第6話 記憶
「現着する。装備確認」
運転席と荷台を隔てる壁に近づいたタカクワ一尉は、その壁に開いた小窓を通して運転手と二言三言、言葉を交わしたようだった。そして振り返ると、上官の声でそう言った。
下命に従って、俯けていた顔を上げ、黙々と動き始めた同業者の影を見ながら、おれも座り直した。足元に置かれた小型のザックをあけ、今次作戦で支給された装備の状態を確認する。汗がまた額から頬へと流れた。
車は、北関東の作戦区域へ入ったようだった。おれも、そして他の暗殺者たちも、皆純白の防護服に身を包んでいた。『情報班』の作成した偽装情報に合わせた、NBC兵器対応の防毒・防菌装備。降車した後には、防毒・防菌マスクに、実際に殺菌剤を入れた散布機を背負うという念の入れようだ。
だが、『家畜を媒介にした致死性の高いインフルエンザの発生』という情報が偽装なら、『組織』が揃えたこれらの装備も、もちろん偽装だった。半径十キロという広大な範囲を封鎖し、直上の飛行を禁じてなお周囲を飛び回る、ハゲタカのごとき報道ヘリから目を欺くためのものだ。所詮、すべての情報は公開前に『組織』によって見聞され、改ざんされてしまうというのに、ご苦労なことだ。
あくまでも偽装が目的なので、この防護服も実際の防護服より遥かに着脱が容易な特殊仕様になっている。この気温と湿度の中で着用しているのは、さすがに苦痛だったが、動きやすさの面では、着ていてもいなくても、さほど変わらない程度に軽い作りになっていた。支給された装備を確認すると言っても、着用しているものに関しては、確認すべき点はほとんどなかった。せいぜい中に着込んでいる黒い上下の戦闘服が露出していないかどうかを確かめるぐらいのものか。おれはすばやく確認を終えると、ザックの中に入った『仕事道具』を手に取った。
シグP230自動拳銃の弾倉を抜き、弾丸の装填を確かめて戻す。自衛官らしいタカクワ一尉の存在。日本の警察機構に標準装備として支給されているこの拳銃。互いに自分たちこそが日本国の治安維持を担う武力組織であるという自負を持ち、表面でも根底でも相容れない防衛省と警察庁。自衛隊と警察組織。その両面の特性を併せ持つ『組織』。この銃の重さはその根深さ、闇の深さを感じさせる。
既に装着されているサプレッサーの固定を確認し、安全装置をかけたシグをザックに戻した。一瞬だけ、この国の権力の影を思ったが、結局、ただの暗殺者でしかないおれには、どうでもいいことだった。
ザックを身体に巻きつけると、防護服の前合わせを閉じた。
トラックが減速したのが、足下から伝わった。
「現着」
短く告げたタカクワ一尉の声に、おれも、同業者たちも、一斉にマスクを被った。おれの向かいにいた男が、車体後部の幌を跳ね上げた。強い日差しがマスクの視界越しに突き刺さり、おれはわずかに目を細めた。
周囲を囲む山々の緑が、南中した真夏の日差しを強く反射させる。あらゆる苦痛を無視せよ、と教えられ、そのように育てられたおれたちにとって、気温も、防護服の中の湿度も、不快ではあったが、どうしてもいられない、というようなものでは決してなかった。というよりも、正しい情報として感じることがほとんどできなくなっていた。環境の快不快に左右されないことを求めた結果、肉体が情報を正確に捉えることがなくなって久しい。ただ、木々の葉が反射し、輝いて見える山間部特有の光の美しさだけは、思わず目を止めてしまうものがあった。
だが、闇に慣れ過ぎた眼には鮮烈でありすぎた。長くは見ていられず、おれは目を逸らした。
トラックの荷台から降りた。おれの後に続いて、同業者たちがおもむろに降車する。全員、既に誰かの視線を意識し、完全に『消毒を行いに来た作業員』になりきっている。
おれはタカクワ一尉の降車を待った。他の面々は同行した別のトラックへと向かい、殺菌剤入りの散布機を受け取っている。その歩く姿、散布機を受け取る腕、所作のすべてが、決して動きにくくはないはずの偽装防護服を身に着けているにしては緩慢で、変装の技量も求められる『処理班』の暗殺者らしさを思わせた。その場その場に合わせた、当たり前の立ち居振る舞い。すべて『組織』が教え込んだものだ。
タカクワ一尉が最後に降車し、歩き始めたその背に従った。殺菌剤入りの散布機を受け取り、背負った。ずしりと重い。だが、中身が入っていないよりは演技がし易い。
遠くからヘリのローター音が聞こえた。変装の意識を強くしたのはおれだけではないはずだ。散布機のトラック脇で待機していた全員に、防護服越しにもわかる緊張が走った。
何かを映されたところで、ユウジロウを初めとした『電子班』の手によって、ほとんどのものが改ざんされてしまう。国民にその情報が広く行きわたることは皆無だ。それでも、それを撮影した人間と、その足になったパイロットは抹殺しなければならない。いま、この場に走った緊張はそれだ。誰もがここで仕事を増やす必要はない、と考えたのだ。
だが、それも短い間だった。空に視線をやり、タイミングを見計らっていたかのようなタカクワ一尉が先行して歩き始めると、白い暗殺者の列がその後に続いた。
偽装防護服は本物のそれより遥かに動きやすくできていたが、マスクは本物だった。本物の閉鎖感、窮屈さがある。できれば剥ぎ取ってしまいたかったが、まだその命令は出なかった。トラックが停車した坂道を上がり始めた白い背中を、狭い視界で捉えて後に続いた。
坂道は傾斜も緩く、短かった。すぐに広々とした空間と、後ろに山を背負った三階建ての長大な建築物が姿を現した。広い前庭には、周囲を取り囲むように桜の木が植えられている。敷地内には鉄棒などの遊具も見える。およそ百メートルはある建物の外れには、かまぼこ型の屋根を持つ別の建物。その隣に見える鉄柵で覆われた一画は、プールだろうか。義務教育によって十代の就学率がほぼ百パーセントに近いこの国に生まれた人間ならば、間違いなく一度は見たことのある光景だった。
学校。間違いない。ここは小学校だ。
おれは作戦区域を見渡した。疑問が浮かんだ。そしてそれはわずかな思慮の後、苛立ちに変わった。なぜ小学校に対象がいるのか。対象は別の抹殺部隊から逃れ、この地域へ至ったという。それはユウジロウの話でも、作戦前のブリーフィングでも、一致していた。ならばなぜ、対象は小学校などという施設へ逃げ込んだのか。半径十キロという広範囲を封鎖したのは過剰な判断だったのではないか。無人にならなければ、これほど広大で、これほど人目を引く施設に、対象が逃げ込むこともなかったはずだ。
また『情報班』の仕事だ。マスクの中で、おれは舌打ちをした。
正門と思われる大きな出入口から、列は校庭に入っていった。そのまま隅にある木製の建物へ向かう。それは学校で飼っている動物を入れてある飼育小屋だった。一団はあくまで家畜と、その周辺の動物たちの殺処分と殺菌を名目にした、カヴァーストーリーに沿って行動をしていた。
そこからの行動は実に機敏だった。タカクワ一尉を含めた十一人のうち、五人が実際に飼育小屋の扉を開け、飼われている鶏やうさぎを捕まえ始めた。
おれと一尉、そして残った四人の暗殺者は、小屋のおかげで周囲、そして空からも死角になっているルートを使って校舎に近づくと、昇降口から内部へと侵入した。
「着替えろ」
背の高さほどの下駄箱が並ぶ昇降口で防毒マスクを外したタカクワ一尉が暗殺者たちに命じた。偽装防護服を素早く脱ぎ去り、捨て置く。始末は『清掃班』がやってくれる。
「各員、これを持て」
全員が準備を完了させたのを確認して、一尉は背負っていた散布機を下ろすと、蓋を開けた。
一尉の背負っていた散布機にだけは、殺菌剤が入っていなかった。中から出てきたのは絆創膏のようなシールと小型のヘッドフォンのようなものだった。骨伝導型受信機とワイヤレスマイクだ。訓練施設にいた頃に使い方を教わっている。全員、無言のまま受け取ると、正しく装備した。
「以後はこれを使って指示を出す。対象はこの男だ」
タカクワ一尉がA4サイズの用紙にプリントアウトされた画像を見せた。色白で細面の、いかにも学者っぽい男が映っている。
「対象はあるプロジェクトに関わる科学研究員だったが、重大な国家機密を手にし、逃亡した。これ以上の自由を許すわけにはいかない」
詳細はわからないが、対象はかなり頭の回る男だ。写真を見る限り、どう見てもただの非力な研究員にしか見えないが、別の班に追いこまれてここまで逃げてきている。そのブリーフィング内容が事実ならば、見たままそのままの認識に囚われるのは危険だった。追手はおれたちと同じ『組織』の人間なのだ。情報の完全なる抹殺を目的として育て上げられた構成員による、完璧な分業制の、円滑極まりない作戦。それをかいくぐって生き残っているのだ。ただ研究だけをしてきた男に、『組織』の追跡を一度でも振り切って逃げることができるとは思えない。
「ここからは別れて行動する。対象を確実に抹殺せよ」
タカクワ一尉の眼光は、声は、完全に『組織』の人間のものだった。油断のならない相手。そう思うべき相手のようだ。おれの、そして暗殺者たちの心身が、目に見えて引き締まった。
《559は本校舎から体育館へ。264は三階へ上がれ》
耳の後ろにシールで貼り付けた骨伝導型受信機が頭蓋を震わせる。振動はタカクワ一尉の声となって耳殻に響いた。
一尉はすでに校舎から離れ、移送用のトラックに戻っているはずだった。漆黒の戦闘服の首に巻きつけるように装着した、小ぶりなヘッドフォンのようなワイヤレスマイクを、了解の意を込めて一つ指ではじくと、おれは一息に階段を駆け上がった。
小学校の階段は、子供の足の長さに合わせて作られている。通常と比べると、かなり緩やかな勾配の階段を、飛ぶように駆け上がった。三階まではほんの数秒だった。
しん、と静まり返る校舎。両手保持したシグを下に向け、五感を研ぎ澄ませた。別班に追われ、ここに身を隠しているという対象は、どこに潜んでいるのか。ことあればいつでも射撃できる緊張を保ったまま、リノリウムの廊下を進んだ。
《対象は拳銃を所持している》
指揮官としての一尉の声が、再び響いた。
武装して、追い詰められている対象ほど、やっかいなものはない。ネズミでも、猫を噛むことはあるらしい。
《いいか、ここから出すな。必ずここで仕留めろ》
通信に異音が混ざったのはその時だ。受信機の問題ではない。聞こえ方が明らかに違った。骨を揺さぶる音ではない。音は空気を震わせて、鼓膜に響いた。
何かにぶつかった音。
おれは音の方を見た。廊下の左手には教室が並んでいる。音は、すぐ目の前の教室の中だった。
わずかに筋肉が委縮した。両手に不必要な力が籠る。
深呼吸を一つする。深く吸い、深く吐き出す。それで両手のこわばりはすぐなくなった。やれる。
ゆっくりと、無音で、身体を滑らせるように移動し、教室の中へ足を踏み入れた。
そこには、いるはずのないものがいた。
《264、三階の状況を知らせろ》
タカクワ一尉が呼ぶ。絶妙なタイミングだった。歴戦の猛者の感覚が、通信越しに何かを察知したのだろうか。
だが、おれは応えることができなかった。目の前にいるのは、それほどの異常だった。
あってはならないこと。あるはずがないこと。
『情報』の連中、最近抜けが多いよね。
ユウジロウの言葉が聞こえた。
「……『情報』の屑が」
自分でも気付かずに、声が出てしまった。
これは『抜け』どころの話ではないだろう。単なるミスで済む話ではない。
「兄ちゃん、誰? なんで学校にいるのさ」
目の前の異常が口を開いた。
異常は二人いる。
いま、口を開いたのが男。もう一人、押し黙って下を向いているのはおそらく女。
いずれも十歳ぐらいの子供だった。
「それ何? 拳銃? 本物? ちょっと見せてよ」
この年齢しての度胸が据わっているのか、それともただ単にバカなのか、男の子供はしきりに飛び付いてくる。髪の長さと服装から判断するしかないが、女の子らしい方は対照的で、男の子の衣服を握り締め、俯いたまま一言もしゃべろうとしない。
《264、状況を知らせろ》
この状況をどう説明すればいい?
また『情報班』の誤りを指摘すればいいのか?
《264、聞こえているのか》
応える言葉が思いつかない。思いつかないまま、おれは子供たちの前にしゃがみこんだ。首に手をやり、マイクの電源を落とした。
「お前たち、ここで何をしている」
「兄ちゃんこそ、誰なのさ。おれたちはキンノジとキンカンが心配で様子を見に来たんだよ」
キンノジ? キンカン?
「……そこの……窓の」
か細い、いまにも消えてしまいそうな声だった。俯いたまま、女の子が片手で窓の方を指示している。窓辺に、金魚の泳ぐ水槽が置かれていた。
「もうずっとエサあげてないし、水槽だって掃除してないんだ。おれはいいけど、ユイは生き物係だから心配して……」
ユイ、といわれた女の子が、男の子を掴んだ手を強く引いた。
「なんだよ、おれは心配なんてしてねえからな。お前がどうしても、っていうからついてきてやっただけだからな」
男の子はオーバーな仕草で、ぷいっ、とそっぽを向いてしまった。
教室で飼っている金魚を心配した小学生が、作戦領域に侵入した。確かにここは規制を敷いた半径十キロ範囲の末端ではあるが、それでも二キロ近く踏み込んでいる。どこから来たにせよ、子供の足では三十分以上かかるはずだ。それを見落とした。見逃した。やはり単なるミスで済む話ではない。
「そんなことより、兄ちゃん誰なんだよ。おれたちの学校で何してるんだよ」
全校生徒を代表しておれを詰問する男の子の姿は、誰がどう見ても強がっているとわかる。女の子の側ではない方の手足が、目に見えて震えていた。だが、ユイにそれを悟らせないようにしている。さりげなくユイを守るように、おれとユイの間に立った。
「兄ちゃん、学校の先生なのか?」
「いや」
「じゃあなんなのさ」
「この辺りに、悪い病原菌が発生してるんだ。おれはそれを……」
「そんな恰好で? おれ、ネットで見たことあるよ。殺菌消毒する人たちは、自分たちが感染しないように、もっとごつごつした防護服を着るんだろ?」
ネット。
なるほど。おれたちが変装をする必要があるわけだ。どうせなら、そんな余計な知識を与える画像も、全部いじってしまえばいいものを。
「誰なんだよ、ちゃんと答えろよ。子供だと思ってバカにして……」
「334、264を確認」
男の子の顔が恐怖に歪んだ。この場にいないものの声を聴いて、おれも立ち上がりながら振り返った。
おれが入ってきたのと同じ出入口で黒い戦闘服に身を包んだ暗殺者が、サプレッサーを装着した銃口を向けていた。応答のないおれの身を案じたタカクワ一尉が、確認するようにこの男に指示を出したのだろう。
「損害なし。室内に異常なし……いや」
334と名乗った暗殺者は、おれの後ろを覗き込むように身を傾けた。背後に、あってはならない異常が存在していることに気がついたようだった。心臓が一つ、大きく鳴った。
「異物です。子供。『情報班』の誤りを指摘します」
どこかで聞いたセリフだ。指摘したくもなる。
《264、どうした。なぜ異常を報告しなかった》
回線を切り替えたのか、334と話していたタカクワ一尉の声が、おれへと飛んできた。
《答えろ、264。その子供はなんだ》
「……彼らはこの学校の生徒だと言っています。教室の金魚が心配で戻ってきた、と。『情報班』の誤りを指摘します」
首元に手をやって、マイクをオンにした瞬間、自分でも驚くほど滑らかに言葉が出た。訓練によって叩き込まれた上意下達の反射神経がそうさせている自覚があった。
《わかった。264、334、対象を追加する。目撃者を排除しろ》
また一つ、心臓が鳴った。
《『情報班』の重大な誤りは上へ報告しておく。この場では帳尻を合わせる必要がある》
「しかし……!」
口からその言葉が出た瞬間に、おれは自分自身に疑問を持った。
上の言うことは絶対だ。『組織』が言うことは絶対だ。おれは『処理班』の実働部隊。『組織』の駒だ。それ以上でもそれ以下でもない。その自覚はある。では、おれはいま、何を言おうとしている?
《どうした》
「相手は子供です」
《それがどうした》
「まだ十歳ほどです」
《それがどうしたと言っている》
「殺す必要がありますか」
おれには目的がある。『組織』にいる、『処理班』にいる、はっきりとした目的がある。
おれは『組織』に加入した時、契約を結んだ。妹の身の安全を約束してくれること。それが契約の内容だった。タカクワ一尉が提案し、おれはそれに頷いた。妹はいま『組織』に守られて暮らしている。表の世界で、何も知らず、知らされず、何不自由なく生きている。おれが撲殺した母と義父は、おれがタカクワ一尉に拾われた直後、あのアパートで起こった火災で死んだことになり、おれもまた、その火事で一緒に死んだことになっている。いまは遠縁の親戚を名乗る『組織』の一員を里親とし、ごくあたりまえの女子高生として生きているはずだ。
おれが与えられた職務を全うし続けることで、彼女を守ってやれる。妹を守るために両親を殺したおれが、今度は暗殺者となって他人を殺し、それで彼女が守っている。
それがおれの存在意義だ。仮にこれが実母と義父を殺した報いだったとしても、これがいまのおれの存在意義だ。おれという人間は、それ以上でもそれ以下でもない。
どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいる
選ばないとするならば、己の目的を遂行するのみ。
そう言い聞かせて、ここまで来た。だからいまも、そう言い聞かせた。義父に乱暴され、女を奪われてなお、笑顔を作った妹の顔。あの諦観を宿した笑顔を思い出し、懸命に言い聞かせた。だが、葛藤とは別に、言葉は滑り出していく。
「『組織』で保護したらどうです。この年齢からこちら側に引き込めばいい。おれにしたようにすればいい。殺すことはないでしょう。殺す必要はない」
《殺すに値する》
腹の奥から凍りつかせるような声に、なぜかおれは完全に正反対のものを思い出した。一時間もしない前、移送トラックの中で聞いた、タカクワ一尉の声。
本当の父を幻視した、声。
《おれの言葉はいま、『組織』の言葉だ。その子供はいま、殺すに値する。『組織』はそう判断した。お前は考える位置にいない。決定を下す位置にはいない。264、貴様は何者だ》
その通りだ。
おれは『組織』の『処理班』、コールナンバー264。それ以上でもそれ以下でもない。
これまでも何百という命を奪ってきているではないか。なぜいまさら躊躇する? なぜ命令に応じない? なぜ対象が子供であることを伝える必要がある?これまで奪ってきた命と、何が違う? ただ幼いだけだ。ただ幼いだけ。
《お前の言う通り、我々の側に取り込んだとしても、お前のように事前調査をした子供ではない。情報を統制する必要が生じるし、適性がなければ訓練時に死ぬだけだ。早いか遅いか。それしか違いはない。264、すべてを経験してきているお前ならば、それがわかるはずだ。その子供はいま、殺すに値する》
なぜ、あなたがそんな声を出す?父のような声を出せるあなたが、なぜ?
どう言えばいい? どうすれば伝えられる?
苛立っている。おれは明らかに苛立っている自分を感じた。自らを264と規定する言葉に頷きながら、しかし同時にこの葛藤を必死で伝えようとし、その狭間でもがき、揺れ、苛立っていた。上手く伝えられぬことに。伝えられれば、必ず理解してくれるはずの相手の声に。そして得体の知れない感情に突き動かされ、揺れ続ける不定形な自分自身に、おれは苛立っていた。
《264、334、実施》
「何一人でしゃべってんだよ、兄ちゃん!」
男の子がおれの身体を押したのは、無慈悲な声が音となった瞬間だった。
「そっちの兄ちゃんも、お前ら何なんだよ! 先生に……」
銃声は、聞こえなかった。ただ、おれの身体を押し退け、334へと近づいた男の子の後頭部が、風船のように弾けて割れた。
おれの腕に、脚に、胸に、顔に、血と脳漿とが混ざり合った、体液と呼ぶほかない液体が降りかかった。
男の子の小さな身体が、ゆっくりと、スローモーションの映像を見ているかのように倒れた。その向こうに、334の構えた拳銃の銃口が見えた。
硝煙が上がっていた。悲鳴は、聞こえなかった。
おれは、ユイの方へ視線を向けた。ユイは、ただ呆然としていた。体液と呼ぶほかない液体を頭から爪先まで浴びて、倒れた級友の姿を見ていた。目の前で起こったことが理解できなければ、悲鳴一つ上げることはできない。人間は、そのようにできている。
その時、おれはユイの顔を初めて直視した。十歳ほどの女の子の顔。そこに浮かんでいた表情。
その瞬間、急速に意識が遠のいた。暗転する意識の中で、おれは自分の過去を見た。
あの男がやってきたのは、おれが十五の時、もうすぐ高校生になる頃だった。その時、妹の美雪は中学一年。十三歳だった。
その頃にはもう、母は母としての役割を放棄して久しかった。おれと美雪は互いに互いのことだけを頼りに生きていた。母がひと月に一回だけ与えるわずかな小遣いを二人で合わせてやりくりし、一カ月をどうにか食いつないだ。まともな栄養は得られず、ただ腹を膨らませることができるだけの食事で生きた。
学校に通えたことは、おれと美雪の生活の中で唯一、同年代の子供たちと変わらずにできたことだ。世間からとやかく言われるのを嫌う母は、その金だけは払っていたのだ。後で知ったことだが、その金は母が用意したものではなく、実の父が生前、おれと美雪の学費のために残しておいたものだったらしい。
だが、そうして学校に通えても、互い以外の人間を信用し無くなっていたおれたちが、同級生の輪の中に溶け込むことはできなかった。親の、親とも言えない仕打ちを隠し、ごく普通の子供を演じてみせるのが、おれたちにできた精一杯だった。
そうやっておれたちは生きた。苦しかった。辛かった。誰かに助けを求めることもできなかった。だがそうするしかなかった。それしか選べなかった。それが最良だったからだ。
そこに、あの男はやってきた。母が連れて来た。新しい父親だと言った。お父さんと呼べと、そう言った。
何もかもが突然で、おれたちはどうしていいかわからなかった。新しい父親は髭面で、酒臭かった。そのイメージしか残っていない。
なぜこの男を新しい夫として選んだのか。迎えたのか。元々親とも思えない、考えも行動も、何一つとして理解してやることのできない母親だったが、ますます理解できなくなった。
それでもまだ初めのうちはよかった。義父もまだまともに働いていたからだ。その内容がまともな仕事だったかはわからないが、夜になると出かけて行き、朝方に帰ってきて、昼間はずっと酒を飲んでいるか、寝ているかだった。
それがおかしくなり始めたのは、半年ほど経った頃だ。義父はどこにもいかなくなり、安いアパートの部屋に居座るようになった。一日中酒を飲み、何かというとおれたち二人に手を上げた。特に力の弱い美雪にはひどかった。
その頃の母にはすでに新しい男がいて、以前と同じようにここへ帰ってくることが少なくなっていた。再婚した相手をあっさりと捨て、金のある男に鞍替えしていたのだろう。寄生虫のように。若くして結婚し、二人の子供を出産した母にあったのは、他の同年代を寄せ付けない美貌だった。内面は腐って爛れ切っていても、外さえ取り繕えば、いくらでも貢ぐ男を得ることはできる。それをあの女は知っていた。あの女は、そういう女だった。
そのことが分かり始めてから、義父の暴力はひどくなった。自分は捨てられたのだ、という惨めさと、子供という厄介ごとを押し付けられている苛立ちが綯い交ぜになって、振り下ろすべき拳の先を、弱いものに向けたのだ。あの男が、誰よりも弱い人間だった。
そんな義父とおれは、ほとんど毎日殴りあっていた。酔っては暴れ、罵声を発し、おれを殴り、おれに殴られ、それでも暴れる毎日。いい加減出て行ってくれ。あんたは初めから親でも何でもない。おれたち兄妹とは、何の関係もない人間じゃないか。毎日、そう思っていた。だがあの弱い男はいつまでも出て行こうとはしなかった。どこにも行く当てがなかったのだろう。行く当てもなく飛び出すことなど怖くてできない。この場に居続けることも怖くて仕方がない。自分が捨てられたという事実を受け入れることはできず、どんな形にせよ、何を選ぶにせよ、決意を持って臨むことができなかった。しなかった。ただただ恐怖に駆り立てられ、酒に酔って自らを忘れ、暴れ、力を誇示して優位に立つことで、どうにか現実から逃れようとしていた。本当に弱い、弱い人間だった。
おれたちがここを離れたほうが早い。そう思い始めたのは、そんな生活を続けて三カ月が経った頃。新しい年を迎える前だった。
おれたちなら、おれと美雪なら、どこへ行ってもやっていける。これまでもそうして生きて来たんだ。金の面はおれが高校を辞めて働けばいい。もう無責任な大人に振り回されることはない、おれたちだけの生活を始めていいはずだ。そう考え始めていた。きっと美雪も納得してくれる。そのはずだ。おれは何も自分で決めることのできない弱い人間ではない。あらゆる責任を放棄するダメな大人ではない。決意はとっくの昔に固まっていた。
だからこそ、おれはいまでも自分を許すことができない。
そう思っていたのなら、なぜすぐに行動を起こさなかったのか。なぜすぐにあの部屋を出なかったのか。そうすれば、取り返しのつかないことにはならなかった。間に合ったはずだった。
おれが家を出る決意を固めた頃、美雪は義父に襲われた。
抵抗はできなかったという。刃物で脅す義父の目は狂気そのもので、確かに殺される、と思った。美雪はそう言っていた。
おそらく、あの弱い男は復讐をしようとしていたのだろう。自分を捨てた女、自分に厄介ごとを押し付けた女に。本人には何一つ言うことができず、溜まった苛立ちをぶつける先を、母そっくりの美貌と、真逆の――実の父と同じ、優しい性格をした美雪に見つけたのだ。
命か、女としての尊厳か。美雪は葛藤し、もがき、苦しみ、泣き、叫び、それでも生きることを選んだ。
おれがぼろ布のように横たわった彼女を見つけた時、義父の姿は部屋の中にはなかった。事を終えて満足したのか、それとも自分のしたことに恐れを為して、その場にいられなくなったのか、とにかく外へ出ていた。
わたしはどうなっても構わないの。でもお兄ちゃんを一人にしたくなかった。
抱き上げたおれに顛末を話した美雪は、最後にそういって笑った。すべてを汚され、奪われ、諦めを宿した、無気力な笑みだった。
その笑みを見た瞬間、おれの中の何かが崩れた。はっきりと、音を聞いた。何かが崩れ去る音が、聞こえた。
何が崩れたのかはわからなかった。わからなかったし、考えなかった。
一切の感情が喪失していた。
美雪の肌の温もりだけが、妙に温かかった。
そこからは、断片的な記憶しかない。はっきりとしているのは、その夜から一晩が経過したこと。翌朝、何事もなかったように学校へ行くように美雪に言ったこと。そしてその日の夕方になって帰ってきた、あの弱い男の後頭部を、アパートのブロック塀を崩した石で粉砕したことだ。
おれにとって最高のタイミングだったのは、そこへ母が帰ってきたことだ。
一カ月に一回、帰ってくればいい方だった母の帰宅と、義父殺害のタイミングが一致したのは、奇跡だと思った。初めて神の存在を信じた。おれにも神がいる。見ていてくれている。ここであらゆる不遇を晴らせと言ってくれている。そう感じ、そう信じた。
全ての元凶、あらゆる不幸の源を殴り、床に叩き付け、狂ったように泣き、叫び、許しを請うその頭を、かち割った。
いまにして思えば、あまりにあっさり済ませすぎたように思う。もっと苦しめてやるべきだった。おれのこれまでのために。そして何より妹の、美雪のために。
夕日が窓から差し込んでいたのを覚えている。
中身が抜け落ちた二つの頭を見下ろしていたのを覚えている――
そんなことがあるはずはない。
だがそこにあった表情は、あの笑みだった。フラッシュバックした記憶。『組織』へと至るいまを作り出した現実。そこに刻まれた、最も苛烈な、痛烈な記憶。
辱められた妹の、無気力な笑み。
ユイは、同じ表情をしていた。
友達が目の前で死に、死んだことそのものもまだ理解できず、ただ本能で、自らの終わりを意識した、幼い子供の顔は、あの日の美雪と同じ顔をしていた。
顔貌は、まったく似ていない。年齢も幼すぎる。それでもその表情は、完璧に美雪と重なって見えた。
右手のシグ自動拳銃が、カタカタと音を立てて震えている。
おれはすべてを理解した。子供を殺すことを恐れている理由も、それをどうにか避けようと必死になった理由も。それ以前に、子供を見た瞬間、あらゆる思考が一時停止し、タカクワ一尉からの呼びかけに答えることもできなくなった、その理由も、すべてを理解した。
美雪を思い出していた。自分より幼く、無力な子供という存在に、おれは美雪の姿を重ねていた。性別の問題ではなかった。容姿の問題でもなかった。ユイにも、そしてたったいま、頭を吹き飛ばされた男の子にも、おれは美雪の面影を見ていた。
人殺しを重ねているいまの姿を、おれは美雪に見られたくなかった。男の子の瞳に、それを見られたような、取り返しのつかない絶望感を覚えた。女の子がその場にいることに、どうしようもない圧迫感を覚えた。なぜ、どうして、と迫る、異常な圧力を感じた。
殺せと命じられても、おれにできるはずがない。どんなことをしても守りたかったものの似姿を、いまも守っているつもりでいるものの似姿を、この手で壊せるはずがない。
再び、おれは334の方へ視線を向けた。硝煙を立ち上らせる銃口が、わずかに持ち上がった。ユイの額に照準を定めている。
あの下人は、どこへ行った?
どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいる
そう思い、そう考え、選び取ってしまった、あの下人は、どこへ行った?
そんな言葉が、突然脳裏を駆け抜けた。
誰も知らない。
そうだ、誰にも知られていない。あの文学作品は、その言葉で終わる。
誰も知らない。
誰にも知られていない犬畜生の世界へ、あの下人は階段を駆け下りて行った。
だが、彼は尊厳を失ったのだろうか。
直前に、あの巨大な門の上で、あの猿のような老婆に食って掛かり、人の善意を解いた、あの尊厳を、彼は本当に、完全に失ってしまったのだろうか。何もかも、それまで存在していた自分のすべてを消し去り、その内側から、まったく新しい存在が生まれたのだろうか。
おれの右手が、シグの安全装置を外した。
やはり、銃声は聞こえなかった。
おれの手が魔法のような素早さで持ち上がったのを、334は理解できただろうか。表情一つ変えることができず、撃鉄に掛けた指を動かす暇もなく、334の額に突如として黒い点が生まれた。
刹那の間をおいて、334の後頭部が弾け飛んだ。天井まで届く勢いで体液をまき散らし、334は仰向けに倒れた。
《334、どうした。264、状況を知らせ、264!》
タカクワ一尉の声が聞こえていた。父の声ではない。『組織』の指導教官の声だ。
おれはユイの前にしゃがみこんだ。様々な感情が混ざり合い、泣き笑いとも無表情ともつかない顔のまま、ユイは一切の反応を失っていた。
《264、何があった、264!》
「大丈夫だ。必ず兄ちゃんが守ってやるからな」
いま、おれは何と言った?
声は、長く言葉を発していなかった時のようにしわがれていて、とても自分のものとは思えなかった。だが、そんなことは問題ではなかった。発した言葉の内容そのものが、まったく自分では思いもよらぬものだったのだ。自分、つまり『組織』の『処理班』実働部隊の暗殺者、コールナンバー264の言葉では、決して考えられないものだった。
中村英之という人間が存在していた記憶。
無駄だとわかりながら母の愛を求め、その度に裏切られた記憶。
父と名乗った他人、ただの負け犬、弱者でしかなかった男に人生を狂わされた記憶。
それでも、何時如何なるときもたった一人の味方であり、自分が命に代えても守らなければと思った存在。涙腺が異常をきたすほどに泣き腫らした目で微笑んでみせる、妹の姿。その記憶。
自らを殺し、264というナンバーを名として生きることで封じ込めてきた過去の記憶たちが、その言葉を発した瞬間、押さえつけてきた蓋を内側からこじ開けた。止めどなく溢れ出す記憶の奔流に圧倒され、おれは眩暈を感じた。
ぐらり、と揺らいだ視界いっぱいに、ユイの顔がある。
美雪によく似た顔。
似てなどいない。おれは内心で強く否定する。似てなどいない。似ても似つかない。それでも、ユイの顔を直視するのが恐ろしい。あの子の面影が重なる。まるで同じ表情に見える。
戦慄した。おれが暗殺者となっている事実を、あの子は知らない。死んだはずの兄が実は生きていて、お前の生活を守るためだと称して、死を振りまき続けていると知ったら、誰よりも優しいあの子はどう思うだろうか。血に穢れたおれの姿を、あの子はどう見るのだろうか。
どうしても美雪の幻影が映り込む。そんなはずはない。似ても似つかないのに、消えることがない。
きつく目を閉じた。そうすれば、消えてくれるかもしれないと思った。それは祈りに似ていた。闇がおれに安息をもたらした。心に平安をくれた。大丈夫だと言い聞かせながら、そして幻影が消えていることを祈りながら、おれは意を決して目を開いた。いや、もしかしたらおれは少女の存在そのものが消えていることを願ったのかもしれない。だがそこには、先ほどと変わらず血塗れの少女がいた。眩暈は治まり、視界ははっきりしていた。だが、ユイは確かにそこにいた。
あの笑みがそこにあった。
美雪と同じ笑みが、そこにあった。
おれの手が、自分の意思の外で動いた。
銃を握ったまま、両手を伸ばして、ユイを抱き締めた。
《334の応答が途絶えた。総員、三階へ。状況を確認しろ》
タカクワ一尉の絶叫が木霊した。
暗殺者が来る。
おれはユイを担ぎ上げた。この場に留まっているわけにはいかない。
もう葛藤も、揺らぎも、苛立ちもなかった。264として生まれ変わって以来、いや、中村英之としてこの世に生を受けて以来、最も鮮明に見える視界で、おれは薄暗い校舎を走り始めた。
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