後編

 狙撃兵は捕虜にならない。待つのは死だけ。ましてや、人間でない者など尚更だ。

 キーラは今も稼働している。

 その事実が、キーラが『恐ろしく強い狙撃兵』だったことを物語る。

 ミスを犯せばすぐに死へと転がるポジション、それが狙撃兵。

 怪我、などというものはない。手に血の付かない勝利か、死か。それだけ。

 おぼろげな記憶の残滓は、敵の死も自身の死も等しく平等に軽く扱っていた、かつての自分があったことを時たま告げる。それはフラッシュバックとして、不定期に、波のように襲いかかる。


「テイク・エイム。……シュート、ヒム」

 トリガーを引き、海人が二匹同時に貫かれ、死ぬ。

 それを確認すると、慣れた手つきで狙撃銃からカートリッジを外し、銃弾生成に必要な海水を足元の海から補給する。

 この動作も、『覚えた』ものなのか、それとも最初からアプリケーションとしてダウンロードされていたのか、記憶が定かではない。

 自分の中の曖昧な部分がキーラは嫌いだった。自分がはじめから鉄のかたまりで出来た無機質なデザインのロボットであればよかったのに、と時たま思う。しかしそんなことを言っても聞き入れてくれる者はもはや存在しない。キーラは過去の生き残りとして、やろうとすることをやっているにすぎないのだ。

「……馬鹿らしい」

 独り言が増えたな、とキーラは自省する。

 けれど、それもこれも全部、あいつのせいだ。あの鐘に居る、あいつのせいだ。

「…………馬鹿らしい」

 

――気づけば、海の向こうから、朱色がやってくる時間だった。

また、あそこに行こう。あそこなら、曖昧な私は全部流れ去って、私が私でいられる。


 そしてキーラはまた、昨日と同様に、夕陽のよく見えるあの場所へ潜りに来た。

 波が足元まで来て、白くなって爆ぜる。

 鳥も鳴いている。

 夕方はいつも、少しばかり賑やかになる。

 まるで夜の静寂をみんなで押し返そうとするかのように。

 そこから一気に、優しい無音の世界へ。

 裸になって飛び込んで、冷たさと光に抱かれて薄い網目の先にある空を見上げる。

 たゆたうだけの時間ではなかった。色んなことが頭に浮かんで、それはひとつの顔になった。

――クッカ。

 もう、振り払えないのかな。

 口を開くと、言葉が泡になって上へ、上へと飛んでいく。それは『言い過ぎたかな』という文。

 ――私はあの子を、どうしたいんだろう。

 ――もう、面倒だとか嫌だとか、そういう言葉だけであの子のことを考えてるのではないのかもしれない。

 あの少女が、おそらくはあの戦いの後初めて出会った人間の少女が、高い高い塔の上で、遠くまで、深くまで聞こえる音を出す鐘に寄り添って海を眺めていて、服の端が風にちらちらと揺れる、その光景を思い出すと、自分でも唐突だと感じるが、どうしてもそう思えてくるのだった。

 ――だから、もう一度会わないといけないのかもしれない。

 ――そのうえで、嫌われてしまおう。

 キーラは決意を固めた。

 今晩、クッカに昨日のことを誤りに行くんだ。



 橙と紫色を交互に織り上げて、空は夜になる。

 その境目の時間。

 きっとこれが、世界が一度終わった時に、最も近い光景なのだろう。

 クッカは幾つもの夜を超えて、そう思うようになった。

 誰かを求めるような声をあげながら、鳥が水平線の彼方へ飛んでいく。

 波もそれと一緒に遠くへ行ってしまうように感じる。

 なんて物悲しくて、綺麗な時間なんだろう。

 この空の色だけは、海上だろうと海中だろうと、どこにだって平等に降り注ぐようになったのに、それなのに何故、あの人はあんなことを言って、あんなことをしたのだろう。

 沈みかけている太陽に手を伸ばす。

 そして、ぽろりと零す。

「……会いたいよ。会って話がしたい、キーラ」

 風は何も答えない。しかし。


 クッカの後ろに、キーラが居た。

 今度は何も持っていない。振り向かずとも、分かった。

 そして夜が来る。完全に、完璧に。

 月が、そのまるい姿を現しつつある。

「……キーラ?」

 キーラは答えない。だが、それが肯定だった。

 歩み寄る。

 今度は、キーラのほうからだ。

 キーラはまだ一言も何も言わない。それでも。

「来てくれたんだね」

 そこで初めて、キーラは口を開いた。

「クッカ。お前に伝えることがあったからここに来た」

「……うん。そんな気は、してた」

 キーラは少し困惑した様子を見せたが、わずかながら表情の緊張が解けた、ように見えた。

 しかしそこでキーラはくるりと反対になり、クッカに背を向けた。

「キーラ……?」

「まずはお前に謝らなくちゃならない。昼間、あんな無茶なことして……その、悪かった」

 あの時の、銃を突きつけて来た時のキーラの表情をクッカは思い出す。何か恐ろしい錘を背負っているかのような形相だった。たまっていたものがすべて放出されたかのような。

 少し、身体が震える。しかしすぐにクッカはそんな自分を恥じる。キーラに出会ったことの方が大事なのだ。

「いいよ、そんなことは、もう……それより」

 背を向けているキーラは、夜の闇のせいかおぼろげなシルエットでしかない。

 波の音。

「後腐れがあるままなのは、嫌いなんだ。重石になる。だから、今度は言葉で、私のことをクッカに伝えようと思う」

「そんな……もう会わないみたいな言い方しないで」

「きっともう会わないんだよ。多分、私とお前は絶対に相容れない。私とお前じゃ、住んでる世界が違う。それが、出会ってしまった。そんなことはあってはならないんだ。……頼むよ、聞いてくれ。『お願い』だ」

 キーラの背中が少しだけ震えている。

 クッカは駆け寄りたかった。しかし、そんなことなんて出来なかった。する気にはなれなかった。

 ……断れるわけ、ないよ。

 クッカは沈黙を投げた。

 波の音。

「……すまない」

 キーラは、身体の向きを反転させて歩み寄り、クッカの右耳へ近づき、抑揚のない声で語り始める。それは事実であって、自らの感情を表出したものではない、というように。

「私は戦闘用の兵器として人間によって生まれた。……まぁ兵器なのにこんな人間みたいな容姿でしかもパーソナルが女と来てる。だから単なる戦闘用じゃなかったんだろうけど」

「えっ……」

「いや、いいんだ。もう戦争以前の記憶は殆ど無い。あの時何されてようと知ったこっちゃない。……とにかく。結果として人類の大半は地上で戦火に巻き込まれて死亡。海の中へ逃げ延びた連中は人としての生を捨てて、化け物になった。……その事実は、わかってるよな」

「うん」

 クッカの顔は真剣だった。少なくとも、この少女に甘えなどはないのだ、ちゃんと自分を持ってるんだ、と思うと少しほっとした。自分の話も無駄にはならない。

「私は死に損なった。人間と……もう忘れてしまった主人と一緒に死んでしまうつもりだった。けれど生き残った。記憶は無いくせに、銃の使い方は覚えたままの状態で、過去の遺物として私は生き残った」

 この黄昏の世界で最初に目を覚ました時、キーラが掴んだのは冷たい鉄。その感覚と共にキーラは今居る。

「私はすぐにでも自決したかった。生きる意味が無いんだもの。当然だ。……だけど、見てしまった。海上で、生きる人間達を。『凪の粒』に身体を蝕まれながらも、確実な死に向かいながらも生きている連中を。そしてまもなく、海中深くの都市の、その影にある洞窟に住んでる元人間の奴らの存在も。……それがあって、今の私がある」

 異なる二つの生き方をする者達に出会ったのは、同じ日だった。もし出会ったのがそれぞれ違う日だったら、また違ったことになっていたかもしれない、とキーラは思う。

「あいつらは……海人達は人間を殺す。そして殺された人間は二度と帰ってこない。まずそれが事実だ。揺るがない事実なんだ。けれどそれだけだったなら、私はこんなことをしていないと思う。海人自体がどれだけ居るのか分かったものじゃない。私だけで守れる人間の数なんて、知れてるから」

 キーラの頭の中に埋め込まれた命令装置はまだ生きている。しかし、命令を下す者がもはや居ない。ゆえに、あってないようなもの。それでも一番初めにキーラが考えたことは、人間のことだった。

「なのに私が出会った海上の人間たちはみんな……みんなまるで『そんなこと』どうでもいいみたいに、みんな静かに死んでいった。殺されようが、どうでもいいみたいに」

 キーラは、目の前で海人に切り裂かれて死んだ男の表情が思い出せないでいる。靄がかかったように、曖昧な表情だったのだろう。

「海人はそんな人間たちのせいで海の中に住むようになった。そして海人は人間たちを殺す。海人っていう過去の積み重ねが生み出したものが、人間たちを殺すんだ。なのに、まるで知らんぷりだ。贖罪にはもう飽きたとでも言うように。今まで散々カミサマ気取りで建物を上へ、上へ……って高くしていったっていうのに、それを全部海の中に沈めて、自分たちは都合よく死を受け入れようっていうように。……私は、この海上で生きてる人間たちに腹が立つ」

「そんな……なら何故銃を取るの」

「まだ分からないのか。だからこそ、だよ」

 キーラは口を歪めて、クッカの耳元で酷く低い声を出しながら、奇妙な表情を作った。生きてきた年月が、クッカとキーラではまるで違う。キーラの肩には、長い年月の情念がかかっているのだとクッカは感じた。

「どっちが死のうがどうでもいい。どれだけ死のうがどうでもいい。ただ私は人間たちのそういった馬鹿さ加減を、あいつらに知らしめてやろうと思った。だから戦ってる。怒りだけが今の私を支えてくれる。この状況こそが、私の存在意義で、墓碑銘。……だから私は銃を取って、海人を殺す。微塵の躊躇もしない。狙った獲物は殺すまで追いかける。そうやって仕留めたら、海上に吊るし上げて見せしめだ。誰も見ちゃいないのに。……どうだ、これが私だよ。効率性なんて知ったことじゃない。そんなことを考えられる頭はしていない。私は、怒りが動力源の戦闘兵……」

 キーラはもう、それ以上語らなかった。語り終えたのだ。

 びゅう、と強い夜の風。キーラは一瞬目を閉じる。


 再び目を開けると、キーラはクッカに抱きしめられていることに気付いた。

 しょっぱくて、甘い匂いがした。

 キーラは一瞬何をされているか分からなかったが、抱擁されている自分に気づくと、閃光のような速さで動揺が全身を駆け抜けた。

「……お前、何やって……」

「あなたはとても大変な生き方をしてきたんだね。私、そのことをちっとも理解していなかった。ごめんなさい……ほんとうにごめんなさい」

「おい、離せってば」

「私は何も分かってなくて、ただあなたの残酷な行いを非難してただけだった。……だから、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……っ」

 キーラは更に驚愕した。クッカはまた泣いていた。彼女の片目からは止めどなく涙があふれている。前の時とは違い、手は流れる涙を止めることはなかった。クッカの顔がどんどんぐしゃぐしゃになっていく。

「……離せよ。お前が今抱いてるのが、何か分かってるのか」

「キーラだよぅ。キーラっていう、私の友達! だから、離したくない。あなたの悲しみを、私にも抱きしめさせて欲しいんだ」

「悲しみなんて言葉、とうの昔に忘れた。その意味がもう分からない。今はただ、ニンゲンのために、悪いヤツラを殺してる。そんな奴だ。……だから、離せ。……いや」

 月が見えた。それはもう、ほぼ満月といえた。だから聞く気になれたのかもしれない。

「……そのままでいい。いいから、1つだけ、聞いてもいいか」

「……なに?」

 ぐしゃぐしゃの顔のまま、クッカは首を傾げた。

「お前は……何も恨んじゃいないのか。自分をそんな身体にした人間も、人間を大勢殺す海人も。誰も彼も」

「『恨む』……」

「そうだ。今なら言える。お前は他の人間たちとは何か違うところがある。だからそんな感情も、まだ擦り切れてないんじゃないかって、思う。だから――」

「……私は」

 クッカが眉を潜め、さらに俯いた。

「私のことはいいから、自分の気持ちを教えて欲しい。ありのままで、いいんだ。……頼む」

 出会って間もない頃の自分がクッカにこんなことは言わなかっただろうと思うと、キーラは少し恥ずかしくなった。

「……分かった」

 クッカは抱擁を解いて、キーラから離れた。そして、背を向けて、鐘に額を付けた。

「私は……恨むとか、恨まれるとかは、もう分からなくなった」

 鐘がわずかに揺れる。

「キーラが話してくれたことを聞いて、私はすごく納得した。キーラのやっていたことはすごく意味のあることで、それを私に話してくれたっていうことは、とてもいいことで、でも私がキーラにしてあげられることが分からなくって……悔しくて。それで、分かっちゃったんだ。自分の考えが」

 クッカの声は震えている。きっとまた涙を流しているのだろう。

「私は何も恨んじゃいないんだって。私は人間でも、海の中にいる人達でもないんだって。私は自分の考えとかそういうことを、全部この鐘が包み込んでくれると思ってて、ゼロにしてくれると思ってて。だから、私はこの鐘つき塔を出ないんだって。そもそもこの塔だって、あなたの言う『高いところ』にあるのに。……おかしいよね。酷いよね。私、キーラをまるで踏みにじるみたいに、こんなこと言って――」

「……おかしいのは私のほうだ。一方的に自分のことを話して、挙句質問までして」

「キーラは……何も間違ってなんかないよ! 海の上で暮らしている人達のありさまのひどさも、海人の残酷さも、全部『そうだ』って言えるのに――それなのに」

 クッカは、涙をぬぐい、作り笑いを浮かべてキーラを見た。鐘で月が隠れて見えないが、不思議とクッカが輝いているように見えた。

「それなのに私、全部『肯定』しちゃうんだ。全部、『そうだけど、そうじゃない』って思っちゃうんだ」

「お前――」

 クッカの一連の言葉を聞いて、キーラは何か思うことがあった。しかしそれが何かは分からない。

 冷たい風が吹く。

 キーラが少し身体を震わせる。

「キーラは……これから、どうするの。私とか関係なく、ただ答えて欲しい」

「私は……」

 『もし』をキーラは想像した。しかし、すぐに消えた。選択肢はあの時に、消滅したのだ。物理的に。

「私は多分、これからも狩りを続ける。私にはそれしかない。……私が、世界中の人間に聞こえる『声』ならよかった。だけど違った。だからこれからも、続けるよ。無駄だって分かってても。……私はいつか復讐にやってきた海人に殺されるかもしれない。それでも、私はそれでいい。死にぞこないが、死ぬだけなんだから。報いを、受けるだけなんだから。……クッカは、私を止めるか?」

「止めないよ。……私だって、ここで鐘をつくことを、多分やめられない。そのたびに、あなたの邪魔になるかもしれない。……それでも、私はここで毎朝毎晩、鐘をつくんだ」

 そこでキーラは、少し前からそのことについて頭に浮かんでいたある疑問を、クッカにぶつけた。

「すまない。……もう一つ質問して、いいか」

「……うん」

「お前は……お前はどうして鐘をつくんだ。聞かせて、くれないか」

「うん、分かった」

 クッカは外の海を見た。もう完全に、そらと同じ闇で塗り潰されている。月の光も、僅かにしか降り注いでいない。

「私ね、こう思うんだ」

 キーラは黙って聞いている。

「この鐘をついていれば、どこかに居るかもしれない人達に聞こえるかもしれないって。まだ海上に生き残っている人達同士を、この鐘で引き寄せられるんじゃないかって。……凄く馬鹿げてると思うでしょ。だけど、やめられないんだ、私」

 クッカは眉を八の字にして、笑った。そんな笑い方も出来るのか、とキーラは思った。

「そうだ。夜の鐘、今日はまだついてなかったんだ。……キーラ、よかったら、お別れする前に、あなたに聞いていってほしい。鐘の声を」

「あぁ。……聞くよ」

 クッカは本当の笑顔になった。キーラはその笑顔にドキリとした。首から下げている十字架と、同じ輝き方をしたように見えたからだ。

 波の音が聞こえる。もう魚たちも寝静まっているだろう。

 しかし、海人達はどうなのだろう。あの者達は、寝たりするのだろうか。

 ちらりとそんなことを考える、静けさの時間。

 わずかばかりの月明かり以外に、明かりを灯している物は何もない。ほとんどが、闇だ。星もろくに出ていない。殺風景さが広がっている。昼間のように、明るさでごまかされることもない。夜は世界を無防備にする。夜の景色が物語る。やはり世界は、殆ど滅亡しているのだ。


 クッカの準備が出来たらしい。鐘の空洞の中央から垂れている。太い紐を、クッカは細い腕で、勢いを付けて一気に下ろす。


 鐘が、鳴った。

 すぐ近くなので恐ろしいほどの轟音になるはずなのだが、不思議と耳が痛くならない。それどころか、優しく全身を包んでくるような、そんな音色。夕方の海の中でも聞こえたあの音。海中都市の底深くにもきっと聞こえる音色。

 どこまでも遠くへ飛んでいくような、鐘の声。

 クッカは鐘の余韻に調子を合わせるようにして、外に顔を出しながら、見える限りの全ての闇に向かって、言う。

「グッドナイト、聞こえていますか、スイートハーツ。わたしの愛しいあなたたちへ。わたしは、ここに居ます」

 本当に、世界中に叫んでいるようだった。キーラは声が出せなかった。


 やがて、終わった。

 波と風の音以外、完全な静寂な世界へと戻る。鳥の声すら聞こえない。

 二人は黙っていたが、クッカが話し始めた。

「こんなこと言ったって、無駄なことはわかってるんだけど、それでも、言わずには居られないんだ」

「……そうか」

 再びの沈黙。姿を持たない闇の海風は限界を悟った。

 

その時、キーラは、クッカが、自分の胸辺りをじっと見ていることに気付いた。

 首から下げている十字架を見ていたのだ。

「ごめんなさい。それが、気になっちゃって」

「これか。……気づいたら、ぶら下げてた。いい加減に、捨てるべきなんだろうな。忌々しい」

 かちゃかちゃと手で弄ぶ。金色の冷たさが手に広がる。

 クッカはしばらくそれを見ていた。そして、何か言いたげであるように口をもごもごさせていたが、何も言わなかった。


 別れの時間。


「……これで、さようなら、なのかな」

「さぁな。また、会うことがあるかもしれない。けれど今は……さよならなんだ。会っちゃいけない」

「うん。……さようなら。おやすみ、キーラ」

「……あぁ」

 キーラはさよならを言えなかった。

 二人は別れた。


 階段をキーラは力なく降りている。

 様々な考えが頭の中を駆け巡る。

 人。そして、海人。そして、クッカ。

 そこでキーラは、ある考えに突き当たった。

 それはキーラの足を止めて、頭を抱えさせるには十分なものだった。

 自分の言葉。

 クッカの言葉。

 そしてあぁ、なんということだ。

 

 自分は、クッカに、何もかも似ているのだ。

 クッカは、自分なのだ。

 ――クッカは私で。私はクッカなんだ。

 ……私はお前のようには、毛ほどもならないのに。

 ……クッカ。

 ……クッカ!

 キーラは声にならない叫びを上げる。

 そして何度も、クッカの名を呼ぶ。

 答えなどなかった。それに、クッカとはもう別れてしまった。全てが手遅れだった。

「くそっ……くそっ……こんなことがあっていいのかよ、クッカ!」

 キーラは転びそうなほどの速さで、階段を降りていった。そして、闇の中に消えた。


 ◆


 キーラには、ある『思うこと』があった。

 それは、海人が海上の人間を襲う理由について。

 新しい考えが浮かんだのだ。彼らが上昇してくるのは――元『人間』としての本能の残滓からなのでは。

 『上へ』『上へ』。人間が建物をどんどん高くしていったように。天に近づきすぎたように。彼らもまたその思考の残りカスを抱えているから、そんなことをしているのではないか。

 クッカと出会ってから思いついたことだ。しかしこじつけにすぎない。

 それにあぁ、キーラは今思った。この仮定をもし是とするならば、何故彼ら海人はクッカの居る塔を目指さないのか、ということだ。あそこは――多分、このあたりで一番天に近い場所なのに。

そして何より、人間と海人の境界線があやふやになってしまう。自分が狩りをする必要性がなくなってしまう。自分の存在意義がなくなってしまう――。

 だからキーラはその考えを捨てなくてはならなかった。自分の存在を、これ以上ぶれさせてはならない。

 クッカのことを頭から振り払おうとする。しかし、彼女の涙が脳内でずっとチラつく。あの子の事を、何もかも忘れさってしまうべきなのに。忘れて、世界の片隅で、あの子以外への総ての恨みを放出して、くたばって果ててしまうべきなのに。

 『そうだけどそうじゃない』なんて、理屈として理解できても、自分にとってはそれ以上はなんでもない言葉に過ぎない。だから、あの子とはなんにも、どんなものにもなれない。『似たもの同士』だなんて、体のいい気休めに過ぎない。自分は命を奪う。あの子はそんなことをやってない。それでもあの子は『そうだけどそうじゃない』だなんて言うのか。……くそっ。


 キーラは、クッカの顔を頭から消すために、虚空に向かって、銃を何度も撃った。何度も、何度も、何度も。


 やがて撃ち尽くし、虚しさだけが静寂に拡散した後、キーラは気付いた。

 今視界が薄ぼんやりとするのは、空の暗さだけが原因ではないということに。

 今足がふらつくが、機械の身体が、ケガ以外でふらつくことはまずないということに。

 『限界』は、すぐ傍まで来ているのだ。

 そして夜が明けた。


 変わらぬ朝が来るはずだった。

 しかし、あることが起きた。

 それはキーラの全てをまるっきり変えてしまった。


 ◆

 朝。また狩りの時間。決めておいたポジションに船をつける。

 そしてソナーを作動させ、コードを口に咥え、海を走査する。しかし脳内に流れ込む情報は何も物語らない。

「……?」

 今までの海人の出現位置などをまとめ、そこから割り出した場所なのに、海人の反応がない。

 狙撃モードに切り替わり鋭敏化された脳が、異常だと判断する。

 キーラはソナーを海の中から引き上げる。場所を変えてみよう、ソナーの有効範囲はかなりのものである筈だが、反応がない以上それより遠くに海人が居るのだろう。

 ……いや、もしくは。


 キーラは別のパターンを考えた。それは今までだって何度もあったであろうことで、今更考えたって仕方のないことだった。しかし今のキーラは、そのパターンを、最悪のパターンと考えた。考えてしまった。なかば無意識にその変化は起こったがゆえ、キーラは気づいていなかった。

「……まさか、既に海上に」

 判断力を失ったわけではなかったが、キーラは酷く動揺していた。

 地上用のサーチングアプリケーションを眼球にて起動する。世界がこうなってからは一度も使用していないものだ。見つけられない範囲に居るであろう海人はまるっきり無視してきたのだから。しかし今こうして起動している。

錆びついたアプリは眼神経への刺激が大きい。こめかみのあたりが激しく痛み、脳内に火花が散るが、そんなことを気にしている場合ではなかった。

「どこだ――くそっ」

 空が、海面が、海中から飛び出た建物群が、薄緑色の十字の網で覆われる。『熱』を感知したら赤く反応するはずである。

 風が吹く。波の音がする。キーラの焦りを表現するように。

 そして見つけた。

「そんな……!」

 熱源は、つまり海人は――あろうことか、塔の入り口に上陸していたのだ。上にはクッカが居るはずだ。

「なんで……なんで今になって!」

 キーラはすぐに動いた。

 もう会わない、などと言ったことは忘れていた。

 海人は既に、よたよたと塔を登り始めている。

 キーラの現在位置は、塔からかなり離れている。モタモタしていると間に合わない。

 キーラはボートに素早く乗り込み、ライフルだけを持ち拳銃やその他のソナーなどは全て建物の屋根の上に置き去りにした。

 そして、ボートを最高速度にセッティングし、爆ぜるような飛沫を立てながら、塔へとまっしぐらに突撃していった。

「クッカ……無事で居てくれ……!」


 ◆


 クッカは血を吐いた。どろりとした赤が手のひらに広がるのを知覚する。

同時に、足元に落ちている何やら細いものに気付いた。

 手に取って分かった。それは髪の毛だった。

 クッカは動じなかった。

 いずれこうなることは、なんとなく分かっていたからだ。何か運命のようなものが、こういう風にさせるのだということは。

 クッカは血を服の裾で拭き、鐘の綱を握り締める。朝の鐘だ。一日の始まりを告げる鐘。

 朝日が差し込んでくる。眩しくて、片方しかない目を閉じる。幻の片目は陽の光を感じているのか、ズキズキと痒みが走る。

「後……何回、だろうねぇ」

 ふふっ、と笑ってみる。後何回、こんな朝を迎えられるか、考えてみようと思った。もし正解したら、きっとスッキリした気持ちで死ねるからだ。

「でも……もう一度くらい、会いたいな」

 黒い髪の、細くて、強い彼女。

 とても鋭いが、とても寂しい目をした彼女。

 ――キーラ。

 彼女とは別れた。もう会うことはないと、そう言った。

 だから。

「……いや、いいよ。でも、どこかで聞いていて。この歌声を」

 そしてクッカは、綱を――。


 ◆


「間に合え、間に合え――」

 海人は既にかなり上まで登りつめている。肉眼では下から姿が見えない。キーラは何度も躓きそうになりながらも、ライフルを持ってセピア色の螺旋階段を登っていく。

 足が痛む。そのたびに、スピードが落ちる。

「くそっ、くそっ……」

 こんなものだったのか。自分の足は、こんなにオンボロだったのか。

 もどかしさが募る。

 軋む音と波の音が重なる。

「……クッカぁ……っ!」


 そして、鐘が鳴った。どこまでも高く、どこまでも低く。魚たちや鳥達の目覚ましになるかのように。広く鋭く、細く柔らかい音色。

一瞬、全ての物の動きが止まる。

 

そして次の刹那。

キーラは足に力を込める。

「もっと早く動けよ、このポンコツが……」

 早く、もっと早く。早く追いつかないと、クッカが危ないのだ。

 鐘が鳴る。

 何度も足を止めたくなった。しかしキーラは止めなかった。

 キーラは全力で塔を駆け上がった。

 何度か躓いて、血が出たが、構わなかった。

 痛みを意に介している暇など無かった。

 鐘が歌う。

 海が揺れる。風が吹く。

 日差しが入り込む。

 そして。


 ◆


「クッカ!」


 ◆


 頂上に着いた。

 キーラは見た。

 海人が鐘の前で、クッカの前で、膝をつき、頭を抱えているのを。そして、首らしき部位を捻った時にちらりと見えたぶよぶよの飛び出た目から、涙が溢れているのを。


 ◆

「オオオ……オオ……オオオオ……!」

 魚を二足歩行にしたような、醜悪な、それでいて人間に酷似した面影を持つその生き物は、いっぱいに響き渡る鐘の音を聞きながら、泣きわめいていた。


 キーラは立ち尽くして見ていた。理解不能な光景に呆然とはしていたが、いつでも背中から海人を撃てるように、殺意だけは持ったままだ。


 クッカは海人を見て、明らかな恐怖の表情を浮かべていた。……話に聞くだけで、実際に見たことは無かったのかもしれない。

 キーラの緊張が高まる。

 クッカはキーラに気づいていない。

 クッカは戦慄の表情のまま固まっていたが、鐘の音が弱まり始めた時、ある変化を起こした。

 表情を変えたのだ。


 青ざめたクッカの顔は、じょじょに和らいでいき―― そして、泣いているような、笑っているような顔になった。


 ……なんなんだ、その表情は。まるで、まるで。


 海人はまだ頭を抱えながら、濁った低い声で呻き続けている。

 クッカはその海人に……あろうことか、ゆっくりと寄り添った。

 そして、鱗に覆われた粘性の身体を、優しく抱きしめたのだ。

 海人の声がぴたりと止まる。

 クッカもまた涙を流す。それはキーラが一度も見たことのない、今までとは根本的に違う涙だった。

 

 クッカは海人を抱きしめたまま静止している。海人は抵抗をしない。異常な光景だったが、何も異常ではなかった。


 キーラは指に込めていた力を緩める。


 

しかし。

鐘の音が間もなく鳴り止もうとしていた。

 時が動き出す。

 鳥達が一斉に、塔の屋根から羽ばたいた。

 膨大な数の白い羽が、クッカ、キーラ、海人を取り巻きながら舞い落ちる。

 

 海人の腕の上部に、筋肉の緊張が走った。

 キーラはその隙を見逃さなかった。

 白い羽の舞う中、鐘の音が完全に停止した。

 それと同時に、キーラは海人を背中から狙撃した。

 撃たれた海人は、向かい側のクッカに覆いかぶさるようにして、断末魔一叫ばずに倒れ込んだ。

 クッカの足元に広がっていく血の溜に、白い羽がぱちゃり、ぱちゃりと落ちて行く。

 血は赤色だった。

 海人は死んだ。


 ◆


 風が吹いている。それは凪の粒を運び、今日もどこかで人が死ぬ。

 物言わぬ肉体となった人々はそのまま海に沈み、海底都市に迎え入れられるのだろうか。それとも海上で動くことなく、誰にも発見されることもなく風化するのだろうか。

 そうしてやがて、地球から人間が一切居なくなる時代が来る。静寂の音だけが誰にも聞き届けられることなく鳴り響く夜の時代。それは、毎日のように、近づいている。語るものも語られるものもなくなる、完全な真空の世界は。


 塔の頂上の縁に、数羽の白い鳥が止まっている。そしてそれとは別の色をした鳥が、彼らに混じって止まっている。

 やがて彼らは海中の都市で暮らしている魚を捕らえるべく、塔を離れ、ふわりと下に飛行し始めた。海面に近づくと、弾丸のような速度になるのだろう。

 灰色の鳥は、先に飛び立ってしまった白い鳥達を見て困惑したような動きし、そのあと、ぎこちなく足を塔の縁から離した。そして、ゆるゆると物憂げな目で飛んでいく。

 その鳥のその後のゆくえは、誰も知らない。


 ◆


 クッカはまだ血まみれの海人の死体を抱きしめたままで居る。酷い臭いもするというのに。

 それを見て、キーラが、虚ろに口を開く。

「最後……海人の腕に……力が篭った。本能が暴走してお前を襲うのかと思った。だから、撃った」

「うん。……分かってる」

「こんな高い建物だから……今まで私以外の誰も来ないのはおかしいと思ってた……海人だってそうだ」

 結局また、自分は撃ってしまった。

 そしてまたクッカと会ったのだ。許されることではない。しかし言葉は止まらない。阻止するために、口元に手をあてがうほど、キーラには体力は残っていなかった。

 キーラの両腕は震えていた。

「海人はもしかして……目が見えなかったのか。それで、今までもずっとこの塔を探していたのか。今日ようやく探し当てたに過ぎないのか」

 するとクッカは、とても小さな声で何かを呟き始めた。はじめは聞き取れなかったが、やがて聞き取れた。

「きっとキーラが……導いてくれたんだよ、この子を」

 風が吹いている。

「そうか……私が何回もここに来てたから……それをもとにして……具体的な『入り方』を……知ったのか。音で」

 クッカは頷くような否定するような曖昧な動作をした。

 また風が吹く。

 四季などもう無いというのに不思議なくらいに寒い。

 キーラはライフルを床に置く。

「この子は……全部、分かってたんだよ。こうなるんだって」

 クッカは、それを言った後、もう一度涙を片目から一筋流し、ぎゅうっ、と海人の身体を抱きしめた。

 キーラはその所作を、どこかで見たことがあるような気がした。

 誰かが、自分に対してしたことではなかったか。

 しかしそれ以上はもやがかかって思い出せなかった。

「……そいつは、どうするんだ」

 キーラは重々しくクッカに聞く。

 クッカは涙を流しながら口角をわずかに上げて目をつぶり笑みを作り、首を横に振った。

 クッカが何か笑顔に付随する言葉を言おうとした時に、強い風が塔に吹き込み、潮の匂いを運んだ。

 キーラはそれ以上何も聞かなかったし、クッカもそれ以上何も言わなかったのだ。


 世界が薄紫色に染まろうとしている時、キーラは海を眺めていた。

 寄せて返す波を、じっと見つめる。何百年何千年も昔から続いてきたその運動。

 『戦争』の時も、この海は同じように揺れていたのだろう。

「……変わらないものも、あるんだな」

 時折キーラの頭のなかで、痛みとなってその存在を主張する過去の記憶の残りカス。それはこの海で彼女が何かをやってきたという過去の事実をキーラに囁く。お前は何も変わっちゃいないのだ、と。

「……分かってるさ、そんなの」

 海を照らす夕焼けの橙は、海を照らす炎の橙で、寄せて返す対象は建物の屋根ではなく、沢山の死がうず高く積もった今はなき『海岸』。……きっとそうだったのだと、キーラは考える。

「……変わる資格なんて、私には、無いんだよな、クッカ。いくらあがいたって、もう……」

 空を飛ぶ鳥を見る。クッカは、あれに似ている、と思う。

 鳥のように飛んでいくことは出来ないけれど、そのかわり、彼女は鐘で歌うのだ。どこまでも遠くへ聞こえるように。

 彼女の物理的な喪失を埋めるように、鐘は、塔はあるのだろう。あたかも翼のように、クッカに寄り添い。

「私に翼はない――空を飛ぶ代わりに、海へ潜るだけ――深く、深く――」

 飛びたくても、飛べないのだ、自分は。

「ようやく分かった。私は、お前を……」

 思いを中途半端な声で吐き出していたその時。

 キーラは視界にあるものを捉えた。


 霞の向こうに、船が浮かんでいた。

 小さな小さな、手漕ぎの船だった。

 それに乗っているのは――人。

 人が、乗っていた。


「そんな……」

 キーラは自分の目を疑った。自分の目の寿命が急速に近づいたのか、とさえ思った。しかし違った。

 目は間違っていなかった。


 キーラは停泊させてあったボートを、焦りで滑る手で起動させる。そして、シルエットが在る場所へ、真っ直ぐに。速く、速く。


 自分が今どういう気持ちでいるのかを言語化する余裕などキーラには無かった。ただ、クッカ以外の『人間の影』を、たった今、海上で。その現実がキーラを突き動かす。

「久しぶりなんだ……本当に久しぶりなんだ……会うんだ……人間に!」

 キーラの表情を知る者は誰も居ない。

 ただキーラを載せたボートは、夕焼けにたゆたう小舟に向けて、駆けた。その事実だけを海面に残した。

 そして。

 キーラはボートのスピードを緩めて、停止させた。

 船を覆っていた夕霞が消えて、全てが明らかになった。


 人ではあっても、生きていなかった。

 服を着た白骨が、彼方を見ながら、小舟の中で揺られていた。


 呆然と、キーラはそれを見ていた。

 全身の力が抜けて、今にもボートから転げ落ちそうになる。

 目の前で、どこか遠い夕焼けを見ている、大きな麦わら帽子を被った白骨。

 死体だ。人間ではない。やがて風化していくだけの。

 キーラが何をしても、何の反応も示さない死体。

 キーラが海人を殺して、目の前に掲げたって、何もしない、何も見ない、白い砂の塊。

 それが目の前で、空洞の目で橙を見通している。見ていることに気づきもしないのに。

「なん、だよ、それ……」

 キーラは、白骨に触れようとした。

 すると。

 白骨はくらりと揺れ、海の中へ――落ちた。

 沈んでいく。麦わら帽子だけを海面に残して。


 本当に咄嗟の行動だった。……キーラは、海に飛び込んでいた。服も何もかも脱ぎ捨てて。


 ◆


 泡の歓迎を打ち払い、キーラは海底に向けて、ふわりと、キーラの方を向きながら、両手を海面に向けて落下している白骨を追いかける。

 日が沈み始めている。

 空から降り注ぐ光がどんどん少なくなってくる。

 

 海底都市が見え始める。

 白骨はまだ沈んでいく。

 キーラは手だけでも掴もうとあがいた。

 彼、または彼女は――すんでのところでキーラの思いを否定し、また沈んでいく。

 もっと、もっと速く泳げないと駄目なのか。

 というより、何故白骨がここまで速く海底に向かっていくのだろう。あんな軽いモノなのに。海底が引き付けるのか。――沈むべくして彼/彼女は沈むのか。

 キーラはもう、物理法則のことなど考えていなかった。全てを観念で考えようと、そんな気になっていたのである。

 夜が来た。

 

 キーラは足を勢い良く曲げ伸ばしした。激痛が足に走ったが気にもとめなかった。

 そして、とうとう。

 白骨に追いついた。

 しかし、闇の中でその白骨にキーラが触れると――

白骨は、崩壊し始めた。


 人の形をしていたものが、徐々に、その形をなくし、離れ離れになっていく。

 指は節ごとにばらばらになっていく。

 肋骨は骨の一本一本が、四散していく。

 

 キーラは崩壊を止めようとする。

 手を伸ばすが、届かない。

 結ばれていた髪がほどけ、海中に帯のように広がる。

 行ってしまう、人だったものが、闇の中に永遠に消えていってしまう。

 キーラの海中での叫びは、泡になって上へ、上へと昇っていく。

 雲が消え始める。

 キーラは崩壊を止めようとして、手足を必死に動かす。

 その間にも、骨とキーラはどんどん沈んでいく。深く、深く。

 何故こんなに自分が必死になっているかなど、キーラには分からなかったが、確かに何かに突き動かされるものがあった。

 それがキーラを死に物狂いにさせた。

 行くな、行ってしまうな、かつて人だったもの。

 闇の中で叫ぶ。

 徐々に、黄色く丸いものが天から落ちてくる。

 お願い、行かないで――行ってしまえば、私は。


 ふと、浮かんだ顔。

 そうだ、クッカなら――あの子ならきっと――。

 キーラは動いた。


 首から下げられた十字架が頭上を飛び、それに迎え入れられるかのように、満月の光が、闇をまっすぐに、光線のように照らし、キーラだけを映し出す。

 殆ど頭骨だけになった骸を、キーラはかき抱く。丸くなり、全身で包み込むように。髪が翼のように、ゆらめく。かつて人間だった物体が、キーラの機械の身体に抱かれる。骸、スポットライトの月光、キーラ。

 呼応して。

 海没都市の、まだ死んではいない光達が、一斉に息を吹き返す。

 まだ死んでいなかった、照明、電飾。――街の光。

 闇は光に包まれて、世界の時と、キーラの息の根を止める。

 このためだけに埋もれていた光が、一斉に溢れ満ちる。

 脆く硬いが、しなやかで柔らかい骸をかき抱きながら、キーラの中で、戦争以来眠っていた機能が目を覚ます。


 大勢の人々が生きていた証達の残滓に囲まれながら、静止する球体となったキーラは、闇をまっすぐに押しのける月の光に照らされて、もはやためらうこともなく、目から涙を溢れさせる。


 これはなんだ。温かくて、粘り気があって。……でも、かつては知っていたもの。……ああそうか、これは涙なのか。私は今泣いているのか。なら何故私は泣いている。一体何故。……けれど、私が今抱いているものは。……そうか、生きていて欲しかったのか。私はこの骨の塊が、灰のような粉の塊のこれが、生きていて欲しかったのか。このこれ自身が温かさを持っていて欲しかったのか。……私はとうとう、理解したんだ。生きていて欲しかった。どんな状態でも、生きていて欲しかった。悲しいんだ、人が死ぬってことが、こんなに悲しいんだ。私のことを全くどうでもよく思っていても、全く知らなくても、生きていて欲しかったんだ――。もっと早くに気づけばよかったのに、何もかもが遅すぎたんだ。それが本当に悲しいんだ。……けれど、せめて、今は。今だけは。

 時よ、このまま止まっていて。月と私に抱かれた彼が、どうか此処に居られるように。


 骨はばらばらに砕ける。

 かき集めようとしても、もう届かない。

 細かな光の粒になって、昇って昇って、そして、街の光と同化して消えていく。


 光の粒子を身体いっぱいに抱きしめる。しかしもう何もかも散った。


 そのままの姿勢でしばらく動かずに居る。涙をもう流さないために、流しきってしまうために。

 髪の翼は飛ぶことが出来ない。

 キーラは全ての姿勢を取り払って、四肢を広げながら、海底へと沈んでいく。


 光が消える。

 輝きを宿すものはもはや首から下げた十字架だけ。後はもう、完全な闇。


 突如としてそれは起こった。キーラは完全には沈まなかった。

 そこでキーラは知った。音を知る者は、ある二文字を知っているということを。

 ……ぬくもり。それは悲しさを知る者のぬくもり。クッカと同じ匂いのするぬくもり。

 

 硬くて、ごつごつして、ぬるぬるした沢山の腕たちが、キーラのからだを持ち上げる。

 街を去りゆく者への、過去からの祝福。

 上へ、上へ、やがて海上へ。あの子の居るところへ。


 その手が一体何なのか、分かっていた。そしてその事実に対して言うことは、一つだった。他にも言葉を送ることも出来たが、今のキーラは違った。それしか言う言葉が見つからなかった。死が、対面を、赦しを与えた。

「『ありがとう』、さようなら、みんな。……行かなきゃ」

 キーラは口をそう動かした。

 夜の鐘が鳴り、音が海の中に満ち満ちた。

 キーラは帰ってきた。


   ◆


 クッカはいつものように背を向けておらず、キーラを笑顔で待ち構えていた。

「おかえり」

「……ただ、いま」

 クッカが出迎えてくれるであろうことを、キーラは予想していた。クッカもまた、キーラに何かがあったのであろうということを予想していた。お互いに、詳しいことは何も詮索しなかった。

 ただ、早朝の潮風の中で、ただいま、とおかえり、が交わされた。その事実だけで、今の二人にとっては十分だった。

 キーラとクッカは、何かに辿り着いたのだ。それはとても唐突だったが、それはとても普通で、何気なく起こった。

「海の中で、翼を見つけた」

「ん?」

「うまく言えないけど、だから。……お前は何もおかしくなんかない。こうして今私がここに居るんだから」

「私は……ここに居てもいいの?」

「あぁ。じゃなきゃ、誰が鐘を突くんだ?」

「そう、だね……」


 クッカは咳き込んだ。

 キーラが駆け寄った。やや乱暴に、キーラはクッカの肩を掴む。

「お前、大丈夫か……」

「平気。私、身体、強いほうじゃないから、よくこうなるんだ」

 クッカは自分の手に広がる赤い液体を、握り締めることで隠そうとした。それでも口元の染みまでは拭えそうになかった。

 バレたか、とクッカは思った。しかし意外にも、キーラは引き下がった。

「……そうか」

 察してくれたのかな、と思った。

 風が吹く。人を殺す粒を運ぶ風。


   ◆


 二人で並んで遠くを見る。水平線の向こう側を覗くつもりで。

「……キーラ」

「なんだ」

「これからも……あの人達の……殺しは続くのかな」

 あの人達。……海人のことだろう。

 あの塔に来た海人の死体を、クッカはどうしたのだろうか。

「さぁ、な――」

 キーラはクッカの肩にもたれかかった。

 そこからは長い沈黙があった。とてつもなく長い年月が経過したように思えた。いや、実際に、何百年も流れていたのかもしれない。ただその永遠にも思える沈黙の中で、キーラとクッカはお互いの手を握ったことだけは確かなことだった。二つが、一つになったのだった。キーラがクッカのあの言葉を理解したからだ。クッカの問の答えは、キーラが発した沈黙だった。それが全てだった。クッカは、それでいい、と思った。だから、それ以上何も言わなかった。答えは風の中にあるのだった。

「ひとつ――提案があるんだ、クッカ」

「なぁに、キーラ」

「お前が鐘を鳴らすのは、どこかにいる人達に聞こえるように、だったよな」

「うん。――みんなと話がしたい。離れてても」

「じゃあさ。ここを――『灯台』にしないか」

 クッカは、キーラがそんな提案をするとは思わなかったが、さして反応もしなかった。もうキーラは、明らかに前のキーラとは違うのだから。

「……『灯台』」

「そうだ。ここを、明かりでいっぱいにするんだ。そうすれば、夜になって光らせると、世界中のどこからでも見える。誰かがここを見つける。どうやるかは、これから考えればいいだろ。時間なら、たっぷりあるんだから」

 クッカは、胸を射抜かれた気分になった。何か後ろめたい気持ちになった。

 キーラは、気づいていないんだ。私はもう――。

 『時間』。後どれくらい自分に残されているんだろう。そう思うと、キーラと更に一緒に居たくなった。

「そう、だね」

 クッカは、自分が笑えているかどうか不安になった。

「そんな不安そうな声、出すなよ」

 キーラは『笑って』クッカの頬に両手を当てて、額と額を合わせた。

「……こういうことするのは、初めてだ」

「けど、あったかいよ、キーラ」

「そうか。私、あたたかいんだな。そうか」

 キーラはまた笑った。こんなに笑顔が似合う人なんだ、この人は。もっと見ていたい、この人の笑顔を。キーラが笑顔を作れなかった世界を悲しく思うと同時に、……クッカは強く、強くそう思った。


 そろそろ鐘を鳴らす時刻だ。クッカは身体でそう感じた。ここに時計などない。しかし、感覚で分かるのだ。風が、そして海が、毎日ぴったり、同じ時刻を教えてくれる。

 その時。

「そうだ。……クッカ、お前に渡したいものがあったんだ」

 キーラは首に下がっている十字架を取って、クッカの首にかけた。

「これは……」

「受け取ってくれ。お前のほうが、似合うしな」

「でも、これ、キーラの大事なものなんじゃ……」

「いいんだ。……そいつは、誰かに渡すことで、意味を発揮するんじゃないかって思うから」

 キーラは、既に思い出していた。首から下げているものがなんなのかを。何のために存在するものなのかを。誰に託されたものなのかを。

 そして知った。自分は人間として生きていいのだということを。

「これの事に気付いたのは、クッカのおかげなんだ。だから、これをお前に託したい。そしてお前が、次の誰かに――」

 そこでキーラはよろめいた。

「……キーラ!?」

「……すまない。少し眠いんだ。気に、しないで」

 まさか。

 クッカは最悪の想像をして背筋が凍った。しかしその後に訪れたのは、ゆっくりとした優しい感情の流れだった。水平線の向こう側に沈む直前の太陽のように。

「……肩、もたれていいか」

「うん、いいよ」

 キーラはクッカの肩に、甘えるように寄り添った。あたたかかった。

 風が吹いた。

 クッカの髪が、また少し抜けた。

 手の中をよく見ると、小さなきらきらした粒が踊っていた。それは極小の星空のようだった。

 こんなにも、綺麗な粒なのに。それなのに。

  

 キーラは遠くを見ていた。きっと海を。

 鐘をつこう、とクッカは思った。

 まだ、私は死ねない。


   ◆


 何時間か経って。

 夜が、完全に空ける。

 向こうからこちらへ、闇が去り、光がやってくる。それは空を照らし海面を照らし、そして海の中の都市を照らし、海の中の住人たちを照らす。

 世界のすべてが輝きで包まれる時間。

 鳥は風と共に羽ばたき、長い長い旅に出る。

 いつ見ても、やっぱり綺麗だ。……クッカは朝の冷たい空気を口いっぱいに吸い込んで、身体の中に取り込んだ。こうすると、自然に笑顔になれる。

「……今日も、気持ちのいい朝だね」

 雲ひとつない。まさに快晴と言った所――。

「そうか。私にはやけに暗く見える。まるで夜みたいに。太陽もまるで見えないぞ。今日は天気が悪いのかな」


 クッカは、息が止まりそうになった。

 そして、キーラの状態を理解した。……もうキーラは、目が。……こんなにも早く、私よりも早く。

「うん。そうだね――そうだね」

 声が震えていることをキーラに気取られる心配はなかった。きっともう、耳も――。

「はやく、鐘を、つこう、クッ、カ」

「うんっ……。うん」

 そしてクッカは、鐘をついた。

 空と海に、歌声が響く。キーラとクッカの出会いも、この鐘の音がきっかけだった。

 キーラは。

「おい、まだなのか、クッカ。はや、く、きき、たい」

「もう突いたよ、キーラ」

 耳元で、クッカはキーラに囁く。


 キーラは、信じられないようなことを聞いたというような表情になった。驚愕と絶望が一気に広がり、一瞬で収縮した。そして、悲しげな表情が残った。そこには諦観があった。……キーラはとうとう、分かってしまったのだ。

 それでも。

「ありがとう。やっぱり、いい音だな」

 キーラはどこまでも強かった。

 クッカの憧れていた強さだった。そんな彼女が、今。


 一体どれほどの時間が経っただろうか。

 静かだった。

 鐘の余韻はまだ残ったまま。

 海は穏やかに揺れている。過去の全てを包み込むように、空の下で、異形の者達の居る場所を加護するように。

 

 クッカは、自分の肩にもたれかかったまま目を閉じて動かない少女を見やる。

 眠ったのだ。ようやく、眠ることが出来たのだ。

 クッカは一言、おやすみと言った。その時のクッカの表情は悲しみをたたえていたが、同時に少女とそっくりの強さを持っていた。


 クッカは世界に向けて叫んだ。

「グッドモーニン、聞こえていますか、スイートハーツ。わたし達の愛しいあなたたちへ。わたし達は、ここに居ます」


 少女の声と朝焼けに照らされ、海は、優しく笑っていた。

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シオンの鐘の少女 緑茶 @wangd1

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