第2話 仕事

「現着。実施」


 それだけを携帯電話に吹き込んだ。余計なことは口にしない。その必要もないし、そういう指導は受けていない。

 二つ折りの携帯を尻のポケットにねじ込み、おれは身を預けていたガードレールから立ち上がった。無地の黒いTシャツにやや大きめのヒップバック。破けたジーンズを纏ったおれの姿に、視線を向けるものはいなかった。おれはいま、この街に完全に溶け込んでいた。新宿、歌舞伎町。この国でも指折りの歓楽街。人々の欲求を様々な形で満たす街。いまのおれとはあまりにもかけ離れた世界だった。だが、それでもいま、この一瞬だけは、間違いなく、違和感なく、溶け込んでいた。

 すべては『組織』に叩き込まれた訓練の成果だった。外見だけではなく、その街その街にある呼吸、におい、鼓動に合わせた歩き方。当たり前の生活になじむ立ち居振る舞い。そういったものを、『組織』はおれに徹底的に教え込んだ。

 立ち上がった瞬間、ふと、立ちくらみのような感覚で、昔のことを思い出した。『組織』の一員になる直前、そのきっかけ、そして今日まで。一瞬の白昼夢の中で、何人かの顔を見た。まだ成人して間もない自分の、短い人生に関わった、数人の顔。


 彼らは、どこへ行ったのだろう。


 苦笑。いや、嘲笑だろうか。いずれにしても自嘲の意を含んだ笑みが、思わず顔に出た。余計な感情だ。慌てて押し隠し、当たり前のような顔を取り戻して、おれは目の前にあるビルに足を踏み入れた。

 歌舞伎町に乱立するペンシルビルの一つ。入口から奥の様子は、他の例から大きく外れるものではなかった。一階は大人が二人もいればそれだけで狭苦しいエントランスと、エレベータがあるだけ。階段もあるにはあったが、もうずっと使われていない様子だった。物置なのか、それともただのゴミなのか、無数の段ボールと利用価値もわからないものが乱雑に積み上げられていた。

 おれは迷うことなくエレベータを呼び寄せるボタンを押した。『清掃班』が現着するまでは三分。腕時計に目を落とし、確認した。

 四人が限界と思われる狭いエレベータはすぐに到着した。乗り込み、扉の上にある階数表示を見上げた。目的階を確認すると、手早くボタンを押した。電話を切ってから、ここまでで三十秒。

 この仕事で大事なのは時間だ。時間の厳守。これは絶対に怠ってはならない。他の役割を担うものたちとの連携が取れない奴の多くが、この約束事を守れない人間だ。そういう人間を『組織』は必要としていない。訓練時に叩き込まれるが、それでもできなかったものは、すぐに落伍していく。人間としても、生命としても。

 エレベータの扉が閉まる。おれはヒップバックから仕事道具を取り出し、状態を確認した。これも大事なことだ。自分の仕事道具を最高の状態にしておくことは、基本中の基本。様々な伝統工芸の職人や、野球やゴルフなど、道具を使うスポーツのアスリートたちにも通じるところがある。もっとも、この仕事はそんな華やかさとは、まったく無縁のものだが。

 持ちなれた感触と重さを確かめた。そして同じヒップバックの、別のポケットに手を入れた。そこから携帯電話ほどの大きさの、携帯電話にしては丸く、細長い、棒状の金属体を取り出した。それを仕事道具の先端に、ネジの要領で装着する。中をくり貫いた鉄製の筒は、マズルフラッシュと発砲音を抑えてくれるサプレッサーだ。これなしでは、おれの仕事は成り立たない。そう言っていいほど、重要な道具だ。

 2、3、4、と光が移動する。目的の階は五階。階数表示を見上げながら、サプレッサーの装着を完了した仕事道具――シグP230自動拳銃を右手に、両の手をだらりと下げた。

 深呼吸を一つ。深く吸い、深く吐き出す。狭いエレベータに満ちていた、煙草のヤニの饐えた臭いが肺を一周して出て行った。不快感だけが残る。

 報告では、今回の対象は七人。すでに確認した見取り図通りならば、二十秒で済む。仕事の内容を反芻し、行動を短くシミュレートし終えた時、回数表示は『5』を光らせた。

 扉が開く。すぐに扉がある。表面にはこのテナントに入っている企業の名前。事前情報では、不動産関係の企業だという話だったが、それはおれにはどうでもいいことだった。

 左手で扉を開ける。銃という非日常をぶら下げた右手は、まだ動く時ではない。


「いらっしゃいませ、お部屋をお探しですか?」


 勢いよく扉が開いたことに、少々驚いた様子の女がそう言った。入口のカウンターに座る受付嬢。おれと同じぐらいの歳。二十代前半。


 美雪に、似ている気がした。


 一瞬でそこまで確認し、迷った。躊躇した。行為そのものを、ではない。順序の問題だ。


 答えはすぐに出た。


 非日常をぶら下げた右手が動く。


 左手を素早く添えて、構える。


 照準し、引き金を引く。


 空気の抜ける音。


 女の額に黒いシミが生まれた。


 刹那の後、後頭部が水風船のように弾け飛んだ。


 一瞬の静寂。


「えっ」


 すぐ近くで、息を詰まらせた声が聞こえた。驚いた、というには足らない、感情の宿らない反射的な声だった。おれは声を出したその額に照準し、引き金を引いた。サプレッサーにより減音され、高音域が抜け落ちた奇妙な銃声は、わずかに腹に響く低い空気音だけを残して、そこにいたスーツの男の頭蓋を撃ち砕いた。男が崩れ落ちる姿を見ながら、おれはカウンターを飛び越えた。


「てめぇ、どこの組のもんだ!」


 その間に、さらに二人の男が荒々しい声と共に飛び出してくる。手には刃物が握られていた。どこの家にでもあるような包丁ではない。歴とした、人を殺傷することを目的とした、大型のナイフだった。さっきのセリフといい、この武器といい、なるほど、ここの連中はそういう奴らなのか。おれはその二人の頭を撃ち抜きながら思った。


 これで四人。あと三人。


 さらに奥に進む。フロアは広くない。というよりも、奥に作られた部屋の方が敷地面積の大半を占めている。事務室だろうか。

 その扉が開いた。中に男の姿が見えた。二人、飛び出してくる。その手には拳銃が握られていた。サプレッサーは装備していなかった。あまり騒がれるのは避けたい。おれは素早く狙いをつけ、トリガーを絞った。顔と胸にそれぞれ弾を喰らった二人の男が、糸の切れた操り人形のように回転して、倒れた。倒れた二人の身体を跨いで、部屋の中に足を踏み入れた。徐に。取り立てて急ぐことなく。


 中には男と女が一人ずつ。


 机が並べられた事務室を想像していたが、まるで違っていた。何をしていたのか、不必要に肌を露出した服を着た女と、脂ぎった男の身体は、絡まるようにして部屋の中心に置かれた、黒い革張りのソファの上にあった。

 かたぎの人間でない、とわかった時点で、事務室などという想像は捨ててよかった。わずかに息を吐き出したおれの姿を見て、男が慌ててソファから起き上がろうとし、身体の上に乗っていた女を乱雑に押し退けた。

 クスリでも盛られていたのか、それとも自分で呑んだのか、妙に気だるそうな女は、されるがまま文句も言わず、やはりだるそうに身体を動かして、おれの方を淀んだ目で見た。おれと目が合い、続けておれの手にある拳銃を目にした女が悲鳴を上げそうだったので、とりあえずその頭を撃った。

 男の手がソファの上を這い、すぐ後ろにあった執務机の上に手を伸ばした。見るとそこに拳銃が乗っているのが見えた。それを手に取り、構え、照準し、引き金を引く。


 だが、そこまで待ってやる義理は、おれにはない。


 男の後頭部に照準し、男の手が拳銃に届いた瞬間、引き金を引いた。


 低音だけの銃声。


 そして、静寂。


 嗅ぎなれた硝煙の臭いを感じた。不快感はない。


 腕時計に目をやる。かかったのは、やはり二十秒。


 部屋の中を見回す。いま撃った二人。部屋の入口に、銃を持った二人。


 銃をヒップバッグに収めながら、部屋を出る。刃物を持った二人。驚いた顔のまま硬直している一人。


 七人。


 カウンターを出る。入ってきた時と同じように、受付嬢はそこに座っていた。但し、もう言葉を発することはない。


 八人。


 対象は、七人。


 対象外、か。おれは受付嬢の顔を見て、そう思った。


 椅子の背もたれに寄り掛かり、首を傾げた姿勢のまま硬直している顔は、驚き、目を見開いた表情をしていた。


 その顔が問いかけてくる。


 なぜ。


 なぜ私の命を奪うの? 私がなにをしたの? なぜ。なぜ。なぜ。


 美雪に似たその顔が、おれをじっと見つめている。


 携帯電話を取り出した。


「264、終了。対象外、一。『情報班』の誤りを指摘」


 なぜ。


 答えてやれなくもない。だがお前の知りたいことすべてには答えてやれない。おれもすべてを教えられてはいないのだから。

 あるべき国家の姿を守り抜く。それが『組織』の存在理由。そのあるべき国家の姿を聞いたとしても、お前はほとんど理解できないだろう。なにせ、いま信じている世界のすべてが、ひっくり返るのだから。それにもう、お前は理解する頭を持っていない。

 携帯電話をポケットに戻し、カウンターに背を向けた。『清掃班』の到着まで一分。


 罪の意識があるのかもしれない。おれの中にも、まだ。珍しくそんなことを思ったのはきっと、わずかに見た白昼夢のせいだ。


 美雪に似た顔は、何も答えない。疑問を向け続けているだけだった。


 あの下人は、どこへ行ったのか。


 おれがいまいる、こんな世界だろうか。


 初めて目にしたあの日から、おれを問いかけ続けるあの言葉が浮かんだ。エレベータのボタンを押す。止まったままだった扉は、すぐに開いた。


 あの日の答えは、まだ出ていない。

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