第4話 ユウジロウ

「ああ、ヒバリ、今回も迅速な仕事だったようだね」

「……『情報』の連中が雑な仕事をした以外は」


 おれは手にしたグラスを煽った。氷が小気味いい音を立て、グラスに注がれた褐色の液体が舌に乗った瞬間、焼けるような感覚が口腔内を支配した。これが、焦がれるような快楽になる。

 一瞬の間を置いて飲み下すと、同じ感覚を咽喉に与えながら、液体は胃袋へと駆け下って行った。


「愚痴かい。君にしては珍しいね」


 先ほどから、かたかたという音が響き続けている。ユウジロウが叩くキーボードの音だ。おれはその手元を見ながらボトルに手を伸ばし、新しいウィスキーをグラスに注いだ。

『組織』の人間同士が顔を合わせることはまずない。情報伝達はすべて専用の携帯電話で行われる。だからおれとユウジロウがこうして会っていることは、異例なことだ。


「愚痴、ってわけでもないけど」

「ははぁ。なるほど。一人、対象外が混ざっていたんだね」


 話しているが、ユウジロウの手は止まらない。どこを見ているのかもわからない。

 いったいいくつのCPUが積み重ねられているのか。数えるのも困難なほどのコンピュータとディスプレイの山に囲まれ、その中心に座ったユウジロウの姿は、それら機械の一部に見えた。顔の上半分は銀色のバケツのようなヘットギアに覆い隠されていて、手元に並べられた総計七個ものキーボードを巧みに打ち続けている。その姿はまるっきり、機械そのものだった。鼻から上すべてを覆っている銀色のバケツの内面にも、無数にあるディスプレイとはまた違った映像が映っているらしく、ユウジロウはそこに表示される複数の画面を使って、ネット回線を監視し続けていた。

 ユウジロウは、おれと同期だったらしい。訓練施設に入ったのも同じ日なら、卒業した日も同じ。だがおれにはその記憶がない。自身曰く、おれは目立たないからね、だそうだ。しかし、ユウジロウは『組織』にとって、目立たない存在などではなかった。完全なる例外。特別な存在だった。

 訓練施設では、運動系の訓練をすべて免除されたらしい。その理由は、突出した電子戦能力。自分と同期にも関わらず、ユウジロウはいま、『電子班』のトップにいる。


「『情報』の連中、最近抜けが多いよね。うちから使えるのを見繕って、何人か回そうかなあ」


 後半の方はほとんど独り言だった。かたかたとキーボードが鳴り続けている。おれはユウジロウの背後にある、見るからに古くさい革の痛んだソファに身を預け、ウィスキーを煽った。


「でもまぁ、ヒバリが気に病むこともないんじゃない?」


 ユウジロウとおれが、こうして新宿の地下にある、彼の基地で会うようになったのは、彼が接触してきたからだ。純粋に『処理班』の実働部隊に属している同期に、興味があったらしい。

 それ以来、ほぼ毎日、おれたちは顔を合わせていた。本当の名前を捨てたもの同士、初めは『組織』から与えられたコールナンバーで呼び合っていたのだが、それもなんだか変だよね、という彼の提案で、おれはヒバリ、彼はユウジロウ、となった。いずれも彼が敬愛する昭和の大スターらしい。


「気に病んではない。ただ、ちょっと、な」

「対象外の子が、誰かに似てた、とか?」


 息を呑んだ。口の中にあったウィスキーが、突然熱を持ったように思った。

 ユウジロウの指は止まっていない。何を見ているのかもわからない。もしかしたらネット上に流通している、新宿歌舞伎町のペンシルビルで起こった火災の記事を読んでいるのかもしれないが、それでおれの頭の中まで覗けるはずはない。

 おれは無言を通した。グラスの中で氷が解けて、鳴った。


「ああ、やっぱりヒバリはいいよねえ」


 突然そんなこと言いだす。おれは自分のことを言われているのだと思って、身構えた。だが、


「聞くかい?」


 そういって、ユウジロウはキーを叩いた。

かたかた音に混ざって、音楽が流れ始めた。おれの名前になっている女性歌手の歌だ。

 ユウジロウは極度の昭和歌謡好きだ。実際の年齢は知らないが、多分同年代のはずだ。しかしこの嗜好は年齢を疑いたくなる。ここへ通うようになって、この歌を聞かされたのは、今日が初めてではない。だが今日は、どこか深いところで聞こえているように思う。


「やっぱり彼女は昭和を代表する歌姫だよ」

「それも『組織』が作り上げた偶像なんだろ?」

「それは真実であって真実ではないよ、ヒバリ。彼女は確かに『組織』が押し出した、国民が目指すべき希望のモデルケースの一人だった。けど『組織』がそう動いたから、彼女がその地位を築いたわけではないよ。彼女は自ら舞台に上がったのさ。あの小柄な体で、戦後の混乱から復興へ向かう国民の、あらゆる感情を受け止めて、象徴となったのさ。彼女は自らの足で舞台に立ったんだ。そこが大きな違いだよ。決して舞台に上がろうとはせず、好きなだけ不平を吐いていられる、そういう弱者の立場に好んで身を置くこの国の大多数の国民たちと、彼女やユウジロウは根本的に違っているんだ」


 この話になると、ユウジロウは饒舌だ。愛情がそれだけ強いのだろう。


「『組織』は彼女の声を加工したわけじゃない。彼女の心を操作したわけじゃない。『組織』はただの拡声器さ。彼女の声を余さず集めて、より効果的に、より効率的に国民へと届けた。ただそれだけなんだよ。本当の救世主たちとは、雲泥の違いさ。第一……」


 おれとユウジロウの会話の比率は、七対三だ。いや、八対二か。九対一かもしれない。とにかくほとんどの時間、ユウジロウがしゃべってくれる。おれはそれに相槌を打ったり、打たなかったりしているだけ。おれに個人的な興味があって接触してきたらしいのだが、最近では単に話し相手が欲しかっただけなのでは、と思っている。おれとしては、良質なウィスキーをいつもどこからか用意してくれているので、何の文句もない。


「ああ、そういえば、話は全然違うんだけどさ。近々、大きな仕事があるらしいよ。『処理班』の実働部隊へも、何人か声がかかるんじゃないかなあ」


 永遠に続くかと思った昭和歌謡話が突然終わったのは、意外にもすぐだった。


「大きな仕事?」


 グラスを揺すった。ウィスキーが少し濃い。


「そそ。ちょいとまずい情報漏れがあったらしくてね。最近民間で流れてる情報を確認した?」


 テレビやネットといった、誰もが目にする情報を確認することが少なくなったのは、『組織』に入ってすぐだが、ユウジロウと話すようになってからは、完璧に見ることがなくなった。ネットの掲示板に垂れ流される言葉も、テレビからあふれる言葉も、携帯が表示する情報も、新聞の記事も、すべてこの男の手の中にあって、出し入れが決定される。何を見せるのか。何を見せないのか。すべて、この男の手の中にある。国民はそれを自分たちが好き自由に取得し、放出したものだと思い込んで生活している。虚構だとわかっているものを、真剣になって見ることができるほど、おれは人間が出来ていない。


「最近、家畜が大規模範囲で疫病に罹った地域があってね。立ち入りも、上空の飛行も、国と自治体が厳しく制限している」

「それはどこまで本当なんだ?」

「前半分がカヴァー。立ち入り禁止と飛行制限は本当」


 ウィスキーを飲む。氷が解けてアルコールが緩和されていた。


「詳しいことはまだ話が来てないからわからないんだけど、対象がその地域に逃げ込んだらしいんだよ。『情報班』の話」

「また雑な仕事じゃないといいな」

「同感。でもこれはかなり信憑性があると思うよ。『組織』全体が動いているネタだから」

「『組織』全体?」


 異例な話だ。異例中の異例だ。大きな仕事、といっても、『組織』の人間同士が顔を合わせることはまずない。そのことに変わりはない。集合して、力を合わせて、同じ標的を、仲良く狙ったりすることはないのだ。


「それ、どれぐらいのヤバネタなんだ?」

「レベル4+。まぁ、見過ごしたらこの国消し飛ぶぐらいかなぁ」


 さらりという。この男は。手は止まらず、ヘッドギアを外すこともない。この国が消し飛ぶことに興味はない。ユウジロウの声はそう言っていた。

 彼は仕事を愛している。ワーカーホリックと言っていい。だが『組織』そのものを愛しているわけでも、ましてそれが守ろうとしている国を愛しているわけでもない。彼が愛しているのは、純粋にこの世界を監視する、この仕事だけだ。もしこの国が世界から消し飛べば、彼はまた新しい雇い主を探すだろう。そうして人の世を超越的な視点から見続けるに違いない。神の視点から。


「それは比喩か? それとも現実か?」

「さぁ。そこまではちょっと。調べてみようか?」


 グラスを回した。褐色の液体はかなり薄まり、残りも少ない。


「いや、いい。どうせそのうち呼ばれるだろう」

「賢明だね。知らないでいた方が身軽でいられる」


『組織』にいるもの、すべてが共通して持っている概念だった。知らないでいた方が、身軽でいられる。何からも抑制を受けないし、足を掬われることもない。情報には、それに伴う『重力』が、必ず存在する。だが、この概念を定着させているのは、おそらくおれたち『組織』の人間か、それに近しいものたちだけだろう。他人より早く知り、他人より多くの情報を垂れ流すことに躍起になっている、一般の国民たちが日々考えていることとは、完全に真逆の概念だ。


「来たら仕事をするだけだ」


 その時、ポケットで携帯電話が鳴った。最後のウィスキーを流し込み、携帯電話を手に取った。


 ウィスキーは薄まりすぎていて、もう本来の味は楽しめなかった。

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