逢魔が喫茶 マヨヒガで一服を

相葉ミト

十字路の奥、コーヒーの香り

 11月半ば。すっかり秋が深まった頃。

 そんなある日の夕方、栢野かやの町の中心部から離れた、ベッドタウンの片隅を、こうは小走りに通り抜けていた。

 庭木の赤い落ち葉が、冷たい風と一緒に香からかうようにこうの体にふれ、そっけなく飛び去っていく。

 私も、飛び去って行けたらいいのに。

 立ち止まって、幻想的な紺色に染まった空に舞い上がる、赤い葉っぱを見ていると、そんな願いが、香の心に浮かび上がる。

 ここは寒くて、つらくて、どうしようもない。

 風に吹かれて空の上、そうじゃなくてもここではないどこかへ。

 でも、私は葉っぱみたいに空を飛べるほど、軽くない。香は重い足で歩き始める。

 香の道は、モノクロになってしまったかのように無彩色だった。

 しあわせな家族の夢がつめこまれた、パレットに並ぶ絵具のように鮮やかなパステルカラーの建売住宅も、夕闇におおわれて、つめたくすすけている。

 もう日は沈んでいたが、西の空にはほんのりとオレンジ色がのこっていて、夜の藍色と混ざって澄みきった紫色の、どこか懐かしく温かい色合いになっていた。

 もうじき夜が来る。空がまっくらになってしまう、その前には帰らなきゃ。

 弱音が香の口からこぼれる。


「高校最後の文化祭なのに……散々だよ」


 クラスメイトに、雑用を押し付けられて帰りが遅くなったのだ。

 親の心配する顔が思い浮かんで、香はひやりとする。

 もう高校生だから心配しないで、といっても、まだ子供じゃない、と返されてしまう。

 しかも、今の状況を親に問いただされて、何もかもを親に話さないといけなくなったら、と考えると香は怖かった。

 別に、雑用自体は気にならない。

 でも、香を置いてみんなが帰ってしまった。

 松山さんにゴミ捨てを頼まれて、ゴミステーションから戻ってきた香の前に広がっていた、あの光景。

 残酷なほど夕闇に満ちている、窓枠だけがほのかに朱をおびた、墨を流したかのように真っ黒な無人の教室。

 ぎしぎしと万力のように香の心を締め上げていた。

 わたしのせいじゃないのに、「みんな」から外れてしまった。


「私、うまくやってきたのに……」


 寒い。

 木枯らしに、香はぶるりとふるえた。

 追い討ちをかけるようにどう、と激しい木枯し。

 香のマフラーが飛ばされ、胸元の青いリボンが外気にさらされる。高校二年生の証拠だ。

 高校二年生なんて、高校時代で一番楽しい時期のはずだったのに、どうしてこうなっちゃったんだろう。

 栢野かやの西高校は進学校だ。

 だから、高校三年生は勉強の時期として位置付けられているから、文化祭を行うのは一年生と二年生なのだ。

 文化祭が終われば勉強に追われる日々だ。

 先輩の言葉を借りれば「地獄の一年間」らしい。

 だから、最後の文化祭は楽しく過ごしたかったのに……!

 香はマフラーをつかまえ、巻き直す。

 それでも、ブレザーとセーターもすり抜けて、しびれるような寒さがおそってくる。

 校則でコート禁止とか、最悪。カイロがあればよかったのに。それか、温かい飲み物。

 家まではもうしばらく、距離がある。

 等間隔に並ぶLEDの白く無遠慮に強い光が、一里塚のように香が歩かなければならない距離を強調する。

 住宅街の真ん中だから、自販機もこの近くにはない。コンビニも、家より遠い場所だ。

 香は冷たい指先に息を吹きかける。

 白い煙のようなほのかなぬくもりは、すぐに吹き散らされて消えていく。

 区画ごとに数軒にまとめられて細切れにされた、一定間隔で繰り返す十字路を横目に、香は早足に道を進む。

 カフェでもあったらいいのに。でもここは、人が疲れを癒すために眠る場所。

 おしゃれなおしゃべりをするひとなんて、いるはずがない。

 そんな都合のいいことなんて、普通なら起こりっこない。

 ふと、夕闇の中に優しい明かりを見つけて、香は足を止めた。

 通り過ぎた小道が、そこだけたき火のような穏やかなオレンジ色の光を放っていた。

 なんだろう。

 香が引き返すと、ほのかな香ばしさを風が運んできた。

 コーヒーの香りだ。もしかして、本当にカフェがあるのかも。

 探してみよう。香は十字路を、風が吹いてきた左手の道に向かって曲がってみた。

 十字路の突き当たりで、おいでおいでと手招きをするように、月明かりのようなふんわりとした山吹色の光が、引き戸のすりガラス越しに漏れ出ているのを香は見つけた。

 黒い瓦が乗った、闇の中でもきりりと引き締まった白壁の、二階建てのどっしりとした日本建築だった。

 まるで武家屋敷を戸建てにしたような存在感がありながら、圧倒されるというよりも、家の住人を守る頼り甲斐のような柔らかさを香は感じた。

 ふと、そよ風が吹いた。

 また十字路の奥から、香ばしいコーヒーの香りがふわりと漂ってくる。

 日本建築なのに、遠い国から来たコーヒーの香りと、その家のたたずまいはしっくりと調和して、嫌なところがなかった。

 吸い寄せられるように香はその家に近づく。中から人が楽しそうに話しているのが聞こえる。

 この時間だし、もう家に帰ってらっしゃるよね。

 名残惜しくて玄関を見ると「喫茶マヨヒガ お気軽にお立ち寄りください」と読みやすい達筆で書かれた看板が、ライトに照らされて置かれていた。

 こんなところに、カフェなんてあったっけ、とこうはふしぎにおもったが、心当たりはあった。

 地域の人たちが、趣味でバザーをしたりすることがある。そんな時は、回覧板で町内会中に知らされるのだ。

 前の回覧板は読まずにハンコだけ押して隣に回してしまったからしらないだけで、きっと、そんな風に地域の人がやっているのだ。


(コーヒー飲んで帰るくらい、いいよね)


 香は日本建築の扉に手をかけた。


「すいません、いいですか?」


 引き戸を開けるのと同時に、チリンチリンと、全てを浄化していくかのような、澄み切った音で風鈴が鳴った。

 香を歓迎するように、ひだまりのように暖かい空気がふわりとあふれでる。


「どうぞ、空いているお席へ」


 落ち着いた、暖かいテノール。

 柔らかな男の人の声に後押しされて、香は日本建築の中へと足を踏み入れた。

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