第7話 戦闘

 日本警察の装備と同じ、三十二口径ACP弾を使用するシグP230自動拳銃の残り弾数は、予備を含めて二十六発。暗殺を前提とした装備としては十分すぎるほどだ。だが、真っ向から銃撃戦などできる残弾数ではない。ごり押しの強行突破で残る暗殺者たちの包囲網から逃げ出すことは、ほぼ不可能だ。だが、時間をかけるわけにもいかなかった。本来の対象である科学者を発見できていないいま、事態を少しでも早く終息させるために増援が投入されることも考えられる。情報源は完全に抹殺する。それが『組織』のやり方だ。誰よりも、その執行者であったおれ自身が、よくわかっている。


 だが、殺させはしない。この子は殺させない。


 おれの身体のどこにそんな感情があったのか。決意と感情に昂った身体が燃えるように熱い。論理的な思考では答えが出ない。いまのおれを駆り立て、突き動かしているのは、もっと直線的なもの、もっとシンプルなものだ。腕の中に感じる少女の体温。これを守りたいと思う。ただそれだけだった。


 考えてみれば、あの時もそうだった。美雪の無気力な笑顔を見た後も。妹の肌のぬくもりだけが、妙に温かかった。


《264、中村、聞こえているな》


 耳の後ろに装着した骨伝導型受信機がタカクワ一尉の声を発した。残る実働班の暗殺者たちへの通信回線を切っているのか、一尉ははっきり、中村と口にした。それは本来、ありえないことだ。それこそ情報の漏えいだ。情報を管理し、統制する『組織』にあって、それだけは絶対にありえないことだ。捨てさせた過去の名を、再び与えることは。


《貴様にはあらゆる事を教えた。戦闘の技術だけではない。おれたちの存在理由も、その必要性も、すべて教えたはずだ》


 その『ありえなさ』を、タカクワ一尉の声が誰よりも代弁している。いま、彼の声は、あの時と同じ響きを持っていた。薄暗いトラックの荷台で聞いた、父の姿を重ねる声。


《お前の考えていることはわかる。お前が何をしたのか、いま、何をしようとしているのかも、わかっている。だが考え直せ。まだ間に合う。いまならばまだ、おれの力でもみ消してやれる》


 二階へ降り、さらに一階へ駆け下ろうとしていた階段の踊り場で、おれは思わず足を止めてしまった。

 人の熱の通った言葉だ、と思った。心から、おれという人間を案じ、救い上げようとしてくれている声。あの日と同じように、もう一度、例え地の底からだろうと引き上げてやろうと手を伸ばす声。それは真に人が発するものだと感じた。

 だが、いや、だからこそ、一尉の声はおれの身体を吹き抜け、灼熱した思考をさらに燃焼させる空寒い酸素を吹き込んだ。


 あなたはこんな言葉も口にできる。なのに、なぜ……!


《中村!》


 黒い戦闘服越しに感じるユイの温もりが、強くなった。


 おれは無言を通した。


《……各員、個別に展開。優先目標に変更なし。334をロスト。264と交戦した模様。264を二次目標に認定。二次目標は戦闘能力を奪って構わない》


 おれ以外に向けられた下命を最後に、通信は途絶えた。刃の冷たさを発する声は、とても同じ人間の発したものとは思えなかった。タカクワ一尉が通信を切り、個別に行動する自由を与えたのは、おれが聞いていることを考慮したのだろう。無用な情報を与えて、おれに有利に働くことを恐れたのだ。そうでなくても建物の構造、暗殺者全員の配置は、おれの頭の中に入っている。奴らと遭遇せず、最短距離で校舎から抜け出せるルートも、すでにいくつか考えてあった。これ以上、情報は与えない。これ以上、進ませはしない。タカクワ一尉の行動は、そう言っていた。本気で抹殺すると、そう言っていた。戦闘能力を奪っていいとは、殺さなければ何をしてもいい、という意味だ。それは『組織』の性質上、ある意味殺されるよりも恐ろしいことだった。そして、捕まれば、この子の命はない。

 おれは視線を上げた。そこに逃げ道があるわけではないが、そうすることで逃げ道を見つけようとした。


 背面に山を背負った形で建てられているこの小学校へのアプローチは、今次作戦では正面からに限られた。深い森の突端である背面の山は、そのまま県境の山々へ続いている。

 山狩りには大量の人員を要する事。そして『組織』がそれだけの人員を動かすのに要する時間を考えた。二階の窓から、背面の山と森が見えた。視線がそちらに向く。ここがゴールだ。おれは何の疑いもなくそう思った。この校舎を出て、森に紛れ込む。それができなければ、本当の意味でのゴールへは決して辿り着けない。

 本当の意味のゴールが、果たして何を示すのか、そんなものが本当にあるのか、まったくわからなかった。だが、この子を守るには、それ以外にない。問題は、ユイを抱えて、暗殺者の徘徊するこの校舎を抜けられるかどうか。誰かを守りながら戦った経験など、もちろんない。そもそも、そんな技術は暗殺稼業に最も必要のないものだ。守るものがあることがマイナスになることはあっても、プラスになることは考えられない。おれは慎重に周囲の気配を窺った。身を潜め、逃走する上で幸いなのは、先ほどからユイが一言も発しないことだ。クラスメイトを失った悲しみを泣き叫ぶことも、目の前で人が死に、自分もまた死の恐怖に晒されている事実に悲鳴を上げることさえない。ただ従順に、何の疑いもなく、おれに身を預け、抱かれている。彼女の温度だけが、彼女の生を伝えていた。

 もしかしたら、恐怖のあまり言葉を失ってしまっているのかもしれない。感情を辛うじて表した微笑もいまはなく、焦点の合わない瞳は、もう何も映していないのかもしれない。だがそれがなんだ。この温度。このぬくもり。生きていることを証明するこの温かさが、こんなにも自分を突き動かす。


 殺させはしない。殺させてはいけない。


 もう一度、強く全身を焦がす言葉を胸に、おれは階下へと向かう一歩を踏み出した。





 校舎裏へ抜ける職員用玄関は、一階の中ほどにある。階段から五十メートルもない距離にあるそこへ辿り着くことは、決して難しく無い。何事もなく、また、廊下に誰もいなければの話だが。

 敵の気配を探り、踏み出した一歩目が階段に触れる。その寸前。おれは自分の身体が勝手に動いて足を止め、二階の廊下まで飛び退く奇妙を体験した。

 それが考える以前に、暗殺者としての本能がさせたものだと理解したのは、額を一発の銃弾が掠めて行った後だった。銃声はしなかった。サプレッサー装備のシグが、これほど静かな武器だとは思わなかった。長く暗殺用の武器として親しんだ得物の恐ろしさを、まさか自分で身をもって知らされることになろうとは。生唾を飲み下しながら身を捻り、ユイを背後に隠した。右手だけを伸ばし、階段下に向けて応射の銃弾を放った。

 闇雲な一発だ。それで斃れるような相手ではない。撃った後、その場に止まるような訓練は受けてはいない。だが、足止めにはなる。さらに二発撃ち込み、すぐさま身を翻すと、おれは薄暗い二階の廊下を走った。

 階段は待ち伏せをされていた。校舎裏へと抜けるルートは予想され、一階にはすでに複数の暗殺者が潜んでいると考えて間違いなかった。ひとまず逃れたが、かといって他の脱出路を見出せたわけではない。

 おれ一人であれば、小学校の二階程度の高さ、飛び降りても問題はない。かすり傷一つ負わないだろう。だがユイは? 誰かを守ることの困難、不自由を感じつつ、それでも必死で打開策を考えようとした。


 そこでふと、おれは奇妙なことを感じた。

 自分がはっきりと『生きている』と思った。

 そう自覚したのだ。


 かつて、これほどまで生きたい、生きなければ、と思ったことがあっただろうか。

 自問し、それが義理の父を名乗った、あの弱い男と暮らしていた頃だ、と答える自分に、おれは苦笑した。

 あの頃もそうだった。そしていまも感じているこの肌の温もりと同じものを感じた、あの時もそうだ。

 おれは自分が生きるためではなく、手を上げられる妹を、是が非でも守らなければ、とそれだけを考えていた。このままでは美雪が死んでしまう。だから守らなければ。そう強く意識していた。その答えとして取った行動が、美雪を苦しめ続ける存在の抹消だった。


 どうやらおれは、誰かを守ることによって、生きていることを実感できる人間らしい。あるいは全ての人間が、誰かを強く意識した時に、生きていることを実感できるのだろうか?


 父親の心根を持ちながら、それを凄惨な仮面で覆っている、あの人も?


 タカクワ一尉のぎこちない微笑を思い出した。だがそれも一瞬のことだ。苦笑を消すと、おれの思考はすぐさま生存のための稼動を再開した。


 二階にあるのは職員室と校長室だ。出入口の扉の上に表示されている。作り自体は一般の教室と変わらないから、脱出経路としては直接使えそうもない。では他にどうするのか。暗殺者の待ち伏せを避け、この子を連れて階下に降りる方法は。

 ひゅん、という耳障りな音が思考に割り込んだ。刹那の空白があり、再び本能が身体を動かした。ユイの身体をかばいながら、すぐ横にあった扉に体当たりして、身体ごとその奥の部屋に飛び込んだ。後を追って飛来した三発の銃弾が、扉と周囲の壁面に爆ぜ、戸の木枠や、壁面のコンクリートを抉る、鈍い音が響いた。


 床に転がった姿勢のまま、すぐにユイの無事を確認した。大丈夫だ。相変わらずの無言、無表情だったが、苦痛を訴えたりはしていなかった。

 続けて、おれは部屋の中を見回した。飛び込んだのは、職員室の斜め向かいにあった部屋だった。教室とは違い、壁も床もコンクリートの打ちっ放しで、真夏の日中だというのにひんやりとした室内は、廊下よりもさらに薄暗かった。

 おれにもかつて小学校に通っていた記憶はある。それでも、この部屋が何のための部屋なのか、すぐにはわからなかった。視線を巡らせ、あるものが目に入った時、こんな偶然があるものかと思った。この部屋の存在に、感謝以上の感情を抱いた。おれは立ち上がり、壊れた扉に駆け寄ると、半身だけを出して銃弾が飛来した方向にもう一度弾幕を張った。


 続けざまに三発撃った。そのうちの一発が追撃をかけようと廊下を走ってきた暗殺者の肩を捉えた。まるで見えない壁にぶつかったように、男の肩が跳ね上がり、それだけでは止まらずに、全身が大きく後方へ弾け飛んだ。が、そこは『組織』の暗殺者だった。後方へ倒れながらも、銃口を下に向け、足に添わせる様にして構えていた自動拳銃の引き金を引いた。

 背中から倒れたことで、必然的にこちらを向いた銃口から射出された弾丸が、おれの頬を掠めて過ぎた。倒れた男へ追撃するタイミングが一拍遅れ、その間に男は向かいの職員室の扉を破り、中へ飛び込んだ。

 それを確認し、おれも扉の影に身を隠した。息が上がっていた。こんな体験は、初めて人を撃った、暗殺者264が生まれた日以来だったかもしれない。深く息を吸い、整えながら、おれは冷静な思考を取り戻そうとした。

 敵の動きを考えた。男はおれとユイが逃げてきた側から来た。だが校舎の作りから考えて、廊下の反対側からも敵が現れないとは言い切れない。完全なる抹殺を目的として動く『組織』の性質を考えれば、むしろその確率は高いはずだ。挟撃は、確実な手段の一つだ。

 ならばどうする。躊躇している時間はない。ほんのわずかでいい。時間が必要だった。おれとユイが脱出するためには、一分に満たない時間、敵をこの部屋に近づけない必要がある。

 だが、それにしては職員室にいる男との距離が近すぎる。あの男と銃撃戦を演じている間に、別の暗殺者が現れれば、おれたちは脱出の機会を失う。感謝以上の感情を持ったこの部屋の存在を、奇跡と呼んでいいこの部屋へ飛び込んだ偶然を、活用する機会をおれたちは永遠に失う。

 どうする。どうする。どうする。焦りが苛立ちを呼び、苛立ちがさらなる焦りを呼び込んだ。守らなければならない存在を抱えている不自由さ、責任の重みが、そのままミスの許されない緊張感となっておれを縛り付ける。

 再び、コンクリートが爆ぜた。顔の近くだった。職員室の扉の影に隠れた男が身を乗り出し、発砲したのだ。

 おれは少し奥へ身を隠す。跳弾や飛び散るコンクリート片で負傷しないためだ。

 銃撃は二発で止んだ。その瞬間、今度はおれが一発撃ち返した。無論、その場に男はいない。先ほどの階段でのやり取りと同じだ。発砲後、その場に止まるような訓練は、おれも敵も受けていない。おれの放った弾丸は、男が身を隠す扉の壁をえぐり取っただけだった。

 このままではジリ貧だった。おれはやってはいけない撃ち合いを演じさせられていた。相手にしてみれば、このままおれをここへ釘付けにできればそれでいい。その間に、別の暗殺者が合流すれば、後は物量に任せての力押しでも、連携を取っての挟撃でも、何でもいい。どんな手段を使ったとしても、連中の勝ちは確実になる。おれとユイは抹殺される。

 時間はかけられなかった。ユイを守るためには、これ以上敵をこの部屋に近づけるわけにはいかなかった。この状況にわずかな時間的空白を作り、脱出の一手を打ちたいのだが、その方法も思いつかなかった。ここに籠城して、銃撃戦を続ければ、別の暗殺者が来る前に手持ちの弾が……

 そこまで考えた瞬間、息が止まった。全身の筋肉が硬直し、ひらめいたその言葉を、頭の中で何度も反芻した。


 おれは、何発撃った?

 あいつは、何発撃った?


 その数字を理解した時、おれの手は自然と動いていた。細心の注意を払い、弾倉を抜いた。八発の弾丸を撃ち尽くし、最後の一発を薬室へ送り込んで空になった弾倉を、静かに左手に乗せると、同じ手で予備の弾倉を銃把に、可能な限り静かに押し込んだ。


 おれが気付いたことに、相手が気付いていなければ、そこに最大の好機が生まれる。大丈夫なはずだ。そういう音はしなかった。


 おれは空になった弾倉を握り締めると、それを廊下に向けて投げた。弾倉が乾いた音を立てて転がり、沈黙が支配する校舎の中に、場違いな雑音を轟かせた。


 その刹那、相手が動いた。扉の影から半身を出し、転がった弾倉へ一射した。


 その弾丸が床を穿ち、同時に響いた金属音を聞いた瞬間、おれは廊下へと飛び出した。真っ直ぐ正面の壁に向かって走ると、その壁を踏みつけた。一歩目の反動を利用して、二歩目を廊下から放して壁を踏む。完全に横を向いた身体が床に落下する前に、三歩目がさらに壁を踏みつけ、その反動で跳躍した。

 壁を走って移動し、廊下に沿って跳んだ左手には、肩を撃たれた男が身を隠す扉があった。


 その前を、横っ飛びで通過した。


 扉の奥に、男の姿が見えた。扉から少し離れ、職員室内にいた男は、撃たれて動き辛い肩をかばいながら、片膝をついて座り込み、その手元に視線を落としていた。おれの動きを察知して顔を上げたが、銃が持ち上がることはなかった。


 おれの動きを察知するのが遅かったこともあるだろう。それをまったく予期していなかったこともあるかもしれない。だが男の手が動かなかった本当の理由は、そのどちらでもない。おれの動きに反応して銃を持ち上げられなかったのは、もっと現実的な理由だ。


 数えてみたのだ。発射された弾丸の数を。


 階段からここまで、おれは男が撃った弾数を、正確に記憶していた。


 そしていま、おれが投げた空の弾倉を撃った一発が、おれが使っているものと同じ、シグP230自動拳銃三十二口径ACP弾使用モデルの、最大装填弾数である九発目だった。


 遊底が後方にスライドし、薬室にも弾倉にも、弾がないことを伝えたはずだ。直前まで一度も聞かなかったその音を、おれは部屋を飛び出す時に、はっきりと確認した。だから男は扉の影から一歩下がり、片膝をついて新しいマガジンを装填しようとしていたのだ。

 銃が持ち上がらなかったわけではない。持ち上げられなかったわけでもない。ただ、男は動こうとした瞬間に、気付いてしまったのだ。空の銃を持ち上げたところで、応じる弾丸は放てない、と。

 顔を上げた男と目が合った。その目には理解と驚愕、それに失敗を悔やむ色が次々に浮かんだ。

 だが、それはほんのわずかな時間だった。おれが放った弾丸が、その目を撃ち抜いた。左目が突然色を失い、暗い洞に変わった。柔らかい眼球を押し退けて、頭部に侵入した弾丸の衝撃に、男の身体が大きく仰け反ったところまでは見えた。

 高速回転する弾丸が、頭蓋の中で柔らかい脳をかき回し、後頭部の骨を撃ち砕いて外へ出る。その瞬間に聞こえる、水気をたっぷり含んだ破裂音は、床に肩から落ちた瞬間に聞こえた。部屋の中を確認せずともわかる結果に振り返ることはせず、おれはすぐに立ち上がった。

 その足元に、銃弾が跳ねた。発射音は少しも聞こえない。改めて戦慄しながらも、その場を飛び退き、壁際に身を寄せた。

 弾は、おれとユイが走ってきたのとは、反対方向からだった。案の定、挟撃されかけていたのだ。


 反対側の階段に、人影が見えた。新手だ。両手を突き出し、構えている。まだ撃つ気だ。


 正直なことを言えば、このままユイのいるコンクリート敷きの部屋に戻り、脱出できることが最良だった。だが、こういう事態になることも想定していた。だから弾倉を交換しておいたのだ。かといって、新手と銃撃戦になったのでは、いま斃した男と同じになってしまう。必要なのは、敵を斃すことではない。脱出に必要な時間を確保することだった。


 そのための手段を、おれはすでに見つけていた。部屋を飛び出した時に確認していたのだ。おれは銃を片手で構えた。狙いをつけ、引き金を引いた。

 弾丸は、寸分違わず、狙い通りのものを撃ち抜いた。瞬間、薄暗い廊下が真っ白に染まった。煙幕を焚いたように、濃密な白い煙が、新手の暗殺者とおれの間に立ち込め、互いの姿をまったく見えなくした。

 それを確認して、おれは廊下の反対側を向いた。そこにも同じものがある。おれは再度狙いをつけ、その赤いボンベを撃ち抜いた。廊下の壁面に、等間隔に設置された消火器の表面に穴が開き、そこから盛大に消火剤が噴き出した。おれたちが走ってきた階段側も、消火剤の白い煙に遮られ、見えなくなった。


 これでどの程度時間が稼げるか、わからなかった。だが一分もいらない。ほんの数十秒のブランクでよければ、これでも足りるはずだ。そう言い聞かせながらも、おれはすでに走り出していた。


 煙の向こうから、数発の弾丸が飛んで来た。だが構ってはいられなかった。部屋の中に戻り、コンクリの床に寝転んだままになっていたユイの身体を抱き上げた。そのまま部屋の奥の、壁と一体になった機械の前に転がり込んだ。

 それは、言うなれば小型の車庫とでもいうべき姿をしていた。シャッター状に開閉する扉と、その開閉を操作するいくつかのボタン。そしてシャッターの奥、この機械の本命ともいえる部分を稼動させるボタンを本体の左脇に供えた機械の姿は、この瞬間だけは神々しく見えた。

 事実、車庫という表現は、大きく間違ってはいないはずだ。給食制度の普及と、高層化した校舎に対応するため、各学校機関に設けられた給食配膳用台車を載せる業務用エレベータ。それがこの機械の正体だ。

 おれが稼動ボタンを押すと、エレベータはすぐに到着した。シャッターが開く。

 業務用であるため、シャッターを完全に締め切らなければ動かない仕組みのエレベータに、まずユイを押し込んだ。背後に人の気配を感じ、うなじが逆立つような緊張が走ったが、おれはそれを無視してボタンを操作した。

 稼動し、閉まり始めたシャッターの下を滑るようにしてくぐり抜けた。その瞬間、背後の気配が大きくなった。あの新手の暗殺者が駆け込んできたのだ。

 閉まりかけたシャッターの奥で倒れたまま身を翻し、おれは引き金を引いた。わずかに開いた隙間をすり抜けた弾丸が、男の胸で弾けるのが見えた。

 その直後、シャッターが降りた。完全な闇が、世界からおれとユイを隠した。





 闇の世界がおれたちを守ってくれていた時間は、ほんの一瞬だった。追われているからだろうか、余計に短く感じた。

 ユイとおれだけで一杯という程度の広さしかない昇降機の狭さを不快に感じる間も、独特の浮遊感を認識する間も、ほとんどなかった。すぐに一階に辿り着いたエレベータは、自動でシャッターを開き、おれとユイを光の世界へ吐き出した。

 対象がここへ逃げ込まなければ、『組織』がここを作戦区域にしていなければ、今日も子供たちが楽しみにしている給食が運び込まれ、台車に分けられて各階へと運搬されるはずだった配膳室には、いまは食べ物の匂いも、温度もなかった。人の気配も同じくしなかった。おれは安堵の息を吐き出して中腰の姿勢になると、並べられた机に隠れながら出入口を――退路を確認した。

 校舎へとつながるものが一つ。そしてそれとは反対側、校舎裏に面した側には、給食を運搬してきた車両が、そのまま配膳室の中まで着けられるように、一際大きな扉が設けられていた。荷台の荷物の積み下ろしを考慮してのことだろう。

 二階で二人が倒れ、いま、この校舎にいる暗殺者は一人。いや、おそらく校庭で偽装工作を行っていた五人も中に入ってきているに違いない。対象が増えるイレギュラーに対応すべく、俳優ではなく本業の暗殺者に戻っているはずだ。

 ぐずぐずしている暇はなかった。時間が経てば経つほど、脱出は困難になる。何ものの気配も感じられないいましか、おれにもユイにも、生き残る機会はないと思えた。

 裏側の扉まで、身を屈めて走ると、鍵を開けた。そして静かに開く。外気が入り込み、突然、外の世界の新鮮で清潔な匂いが全身を包み込んだ。

 嫌な臭いはない。嫌な気配もない。大丈夫だ。それだけを確認すると、ユイの元まで戻った。

 エレベータから吐き出されたまま、コンクリートの床に俯せになって動かない少女の身体を軽く揺すった。まさか死んでしまったのではないか。不意にそんな思いに駆られたからだ。

 どこかを痛めた様子もないし、もちろん銃弾も受けてはいない。だが、その身体の無反応さ、無気力さは、死んだ人間のように思えた。急に心細さに似た感情が湧き上がった。


 心細い? 心細いだって? おれが? この、おれが?


 ユイはすぐに反応を示した。顔を上げ、ほんの少しだけ笑った。あの無気力な笑みだったが、それでもおれは安堵した。この部屋に暗殺者の影がなかったことを確かめた瞬間よりも、遥かに大きな息を吐き出した。

 これが自分だろうか。264として生きた数年の間には、まったくなかったもの。まったくなかった感情に、おれは自分の事でありながら、明らかに動揺していた。

 だが、それ以前、中村英之として美雪と二人で暮らしていた頃にも、果たしてこんな感情はあっただろうか。


 おれは弱い。


 その弱さを仕事に徹することで、264で有り続けることで、美雪を守っているという理由付けをすることで、覆い隠し続けていた。


 つまり、そういうことなのだ。この、子供のように喪失を恐れる感情は。


 何も失いたくなかった。誰も失いたくはなかった。自分が信じているものを。自分を信じてくれるものを。だから必死になった。あの時も、いまも、おれは強いのではない。弱いから、恐れているから、美雪を助けようとした。いま、この子を助けようとしている。


 わたしはどうなっても構わないの。でもお兄ちゃんを一人にしたくなかった。


 あの時、美雪はそう言った。その言葉の意味が、いまならわかる。あの子はおれのことを、おれ以上に理解していたのだ。この弱さを。何かに徹することで、強くあろうとするおれの根にある、怯える心を。

 守ってやるなどと、よく言えたものだ。本当は、おれの方こそ、ずっと守ってもらっていたのだ。妹に。美雪に。父を失い、母には愛されなかった、孤独と言う恐怖から。

 そんな美雪の似姿を、壊させるわけにはいかなかった。あの日、おれが決断を下せなかったばかりに、美雪に降りかかった災厄を、繰り返すわけにはいかない。


 決意を新たに、おれはユイを担ぎ上げた。左脇に抱えるようにし、右手にシグ自動拳銃を握ったまま、校舎裏へと通じる扉を肩で押し開けた。

 そこからはただ走った。振り返らず、周囲を見回すこともなく、ただ一心不乱に、校舎裏の山に向かって駆けた。一秒でも早く、木々の生い茂る山の中に紛れ込み、あえて追撃者を待ち伏せする。一度姿を隠せれば、再び相手に姿を見せることなく、全員を抹殺する自信があった。それは決して過剰なものではない。逆の立場であれば、追って来るものたちにもそれができる。おれたちはそういう訓練を受け、そういう存在として生まれ、ここまで生きてきたのだから。

 進む足をとにかく急がせた。増援を考えなければ、現状、追撃者は一定の人数しかいない。彼らを撃退することができれば、道なき道を逃げることになる山林の逃走路も、少しは楽になるはずだ。

 どこからも制止を命ずる声も、弾丸が飛来することもないまま、学校の敷地を囲むフェンスに辿り着いた。

 まずユイにフェンスを越えさせた。二メートル強のフェンスを越えるのは、おれに担ぎ上げられたユイにもそれほど難しいことではなかった。ユイが乗り越えたのを確認し、おれも網状のフェンスに足をかけ、飛び上がるようにして一息に乗り越えた。

 ここまで来れば、あと一息だ。目の前には、すでに山の入口になる斜面がある。その上には、深い山林の末端である木々の姿があった。

 背後に殺気が膨らむのを警戒しつつ、急勾配の斜面をユイから先に上がらせた。ほとんど間を置かず、おれもその後に続いた。

 四十五度を超える、崖と言っていい赤土の斜面に対して、二本の足では足りなかった。銃を腰に差し、手をついて這い進むように登った。

 最後まで背後に殺気を感じることなく登り切った。奇跡だとは思ったが、その幸運に感謝する時間はなかった。一秒でも早く、この山林に紛れ込む。ユイの手を取り、さらに奥へと進む一歩を踏み出した。


 その時。


「お前には全てを教えた」


 不意に発した声は、足を向けたその先からだった。背中を冷たいものが伝う。


「このおれが、教えた」


 深い山林の薄闇から浮き上がるように、声の主は姿を現した。だから俺が考えたこの逃走経路も予想通りだった、というのか。右手にサプレッサーを装着したシグ自動拳銃を握り、その筒先を真っ直ぐこちらに向けているタカクワ一尉の姿は、そう言っていた。

 反射的に身体が動いた。腰の拳銃に手を伸ばす。

 わずかな風鳴りがしたのは、次の瞬間だ。それが銃声だったと理解するよりも早く、足元に数発の弾丸が飛来し、爆ぜた。


 次は当てる。


 タカクワ一尉の身体から、静かで、それでいて凶暴な圧力が発せられていた。無言でありながら、どんな言葉よりも雄弁に響く圧力だった。

 伸ばした手は銃把を掴んだが、引き抜くことはできなかった。


 抜けば撃たれる。

 あの人は、撃つ。おれよりも早く。


 銃に手を掛けたままの姿勢で、身体が固まった。


「お前には、他にもいろいろな事を教えた。そうだな?」


 硬直したおれの背に隠れるようにして寄り添ったユイは、タカクワ一尉の放つ黒い気配を敏感に察知しているようだった。緊張し、強い恐怖を抱いているのが、触れ合っている掌から伝わる。目の前で友達を失った瞬間にも、暗殺者から狙撃を受けている最中にもなかった、顕著な感情だった。

 確かに、父親を感じさせてくれた、あの声音とは程遠い、暗殺者を育てた殺人のプロフェッショナルとしての一尉の声には、おれでさえ肌が粟立った。言葉は抑揚を抑えた淡々としたものだが、それがかえって雄弁な圧力になっていた。


「おれたちの存在理由も、お前はしっかりと理解しているはずだ。だからこそ『組織』で生きてきた。これまでも。そしてこれからも、だ」


 これからも、という部分で、初めて語気を強めたタカクワ一尉の視線が、一瞬おれから外れた。その視線がわずかに下を向いたので、ユイを見たのだとわかった。

 頭で何か言葉が思いつき、それを一尉に投げようとした。だがそれよりも一尉が視線を戻す方が早かった。

 改めて見つめあったその目が、あらゆる感情に蓋をしているように感じた。


「なぜ世界が歪むのか、考えたことがあるか」


 銃口と同じ種類の、無慈悲な闇を湛えたタカクワ一尉の目は、対象に据えた人間のあらゆる動作を見逃すことはない。そのことを、おれは誰よりも深く理解していた。そういう人物に手解きを受けたのだ。


「情報を手にすることの意味も、その責任も、使いこなす能力さえも持たない人間が、安易に情報を貪り、知識だけを詰め込んで、尊大な個を肥大化させるからだ。情報の万能を信じ、悪戯な不安や疑念に踊らされているだけの自身に目を瞑って、肥大化し続けた個は、やがて自身が単なる他者への無関心と利己主義の中に堕ちていることにも気付けない」


 おれは銃把を握る手を緩めた。銃を抜き、照準をつけて、引き金を引く。この三動作を一尉より早く行うことは間違いなくできない。すでにおれの頭に狙いを定めている一尉は、引き金を引くだけでいい。たとえ銃を抜けたとしても、照準をつける前におれの頭は砕け散っているだろう。逃亡の機会を作るならば、別の手段で作るしかない。


 だが、どうやって?


「教えたはずだ。悪戯な情報で国民の不安や敵愾心を煽るのが、国家の仕事ではないと。伝えられるだけの情報を伝え、国民の手に余る情報は、責任と能力を兼ね備えた人間たちで処理する。我々はその末端であり、実働の現場にいる人間だ」

「そのためには」


 それが自分の喉から発せられた声だとわかるまでに、わずかな時間がかかった。腰を折り、銃を抜く体勢のまま硬直した身体を震わせて流れ出た声は、タカクワ一尉の語る『国家としての正義』に反応したもので、決して論理的に組み立てられた言葉ではなかった。


「一尉の言う、その国家を担う子どもまで殺してでも、情報を統制するのですか」


 あらゆる感情に蓋をした瞳が、一瞬揺らいだように見えたのは、吹き抜けた風に揺れた木々の影のせいだろうか? だがおれはそこに、父親の姿をだぶらせた、人としての温もりを持ったあの一尉の姿を見た。確かに、見た。


「必要ならば。それが我々の存在理由だ」


 そう言った瞬間、一尉の瞳はそれまでとまったく同じ、深く、暗い闇を纏い直していた。だが、そんなものでは消えなかった。あの温もりは。

 国家という巨大な生き物の言葉を代弁するタカクワ一尉の姿が、ひどく小さく、物悲しく見えた。


 この人にこんな言葉を語らせてはいけない。


 この人はもっと、優しい人だ。


 力を緩めた右手に、何かがそっと触れた。


 温かい、人肌の温もり。


 腰を屈め、膝を半ば折った右足に寄り添い、こちらを見上げたのが、視界の端に見えた。ユイの表情が動く、その様子までもはっきりと、まるで正対しているかのように見えた。

 見えるはずもないものが見えていた。これは幻覚だろうかと考えるほど、はっきりと。

 ユイが笑っていた。美雪と同じ、あの笑みで。


「中村、お前は本当の情報を知るべきだ」


 再び瞳の影が揺らいで見えた。


「まだ間に合う。武器を捨てて投降しろ、中村」


 その揺らぎを押し退けるように、タカクワ一尉は言葉と銃口を押し出した。それ以上は何も言わないし、何も聞かない。最後通牒の行動に、おれは決断を迫られた。


 手に触れる、この温もりを守りたいと思う。


 本当は優しいはずのこの人に、自分の言葉を取り戻してもらいたいと思う。


 だが、すべて想いだけだった。想いが強く、募るだけだった。この状況を打開する術はなく、二者択一の選択肢も、どちらを選んだとしても結果は同じだった。つまり、この場でおれが死ぬか、生きて死を振りまき続けるか。それ以外に違いはない。


 いずれを選んだとしても、ユイは死ぬ。


 殺される。


 本当は優しいはずのこの人に。


 そしてこの人は、いまよりももっと深みへ、深淵へと堕ちて行く。


 抜け出すことのできない悲しみの、本当の言葉を押し込めた闇の中へ。


 ゆっくりと膝を戻し、腰を上げた。答えはまだ出ていない。


 守りたい。救いたい。


 想いだけが強くなる。


 伝わってはくれないものか。言葉にしなくても。


 多くを望んでいるわけではない。たった二つだけだ。どんなに強くても、たったそれだけの望み、たったそれだけの想いなのだ。守りたい。救いたい。ただそれだけなのだ。

 伝わらないものだろうか。伝わってくれないものだろうか。目の前にいるあなたに。

 おれは意識してタカクワ一尉を見た。ただ見るのではなく、その視線にすべての想いを込めて、見た。

 銃口がわずかに持ち上がる。こちらの動きに合わせてのことだ。しっかりと狙いを定めている。おれが銃を捨てるかどうか、それを待っている。だが、いつまでも待つつもりはない。タカクワ一尉の指はすでにセイフティからトリガーに移っている。


 三秒。


 それ以上、与えるつもりはない。


 タカクワ一尉の姿は、如実にそう言っていた。


 こんなにもわかる。この人の考えていることが、こんなにもわかる。


 ならばなぜ、おれの想いは届かない? 本当は優しいはずのこの人に。


 おれは奥歯を噛み締めていた。ぎりぎりと、歯軋りがするほど。


 二秒。


 風が吹いた。また森の木々が大きく揺れる。


 真夏の木々は、緑の葉を大きく茂らせ、清潔な香りと美しさを見せる。木漏れ日がきらきらと輝いて見えた。


 また、瞳に映る影が揺れた。


 やはり木々の影なのだろうか。タカクワ一尉は、本当は優しい人だと、おれが勝手に思い込んでいるだけなのだろうか。彼の言葉は紛れもなく『組織』のそれと同義で、他の感情は持ち合わせていない。それが本当のタカクワ一尉の姿なのだろうか。


 右手の温もりが、少し遠くなった。


 一秒。


 おれは目を閉じた。


 何も決められないことは、それだけで罪だ。


 すでに出ている答えに一歩踏み出すことができず、大事な妹の尊厳を、矮小な男に汚された、あの日と同じ。


 ただ雨が止むのを待っていた、あの下人と同じ。


 そんなおれは結局、誰も守れない。


 あの日の妹も、ユイも、一尉も、そして、おれ自身の命も。


 おれには誰も守れない。


 誰かを守ろうとしている瞬間にだけ、自分が生きていることを強く実感できる。弱く、何も失いたくないから、必死になって全力を尽くそうとする。おれは、間違いなく、そういう人間だ。にもかかわらず、おれは結局、誰も守ることができなかった。


 おれがここで死ねば、ユイはこの場で殺されるだろう。


 美雪はどうなる?


 本人の知らない内に『組織』の庇護下にいる美雪は?


 そのまま何事もなく、何も変わることなく、生きていけるだろうか。


 兄は死んだことになっているし、『組織』も関わりがないことになっている。


 そのまま生きていけるはずだ。


 だが、そうだろうか?


『組織』が手を引いた場合は?


 おれという契約の履行者が、裏切りを働いたのだ。手をかけている理由もなくなるし、手を引かない理由もなくなる。


 美雪は、そのまま、変わらぬまま、生きて行けるのか?


 おれはその恐れに、今更思い至った。


 考えるな。己の目的を遂行しろ。


 タカクワ一尉の教えが頭に響く。


 お前は考えすぎる。その混じり気の多さが、必ずお前の足を掬う時が来る。


 だから考えるな。己の目的を遂行しろ。


 一尉は、おれがこうなることを予期していたのだろうか。


 妹の身の安全のために、264となったおれが、その目的を忘れ、衝動的に何かを守ろうと動いてしまう。こんないまを、予期していたのだろうか。


 刹那の内に、腹の底から猛烈な熱を帯びた何かが這い上がってきた。


 混じり気の多さに、足を掬われた。


 おれは美雪を守れない。あの時も、いまも、美雪を守ることができない。


 気付くのが、あまりにも遅すぎた。


 おれの余命は、一秒を切っている。


 今更だ。何もかもが、今更だ。


 なのに、なぜ、おれの身体は動こうとする?


「ユイィィィィィィィィィイ」


 強い風が吹いた。叩きつけるような、痛みすら感じる、強い風。


 おれは目を開いた。声は右手からだった。


 気がつけば、おれの身体はわずかに腰を屈め、銃撃のポイントをずらすように動きながら、再び銃を手に取ろうとしていた。


 タカクワ一尉の目が驚愕に見開かれている。


 おれの行動に対してではない。反射的に右手を見た。そこに声の主がいた。ポロシャツにスラックス。どこにでもいそうな、色の白い、眼鏡面の、サラリーマンのような男。その手に、拳銃が握られていた。外見に対して、あまりにも不釣り合いなそれは、男の手の中で子供のおもちゃのように見えた。

 急速に記憶が巡り、その男が何者であるかを思い出した。色白で細面の、いかにも学者っぽい男。今次作戦の対象である、逃亡中の科学者だった。対象は拳銃を所持している。骨伝導で伝えられたタカクワ一尉の声を全身で思い出した。

 男の銃口は震えていた。上下左右に、まったく定まっていない。撃ち慣れていない、下手すれば一度も撃ったことのない様子だった。しかし、それでも懸命に、自らの命を賭して、戦おうという意思に震えているようにも見えた。守りたい。何としても。そういう意思を感じた。


 タカクワ一尉が動いた。


 おれの身体も動き続けていた。


 反射だった。おれも、一尉も。


 おれに向けていた銃口を、科学者に向けた。魔法のような素早さで、一瞬にして構え、照準し、引き金を引いた。

 サプレッサーに消音された、無様な空気音が森に響き、続いて科学者の胸に、赤い花が咲いた。


 一尉の手際は見事だった。だが拳銃は、同時に二人を狙うことはできない。おれの右腕はシグを抜き、引き金を引いていた。


 一尉の右肩が大きく跳ね上がった。


「中村!」


 一尉の苦痛をかみ殺した叫びが聞こえた時、おれはユイを抱き上げていた。


 一尉は無理をしなかった。その場に留まることもしなかった。跳ね上がった右肩の動きに合わせて身体を回し、手近の木の影に身を隠した。もちろん、威嚇のために射撃することも忘れなかった。足元に着弾した二発の弾丸の正確な狙いに、ひやりとした。タカクワ一尉はプロだ。本物の、プロフェッショナルだ。そうとわかって、いや、改めて教えられて、足を止めるわけにはいかなかった。

 ユイを担ぎ上げ、おれは走った。一秒でも早く、一歩でも多く、深い山林の奥へ、奥へ。

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