あやかし、生姜糖、帰り道

 ぎええええええ……。


 香の背中から飛び出した黒い霧のようなモノは、異様な叫びを上げながらひとかたまりになり、形を取ろうとしていた。


「あの、黒いのは……」


「嫉妬、後悔、無念……叶わなかった人間の思いです。凍えてもおかしくないくらいに」


 香に対し、マスターが冷え切った声で告げる。


「なんであんなものが、私に? 私、何もしてないのに……」


「だからかもしれませんよ」


「えっ?」


「男の子を好きな同級生の前で、彼に対して恋愛感情がないと伝えなかったから」


「たしかに……そうですけど」


「人間は、理不尽な目に遭う存在です。でも、悪いことを理不尽の一言で耐えられるほど、強くはない」


 黒い影が渦巻く。

 たくさんの誰ともわからない顔の集合体のような、異様な形だ。


「だから、悪いことは誰かのせいで起きる、と人間は考えます。その誰かは、自分が当たり散らせる、自分より弱い、誰かです。理不尽が、自分より強いものによって引き起こされたとしても。身分差のあった昔は、こんなことがよくありました」


 身分差。立場の差。大人と子供。香は色々と思い当たることがあった。

 マスターは静かに語る。


「そして、その誰かは、。たとえば、あの家は狐と血のつながりがあるだとか、あの人には悪いものが取り憑いている、として人間として扱わず、むしろ日常にあるべきではないモノとして、日常から追い払う。あの人は妖怪、あやかしだと言って。そんな気持ちが降り積もり、力を持ち、形を持ち、全てを歪め、あやかしとなる」


 香はぞっとした。


「つまり、あの影を放っていたら、わたし、お化けになって……」


「その可能性も、高いですね。人間の世界とあやかしの世界の中間のカフェに迷い込んだぐらいですから」


「私、いやですそんなの!」


「でしょうね」


 泣きそうな顔の香に対し、マスターは、表情をゆるめた。


「この店では、お客さんに安全な場所を提供するのもサービスのうちです。つきまとってくる悪いモノを追い払う程度、お代はいりませんよ」


 マスターは座敷席を向く。


「ホッスボウズさん、ありがとうございます。ミケ姐さん、頼めますか?」


「今日はマスターのおごり、ということで手を打つにゃ」


「いいでしょう」


「そんなんだから赤字がいつまで経ってもなくならないのにゃ……お人好しにゃ」


 女性が立ち上がった、と思った次の瞬間、女性がいた場所に、大型犬ほどの大きさの三毛猫がいた。

 その猫は、煙を威嚇するようにゆらゆらと尻尾を揺らしている。

 右へ、左へ、ゆらゆらとの尻尾が揺れる。

 猫又だ。

 影は猫又に気づき、異様な叫び声を上げて猫又に向かって突進した。

 前足を折り、猫又はすっと姿勢を下げる。


「そこにゃ」


 バネで弾かれたかのように猫又は影に飛びかかる。

 影の特に濃い一点をめがけて矢のように前足を一閃いっせん

 急所を攻撃され、影は一際大きな悲鳴を上げて、ぐしゃりと形を失った。


「今にゃ! ますたぁ!」


「かく佐須良さすらうしなひてば つみつみらじと はらたまきよたまふ事を、天神あまつかみ國神くにつかみ八百萬やおよろず神等かみたちともに、聞きこしめせとまをす」


 パン、とマスターが柏手を打つ。


 ぎえええ、という声にならない悲鳴を最後に、異様な影は嘘のように消えた。


「落ち着きましたか?」


 マスターの落ち着いた声。香はこくこくとうなずく。


「ありがとう……ございます」


「今の所の危機は去りました。ですが、この大元は、人間関係をどうにかしないと、繰り返すと思います」


「私、松山さんに、なにを言ったら」


「それについては、誠実に話し合うしかないでしょう。ご友人に、同じ担当の彼と恋仲になる気がないと、はっきり面と向かって伝えてからですよ。現状が変わるのは」


 マスターの提案は、香には、松山さんの頼みを断るより難しいような気がした。

 店内は、気づけばまた温かい光に包まれ、ほんわかとした空気が戻ってきていた。

 世界の狭間、というのが信じられないほどに心地よく、ここにいてもいいよ、と優しく受け止めてくれる空間。

 学校より、家より、ずっといい。


「なんだか、帰りたくない気がしてきた」


「異界に来ては帰る。それが人の子というものです。カフェも、日常から離れて、一息つく場所。帰るまでがカフェなのです」


 香の言葉を、マスターは優しく否定した。


「もう遅いですし、お嬢さんは帰ったほうがいいでしょう。夜は百鬼夜行の世界です。お嬢さんの背中のアレより、ずっと恐ろしいものがいる。お代の500円、お願いします」


 確かに、あんな禍々まがまがしいものとは二度と会いたくない。

 香は財布を開け、百円玉5枚をカウンターに置いた。


「ん、ちょうどいただきました」


「ありがとう……ございました」


「どういたしまして。あ、そうだ」


 マスターはカウンターの向こうから香の横に歩み寄り、紙に包まれた手のひら大の小包を香に渡した。


「生姜糖。賞味期限ぎりぎりだから、おまけしとくね」


「ありがとうございます」


 香は、マスターに見送られて外に出る。

 温かい空気が、彼女を後押しするように優しく店外に流れ出す。

 家に向かう道に出たとき、澄みわたった風鈴の音が風になって聞こえてきた。

 名残惜しくなって香は元来た道をのぞき込んだが、魔法のような暖かい光は忽然と消えていた。

 ただ、代わり映えしない建売りの家が続く通りが、遠くまで続いていた。

 行き止まりだったはずなのに。

 寒くて、幻覚でも見てしまったのだろうか。

 木枯らしが吹き、かさり、と香のブレザーのポケットの中で乾いた音がした。

 なんだろう。ハンカチやティッシュの音じゃない。

 落ち葉が入ってしまったのだろうか。

 香がポケットの中身を取り出してみると、少しつぶれた生姜糖の包みだった。

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逢魔が喫茶 マヨヒガで一服を 相葉ミト @aonekoumiha

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