第5話『父』

『組織』が特定の名前を持たない理由は、名前を持つことの危険性を熟知しているからだという。熟知しているから、前もってその危険を排除しているのだと、ユウジロウが言っていた。

 どんなものでも、人でも、組織でも、名前を持った瞬間、そのものは固有のものとして認識され、人々の記憶に残りやすくなる。アメリカのCIAも、イギリスのMI6も、日本の公安警察も、それゆえたちどころにその存在を国民に知られることとなり、記憶に残るようになった。機密諜報組織が、である。娯楽小説がこぞって彼ら描くようになり、それらしいストーリーが付いた映画やテレビ番組が放映されるようになれば、国民たちはその存在を信じ、疑わなくなった。そうして国家機密に守られた諜報機関であるはずの彼らが、それまでの業務内容を多少なりとも変更せざるを得なくなった。いま、それら機関は、国民の目を気にしながら活動することを迫られている。


『組織』は自分たちがそうなることを嫌っている。国民をこの国にとってあるべき姿に導く『組織』の存在こそ、最も統制されるべき情報なんだよ、とユウジロウは言っていた。だから『組織』全体はもちろん、その構成員であるおれたちにも固有名詞はない。個人はコールナンバーで示される。例えばおれのナンバーは――


「264」


 移送用トラックの荷台は、とても居心地のいいものではなかった。まず気温だ。車は真夏の日差しの下を走行中のはずだが、荷台にカーエアコンなどあるはずがない。異常な熱気が身体を包み、すでにおれの身体は汗でびっしょりと濡れていた。そしてそれよりも問題なのがいま、腰かけているこの椅子。荷台の両脇に車両前部から後部まで長い板を張り、それをベンチ代わりにして、おれたちは座っているのだが、クッションも何もない板は、車の揺れを直に尻に伝えてくる。しかも山道を走っているのか、車の揺れがひどく、硬い板から伝わる振動は、これなら立っている方がいくらかマシなように思えるほど、拷問に近い激しさだった。

 お世辞にも環境がいいと言ってやれないこの移送用車両のいいところを上げるとすれば、荷台の薄暗さだろう。幌がかけられ、しかも後部もしっかりと布で覆われているため、中は全体に薄暗く、向かい側にいる相手の表情も、姿さえも、すべて薄闇に隠れていた。熱気の逃げ場がないので、蒸し暑さは否めなかったが、余計な気を使わないで済むことは、ここにいるすべての人間にとって、この上もない利点であるはずだった。

 異例中の異例任務で、九人の同業者と行動を共にすることになった。だがそこに仲間意識があるはずもなく、また、芽生える要因もない。誰もが、同業者に話しかけたいとも思わないし、話しかけられたいとも思っていない。もちろん、おれ自身も。そういう意味で、この薄闇だけは、いい環境と言えた。

 ユウジロウと一緒にいた時にかかってきた電話は、ちょうどその時に話していた、ユウジロウの言う『大きな仕事』に関するものだった。その電話一本で、おれがこの作戦に参加することが決定した。指定された合流地点で『組織』の人間と合流し、その後『組織』の活動拠点に連れて行かれた。そこでこの作戦の大きさと、これまでの任務にない、さまざまな例外についてブリーフィングを受けた。そのうちの一つであり、最も大きな異例が、この集団行動だった。

 おれと同じく、集められた暗殺者たちは、誰もそんなものに慣れている様子はなかったし、諸手を上げて歓迎している様子も、もちろんなかった。


「お前、中村だな」


 そんな中だ。集団での行動など考えられないが、それが『組織』の求めるものであり、今回の任務であるなら、仕事であるなら、命令であるなら。そう割り切り、与えられた役割には徹する覚悟を決めながら、薄闇に守られ、どうにか自分たちの距離を保っている最中、かけられた声を、おれは無視するつもりでいた。だが声は、おれを名前で呼んだ。コールナンバーに続けて、おれの、『組織』に至る前の、『組織』が消し去ったはずの名前で呼んだ。

 汗が額を流れ、頬まで落ちた。


「おれだ。タカクワだ」


 伏せていた顔を上げた。汗が頬から顎へ、そして荷台の床へと落ちた。

 真正面に立っている男を見上げた。がっちりとした中背、エラの張った四角い顔に、短く刈り上げた頭。光る瞳の鋭さには、忘れがたい力強さがあった。

 タカクワ一尉。『組織』から訓練を受けた際、十人以上いた指導教官の長だった人物。

そして、『処理班』の実働部隊への配属が決定したおれに、戦闘と殺人技術の完成までを手解きした人物だった。

 おれの身体は反射的に立ち上がっていた。直立不動の姿勢を取る。

 鋭利なナイフを思わせる眼光が、おれを見ている。あの頃と変わらない鋭さだった。

 この瞳に、おれはあらゆる技術を叩き込まれた。技術だけではない。『組織』の存在理由も、ひいてはその構成員の存在理由も、文字通り、叩き込まれた。

 おれは変わらない鋭利な瞳の向こうに、あの日の姿を見た。




 夕焼けに染まる部屋の中に、ただ立っていた。どれぐらいの時間そうしていたのかは、わからなかった。

 茜に染まる安アパートの和室は、陽光のオレンジと、それとは別にぶちまけられた、同じ暖色系の色が畳に、土壁に、広がっていた。

 これからどうすべきかと、本当は考えるべきだったのだろう。だが、あの時のおれは何も考えていなかった。強いて考えていた、とするならば、それは到達感、達成感、といった恍惚的な感覚だっただろう。やっと辿り着いた。もっと早く辿り着くべきだった場所に。これより先のことは考えていなかったし、実際、これより先はなくてよかった。だから、おれの思考は完全に停止していた。その時間は、絶対に守りたいものの存在すらも、忘れていた。部屋に自分以外の人間が踏み込んできたことに、まるで気付かなかったし、すぐ背後に、見たことのない男が立っていることにも、もちろん気付かなかった。


「我々と一緒に来るか」


 肩に手を置き、おれを振り向かせた男は、目を合わせるなりそう言った。中背の、刃物みたいに鋭い目をした男だった。

 この場の処理は引き受けよう。お前の妹のことも、我々で何とかしよう。男がそう続けて、ようやく頭が動き始めた。美雪の姿が、表情が、あの笑みが、刹那の内に脳裏を過ぎった。

 考えられるようになったが、考える余地はなかった。あの時のおれにとって、それ以上の申し出はなかった。

 おれは男に頷いた。男は無表情でついてくるように促した。


 それがタカクワ一尉だった。


 その後、一尉はおれを別の男たちに引き渡すと、どこかへ行ってしまった。

 一尉との再会はその後すぐに早く訪れた。『組織』の訓練施設へと運ばれたおれの前に、一尉は指導教官として立った。


 ただでさえ次々と落伍者を出す『組織』の構成員育成訓練だったが、その中でも一尉が課す訓練内容は苛烈を極めた。

 一尉は主に運動や護身術、格闘技術といった戦闘科目の教官だった。それゆえに、比喩ではなく、この場で殺される、と感じたことは、一度や二度ではなかった。

 例えば、格闘の模擬戦闘をさせられた時だ。あの時は素手での格闘で、顔でも腹部でも、とにかく一発でもタカクワ一尉の身体にヒットさせられれば勝ち、という内容だった。

 訓練生たちは、誰もが声を出さずに沸き立った。なにせ一撃でいいのだ。ガードした腕や足だっていい。それはほとんど、真っ直ぐ人を殴ったり蹴ったりできればいいだけの、勝負にすらならないハンデだと、誰もが思った。


 だが、それは間違っていた。


 そう気付いたのは、率先して手を上げ、初めに一尉との対戦を希望した訓練生が、拳を放った直後だった。

 その一人目は、これまで格闘科目を得意とし、訓練生の間でも恐れられていた男だった。元はどこかの街の、手の付けられない不良だったらしいが、その分だけ喧嘩馴れもしていたのだろう。確かに人を殴る技術には長けていた。

 その時もきっと、他の訓練生に対して、手本を見せてやるぐらいのつもりでいたに違いない。にやにやと半分笑みを浮かべた男は、一尉と対峙し、模擬戦が始まった瞬間に拳を突き出した。

 一尉はガードなどしようとしなかった。筋肉そのものといった中背の身体が、信じられないほどしなやかに動くと、にや男の拳を避けた。次の瞬間、一尉は恐るべき剛腕で訓練生の頬桁を殴りつけ、さらに殴り、さらに殴った。

 一尉の猛攻は止まらなかった。頭を、顔を、腹を、足を、驚異的な旋回速度と力で、何度も何度も殴り続けた。

 一尉の手が止まったのは、訓練生がぐったりと動かなくなってからだった。意識を失っていた。目から、耳から、鼻から、口から、およそ考えられるすべての穴から出血し、裂傷、擦過傷で傷つき、打身に腫れ上がった姿は、もうあのにや男かどうか、判別するのも困難だった。

 にや男だった何かに別の教官たちが歩み寄り、抱え上げて、運びだして行った。

 誰もが自らの誤りに気付いた。だが、だからといって対策などできようはずがなかった。その後も同じ光景が目の前で繰り返された。訓練生たちは次第に手が出せなくなり、一撃も拳を振るわないまま、血と体液にまみれた肉同然の姿になるものが出始めた。中に一人、まいった、と敗北を口にした奴がいたが、直後にその口を一尉の拳が襲った。結局、そいつは前歯を折り、意識を失って運び出された。

 やがて、おれの番が回ってきた。無論、対策など考えられなかった。

 目の前に立ちはだかるタカクワ一尉の姿が、鬼に見えた。人の姿をした鬼。

 実際に対峙してみると、その感覚はさらに強くなった。鬼だった。鬼が人を食い殺そうと、こちらに目を向けていた。元々鋭い眼光はさらに鋭く、その目を向けられただけで、身体をはっきりとした像を持った恐怖が襲った。全身を挽肉になるまで叩き潰される、圧倒的な暴力が与える恐怖だ。

 だが、その無言の暴力を浴びながら、おれは得心した。この人は、本気なのだ、と。

 この人に訓練をやっている感覚はない。この人は本気で、相手を殺そうとしている。それがわかった。

 なぜわかったか。知っている感覚だったからだ。体感したことのある感覚だったからだ。

 猛烈な凶行を振りまきながら、それに反して、すっ、と冷め切っている頭の中。一尉の目には、その感覚があった。

 だからおれもそれを真似てみた。いや、思い出してみた。訓練などではない。模擬戦などではない。あの日と同じ、あの茜に染まった安アパートの部屋にいた自分と同じ、対峙した相手の命を奪う、その感覚を身体に纏った。

 一尉の目が、わずかにだが、揺らいだように見えた。

 だが、それで何かが変わるわけではなかった。一撃目こそ振るうことはできたが、結局おれも他の訓練生たちと同じように殴られ、蹴られ、殴られた。

 死ぬと思った。いや、殺されるはずだ、と、どこか達観した思いで打撃を受け続けた。あの感覚を纏っている鬼が振るう拳だ。行きつく先はそれしかない。そうおれは思っていた。思いながら、意識を失った。

 後に、一尉はこの時のおれのことを高く評価した。

 相手の様子を察し、訓練であるという考えをいち早く捨て、その気になったのはお前だけだった。そう言われた。それがこの後のおれの道を決定付けたらしい。

 ともあれ、この頃はまだ、そんなことを面と向かって言われるようになるとは思っていなかった。おれはただの訓練生の一人でしかなかったし、一尉はおれたち訓練生にとって恐怖の対象でしかなかった。

 タカクワ一尉の訓練科目は、毎回、熾烈な内容だった。意識を保ったまま科目終了を迎えられることの方が珍しく、他の科目と比べても、落伍者を多く出した。

 しかし、おれは生き残った。文字通り、命を失うことなく、生き残った。殺されずに卒業を言い渡され、『処理班』の実働部隊への編入が決定した。


 卒業を言い渡された時、部屋の中にはタカクワ一尉の姿もあった。居並ぶ教官たちの中で、一人席にはつかず、壁に背を預け、いつもと変わらない、抜身のナイフを思わせる眼でおれを見ていた。


 目が合うと、一尉はわずかに頷いたようだった。その時、この人とはもう、これで顔を合わせることはないだろうと思った。特に安堵するわけでも、落胆するわけでもなく。




 だが二度目の再会は、その後すぐに訪れた。訓練施設から移送用の車に乗せられ、おれは別の施設へ移った。そこがどこなのか、アイマスクとヘッドフォンをさせられたまま移送されたので見当もつかなかったが、明らかに駆け出しの構成員を育成するだけの施設とは異なっていた。もっと、薄暗い匂いがした。


 おれはそこで、タカクワ一尉と再び顔を合わせた。一尉は、自分は『処理班』の代表の一人だと言った。そして今度は専属で『処理班』実働部隊員としての指導を、おれに行うと言った。

 新しい施設は、『処理班』の実働部隊の活動拠点だった。訓練生上がりの駆け出し暗殺者の住居と訓練施設を兼ねているらしい。おれは当面、この施設に住みながら、タカクワ一尉から直接、あの苛酷な訓練を受けることになった。おれはその命令を、特に安堵したわけでも、落胆したわけでもなく聞いた。


 それから二カ月、おれはタカクワ一尉と常に行動を共にした。完全に専属で、一尉は『処理班』の実働部隊としての、暗殺者としてのあらゆる技術を、おれに叩き込んだ。

 初めにいた施設で受けた訓練も厳しかったが、明確な目的を持った暗殺者としての訓練は、より厳しいものだった。内容はタカクワ一尉が訓練生たちに教えていた科目を深化させたような内容で、基礎体力をつける走り込みと、肉体改造を目的とした筋力トレーニング。さらに格闘技術の指導はより実戦的に、近接戦闘術、近接殺人術の指導まで含めたものになった。銃器の取り扱いも、訓練生の頃に受けたものよりも、さらに一歩踏み込んだ内容になり、射撃訓練も、その内容も増えた。スナイパーライフルでの超長距離射撃から、暗殺専用小型単発銃を使った、超近距離射撃の指導まで、とにかくあらゆる銃火器を用いた戦闘訓練を受けた。暗殺者として目標へ近づくための変装や、あらゆる場所へ紛れ込むための立ち居振る舞い、その技術を教えられたのも、ここだった。


 それらすべての指導を、おれはタカクワ一尉から受けた。


 殺害対象の性別、人種、人間性、思想、思考、地位、立場。その人物を構成しているありとあらゆる物事は、一切を考える必要はない。考えたところで無駄だ。任務遂行の邪魔になるだけだ。


 タカクワ一尉に何度となく言い聞かされた言葉。


 お前は考えすぎる。腕もいい。目もいい。しかし、考えすぎる。だから鈍る。ここで生きていくのなら、その混じり気の多さが必ず、お前の足を掬う時が来る。


 目的を遂行しろ。それだけを考えろ。


 何度も何度も、タカクワ一尉はおれに言い聞かせた。


 後になって思ったことだが、その言葉を言い聞かせる時の一尉は、訓練施設にかき集められた、どこの馬の骨とも知れない、そもそも馬の骨になれるかすらもわからない烏合の衆に、『組織』の何たるかを教えている時とは、少し違っていた。


 生き残った奴だけは使ってやる。道具になれるなら飼ってやる。それが訓練施設の教官たちの目だった。


 だが『組織』の『処理班』の一員として、おれに対峙する一尉の目にはそうした色の光はなかった。教え、育てようとする意志の色があったように思う。

 いま考えてみると、あの二カ月は永遠に続く地獄のようであり、一瞬の出来事だったようにも思う。一尉の考えが以前と違っていることを体感できたとしても、訓練の内容自体の苛酷さ、過激さには、何の変わりもなかった。

 ほとんど毎日、死を感じながら過ごした。一日のわずかな時間だけ、睡眠の時間を与えられたが、目を閉じる時、次に目覚められる自信は持てなかった。

 それでもおれは、生き残った。ここでも文字通り、生き残った。

 目的を遂行しろ。それだけを考えろ。タカクワ一尉の言葉が、おれを生かした。

 おれの目的。おれが生きている目的。それを遂行する。そのためだけに、おれは生きた。訓練生の頃から、おれを支え続けてきた目的は、ここで一尉の言葉を受けて、おれという人間を構築する一本の柱となった。


 どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいるいとまはない。


 選ばないとするならば、己の目的を遂行するのみ。


 初めて目にした日から記憶にこびりつき、頭から離れなくなったあの文芸作品の言葉に、おれはそんな回答を見出して、日々唱えていた。




 訓練終了の日は突然やってきた。任務を突然言い渡されたからだ。


 初めての任務は、長距離狙撃だった。いまのおれからすれば、楽なものだったが、あの日のおれには、精一杯の任務だった。

 狙撃任務には、タカクワ一尉が同行した。狙撃任務は観測手がいた方がいい、と言っていたが、それだけが目的ではなかっただろう。もちろん、駆け出し暗殺者の狙撃を手伝い、仕事を減らし、失敗を減らすことが目的でもあっただろう。だが、それよりも、一尉にはもっと別の思惑があったはずだ。


 これが卒業試験だ。


 おれにそう言ったタカクワ一尉の言葉が、彼の本心を現していたように思う。


 対象は、ある会社の社員だった。特に重役なわけではなく、何か大きなプロジェクトを任されているわけでもない。平凡を絵に描いたような男だった。なんでそんな男が対象になったのか、おれにはわからなかった。わからなかったが、おれがそれを考える必要はなかった。


 選ばないとするならば、己の目的を遂行するのみ。


 その言葉を、何度も言い聞かせた。


 例によってアイマスクにヘッドフォンを被せられ、車に押し込まれて『処理班』の施設を出た。かなりの時間をかけて移動し、次に目隠しを外されたときは、どこかの駅前ロータリーに車は停車していた。

 車はバンタイプで、後部座席におれとタカクワ一尉が乗っていた。一尉はおれが目隠しとヘッドフォンを外したのを確認すると、自分の側のスライディングドアを開けた。


「じゃあ、どうも、おつかれさまでした!」


 タカクワ一尉を知っている人間からすれば、信じがたいほど高い声で、一尉は運転席に声をかけ、車外へ出て行った。おれも一礼しながら、その背中に続いた。

 おれとタカクワ一尉は、二人ともスーツに革のビジネスバッグといういでたちで、どこの街でも見かける営業職のサラリーマンに扮していた。おれはどうだったかわからないが、タカクワ一尉はおれから見ても、完全に別人に見えた。どこからどう見ても、柔和な外回りの中年だった。いまの声にしても、駅へと近づいて行く一歩一歩の足の運び、身のこなしにしても、すべてが完璧に計算された変装だった。

 他の移動方法も、もちろんあったはずだ。しかしあえてこの恰好をさせ、駅前などという人目に付き易い場所で降ろしたのは、明らかにおれを試すためだった。これが卒業試験だ、といった一尉の言葉が、頭の片隅で響いていた。

 おれと一尉はそのまま駅構内へ入った。そこでここが新宿駅であることが分かった。夕方の帰宅ラッシュにはまだ少し早い時間、人々は足早におれの横をすり抜けて行く。特別、奇妙な視線を送るものはいなかった。

 一尉の変装は、ホームへと向かう間も完璧だった。違和感がない程度におれに話しかけ、その内容も、さも今日、商談相手との話が上手くまとまったかのような会話だった。その場で作っているのか、それとも元々用意していたのが、とにかく一尉はその時、まったく別の人格、まったく別のストーリーを生きていた。おれはその会話に合わせ、その歩幅に合わせ、付いて行くのがやっとだった。


 新宿からJR中央線に乗った。高尾方面の電車に乗り、次の中野ですぐ降りた。改札を出て、北口にあるアーケード街に入り、談笑しながらしばらく進んだところで、一尉は突然細い路地に入っていった。


 その先には、見るからに無人のビルがあった。居住用だろうか。外階段は不法侵入を防止する為か、大きなベニヤ板で塞がれている。その周囲には生活用品らしいゴミが散乱していた。放置されてかなりの時間が経っているようで、もう異臭すら発していない。元の色もわからないほど黒く変色したゴミは、その原形もほとんど伺い知れなかった。

 一尉は、そのビルに入っていった。わずかに疑問符を浮かべながら、おれはその背に続いた。

 エレベータがあったが、動く気配はなかった。階段があり、一尉とおれはその階段を上がった。

 見た目より大きな建物のようだった。六階まで上がると、一尉はまだ上まで続いている階段から離れ、廊下へと足を向けた。

 廊下には四つの扉が見えた。外の様子からすれば、中の廊下はずいぶんきれいに保たれていた。電気は通っていないため、照明がついていない廊下は薄暗かったが、少なくとも乱雑にゴミが散らかされている様子はなかった。誰か住んでいると言われても違和感はなく、いまにも扉が開いて、入居者が出てきそうな雰囲気だった。

 一尉は迷うことなく一番奥の部屋を目指した。廊下の奥の方に窓があり、そこから入る夕暮れの光だけを頼りに、その背中に追随した。

 一番奥の扉は開いていた。おそらく『組織』が事前に開けておいたのだろう。その推測は、扉をくぐるとすぐに確信へと変わった。中には、すべて準備されていた。何もかもすべて、だ。

 室内は廊下より窓を広く取っている分だけ明るかった。そしてその明るさの分だけ経年による痛みが見て取れた。家具はなく、壁紙は剥がれて垂れ下がり、天井の照明も外れていた。そうした凄惨たる中にあって、一際目を引いたものがあった。それは建物の痛みとは真逆の真新しさを輝かせ、おれの視線はすぐ釘付けになった。

 扉の正面に窓があり、その手前に『仕事道具』が並べられていた。今回の仕事に必要な道具すべてが、そこに準備されていた。

 あらゆる事前準備を行う担当の班が存在することは教えられていたが、ここまでやるとは思っていなかった。しかもおれたち『処理班』が仕事を終えた後、ここを清掃しに来るのも、別の班の仕事だと教えられた。徹底した分業制による、円滑な作業だった。

 つまりここが、『組織』が選定した、今次作戦における対象抹殺に最も適した狙撃ポイントだった。窓の外にベランダはなかった。一尉は変装用の革カバンを起毛の潰れた絨毯敷きの床に置くと、スーツの上着を脱いで『仕事道具』に歩み寄った。おれもそれを真似、ワイシャツの袖のボタンをはずして、仕事の準備に取り掛かった。


 今回の『仕事道具』に手を掛けた。六四式7・62ミリ狙撃銃。訓練でも、ずっと使ってきた銃だった。一尉はその隣で、別の道具類を操っていた。窓をわずかに開けると、外の気温、湿度、風向きと風速を観測し、対象までの距離を測った。

 おれは狙撃銃を手に、窓に向かって構えた。まだスコープの蓋は開けていない。直前まで開けないのがセオリーだ。


「来たぞ」


 一尉がささやく。肩に狙撃銃のストックを当てて構え、わずかに開いた窓から銃口だけを出した。

 おれは銃を固定することを意識した。呼吸や鼓動、脈拍といった、生き物である限りは避けられない、極細の身体の動きに照準が影響されない為には、筋肉で抑え付けるのではなく、骨で支えて床面に繋ぎとめるようにする。おれは最良のポジションを探して、わずかな身動きを繰り返し、その姿勢を探した。

 そうしている間にも、一尉は目標との距離、風速、湿度を読み上げた。おれはそこで初めてスコープの蓋を開き、覗き込んで、読み上げられた情報に則した狙いをつけた。


 そして、男を捉えた。


 スコープ越しに見えた男は、三十代半ばほどに見えた。どこにでもいる、何の変哲もない、ただのサラリーマンだった。

 撃鉄にかけた指が、自分でもわかるほどはっきりと震えた。掌に汗をかき、程なくして顔からも汗が噴き出した。

 この指を絞り込めば、あの男は死ぬ。確実に死ぬ。一日生活すれば、必ず一人は目に入る、そんなどこにでもいる、判で押したような男。平凡な男。『組織』の対象にならなければ、毎日会社に通い、それなりの仕事をして、定年を迎えるはずの男。子供はいるのだろうか。いや、それ以前に妻は? 彼が円満な家庭を築いているのならば、一家は大黒柱を突然失うことになる。妻と子供は……


「264」


 その時、初めておれはコールナンバーで呼ばれた。『組織』がおれに与えた番号。新しい呼び名。名前。卒業し、『処理班』へ編入した時に、すでに与えられていたものだったが、暗殺者としての訓練を積んできたこの二カ月、今日この日まで、タカクワ一尉がその呼び名を使うことはなかった。

 一尉の手が、重さがかからない程度に、そっとスナイパーライフルの銃身に触れた。


「考えるな」


 その瞬間、おれの中に何かが生まれた。おれであって、おれではない何か。人か、それとも人外のものか、一切判別がつかない何か。そいつが上げた産声を、おれはその時、確かに聞いた。そして次の瞬間、そいつがこれまで表面にいたおれと入れ替わった。


 おれは改めてスコープを覗き込んだ。


 男はビルとビルの間の、ひと気のない路地を歩いていた。心持足早で、何かから逃げているようにも、単に帰路を急いでいるようにも見えた。任務では、会社からの帰路であるここで、仕留めることになっていた。ここ以外に、ここ以上に、ひと気のない道はなかった。

 銃は、いまや床面からおれの身体を通して、完全に固定されていた。

 全ての揺らぎを克服した照準が、男の動きに同期した。

 一尉が再び情報を読み上げる。それに合わせて、ミリ単位の照準修正を行った。

 十字線の中心に、男を捉えた。

 次の瞬間、鈍い発砲音が響いた。おれはそれに遅れて気がついた。おれの指は、男を捕捉した瞬間、引き金を引いていたのだ。まるで、他人の指のように、感触のない発砲だった。

 スコープの中で男が倒れた。まるで糸の切れた操り人形のように、その場にぱたりと倒れて動かなくなった。

 狙い通り、胸へ着弾したのが見えた。寸分違わず。そのはずだったが、血は見えなかった。黒く見えるアスファルトの路面に、今まさに文様を広げているはずの血だまりも見えなかった。よほど身体が柔らかくなければ、苦しくてすぐに体位を変えてしまうような無理のある手足の曲がり方をしていたが、男は身をよじろうともしなかった。いや、できなかった。死んでいた。




 それから後のことは、よく覚えていない。スコープの中に現れた『清掃班』の連中が、男の遺体を片づけ始めたところまでは記憶にあったが、その先は曖昧だった。

 タカクワ一尉が何かを言っていたが、それも思い出せない。ただあの時は、ひたすら気分が悪かった。

 おれはその夜、『処理班』の施設に戻ってから、吐いた。胃の中身すべてを吐き出して、それでも吐いた。ただひたすら、気分が悪かった。

 考えるな。目的を遂行しろ。

 便器に黄色い胃液を垂れ流しながら、頭の中では、まるでそれが治癒の呪文か何かのように繰り返し、繰り返し、唱え続けた。それでも、気分の悪さは治らなかった。

 男の倒れた姿が、網膜に焼き付いていた。糸の切れた操り人形のような死体。手足がおかしな方に向いた死体。血の流れない死体。

 その焦げ付きが視界に幻影を見せ、おれはまた吐いた。




 翌朝、おれはタカクワ一尉に呼び出された。精神的にも肉体的にも、最悪な状態だったが、訓練によって本能と一体になった、上官の命令に従う、という思考が、おれの身体を動かした。

 呼び出された場所は、施設の射撃場だった。出頭すると、一尉は射撃訓練を行っていた。一尉自身が、ではなく、別の構成員に指導をしていた。


「264」


 その構成員が訓練を終え、射撃場を離れた後、ようやく一尉はおれに声をかけた。前日と同じ、コールナンバーで。

 そして、告げた。


「合格だ。今後も自分の任務を全うしろ」




 あの瞬間。あの狙撃の瞬間に、おれの中で生まれたものがなんだったのか、いまのおれならばはっきりとわかる。そしてそれはいまも、おれと共にある。


 その後すぐに、おれは『処理班』の訓練施設を出た。以後は携帯電話から任務を受け、活動する生活になった。だからタカクワ一尉とは、それ以来の再会だった。

 数年ぶりの再会。だが、一尉が話しかけてきた理由は何なのだろう。まさか、任務ごくろう、というわけでもないはずだ。『組織』も一尉も、そんなフランクな存在ではない。

 鋭利なナイフを思わせるあの眼光が、おれを見ている。


「生きてまた会えるとはな」


 しかし、出て来た言葉は、拍子抜けするほどの柔和さだった。

 本当にあの、鬼のタカクワがそう言ったのか。まったく信じられず、おれはタカクワ一尉の目を、じっと見つめ返した。


「元気そうで何よりだ」


 微笑んでいる。ぎこちない、と感じるのは、おれが彼の笑顔を見るのが初めてだからだろうか。目も頬も口も、等しく笑顔に包まれている。ただひたすらに優しさだけを感じる、微笑み。こんな微笑みを、ずっと昔に見たような気がする。おれは思い出そうとした。


 笑顔には、いくつも種類がある。

 母が子どもをだますための笑顔。

 二人目の父が、次の暴力への布石のために刻む笑顔。

 涙などはとうに枯れた、その向こうにある諦観を宿した妹の笑顔。

 笑顔は嘘をつくためのもの。

 おれにとってはそれが偽らざる真実。

 だが目の前にある笑顔は、そのどれとも違った。


「この道しか選べなかったお前だが、この道で生きる術を教えてしまったのはおれだ。ずっと気になってはいたんだが……」


 タカクワ一尉の笑顔に、薄闇の中でもはっきりとわかるほどの影が差す。わずかな後悔、そして憂患。影に現れた感情はおれにもすぐに読み取れた。そこで理解した。おれに向けたタカクワ一尉の柔和な微笑が、どういった感情から来るもので、なぜ似たようなものを見た記憶が、遠く過去のものなのか。


 父親だ。


 おれの頭の中に、まだ幼かった頃に病死した、本当の父親の姿が現れた。

 優しかった父。仕事熱心で、能力も十分にあった父。

 だがそんな夫を、奔放な妻――おれの母は、金を持って来る道具としてしか見なさなかった。

 人間的にほぼ完璧であった父が、唯一持たなかったもの。それは女を見る眼だったのかもしれない。愚直に、ただひたすら仕事に打ち込んだ父は、おれが六歳になる頃、過労死した。

 遠くから子どもを案ずる父親の、幸せでありながらどこか翳りのある笑顔。父の笑顔に、タカクワ一尉の笑顔が重なった。

 確かにこの人は父親で、自分はその子供かもしれない。

 一瞬にして蘇った一尉との過去が、その考えを裏付けた。


 義理の父の暴力と、母の横暴に耐えかねたあの日。二人を撲殺したあの夕暮れに、警察よりも先に現れたのはタカクワ一尉だった。

そして『組織』へ身を寄せることと引き換えに、おれたち兄妹の身の安全を提案し、約束してくれた。

 その瞬間まで、一尉との面識はもちろんなかった。後で聞いたところによると、『組織』は自分たちの手駒となる暗殺者に育成できる可能性と才覚を秘めた存在を、常に探しているのだという。そうなりそうな家族と、その子供の適性を調査し、監視し、もし本当にそうなれば、自分たちの側に取り込み、情報統制の尖兵として育成する。

 あの日。中村英之という人間が死んだあの日。タカクワ一尉が現れなければ、この人に『組織』の一員として取り上げられなければ、おれはいま、この世にいなかったはずだ。兄と両親は火災に合い、全員死亡したと聞かされ、初めて会った遠縁の親戚――『組織』の人間だ――に引き取られた美雪にも、もっとひどい未来が待っていたに違いない。


 あの日、おれは死んだ。

 そしてあの狙撃の瞬間、おれは生まれた。


 いまのおれは264であり、『組織』の『処理班』実働部隊の暗殺者である。ヒバリであり、人殺しである。それ以下であっても、それ以上ではない。


 父。新たに生まれたおれの、父。

 そんな存在をもし上げるのならば、タカクワ一尉は間違いなく、おれの父だ。

 何か応えなければと思った。だがうまい言葉は出てこなかった。

 そのうちに別の誰かが一尉を呼んだ。

 教官同士、そして教官たちを従えている背広の人間たちからも、一尉は一尉と呼ばれていた。その呼び名が、自衛隊特有の階級呼称であることがわかったのは、『処理班』の施設を出てからだ。おそらくは自衛隊の人間。しかしそれ以上のことは何もわからない『父』は、呼び声に上官の顔を取り戻した。鋭い眼光が薄闇の中に蘇った。

 タカクワ一尉はおれに向かって小さく頷くと、運転席の方へ戻っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る