下人の行方

せてぃ

第1話 邂逅

 学校の授業など、面白いと思ったことはない。必要だと思ったこともない。それは十代を経験した人間の、ほとんどに共通する思いだろう。多くの場合、その意味や必要性、面白さに気がつくのは、ずっと後になってからだ。


 あの日、あの教室にいた人間たちもそうだったはずだ。感じ方の違いこそあれ、誰もが倦んだ目を黒板に向けていた。授業だから。やらなければいけないことだから。その意味も、必要性も、本当には理解できず、ただ言われた通り、そう言い聞かせながら、黙々とシャープペンを走らせる奴。一日の授業全てを睡眠時間に当てる奴。机の下に隠した雑誌や漫画で、疑似体験というもう一つの勉強を積み重ねる奴。共通していたのは、いま、ここにいる本当の意味はわからず、目の前にあるものの楽しさや面白さなど、まったく理解できない、という感情だったはずだ。


 おれもそんな一人だった。面白いとは思えない。そう思っていた。そう思って、いつも窓の外を見ていた。ただ、周囲とは、その理由が少し、違っていた。もう少し明確に、なぜ必要性を見いだせないのか、面白いと感じないのかを言葉にすることができた。それはつまり、教科書に書いてある数式も、偉人の歴史も、社会のルールも、名作と呼ばれる文芸作品も、おれに答えを与えてくれない、ということだ。

 おれがいま欲している、目の前にある事態に答えを与えてくれる存在は、おそらくこの世には存在しない。それがわかっていた。わかっていたからこそ、ここにいること、授業を受けていることが、必要とは思えず、面白いとも思えなかった。

 答えを与えてくれる存在はいない。いるはずがない。そうだ。もう答えは出ている。後はおれ次第。おれが本当に一歩踏み出すことが出来るのかどうか。それだけだった。


 高校一年の秋。おれはそんなことを考えながら窓の外を見ていた。


 二学期の中間試験が近いとのことで、授業中の教師たちは、ここは試験に出すだの、出さないだの言って、無理にでも生徒の興味を引こうとしていた。大半の生徒がそれに乗っかり、ノートに要点だけを要領よく書きつけている中で、おれは窓の外を見ていた。うろこ状の薄い雲が、空を覆っていた。切れ目から見える空の青さはどこまでも澄んでいて、その向こう側に真っ暗な宇宙があることなど、まるで想像できなかった。でも、それはある。光の届かない無限の闇の世界は、確かにある。穏やかな秋空を見上げながら、そんなことをぼんやり考えた。


「中村」


 そう呼ばれて、おれは黒板を見た。徐に。取り立てて急ぐことなく。

 教師が教科書を手に立っていた。特に怒っている風でもない。この教師は何の授業を担当していただろう。咄嗟に出てこなかった。


「ここはテストに出すぞ。ノートに書いておけ」


 親切な話だ。一応、書きつけておこう。おれはほとんど白紙のノートを開いてシャープペンで黒板の内容を書き写した。数式でも、英文でもなく、おれにも読める日本語が書かれているところを見ると、今は国語の授業で、あの教師は国語の担当教員のようだ。


「さて、続きを……じゃあ小橋、読んでみろ」


 教室一色白な茶髪の優男が指され、返事ともうめきともつかない声を出すと、気だるげに立ち上がった。こいつは授業を睡眠時間に当てているタイプだったな、とその男の顔を見ながら、おれはノートの上にシャープペンを置いた。また窓の外を見る。

 そして次の瞬間に訪れた衝撃を、おれはいまでも忘れられずにいる。


「どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいるいとまはない」


 優男の声がそう言った。はっきりと、そう言葉にした。

 背筋が冷たくなった。凍りついたと思った。おれの心の内を、そのまま覗かれた。そう思った。

 おれは思わず優男を振り返った。その動きがあまりにも激しすぎて、床を滑った椅子が大きな音を立てた。教室の全員の視線が一斉におれに向いた。例の小橋という同級生も、手に持った教科書から視線を上げて、やはり気だるそうな目をおれに向けた。しかし、そんなことはどうでもよかった。いまの声はこの男か? おれはクラスメイトの顔を睨むように見た。

 静寂が教室に満ちた。


「あー、小橋、続けてくれ」


 教師がどうにか絞り出したらしい声で言った。奇妙な行動を取ったおれに触れることはしなかった。

 なんだよ、と不服と敵対心を語っている顔を、優男はおれから逸らして教科書に落とした。そして優男は読み続けた。それでわかった。あの言葉は教科書に載っている言葉なのだ、と。

 慌てて机の中から教科書を取り出した。国語の教科書が入っていたことは奇跡的だったが、そんなことを考えている余裕はなかった。

 黒板にはいま扱っている文芸作品のタイトルが書かれていた。おれはそれを頼りに、いま読み上げられた文章を探した。


「選ばないとすれば――」


 選ばないとすれば。クラスメイトの読み上げと、おれの目が追う文章がリンクした。

 どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいる暇はない。選ばないとすれば。


 選ばないとすれば。


 選ばないとすれば、なんだ?


 この半年、いや、もっと以前から、おれはこの問いかけに悩み続けてきた。どうにもならない事に直面し、どうにか乗り越える術を探し続けてきた。

 そして今日に至る。そうだ。もう手段を選んでいる暇はない。状況はどんどん悪くなる一方だし、それにこれは、おれだけの問題ではない。




 その瞬間から、授業は本当にどうでもよくなった。おれは授業の進行を無視して、教科書に載っていたこの作品を読み進めた。主人公に自分の境遇を重ね、それよりもいい部分と、それよりも悪い部分を照らし合わせて、自分自身のいまを打開する術を探した。ほんの一瞬前まで考えていた、どんな教科書にも答えは載っていない、という持論は、どこかへ吹き飛んでいた。


 そして作品は、あの一文で終わる。


 それを目にした日からずっと、おれは心のどこかで考え続けている。どうにもならない事をどうにかする為に、手段を選ぶことを辞めたあの日を超えても。その日を境に一変した世界の中で生きるようになってからも。いまに至っても。おれは考え続けている。


 あの下人は、どこへ行ったのだろう。

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