第8話 真実


 木の根に足を取られ、何度も転びそうになった。それでも足を止めなかった。追手の気配はなかったが、止まるわけにはいかなかった。


 そうしてどれぐらい走っただろう。深く、道もない森を、ただひたすら逃げたおれの前に、山の中を流れる沢が現れた。地図にも載っていないような、小さな沢だった。

 きれいな水が流れていた。これなら飲めるだろう。おれはともかく、ユイには水分補給が必要だ。

 ユイを下ろし、水を飲むように言った。ユイは無言でうなずくと、沢に近づいた。おれもその後ろから沢に降りた。

 沢の周りは苔むした岩に囲まれていた。もう何年も水を湛えてはいるが、その規模が小さすぎて忘れられている。ここはそういう場所なのだとわかった。

 足下に気を付けるよう注意した。ユイは室内履きを履いていたので、なおさら危なっかしかった。やはり無言でうなずいたユイは、そろりそろりと岩の上を移動して、沢から手で水を掬った。それを見て、おれもシグ自動拳銃を腰に差し、沢に手を入れた。

 冷たい水だった。気持ちがいい。そんな風に感じたのはいつ以来だろうか。暗殺者として、あらゆる快不快をフラットに保つように育てられてからは、そんな感想を持ったことはないはずだ。


 この沢のようになれないものか。


 水を掬い、顔にかけた瞬間、そんな言葉が浮かんだ。小さすぎて、地図にも載らない。それでもしっかりと生きている、この沢のように。

 おれも、ユイも、この国の単位で見れば、小さすぎる存在なはずだ。地図になど載らなくていい。ただ、清らかに生きていることさえできれば。しかし、それを決めるのは、おれたちじゃない。決めるのは、タカクワ一尉が代表している存在たちだ。

 このまま逃げられるだろうか。せめて、ユイだけでも、命を失う危険のない場所まで。装備は乏しく、地理にも明るくない。逃亡の手助けを頼れる当てもない。

 とにかく、まずは『組織』の暗殺者たちに見つからず、この山を降りることができるのか、だが――


《君らしくもないね、ヒバリ。何をしてるんだい?》


 思考を妨げるノイズ音が聞こえたと思った、次の瞬間だった。骨伝導型受信機から、聞き覚えのある声が骨を震わせた。


「……ユウジロウか?」


 喉元に手をやり、マイクのスイッチを入れた。


《そうだよ。いま、君を追うように、我々『電子班』も上から指示を受けた》

「どうやってこの回線に……」

《説明すると長くなるけど、聞くかい?》


 いや、とおれは否定をした。ユウジロウは、おれには到底理解できない、膨大な種類の引き出しを持っている。それらを使って、座したまま、あらゆる不可能を可能にしてしまう。それはまるで魔法のように。おれにとっては、それだけで十分だった。何か種があって、この通信を使えるようにしている。それだけで十分だった。それに口調から、すぐさまおれをどうこうしよう、というのではないこともわかった。だから、それだけで十分だった。


《いったい何があったんだい? 任務に忠実な、完全なる暗殺者である君に》

「何もない。ただ」

《ただ?》

「子どもが殺せなかっただけだ」


 ユウジロウの心の代わりのように、ノイズ音が強くなった。


《まぁ、そうだろうね》


 急にクリアになった音声が、おれの耳朶を打った。今度はおれがノイズ音を上げる番だった。


「何だって?」

《君には子どもは殺せないよ。おそらく年下の子供は、性別問わずみんな殺せない。妹さんのイメージが強すぎるんだ》


 おれを友達と呼ぶ魔法使いは、何かの解説書に書かれてでもいるかのように、おれという人間を考察し始めた。


《僕は君のそういうところが好きなんだ。妹さんのために必死で264であろうとしている、何者かに徹しようとしているところがひどく、人間臭い》


 おれはユウジロウに、自分が『組織』へ至るまでの身の上話など、したことがない。そのはずなのに、なぜこうも完璧に、妹の存在も、おれの心情も、すべて言い当てることができるのか。本当におれについての解説書でも、手にしているのではないか。


 魔法使い。


 情報統制を司る、電脳世界の魔法使い。


 この男には知らないことも、わからないことも、手に入れられない情報も、情報そのものを読み解けないことも、理解できない人の感情も、何一つないのかもしれない。


「ユウジロウ、一つ、教えてくれないか」


 ならばいま、おれが考えていることもわかるだろう。


《妹さんのことだね?》


 やはり。


「ああ。おれが『組織』から追われる身になった場合、妹はどうなる?」

《そうだね……あまり前例があることじゃないから、何とも言えないんだけど、正直、あまりいい状況とは言えないだろうね》


 やはり。


《ただ、今更女の子一人失踪させたりするよりは、そのまま生かしておいた方が面倒ではないのは確かだね。『組織』としても、何もないのが一番さ。君は死んだことになっているんだから、ここで死んでも妹さんには何の変りもない。だから確かなことは言えないけど、心配はしなくていいんじゃないかな。安心して死ねるよ》

「辛辣だな」


 辛辣で、無責任な言葉だ。


《事実さ》


 だが、その通りだった。そして事実を知らされて、おれはどこか安心してさえいた。


《まあ、それより確実に、妹さんにも君にも、何事も起こらない方法があるよ》

「何?」

《君の行い次第だけど》


 まさか、ユイをこの場で殺せ、とでも言うのか? そういう説得をするために、魔法を使ってまで回線を繋いだのか?


「お前、たったいま、おれには子どもは殺せない、と……」

《子どもはね。ヒバリ、君は本当の情報を知るべきなんだ》


 待て。


 この言葉はどこかで聞いた。


 お前は本当の情報を知るべきだ。


 あれは、誰が言った言葉だ?


《灰谷誠……ああ、今次作戦の対象になった科学者の名前ね。彼が何で小学校になんか逃げ込んだと思う? ……って、最低限の情報しか知らされない実働部隊の人間には、可哀そうな質問かなあ》


 お前は本当の情報を知るべきだ。


 ほんのわずか前のことだ。まだ一時間も経っていない。タカクワ一尉が言った言葉だ。銃を突き付け、おれに投降を迫りながら。


 お前は本当の情報を知るべきだ。


 だが、一体、おれは何を知るべきなんだ?


 何を知らされていないんだ?


《やっぱり、情報は、最前線で働く人間にこそ、正確に伝えられるべきものだと思うんだよ。情報の統制を目的としていながら、『組織』もまだまだ情報の使い方が下手だ。今後、上と話し合う必要があるな。どんどん変えて行かないと、秘密組織だって、時代の波があるから。乗り遅れてしまうよ》

「ユウジロウ」

《ああ、はいはい。ごめんごめん。ちょっとこのところ、上と揉めることが多くてね。想像以上に頭が固いんだ、上は》

「おれが、本当の情報を知るべきだ、と言ったな」

《ああ、言った》

「タカクワ一尉も言っていた」

《だろうね》

「何をだ? おれは何を知らされていない?」


 知らない方が身軽でいられる。


 そうではなかったか?


《その子さ》


 ユイは水を飲んでいる。冷たい沢の水に手を入れて、掬い、口に運んでいる。


《その子は灰谷結衣。今次作戦の対象だった男の娘で、男が手にした国家機密そのものだ》


 何?


「何だって?」

《その子自体が、『組織』が外部に漏らしたくなかった情報そのものなんだ、と言ったんだ。その子は子どもだけど、ただの子どもじゃない。灰谷の研究の実験体にされて、その身体には重要な機密が仕込まれている。ぼくと同じ、ね》

「お前と同じ?」

《結衣は近くにいるかい? だったら見てみるといい。耳の後ろ辺りだ》


 おれは首元から手を放した。ゆっくりとユイの背後に歩み寄り、後ろから覗きこんだ。

 耳の後ろ辺り。言われた通りのそこへ、視線を集中させる。肩にかかる髪に隠れて、よく見えなかった。手を伸ばし、その髪を避けようとした。

 その瞬間、ユイが暴れ出した。それまで生死の判別ができないほど無反応だった人間と同一人物とは思えないほど、猛烈な拒絶反応だった。

 だから、おれは手を引いた。いや、だから、というのは少し違っている。半分はそうだ。だがもう半分は……


「……ユウジロウ」


 一歩、身を退いた。首元のマイクに当てた手が、かすかに震えていた。ユウジロウを呼ぶ声も、震えていた。

 拒絶を示してユイが振り乱した髪の奥に、おれが見たもの。

 はっきりと、それがなんであるのか認め、理解したにも関わらず、少しもそれを本当のこととして信じることができなかった。何かの見間違いに違いない。そう考えようとする頭と、目にした事実をそのまま飲み込もうとする自分がせめぎ合い、半ば思考停止した状態で、おれはユイの姿を見た。

 ユイはおれから離れ、苔むした岩に背中を預けて俯いている。


「ユウジロウ」

《はいはい》

「なんだ、あれは」

《ああ、見れたかい?》

「なんであんなものが首についてるんだ?」

《だから、それが国家機密なんじゃないか》


 ユイが顔を上げ、おれを見た。そこにはありありと、恥辱を受けた悔しさが浮かんでいた。友達を殺された時にも、目の前で人が死んでいくのを見ていた時にも、父親である科学者が撃たれた瞬間にもなかった、強烈な感情だった。決して見られたくないものを見られてしまった、その恥ずかしさ、悔しさ、辛さ。それらが剥き出しになり、おれへの敵意となって向けられていた。


《日米で協力して、秘密裏に開発していた技術なんだよ。ぼくに埋め込まれてるのは、そのプロトタイプ。その子の身体からは二世代前の技術なんだ。この身体はいろいろ都合がよくてね。特に、ぼくのような仕事をする場合は》

「その、技術って……」

《うーん、脳にパソコンをそっくり埋め込む技術だよ。君にわかりやすいように、ものすごく簡単に言えば、だけどね》


 思考が完全に停止した。

 言われたことはわかった。それを想像することもできた。

 つまり、おれがユウジロウを前にして思う感想は、あながち間違いでもなかった、ということだ。

 無数のCPUに囲まれ、その中心でキーを叩き続けるユウジロウの姿は、完全に機械そのものだった。そして本当に、半ば以上、機械そのものだったのだ。


《純粋に最前線で使われることを目的とした、軍事技術だったんだよ、初めは。ところがレスポンスの問題で、膨大な情報を一人でいっぺんに処理する場合、この技術を使った方がよりスムーズだ、ってことを、ぼくが証明してしまったんだ。だからいまじゃあこの国でも、彼の国でも、同じような手術を受けている人間がたくさんいるらしいよ》


 ユイの耳の後ろには。

 そして、ユウジロウの耳の後ろにも。

 外部端子を差し込む穴が付いていた。まるでPCのように。


《パソコンって、まだまだ重いんだよ。装備品としては。耐熱、耐寒、耐衝撃に防塵。ハードに様々な技術を付加する必要があるから。でも、もう戦争は紛れもなく電子情報の時代だ。砂漠で戦う最前線の兵士だって、背中にノートPCを背負って戦ってる。それって不便だろう? 装備は一グラムだって軽い方がいい。いいに決まってる。その方が移動にかかる体力の消耗も少ないし、戦う時の動きだって全然違う。この技術はそのために作られたものなのさ。脳の中に、脳といっしょくたになって稼働し、情報処理ができる端末を埋め込む技術。衛星回線を通じて、兵士がパソコンってツールを使わずに、直接自分の身体で本部からの情報を受け取れる。そういう技術》


 魔法使い。


 情報統制を司る、電脳世界の魔法使い。


 この感想も、あながち間違いではなかったのだ。ユウジロウは、本当に、人間離れした存在だったのだ。


《灰谷って学者は、日本側の研究チームの一員だったんだ。奥さんもいて、娘もいたが、ある時、事故にあってね。奥さんは亡くなってしまった。娘の方は脳に損傷を受け、植物状態に陥った。その娘を救うために、灰谷は最後の望みをかけて、自分の開発した最新技術を娘の脳に埋め込んだんだ。被験者リストに、自分で自分の娘の名前を載せてね。本当に、純粋に、娘の将来のためを思ってしたことなのか、それとも自分の野心の達成のために、回復の見込みのない自分の子供を利用したのかは、正直わからないなあ。ぼくは個人的に疑問を感じてるよ。でも、そのおかげで、娘の頭は健康な状態を取り戻した。移植した機械に損傷を受けた部分を補わせることに成功したんだ。

 ところが突然逃げ出した。理由は、やっぱりわからない。推測だけど、この技術を開発している研究チームに、より過度な人体実験を持ちかけられたりしたんじゃないかなあ。ぼくもそうだったし。あ、ってことは、やっぱり灰谷は、純粋に娘を救いたくてやった、ってことなのかなあ》


 人体実験、ぼくもそうだった、とユウジロウが口にする言葉一つ一つが、ひどく生々しく、痛々しかった。普段通りの陽気な調子で話すから、なおさらだった。


《灰谷が第三国へ逃げれば、それだけで重大な情報流出になる。でもそれよりも恐ろしいのは、娘と一緒に逃げられることだ。娘は生き証人だ。彼女そのものが技術の塊だから、そのままテロリスト擁護国家の装備として使われることはおろか、世界的な倫理機関に訴えることで、日米両国の喉元へ食い込む刃になりかねない。だからそれだけは避けたかったのさ。

 そこで『組織』の出番だ。いま言った二つのこともそうだけど、何よりこの国が、こんな技術の開発を容認し、税金使って人体実験まで推し進めていたなんてことが国民に知られるのはうまくない。まだ表にはできない情報、公にはできない技術だったんだよ、彼の国として、この国としても。

 誰にも知られず、誰にも知らせず、すべてを極秘裏に葬るのが、ぼくたちの仕事だ。CIAなんか使うより、よっぽど確実だろう?》

「ならユイは……」

《そ。話が『組織』に回ってきた段階で、例の日米合同研究チーム、って、主に軍の関係者なんだけどね。とにかく彼らは、灰谷の行方を完全に見失っていた。そこで『組織』は、研究チームから得た情報を基に、娘の身柄を取り押さえずにおく作戦を立案した。灰谷は必ず娘を連れに来る。そこで灰谷を処理し、娘を回収する。そういう作戦をね》


 泳がされていたのだ。この子も、灰谷も。


《意外だったのは、娘と灰谷が何らかの方法で連絡を取り合っていたことだ。でも冷静に考えてみれば、それほど意外なことでもないよね。娘は娘であると同時に、傍受不能の軍用通信端末でもあるんだから。彼女の頭に直接連絡を取る手段さえあれば、彼女を呼び出して、落ち合うこともできるはずだ。灰谷自身が開発したのだから、その手段はまあ、問題なかったんじゃないかな》

「だからユイは学校に……」

《灰谷も自分が泳がされていることに気付いていたのかもしれないね。さすがに娘を預けている親戚の家まで行くのは、まずいと思ったんじゃないかな。そこで娘を動かした。自分を捕らえるために『組織』が閉鎖した区域の中にある学校に娘を呼び出し、そこで落ち合おうとした。

 娘が移動を開始した時、『情報班』はずいぶん慌てたらしいよ。君とは別の『処理班』も、娘の住む家の周囲で待機して、灰谷が現れるのを待っていたから、どうすべきか判断がつかなかったらしい》


 ならば、ユイが学校にいたのは……


「『情報』の連中に、ミスはなかったのか……?」

《今回のはミスじゃなかったんだよ。現地責任者のタカクワ一尉の判断で、娘を合流地点まで移動させることにしたんだ。途中、娘が小学校の同級生とばったり出くわしてしまったのは想定外だったけど、子ども一人ならどうとでもなる。イレギュラーだけど、シナリオを書き換えるまでもなかった》


 男の子のことを思い出した。恐怖を必死で堪え、震える身体を押し隠して、身を挺してユイの前に立った少年のことを思い出した。口数が多く、飛びかかるようにして拳銃に手を伸ばした。あの仕草さえ、そうしていなければ泣き出してしまう自分をわかっていたからだったのだろう、と思い出した。そして、風船のように弾け飛んだ後頭部を思い出した。イレギュラーは、彼だけだったのだ。


「タカクワ一尉は、おれたちがユイと鉢合わせになる可能性があることを、知っていた……?」

《もちろん知っていたさ。というより、子どもの前で灰谷を抹殺するのが、一番確実なやり方だよね》

「知っていて、教えなかった……」

《必要ない、と判断したんだろうね。君もそうだけど、実働部隊の人間は本当に優秀だ。忠実に作戦をこなす、世界でも類を見ない、最高の兵士だ。だから必要ない、と判断した。どんな状況になっても、任務に忠実に行動する。そう思ったから》


 最高の兵士。褒めたつもりだろうユウジロウの言葉が、なぜか最高の道具と言われたように思えた。道具に感情はない。意思は必要ない。そう言われたような気がした。


「だが、ユイも殺そうとしてるぞ、いまも……」

《灰谷親子に関しての上からのオーダーは、生死を問わずデッド・オア・アライブだからね。灰谷を現地までおびき寄せたら、娘の方は殺していいと判断したんだろう。父親の方は死んで構わないし、娘の方は、最悪、身体さえあればいいらしいんだ。死体があれば研究を続けることはできるんだって。でもぼくから言わせてもらえれば、ちょっと判断が軽率すぎたような気もするけどねえ。捕まえられるなら捕まえた方が……ああ、いやいや、他部署の上司を悪く言うものじゃないね。すまない、聞かなかったことにしてくれ》


 何もかも、当然のこととして始まり、当然のこととして終わるはずだったのだ、この作戦は。

 たった一つ、『組織』にも、そしてこのおれ自身にも、わからなかったことを除けば。264という存在に、道具に、感情があったことを除けば。


《さっきも言ったことだけど、やっぱりいまの『組織』のあり方には、問題がある気がするんだよ。最前線で働く君のような人間に、正しい情報が伏せられたままになっている。君たちのような存在にこそ、正しく、確実な情報が行きわたって然るべきはずなのに、君たちは道具でいいと割り切った使い方をする。それではだめなんだ。情報を統制する組織が、仲間内で情報の統制をし合っているのでは、何が本当の目的なのか、わからなくなってしまう。今回の君のような事例が、今後も起きないとは言い切れないだろう?

 ぼくは今回の教訓を生かして、上と交渉して行くつもりだよ。『組織』がこれまで通り『組織』として機能し続けるためには、ここらで業務内容を改める必要がある》


 ユウジロウは、革新派の若手サラリーマンのように、流暢に語り続けていた。だが、おれはその言葉の半分も、まともに聞けていなかった。

 様々な感情が頭の中で言葉になり、イメージになり、右往左往、飛び交っていた。飛び交う言葉と言葉がぶつかり合い、イメージとイメージが弾け合って、おれの頭の中で激しいスパークを起こしていた。


 裏切ったもの。裏切られたもの。

 命じるもの。従うもの。

 知らされなかったもの。知らされるべきだったもの。

 最高の兵士。最高の道具。

 必要な意思。必要のない意思。

 抹殺されるべき命。抹殺されていい命。

 タカクワ一尉。

 ユイ。

 美雪。


 すべての言葉が、イメージが、弾け、白熱して、頭を焦がした。おれは何も考えられない、真っ白な世界の中に立っていた。おれが264という道具のままであったなら、抱かなかった感情。まるでそれを持ってしまった代償だ、とでもいうように、真っ白な世界はおれから考える能力を完全に奪い去った。頭の熱は視覚にも影響し、周囲の景色を正しく認識できなくした。深い森、険しい山の景色が白く塗りつぶされ、見える世界も真っ白に染まった。


 いま、世界の中で色を持つものは、たった一つ。

 ユイだ。ユイだけは、変わらずにそこにいた。

 おれはユイを見ていた。自分が感情の限りを尽くし、連れて逃げた少女の姿を見ていた。


《あー、ごめんごめん。話が大脱線したね。で、ヒバリ。君は妹さんの姿を重ねてしまう子どもは殺せない、という感情にやられて、その子を連れ出してしまったわけだけど、まあ、いま言った通りなのさ。君の行い次第で、妹さんを心配する必要はなくなるし、君自身の身の振りだって、どうとでもなる、ってわけだ》

「……何?」


 突然、音が戻ってきた。妹、という言葉に、おれの脳が反応したらしかった。


《いや、何、って。わかったでしょう? だって『組織』が欲しているものを、君が手にしているんだ。殺して差し出すもよし。それができないなら、そのまま差し出すもよし。その後どうなるかはともかく、少なくとも君の手で殺害する必要はなくなる》


 どくん、と心臓が跳ねた。


《灰谷の抹殺は済んだし、娘は最悪、死体でいい。君の作戦中の行動については問題があるけど、まあ、娘の身柄を生きたまま確保した、ってことにすれば、その手柄でチャラなんじゃないかな? 研究には死体でいい、って言ってるけど、もちろん生きていた方がいいに決まってる。身柄を確保したとすれば、それは大きな手柄さ。それに、君のこれまでの『組織』に対する貢献、功績を考えれば、上としても君を抹消するのは惜しいはずだ》


 ユイはまだおれを恐れている様子でこちらを窺っていた。首筋の穴を見られたことが、同級生を殺されたことよりも、親を殺されたことよりも、彼女の感情を強く動かし、いまもってそれはおれに対する敵意として衰えずにそこにあった。


《もちろん、このまま結衣を抱えて逃げたって構わない。でも誰よりヒバリ、君自身がわかっていると思う。『組織』に狙われて、果たして逃げ切れるものか、どうか。

 ぼくとしては、君には『組織』に居続けてもらいたいと思うんだよね。またおいしいウィスキーを選んで用意しておくよ。君好みのクセの強い奴をね》


 ユウジロウが言葉を切った、その瞬間だった。おれの感覚が、何かを感じ取った。白濁した意識が急速に覚醒し、視界に色が戻った。頭の熱が冷め、風に揺れる木々がこすれ合う、ごくわずかな音まで聞き漏らさない、訓練された暗殺者としての感性が全身を包み込んだ。


 そして、衝撃が来た。


 身体は考えるより早く動いていた。腰に差したシグを抜き、振り返りながら大きく横へ跳躍した。

 一瞬前までおれがいた場所で、足元の石が爆ぜた。苔と一緒になり、緑と黒の軌跡が飛散した。

 身を捻り、おれは銃を握った右手を突き出した。その延長線上に、人影があった。

 山の木々の間に隠れて、銃を構えた人影に、素早く二発の弾丸を撃ち込んだ。一発が木の幹を吹き飛ばし、もう一発が影の頭を吹き飛ばした。


「ユウジロウ、お前!」

《タカクワ一尉が隊長を務める山狩り部隊が君の近くまで迫っている。違うかい?》


 着地した瞬間に絶叫おれとは対照的に、ユウジロウは普段通りの、飄々とした様子で答えた。遠く、百キロ単位で遠方にいるはずのユウジロウが何もかも見透かしている言葉には、背筋が冷えた。


「……お前がおれの位置を確認したんじゃないのか?」

《通信をすることはできたんだけどね。そこまではできなかった。それができれば、ぼくのところにも君の身柄確保に関する電子的支援要請は来ているから、とっくにやってる》


 あっさりと、はっきりと言う。この男は。

 ユウジロウの言う通りだった。森の中に、無数の人の気配を感じた。開けっ広げの、バカ正直な、明らか過ぎる、殺気。意図的に、隠そうとしていない、そういう殺気だった。

 いま、銃撃して来た相手もそうだった。だから気付き、反撃することができた。そうでなければ、おそらく一方的に射殺されていたはずだ。

 なぜだ、と考える前に、数百メートルの距離に鬼がいるのを感じた。他のものを優に凌駕する、あまりにも圧倒的な存在感。あまりにも圧倒的な殺気。間違いようがなかった。訓練施設で、そして『処理班』に配属直後の二カ月間で、この身体が感じ続けた、鬼の気配だった。それは明らかに、一尉の姿をしていた。

 それで悟った。おれを狩り出すための人員が、これだけ遮蔽物のある森の中で、意図的に存在を隠していないのは、彼の命令だ。肩を撃たれた腹癒せか、と考えたが、次の瞬間にはそれを否定した。やはりあの人は、優しい人だ。


《さて、どうする? 君には二つの選択肢がある。いずれを選んでも、いずれかは君の手を離れる。どうにもならない事だ。それでも君はいま、選ばなきゃならない》


 どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいるいとまはない。


 ユウジロウの言葉が、あの文学作品の言葉を引き寄せた。


《結衣を連れて、このまま逃亡を続けるか。それとも結衣を『組織』に引き渡し、妹さんの身の安全を確かなものにするか。重ね重ね言うけれど、ぼくとしては君に、後者を選んでもらいたいと思っているよ。君を失うのは惜しい》


 選ばないとすれば。


 あの言葉が止まった。あの文学作品の登場人物と同じ場所で。

 ユイはおれを見返した。未だ強い敵意を見せる顔貌に、美雪の姿が重なった。

 あの子はいま、どんな顔をしているのだろう。大きくなったはずだ。大人になったはずだ。おれの年齢から考えても、そろそろ大学生になっていてもいい頃だ。


 選ばないとすれば。


 あの下人は、どこへ行ったのだろうか。


 あの日、まだ自分がこんな世界へ足を踏み入れることになるとは、思っていなかった、それでも漠然と、まっとうな、善良な生き方はできないだろう、と思い始めていたあの日、考えた言葉を思い出した。

 あの下人は、闇へと転がり落ちて消えた下人は、どこへ行ったのだろうか。潔白な善意を抱え、それでも生きるためには悪事を働くしかないと考えて、考えて、考え続けたあの下人は、どこへ、どんな世界へ消えたのだろう。


 こんな世界だろうか。


 おれがいま立っている、こんな世界だろうか。


 巨大な理不尽と理不尽のぶつかり合いの中で、弱々しい個は、たった一つしか選び取ることができず、選ばれなかった一方は、永遠にこの世から姿を消す。命を喰われる。餓鬼畜生の世界。修羅の巷。


 あの下人は、こんな世界へと降りて行ったのだろうか?


 周囲の気配が強くなった。包囲を狭めてきている。いま斃した一人以外は、まだ射程距離までは踏み込んでいない。だが、そこまで進出してくるのも、時間の問題だった。気配は強く、無意味に強く、一人一人の暗殺者がいったいどこにいるのか、訓練を受けている身には、肌が粟立つ程のざらつきを伴って感知させた。

 やはり、タカクワ一尉は優しい人だ。命令次第では鬼に成り切ることができる。だが、その根底までは変えられない。そういう人だ。

 まるで電子表示されたレーダーを見るように、人員配置が手に取るようにわかった。

この森のどこに手薄な場所があるのかまで、はっきりとわかる。

 あの人は、一方の選択肢を無理やり押し付けようとはしていない。処理する、消去する、抹殺する、と言いながら、逃げ道を教えてもくれている。意図的に。

 ユイの顔に重なる美雪の影が薄れ、ユイ本来の瞳がおれを射抜く。しかし次の瞬間、美雪の姿が再び現れる。それはまるで、照明のスイッチを点けたり、消したりしているように。

 美雪になり、ユイになる。

 ユイになり、美雪になる。

 おれは、何を見ている?

 おれは、混乱しているのか?


《さあ、ヒバリ、どうしようか?》


 ユウジロウの声が鼓膜を優しく撫でる。

 周囲の気配が大きく前進した。


 ユイになり、美雪になる。


 おれは手の中の重みを確かめた。


 ユイになる。


 銃把を強く握りしめた。


 美雪になる。


 拳銃を構えた。


 あの下人はどこへ行った?




 下人の行方は、未だにわからない。(了)

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