あたたかさと生姜糖

 優しい声に引き寄せられるように、こうは「喫茶マヨヒガ」に足を踏み入れたのだった。

 夕暮れに似たオレンジ色のあたたかな光に包まれた店は、教室の半分くらいの広さで、カウンターと、爽やかな青畳の座敷席が2つ。

 座敷席はどちらも、お客さんが座っている。

 誰もいないカウンター席の向こう側では、こぽこぽとサイフォンが泡を生み出していた。


「おや、人の子じゃないか」


 座敷席からぼそぼそと会話が聞こえてくる。

 香が座敷を見ると、謎めいた雰囲気の青年と、茶色と白で三毛猫のように染めた髪を、猫耳のように2つのお団子に結い上げた女性、帽子を外したサンタクロースのように豊かな白髪と口髭くちひげの老人の三人が話していた。


「珍しいにゃあ……」


 口調まで女性は猫そっくりだ。

 香がびっくりして座敷を二度見したとき、座敷にいる人物は全員着物を着ていることに気がついた。


「世を捨てたわけではないようです。こちら側に来たのは、偶然でしょう」


「飲み食いさせてもええのか、クチナ?」


 老人の疑問に対し、カウンターの奥から声が聞こえる。


「ここではマスターと呼んでくださいよ、ここはの境界線上。ここでお出しするものは、旅人が疲れを癒すための一服。同じ釜の飯を食べさせるわけじゃありませんよ」


「ヨモツヘグイなどではない、と」


「僕も……末席まっせきではあるけれど、さすがにそこまで格の高いものは作れないですよ。この喫茶店は、の境界を超えるんじゃなく、境界線上に建てることでたくさんのお客様に来て欲しいからここを選んだのですよ」


「で、見つけづらくなって常連ばっかりになってるにゃ!」


 座敷席からにぎやかな笑い声。

 じゃまするのも、わるいなぁ。

 香はできるだけ静かにカウンターのスツールに座り、隣の椅子に学生カバンを置く。

 小さな背もたれがあるスツールの上には、和柄の布で作られた座布団が置かれていて、ふわりと心地いい座りごこちだった。

 人心地ついて、香は改めてカフェを眺める。

 和紙で作られた四角い照明が、異国のお祭りで夜空へ登っていくランタンのように、柔らかく天井から店内を照らしている。

 店のそこかしこには、和風の飾り物がひっそりと、それでいてはっきりとカフェを彩っていた。

 ちりめんのお手玉。

 額に入った富士山が描かれた浮世絵。

 同じく額に入った十二単をまとったお姫様が描かれた絵巻物。

 そのそれぞれが、こっそりと魔法の力を持っているかのような魅力を持つよう、周りと調和した様子で並べられていて、落ち着いた色合いの小物さえも、きらきらと淡く光っているように香には思えた。

 こんな素敵な場所が、住宅街の中にあったなんて。

 大人女子の隠れ家的カフェとして、地域の雑誌で特集されていそうだ。

 香がきょろきょろと店内を見回していると、カウンターの奥の人物と目があった。

 綺麗な人だ、と香は思った。

 整えられ、カラスの羽のようにツヤのある真っ黒な短髪に、教科書に載っていた古代ギリシャ彫刻の大理石の像さながらの色白で端正な顔立ち。

 パリッとアイロンがかかった真っ白なワイシャツと暗い色のスラックスの上に、モザイクのように隙間なく茶色と黒の三角形の模様がリズミカルなカフェエプロンをウエストの少し上で、まるで着物の帯のようにぴしゃりと締めている。

 しゃっきり伸びた姿勢に、てきぱきした手元から考えるに、20代くらいのお兄さんではないかと香は思う。

 その両目は、優しげに細められているのに、薄くのぞくあいがかった黒目は、深海のような、長い歴史を静かに見守ってきたことを物語る、おだやかなまなざしだった。

 朝のテレビのゲストとして出てきた俳優の、今っぽいかっこよさとは違う、秘めた強さを感じる美形だった。


「メニューはこちらです」


 香の前に、すみで和紙に品よく手書きされたメニューが差し出された。


「ありがとうございます」


 そうだ、ここはカフェだ。おしゃれな非日常空間で、おいしいものを飲んで、ちょっぴり癒される。

 コーヒー(ホット/アイス)500円、という文字を見つけた時点で、香はマスターを呼んだ。


「すみません、ホットコーヒーを一杯」


「ホットコーヒーですね」


 コーヒーが素早く香の前に置かれる。

 香がカップに手を伸ばした時、コーヒー皿に、飴玉くらいの大きさの、白い砂糖衣で包まれた、黄色い何かが置いてあるのに気づいた。


「あの……なんですか、これ?」


生姜糖しょうがとうです。随分ずいぶんこごえてらっしゃるようだったので」


「確かに、寒かったですけど」


「心の方です、心の」


 マスターは心臓のあたりをたたいてみせる。


「心……」


 香はコーヒーを一口。優しく香ばしい香り。

 苦味も酸味もしっかりあるのに、飲みにくいところがない。

 おいしい。


「どうですか?」


「とっても、おいしいです」


 苦味とコクのハーモニー。美味しく調和していて、何もかもがうまく行っている。

 クラスもそうだった、と香は不意に思い出してしまった。

 担任のクジさえなければ。

 香はコーヒーカップの取っ手を握りしめる。

 華奢きゃしゃな持ち手が指に食い込んで痛い。

 それでも、あの時のくやしさが頭から離れず、香は力を弱められなかった。

 ふと視線を感じて顔を上げると、マスターが心配そうに香の前に立っていた。


「苦かったでしょうか?」


「いえ……ちょっと、嫌なこと思い出しちゃって、コーヒーじゃないです」


「良かったら生姜糖もどうぞ。苦いものの後には甘いもの、ですよ」


「いただきます」


 コーヒー皿に置かれていたスプーンで、香は生姜糖を一口。

 砂糖らしい甘さがひと段落すると、ピリリとした生姜の鋭い辛さがやってくる。


「うう、かりゃい……」


「お水をお持ちしましょうか?」


「だ、だいじょぶです」


「甘いと思ったら辛い、でも辛いからこそ温まるんですよ。人生も、生姜糖も」


「本当、ですか?」


「ええ。あまりにもつらいなら、吐き出してみるのも一つの手です。悩み相談に乗りたいからこそ、カフェをはじめたようなものですし」


「いいんですか?」


 マスターはしっかりとうなずいた。


「ええ。秘密は守りますよ」


「それなら……文化祭準備なんですけど」


 香はマスターに、ことのあらましを語りはじめた。

 文化祭の担当決めは、当日の希望制という建前になってはいる。

 が、実際のところ、文化祭が近づくと、ひっそりとみんなで打ち合わせが行われて、誰がなにをするかという暗黙の了解ができているものなのだ。

 香は、松山さんの言いつけ通り、松山さんが片思いしている池田君が同じ担当になるよう行動することにしていた。

 みんなと仲良くして、最高の文化祭にするために。

 担任のクジさえなければ、そうなるはずだった。

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