まれてからは、二人が旅行に行けていないと言っていたことを思い出したからだ。
当然遠慮されたが、空も頑として譲らなかった。両親への想いもあったが、何より兄としてちゃんと妹の面倒がみれるんだぞ、というところを二人に見せたかったのだ。
結局、両親が折れることになった。
日帰りの手軽なもので、空達が寝る夜に出発し、お昼頃には戻ってくる日帰りバスツアーだった。眠気で意識が朦朧としながらも、寝床から両親を見送った。
だがそれが、空が両親と交わした最後の会話となった。
翌日、空は電話の音で目が醒めた。
どうやら朝からひっきりなしに鳴っていたらしく、結生も目を覚ましていた。
何度目かのコール音の後、空が電話に出る。
あの時の電話越しに言われた言葉を、空は一生忘れることはない。
両親を乗せたバスが、高速道路を走行中、大型トラックと衝突して転倒するという事故が起きた。
運転手含め、乗客の死者多数。生存者はわずか数人とのことだった。
その数人の中に、空の両親はいなかった。
――俺の所為だ。俺の陳腐なプライドのために、両親は死んだんだ。
子供ながらに、空はそう思った。
両親の葬儀の場で、空は初めて親戚の顔を見た。
これまで一切干渉してこなかった人間が我が物顔で葬儀を仕切っている光景に、空は違和感と嫌悪感を覚えた。
案の定、空達の引き取り手がつかず、親戚中をたらい回しにされた。
気を許せる相手はおらず、常に気を使って生きてきた。
だが、空の心が挫けることはなかった。
空には、まだ妹の結生が残っていたからだ。
寂しさよりも、結生を護らなければという気持ちが勝っていたのだ。
結生だけが、空の生きる目的になっていた。
その結生が、両親の死から僅か数ヶ月後、重い病に倒れた。
親戚の連中は、厄介払いするように、早い段階で結生を入院させた。
空は学校帰りに毎日お見舞いに通った。
結生が心配なのは当然だが、同じくらい家にいたくなかったからだ。家に帰れば、結生の容態よりも、入院費がかさむだの、金食い虫だのと愚痴を零された。
一度たりとも結生の見舞いに来たことなどないくせに。
だから、中学に入って空はバイトを始めた。
年齢を偽って働いていたから、バレたら辞め、別の場所で働き始めてはバレたら辞めの繰り返しで、ろくに金が貯まらなかった。
この頃にはもう、ボールに触ることは滅多になかった。
中学三年生のとき、結生が転院することになり、それを機に空は親戚の家を出た。中学生が一人暮らしするなどいろいろと問題がありそうだったが、空を疎んじていた親戚連中は、喜んで空の一人暮らしに手を貸した。
家を越してからも、空はバイトを続けた。
そのことを結生の主治医に話したら、様々なことに黙認してくれた上に、面会時間を過ぎた後の来院を許可してくれた。
ただ、初めの一週間は、小児科の病棟に病床の空きが無く、一般病棟の二人部屋に入院することになった。相部屋になった女性の患者さんはちょうど両親が生きていたら同じくらいの年齢の優しそうな人で、夜遅くの面会を笑顔で許可してくれた。
その人の家は定食屋を営んでいるらしく、一度、彼女の旦那さんだか娘さんだかが作ったという出汁巻き卵をいただいたことがあった。
今までに食べたことのない優しい味がして、涙が出そうになった。またいつか、食べてみたいと空は強く思った。
それからすぐに、結生は小児科の病棟へと移っていった。
その人とは、結局ちゃんとした挨拶ができなかったから、いつか結生が元気になったら一緒に行こうと思った。
同じ頃、結生は病院で友達ができたと喜んでいた。
学校にも行けず、空以外の人と仲良くなる機会などこれまでなかったためか、よほど嬉しそうだった。
その友達にも、いつか会って挨拶したいと思った。
中学卒業後の進路は就職を希望していた。
将来の結生の入院費を引き継ぐためだ。
だが、この話を結生本人にしたとき、妹は猛反対した。
結生は、兄に高校に行って大好きなバスケをしてほしいと言って聞かなかった。
長い入院生活の中で、結生が初めて口にした我儘だった。
結生に推される形で、空は高校進学を決め、病院から一番近い学校を受験した。
合格はしたが、実際通ったのは、はじめの一週間ほどだけだった。
だから友達なんてできなかったけど、バスケ部の春沖拓海という同級生とは、バスケをしていて楽しかった。
いつかまた、彼とバスケがしたいと空は思っていた。
それから、もう一人―――
同じクラスで入学式から休学している夏花凪咲という生徒のことが気になっていた。
担任の話によると、彼女は母親が重い病で長いこと入院しているらしい。
自分と似たような境遇に、空はまだ会ったことのない彼女に自分を重ねていた。その彼女の母親が亡くなったことを知ったのは、仕事で受けられなかった定期テストの追試の日程を担任から聞かされたときだった。
他人事ながら、胸が張り裂けそうだった。
彼女に自分を重ねていた分、自分のように悲しかった。
いつか結生も……などという想像が嫌でも頭を過ぎってきて、必死で振り払った。けど、夏花凪咲は簡単には振り払えない。
その彼女と自分は数日後に会うことになるのだが、何かしてやれることはないのだろうか。
そのことを結生に話したら、病室の抽斗から消しゴムを二つ取り出して空に手渡してきた。
「いい、お兄ちゃん? 明日一緒にテスト受けるその人と、絶対に友達になってくること!」
試験当日。
初めて会った夏花凪咲は、心に大きな孔を空けて、虚ろな瞳を弱々しく彷徨わせていた。
空が挨拶をしても、心此処に非ずといった様子だった。
彼女は空を見ていない。
彼女の机上を見て、話し掛けるきっかけを得た。けど、余計な言葉はきっと心に届かない。だから、かつて自分が救われたこの黄色いお守りを贈った。
彼女を救えたかは分からないが、反応から、届いたとは思った。
いつか学校に戻ったとき、彼女と友達になる日が楽しみだと思っていた。
夏を過ぎた頃から結生の病気が悪化し、冬を迎える頃には、ほとんど寝たきりの状態になっていた。
日に日に目に見えて弱っていく結生を見て、空は家に帰っても結生のことばかり考えてしまい、結生がいなくなってしまうかもしれない恐怖に怯え、気がおかしくなりそうだった。
いつも結生の面倒を見てくれた看護師の波多野美優は、そんな自分にも気に掛けてくれていたが、それに応える余裕は、もう空にはなかった。
妹は自分に、何にも代えることのできない、唯一無二の幸せを与えてくれている存在なのに。
年が明けてすぐ、結生の調子が良い日が続き、一度だけ外泊許可が下りた。
一泊だけだったが、この日のために空は貯金を下ろし、豪華な夕食を用意した。
外泊当日、外は雪が降っていた。
結生は、なによりもまず海を見たいと言った。
いつも病室の窓から眺めていて、ずっと、もっと近くから見たいと思っていたのだそうだ。
海岸前でタクシーを降り、結生をおぶって海辺まで歩いた。
――私が死んだら、この海に私の骨を撒いてほしいな
突然、耳元でそう囁かれて、空の背筋が凍りついた。
そして同時に悟った。
自分が目を背けてきた未来を、この子は明日にでも訪れるかもしれないことを、もう覚悟しているのだと。
覚悟できていないのは、自分だけだったのだ。
そして、空が高校二年生、結生が八歳のとき。
桜の花びらが満開に咲き誇る春の日に、結生はこの世を去った。
この残酷で救いの無い世界に、空を繋ぎとめていた唯一の糸が、音を立てて断ち切られた。
葬儀を終えた翌日の朝、空は布団から起き上がることができなかった。
体が動かなかったのではない。
何をすればいいのかが分からなかったからだ。
自分の全てだった結生がいなくなった今、自分もこの世界にいる意味を見いだせなかった。
けれど、結生の代わりを探す気にもなれず、そんなものが見つかるとも思えなかった。
仕事もすぐに辞めた。
五月。
結生の遺言通り、彼女の遺灰を散骨するために、結生と見た家の近くの海に行った。
そこで自分も一緒に妹のところに行こうと決めた。
骨を撒き、睡眠薬を大量に飲んで、海の中に身を投げた。
次に目を覚ますとき、そこには妹がいることを信じて。
微睡みの中で、誰かの声が聞こえてきた。
その声は、神様のようにも、幼い子供のようにも聞こえた。
――あなたはあなたの意志でこの世界からいなくなることを許されていない。
――あなたの命は、誰かと繋がっている。同じことを繰り返せば、その人も同じ運命を辿ることになる。
――けど、その人は決してあなたを見捨てない。その人は、あなたの近くにいる。
空が目を覚ますと、陽の沈んだ海岸の波打ち際に横たわっていた。
そこに、妹の姿はなかった。
起き上がると、左手で淡い光りが暗闇を照らした。
見ると、見覚えのない指輪が、炎のように揺らめいていた。
その人は、あなたの近くにいる――独りである自分にとっての「近く」とは、どこにあるのだろうか。
そんな折、新しく担任になったという浜岡沙由里から連絡があった。
あまり話の内容は頭に入ってこなかったが、要するに復学の催促だった。
適当に答えた気がするが、厭世的な空の声音を、沙由里は電話越しにも聞き逃さなかった。
翌日、彼女はすぐに空の家を訪問した。
はじめて空と顔を合わせたとき、彼女は不安の色を隠さず顔に滲ませていた。
この人の前で隠し事はきっとできないだろう、と空はすぐに直感した。
だから彼女には、和室に置かれた妹の遺影の前で全てを話した。
妹が死んだこと。
その妹の遺影を見る度に毎日涙を流していること。
今もあなたの隣で、涙を流していること。
気付いたら、彼女に抱き締められていた。
温かかった。けど、喪ったばかりの温もりに似たものを感じて不意に怖くなり、彼女を突き飛ばしてしまった。
だが彼女は、そんな自分に困惑の表情ひとつ見せない強い女性だった。
空は、「抱きしめてほしいけど、抱きしめてほしくない」と縋るように言った。
自分でも意味がわからなかったが、自分以上に彼女は自分の言葉を理解してくれていた。
彼女は、心を明け渡さずとも、自分を受け入れてくれた。
けど、それで空いた心が埋まることはなかった。
六月。
一度、学校に行ってみることにした。
あの日の“声”に重きを置いていたわけではないが、空にとっての身近というものが、もう学校しか残っていなかったからだ。
逆に言えば、そこに何もなければ、本当に自分にはもう何も残っていないということだ。
初めて入る教室に、何の感慨も湧かなかった。
けど、入ってすぐに春沖拓海が声を掛けてくれた。同じクラスだと知らなかったので、驚いた。たった一週間の部活動だけの付き合いだった自分を覚えてくれていたのは、嬉しかった。
クラスには、夏花凪咲もいた。
自分の席の前に座っている。
彼女の顔にはもう、悲しみは貼り付いていなかった。
挨拶の後、皆に指輪が見えるように鞄を手に持った。
もしこのクラスにその人がいるのなら、何かしらのアクションがあると思ったからだ。結局、何事もなく一日が過ぎてしまったけど、まあそんなものだろうと思った。
おかげで、改めて決心なんてものをしなくても、自然と二度目のために海へと向かっていた。
海に身を沈める直前、誰かに呼ばれる声が聞こえた気がしたが、もうどうでもよかった。
今度こそあの子の元へ。
意識が朦朧としていた海の中で、温かいものに抱きしめられたように感じたときは、ようやくそれが叶うと思っていた。
だが目を覚ましたとき、またしても暗闇に包まれた海岸の波打ち際で横たわっていた。
前回と異なるのは、隣に一人の女の子――夏花凪咲が眠っていた。
左薬指に、自分と同じ指輪を嵌めて。
彼女の手の中で、淡い光りが弱々しく揺らめいていた。
それを見て、空はすべてを理解した。
一度目のあの日、自分は間違いなくこの世界を去っていて、しかし夏花凪咲の命を分け与えられて、再びこちらに戻ってきたのだと。
ならば彼女は、自分が彼女の命を喰いものにした所為で、本来は彼女のものである残りの未来を減らしてしまったのではないだろうか。
なぜ、彼女なのだろうか。
なぜ、彼女はそれでも命懸けで自分を救おうとしてくれたのだろうか。
空は、そんな凪咲のことが、少し気になった。
翌日、沙由里の元を訪れた。
これまではただ、彼女を求めることで彼女を安心させることだけが目的だったが、この日だけは無性に誰かの温もりが欲しくなって、彼女を呼び出した。だから、その日は少し手荒に扱ってしまったかもしれない。沙由里には悪いことをしてしまった。
彼女に触れている間、なぜかずっと凪咲の顔がチラついた。
途中、二人でいた教室の扉を叩く音がした気がして出てみると、廊下で凪咲が倒れていた。彼女の左手からは、指輪が外されていた。
それを見て、沙由里としていたことを彼女に見られたのだと直感した。
よりによって、彼女に……。
その日の五限。
球技大会の練習をサボっていると、凪咲が声を掛けてきた。
何かを期待している自分がいることに気付くと同時に、出会った日に交わした約束を思い出す。
だが、凪咲の話は、今朝保健室に運んだ礼だけだったので、少し残念だった。
でも、なんとなく彼女のことは放っておけなかった。飛んでくるボールにも気付かなかったし。
放課後、凪咲と一緒に下校した。
途中、結生の入院していた病院の前で思わず足を止めてしまったとき、凪咲が昨日のことを訊ねてきた。冷たく突き放しながら答えるが、空は冷徹な態度に徹しきれなかった。
諦めずに訴えかけてくれる凪咲に、空も少し自分に素直になってみようと思った。
この日、凪咲と友達になった。
あの日の約束が果たされたのだ。
それからは、凪咲と過ごす日々が楽しいと思い始めている自分を誤魔化すことはできなかった。
その中で、凪咲が拓海と仲良くしているのが気になった。
いつか雨が降ったときも、公園のベンチで二人並んで座っていた。何を話していたのだろうか。
いつだったか、拓海に誘われてその公園で軽くバスケをしているときに、訊いてみたことがある。
「拓海。夏花凪咲って、どんな子?」
拓海はボールをまわす手を止めて、目を見開いていた。
「なに? 気になんの?」
「んー、まあ。席前だしな」
「なんだそれ」
拓海は笑いながらも話してくれた。
凪咲について話す彼の姿は、ただの一クラスメイトのことを話しているようには見えなかったが、気づかないふりをした。
だから、二人が揃って家に来たとき、つい感情的になってしまった。
二人は自分のために来てくれたのに。
特に拓海には理不尽に当たり散らしてしまった。その所為で凪咲に叩かれた頬はとても痛くて、拓海の手を引いて家を出て行く彼女を、ただ見ていることしかできなかった。
何もかも終わったと思った。
いや寧ろ、これまでの凪咲や拓海との楽しい日々が幻で、ようやく夢から醒めただけなのだと思うことにした。
けど、球技大会当日、凪咲が拓海のピンチを救ってほしいと声を掛けてきたときに、その夢から醒める意志が呆気なく揺らいだ。
そしてその日、空はかつてない最高の夢を見た。
試合で自分に向けられる歓声。
チームメイトに頼られ、自分も彼らを頼り。
凪咲の応援の中で、拓海とバスケをした。
これ程の身に余る幸福を一度に受け、抑えられないほどに気持ちが昂ぶって、どうにかなってしまいそうだった。
やがて、耐えられず、気付けばこの舞台に連れてきてくれた女の子の手を引いていた。
自分に向けられた彼女の涙が眩しくて、嬉しくて、彼女を抱きしめた。
もう、誤魔化すことはできなかった。
――俺は、凪咲のことが…………好きなんだ。
自分が決して求めてはいけないもの。
受け容れることのできないもの。
なぜなら、それは――――
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