シオンの鐘の少女
緑茶
前編
かつて、戦争があった。
はじめは、世界の中のもう一つの世界での戦いだった。緑色の0と1で出来た海の中へ、人々は脳を泳がせた。
多くの人々が廃人になったところで、戦いは次のステージへ持ち越された。そこでは、黄金色の火の玉が世界中で輝いた。それは美しい光だった。それは人々の皮膚をどろどろにして、生まれてきた子供を化け物にした。
戦いは終わった。
後には著しい海面上昇と、もはや風景と化した戦いの爪痕だけが残った。
人類は、いや、世界はゆるやかな死へと向かっていた。
黄昏の時代。
生と死が完全に別離している時代は終焉を迎えていた。ようやく手に入れた断末魔のやすらぎのもと、人々は滅びの時代の静けさとともに、しずかに影のように生き、そして死んでいく、そんな時代。
むかしむかしの、戦争の前まで元気だった街の建物は、すでに水中に埋没している。いわゆる水没都市。主な住人は魚達。
海上には、超高層ビルだった物のわずかな上層部と、ゆったりと波にそって流れる船だけ。
異常発達した海藻類が海上のところどころをそれらと共に埋めている。
黄昏を生きる人々は、そんな海上で暮らしている。しかし、人類自体、もはや数百人居るか居ないかになっていた。
海上にポツンと一本、そびえている塔がある。元は電波塔か何かで、全長の大半は海中に沈んでいるようだが、もはや原型は留めていない。その塔の頂上の見晴台に、小さな鐘がある。それは毎日、決まった時間に鳴らされる。聞く者も居ないのに。
鐘つきの名を、クッカと言った。十代の少女。詳しい年齢を知る者はもはや居ない。
ボロボロの、真っ白なのワンピースを着た彼女には、左耳と右目が無かった。祖先が、『あの光』を浴びたからだろうか、と彼女は推測しているが、もはや知る手段など残されていなかった。
彼女は塔の中で暮らしている。いつ自分が、どういう経緯で塔に辿り着いたかは、記憶が定かではない。しかし自分がここで生きてここで死ぬのだろうな、ということはなんとなく思っていた。そしてそれは、なかなか素敵なことだな、と思っていた。
そして今日も彼女は鐘をつく。朝の鐘だ。
水平線の向こう側から光がやってきて、それは潮の匂いをやわらかくて冷たい風と共に運んでくる。
鼻の頭がほんのり赤くなって、色の抜けた、真っ白な短い髪の毛は揺れる。貝の耳飾りも音を立てる。
クッカはこの時間が大好きだった。海におはようを言う時間だから。
大きく息を吸い込んで、吐き出した後、誰も見ていないのについつい笑顔になってしまう。左目が、うれしさで歪む。
自分の容姿にコンプレックスなんてなかった。片方しか無い目は焦点を絞って景色を見ることができるし、片方しか無い耳も、一度に沢山の音達が頭に流れ込んでくるあの感じの、助けになるからだ。
鐘をつく。それは規則的なようで、実は無造作なようでもあって。硬質なようで、やわらかい音色。深くて浅くて、そして遠くまで響く音だ。余韻が波を越えていく。
カーン。カーン。少女は歌うように言う。
「グッドモーニン、聞こえていますか、スイートハーツ。わたしの愛しいあなたたちへ。わたしは、ここに居ます」
遠い昔、誰かから教わったかもしれない言葉。謎に包まれた、何故か知っているその言葉。クッカは、好きだった。
◆
海中に旧市街が広がっている。装飾や看板はすでに剥がれきっていて、今や『中身』が露出しているに過ぎないが、ついこの間まで人が居た、と思わせるような場所だ。鉄色の、それぞれ形の全く異なる柱が林立し、その間を縫うように道路だったものが走っている。そして上からは、陽の光が複雑な屈折をしながら降り注いでいる。海底には建物の残骸や、骸骨などが堆積している。
そしてそのところどころに、謎めいた洞窟がある。
かつての大戦争の後、人類のほとんどが死滅した。残った者達の『大半は』海上で、『凪の粒』と共に生活している。凪の粒は、人々にどす黒い色の血を吐かせ、髪の毛を薄くさせ、頬をこけさせる。しかしそんなことはみんな分かっているので、普通に受け入れていた。
しかし。そんな緩やかな滅びを受け入れることが出来なかった者たちも居た。その者達は――あの光が世界を包んだ時、何処かへと消えた。
その彼らは今も大勢ある場所で生きながらえているという。その場所がその洞窟だった。
彼らは海の中に生きる道を見出したとされる。そして、海中生活に耐えられるように、人から逸脱した化け物のような姿となって生活しているという。
光のある、魚たちの行き交う静かな滅びの街。その影に彼らは居て、暮らしているとされる。
彼らを目撃した人たちは彼らを『海人』と呼ぶ。
生きる意志が人間性を奪ってしまったのか、彼らは海上の人間を襲って、殺すことがよくあった。彼らに視力は無いが、どうやら微妙な温度の差で見分けるらしい。
そうして殺した人間をどうするのかは誰も知らない。そのまま食してしまうのだというおぞましい見解もあれば、彼らが独自に信奉する海底に眠る邪神か何かに贄として捧げるという意見もある。しかし真相は、水没都市の影の中。
◆
キーラという名の少女がいる。フルネームは無い。彼女は戦争の時代に作られた戦闘用ガイノイドの、貴重な自我を持った生き残り。
切れ長の目に絞られた細身の体躯。黒色の長い髪は後ろにまとめて括っている。
身体を包むのは防水のボディスーツ。その上には海中で拾ったロングコート。全身黒尽くめ。彼女は黒が好きだった。首には金色のロザリオを下げている。
彼女の朝は、日が昇る前に始まる。彼女のねぐらであり住処である船――『海人よけ』である蔦装飾がしてある。彼らは何故かこの植物を異常に恐れている――の中で、得物のセッティングにとりかかる。
中折れ式の、大きな水装填式狙撃銃。水中でも威力が減退せず、速度を保ったまま相手を撃ちぬくスグレモノだ。
そして同じく水装填式の拳銃2丁と、機関銃。
いずれも水陸両用だ。これが彼女の武器であり、『仕事道具』である。
準備が整うと、船を高層ビルの屋上につける。
そこに上陸して、ソナーを作動させる。
それは小さな釣竿のような形をしていて、先に付いている錘のようなものを水中に沈めることで作動する。そして沈めた錘を垂らす棒状の部分の反対側に伸びているコードのようなものを、口にくわえる。
錘状の部分が集めたデータを、棒状機関を通して、キーラの脳内に流れ込ませる。そのためにくわえている。ガイノイドである彼女にしか使えない道具だ。
錘が沈み、海面に輪のような波ができる。そして、キィン、と頭の中で音がする。網膜にデータが出力され始める。静寂の時。張り詰めた空気が、ピリピリとキーラを刺激する。――あの時もそうだったのだろうか。記憶が消える前の、戦争に出ていたあの時も、このように不思議な落ち着きが自分の精神を満たしていたのだろうか。そうしながら、戦っていたのだろうか。
キーラはそこで邪念を追い払い、データの読み取りに専念する。……余計なことを考えていたら、ますます『期限切れ』が近くなってしまうのだ。
ソナーに反応あり。
「……んっ」
身体の中をくすぐられるような感覚にはいつまでも慣れそうにない。
「……近いな」
狙撃銃をセッティング、構える。そして後ろで結んである髪の毛の先端を、狙撃銃のボディに接続する。
これは髪の毛ではなくケーブルだった。これにより、ソナーから狙撃銃の重心までが途切れることなく結ばれる。狙撃銃はキーラであり、キーラが狙撃銃だった。
キーラの瞳に十字が結ばれる。そして視界に、標的の位置情報が流れ込んでくる。そしてトリガーを引く。
標的まで真っ直ぐに飛んでいくはずの水弾は、しかし何も捉えることがなかった。脳内に『失敗』の二文字が閃く。
「――ちっ」
ここで外してしまったということは、遅かれ早かれ奴らは別の場所に上陸しようとしてしまう。
キーラはコートを脱いで置き、装備はそのまま持って、海の中へと勢い良く飛び込んだ。
ソナーは潜行使用モードに切り替わっている。網膜に、今見ている海中の情報がマッピングされていく。
キーラはこうして海に潜るのを、まるで空を飛んでいるように感じる。
海水そのものの性質が変容しているのか、海の底深く――水深500メートルほどまで明かりが差し込んでいる。その中を潜っていくと、まるで上空から急降下する鳥のような気持ちになる。
眼前を泡が出迎え、そしてそれが消えると林立する建物の屋上が見え、それの合間を縫って走る道路が見える。かつてこの場所を、人の乗った車が走っていたのだ。
ビル群は、ネオンや看板は消え失せているものの、外装は残っている。ついこの間まで人が住んでいたと言わんばかりに、そこには廃墟らしさはあまりなかった。しかし今ここに『人は』おらず、魚だけが泳いでいる。それが、揺るぎようのない事実。
建築物が海上からの光を複雑に反射し、万華鏡のような明るさが海中に降り注いでいる。
キーラは海中のある建物の側面に背中をつけた。
スーツをはだけ、上半身だけ裸になる。そして背中にある孔から、フック状の機構を出し、壁面に引っ掛ける。
再び狙いを定める。――今度は外さない。
そして今度は、完全に標的をロックオン。少し前方で泳いでいる。
トリガーに指を引っ掛け、力を込め――。
鐘の音。
それは光とともに空から降ってきた。
海の中すべてが規則正しい音で満たされる。
水中深くにもかかわらず、それはくぐもりもせずに、愚直なほど素直に届いた。まるで、賛美歌のように。
当然狙いは外れた。
キーラは舌打ちをし、はだけたスーツを元に戻す。
狙撃銃を背中に背負い、腰に留めていた機関銃を取り出す。
「こんな時に……」
そう一言悪態をついてから、ビルを蹴った――。
それからしばらくして。
キーラは肩を手でかばいながら、フラフラと海面へ向かっていた。
なんとか獲物を倒したが、怪我をしてしまったのだ。
手で抑えても、隙間から赤紫色のオイルが糸のように海底へと流れていってしまう。
すべてはあの鐘のせいだ。――しかし、元はといえば最初に狙いを外してしまったのが問題だったのだ。
いつも鳴る、鐘というものそのものも腹立たしかったが、それ以上にキーラは偶然というものの存在を恨まずにはいられなかった。自分は必然によって生まれた、人口のいのちだというのに。
やがてキーラはどこかへ上陸した。
そして気づいた。
自分が上陸した場所が、先ほど鳴っていた鐘のある塔であったということに。
◆
塔は、延々と続く螺旋階段を、大きな窓のような隙間のある壁面で覆うことで成っている。
隙間からは空の日差し、海の青、鳥達の鳴き声が入ってくる。それらは上に登っていくごとに大きくなっていき、空気も澄んでくるのだ。
いつごろ建てられた塔なのかは誰も知らない。過去の語り部はもう死に絶えてしまっている。ただ、内部にもはみ出るほどに巻き付いている植物と、階段のシミや汚れだけが歴史の長さを伝えている。
キーラは塔を登っている。傷が登っていくごとに癒されていくような錯覚をおぼえる。響く鳥の歌声が、がたつく身体に染み渡る。もう後何週間持つか、分かったものじゃない。その身体を、フラフラと上へ、上へと進ませる。腰を下ろす場所が欲しかった。それがあの忌々しい鐘のある場所だというのだから笑える話だ。
光、埃、声。海の音。それらが交互に繰り返される長細い建造物――海中にある『本来の入り口』から数えると全高何メートルあるか分かったものじゃないその建物の階段を、痛む肩をかばいながら、重々しく進んでいく。
視界が広くなり、さらなる光が前面に広がる。キーラは塔の頂上の、鐘のある場所に辿り着いた。
その時、塔に止まっていた鳥が一斉に羽ばたいた。かなりの数が、キーラの前を横切っていった。
鳥達の行進が終わる。
キーラに背を向けて、中央にある鐘の近くに寄り添っている一人の少女が居る。
キーラは壁に背中をあずけて、そのまま何をするでもなく黙っている。というより、声を発することがなぜか出来なかった。
鐘のある頂上は展望台のようになっていて、風が強く吹き込んでいる。少女の服がばさばさと揺らめいている。
やがて少女が、キーラに気づく。とてつもなく長い時間が経過したようにキーラには感じられる。
「……あら?」
少女はキーラに気づくと、やわらかい声を出した。まるでキーラと旧知の仲であるかのような。
少女が近づいてくる。
キーラは何か挨拶の一つでもしようと思ったが、気の利いた事は言えそうになかった。ここなら多少は休めると思ったからに過ぎない。鐘が忌々しいので、傷さえ癒えればさっさと立ち去りたかった。
「いや、私は……」
「たいへんっ。あなた、怪我してるのね」
少女はキーラの肩の傷に気付いたらしい。
面倒なことになった、とキーラは思った。
「いや、いいんだ。気にしないでくれ。ここで風に当たっていれば、じきに治る」
「ダメだよ。ちゃんと消毒とか、しておかないと」
少女が心の底から心配しているように、言った。まるでたしなめるかのように。
「……だから、本当にいいんだって」
一呼吸置いて、少し悩んでから、吐き出すようにキーラは言う。
「私……ガイノイドだから。戦闘用の。傷、放っておけば自然に治る型だから。……だから、いい」
少女とキーラの間にある床の隙間。それが無限に引き伸ばされ、壁になっているように感じた。
キーラは身を完全に起こし、少女に背を向けようとする。しかし、足元が歪み、ふらつく。
「……くそっ」
自然治癒機能があるのは事実だが、『期限』が迫っている。そのために、治りがだんだん遅くなっている。だから、怪我をしたなら、動かない時間を少しでも多く取らなければならない。
少女が慌てたように駆けより、キーラを支える。キーラはそのまま壁にずるずると寄りかかりながら座り込む。
「やっぱりあなたまだ、じっとしておかないとだめだよ」
「いいから……放っておいてくれ……」
「じゃあ、何かあったら、呼んでね」
誰が呼ぶものか。そう言おうとした。しかし、微笑みながら発せられたその言葉には、なにか、キーラを黙らせるものがあった。
少女は何か鼻歌を歌いながら、外の景色を見つめている。風の流れに合わせて、ゆらゆらと動きながら。たまに鳥に手を伸ばしたり、海の音に耳を済ませたりしているようだ。
キーラは少女から何故か目が離せなかった。
やがてしばらくの沈黙がゆったりと終わった後、キーラは少女に声をかける。
「……なぁ」
「んー?」
くるりと、踊るような動作で少女はキーラのほうを向く。
一瞬また言葉が出なくなりそうだったが、続ける。
「この鐘、毎日、お前が鳴らしてるのか?」
「うん。そうだよ、私、ここの鐘つきなの」
「鐘つきって……一体なんだってそんなことを」
「みんなのためだよ」
……キーラは、この少女と自分が同じ目線には立っていないことを悟った。話を続けるのが面倒になった。
「……そうかい。もうい……」
「私の名前、クッカっていうの」
かぶせるように。キーラはまた気圧された。まったくペースが読めない。
「あなたのお名前は?」
波がわずかに突き出た建物たちにぶつかって消えていく音。それははるか上のこの場所にまで響いている。それに、風の音と鳥の声が混ざって、ひとつの歌のようになって、流れている。気を抜くをそれと一緒に自分の存在も流れていってしまうような、そんな気ままな歌。
キーラは仕方なく答える。
「……キーラだ。私の名前は、キーラ」
クッカと名乗った少女はキーラの返答を噛み締めるように聞いているようだった。そしてちょっとしたあと、笑顔になった。
「キーラ。……いい名前だね」
なんだこいつ、とキーラは思った。口には出さなかったものの、本当にそう思った。
明らかに住んでいる精神世界が違うようだった。はやくこの塔を去ってしまいたい、とキーラは思う。
クッカの視線が、背中に背負った銃に向けられていることに気づく。とっさに隠そうとするが、背中にあるうえに、長い。隠しようがなかった。
「それは、何に使う道具なの?」
何か釈明しようとしたが、駄目だった。先を越された。
「……私はよく知らないんだけど、それ、『銃』……かな。何かを殺す道具」
「関係ないだろ。……私の道具だ」
「関係なくないよ。そんな危ないもの、どうして」
「なんで危ないって分かる?」
キーラはクッカを睨んでみせるが、効果はない。
クッカの視線は再びキーラの肩に注がれた。
「だってあなた、その銃を使って、何か危険なことやったんでしょう。だからそうやって怪我してる」
クッカはキーラの身を本気で案じているかのようだった。それがキーラには鬱陶しかった。
「私の仕事に口を出さないで欲しいな。怪我治れば私はここを出て行くんだ。クッカ……だっけ? 君には関係ない」
「仕事って、一体どんな危険なことを……」
また一呼吸の後。
「狩りだよ。『海人』を狩ってる」
クッカの表情にさっと灰色がよぎる。
そして一歩後ずさる。その大げさな反応が、またキーラの癪に障った。
「……なんだよ」
「どうしてそんな、残酷なことを……」
答えは決まっていた。簡単なことだ。誰かに頼まれてやったことじゃなかった。キーラ自身の意志。
「ただでさえ少ない人が、あいつらにどんどん殺されていってるっていうのは……知ってるだろ。だから私は『海人』を殺すんだ」
「そんなの……だけど、ひどいよ」
「人間側があいつらを殺そうとしたことなんて、一度だって無かったろ。そんなの理不尽だからな。…………この話は終わりだ。分かったらさっさと私から離れな。じゃなきゃお前も」
拳銃を取り出し、クッカに突きつけてみる。
「こうやってバン、だ」
と言ってみる。
誇りも何もしなかった。ただ事実を言っただけだった。自分の行為を正当化しようとなんて思っていなかったし、クッカがこれで自分を軽蔑したとしても、キーラにとっては知ったことではなかった。
しかしクッカはそれ以上驚きも恐れもしなかった。
何故か、流していた。涙を。
口を両手で抑え、祈るようにして、泣いていた。
意味が分からなかった。しかしそのクッカから目を離すことが出来なかった。
風が吹いて、潮が流れて、時間が過ぎた。
クッカは目をこすって涙をぬぐった。
そして、笑顔になった。
「ねぇ、キーラ」
急に名前を呼ばれたのでキーラは驚いた。
クッカは手を伸ばしてきた。平たくて小さな、か細い手だ。しかし、ほんのりと赤い。
「友達になりましょう」
キーラは、度肝を抜かれた。目が点になった。
そして口をパクパクさせながら返事をする。
「は? と、友達? なんだお前……なんだよ友達って」
「あなたのしたことは、凄く残酷だと思うけど、だからこそ理解したいんだ」
「意味がわからないぞ。どうかしてるんじゃないのか」
友達。その二文字がキーラの脳内をグルグルと回った。眼前の少女の発言の意図がさっぱり分からない。
「だって」
クッカは一度キーラから離れる。
そして、踊るようにクルクル回りながら、見晴らしのよいところに行った。
風と光を背中に受けながら、クッカは一切の屈託を捨てて言う。
「だって、私が出会った、最初の『ヒト』だもの」
◆
「ヒトってお前……私はガイノイドだぞ。人間じゃない」
「そんな違い、ささいなことでしょ?」
またクルクルと回りながら、度肝を再び抜かれているキーラを尻目に、クッカは続けて言う。謳うように。
「あなたを最初に見た時、少しこわかった。だけど、嬉しかった。誰かと出会うって、こんなに素敵なことなんだね。なにかとても楽しいことがきっとあるって、そう思えたんだから。……だから」
クッカはキーラに思いっきり顔を近づけた。
キーラは小さくうめいた。まったくペースが掴めない。ある種の恐怖さえ覚えてしまう。
「私、あなたのお話が、もっと聞きたいの。……キーラ」
キーラは圧倒され、威圧された。
そしてもう、それ以上クッカと一緒に居ることを、身体が拒否した。
「うっ、うる……さいっ」
少し強引にクッカをはねのけた。クッカは小さくうめいた。
「なんだお前……なんだお前……なっ……なんなんだ、お前」
正常に思考が回らなかった。落ち着け、私はガイノイドだ。理性を保て、理性を。
友達。……その二文字がキーラの頭をかき乱す。意味が分からない。前後の文脈がまるで繋がっていない。『残酷なことを理解したい』だなんて、まるで理解が出来ない。……友達。友達。
「なんだお前……なんだお前!」
キーラはつまづきそうになりながら、塔を駆け下りていった。
幸いにも怪我はもう治っていた。
そして塔には、風に揺られて少しだけ金属の音を立てる鐘と、クッカだけが残った。
キーラは、世界がこうなってしまってから、ほとんど人間を見ていない。ごくごくたまに、船に乗ってゆらゆらと揺れているのを目撃するだけ。
彼らと会っても、キーラは話しかけたりなどしない。彼らは生きているとは到底思えなかったからだ。もはや、死に限りなく近づいた、影のような時間を過ごしているだけに思えるからだ。
存在を覆う線が薄く茫漠として、触れれば消えてしまいそうになって。
そんな状態で、酷く曖昧な笑みのようなものを表情筋によって作りながら、もはや風景と一体となって、ただただ居続ける。
最期の人類たちは、そうやって生きているのだ。
キーラは彼らのことをよく思っていない。彼らを襲う海人達をその手で狩りながらも、決して彼女の好意が彼らに向くことはなかった。
しかし結果としてキーラは海人も憎んでいる。
その矛盾にぶつかった時、キーラは浅瀬の海に潜る。
元々の地形としての浅瀬は疾うの昔に消滅している。しかし、水没都市が人工的な浅瀬を作っていることがある。
キーラはよくそこに潜りに行く。建物が壁になって他の場所から断絶されているため、海人もやってこないエリアだ。
塔の件の日の夕方。キーラはまた潜りに来ていた。いろいろなことがありすぎた。だから潜る。
すべての服を脱いで、裸になる。背中や首にコネクタの挿入口があること以外は、人間となんら代わりのない肉体。 十六歳くらいの、人間の女の子の、細身の肉体。
括っている髪をほどいて、風に当てる。長く黒い髪が風に当たり、ばさばさと揺れる。それは帰路につく鳥達の声に呼応するかのように動く。
キーラは首筋に金色の十字を下げる。ここへ潜るときは必ず、裸の上からでも装着するのだ。
遠い昔、とうに忘れてしまった誰かから受け取った十字。冷たい黄金の感触が、キーラは好きだった。この十字が何を意味しているのかは分からないが。
それをギュっと握って、深呼吸をする。そして、飛び込んだ。
夕陽が光の粒になって、泡と一緒に飛び込んだキーラを出迎える。綺麗なフォームで少し潜行したところで、身体を反転させ顔を海面に向ける。折り重なった建物の輪の中心に、橙色の光で満たされた海面がある。それがキーラの視界を占める。手を横に広げて、全ての力を抜き、ゆらゆらと漂う。
洞穴のように壁となっている倒壊した建物たちの灰色。海と夕陽の橙色。そして、漂う十字架の金色の光。全てが融け合う時間。
この時だけは、キーラは自分が生きているという言葉を使うことを許していた。自分の存在を、人間のように広げることが出来るからだ。
この時だけは、キーラは自分のことが好きで居られた。
この時間がずっと続けばいいのに、とキーラは思った。ずっとこうしてこの中を漂っていられたら。――しかし、そうすることはあの死んだように生きている人間たちと同じになるのではないか。いや、しかし自分はこうして海の中に入ることが出来る。……そろそろやめにしよう、こんなことを考えるのは。今はこの時間に埋もれていたい。
しかし、夜が来た。
キーラは舌打ちをして、そそくさと海面に上がり、服を着る。
こうしてキーラはキーラに戻る。
そしてまた、明日の朝からの狩りの準備をする。
変わらない日常。そういう意味では、キーラも彼らと同じだった。生物に死を与えているという点以外で。
そして、夜の鐘が鳴る。
クッカの顔が脳裏に浮かぶ。
それを振り払うように、キーラは銃器のメンテナンスに勤しんだ。
また、鐘が鳴った。
朝の仕事は終わっていた。
「――くそっ」
最近、いや、昨日から腕が訛っているように感じる。キーラはその原因をクッカというあの少女に当てつけることにした。
キーラはまた塔の所にやって来た。階段に足をかけると、埃と一緒に、小さな光る虫がわっと舞った。もし自分がここに来なくても、この虫達はずっと光っていたのだろうか、とそんなことを考えたが、すぐにどうでもよくなった。
階段を登っていく。ぐるぐると螺旋を上昇していく。海の音が遠くなる。光の量が増えていく。
そして――またキーラは少女に出会った。
◆
クッカは、前日と同じように、鐘に寄り添うようにして、海を眺めていた。本当に一日経過したのか、と思えるほどに、同じ状況だった。
だからキーラは、つい聞いてしまった。
「――お前、毎日ずっとそうしてるのか?」
キーラの声に、少女は気づかない。少しも動かずに、服と髪を風に揺らせている。
無視をしているのか、それともぼうっとしているのか。
「なぁ、聞いてるのか」
声を大きくして言ってみる。それでも反応が無かった。キーラはこのまま帰ってしまおうかと思ったが、それはやめにしてクッカに近づいた。
「なぁってば――」
キーラはクッカに、左から曲がりこんで接近し。
そこで気づいた。
クッカには左耳が無い。
「――お前」
「ん? ……うわっ!?」
クッカは間近にいるキーラにようやく気付いたらしく、驚きの声をあげた。
「あーびっくりした。でも、キーラ、また来てくれたんだ! 私、すごく嬉しいよ」
「お前――耳が」
「うん。左耳、無いの。あと、右目も」
クッカはすっと、右に長くかかっている前髪を持ち上げた。
右目があるべき場所には何もなく、肌色だけがあった。
「な、なんで……」
「うーん……隠すつもりはなかったんだけどね。まぁ別に、どうでもいいことじゃない?」
「どうでもいいって……おっお前、何言ってんだ」
キーラは完全に困惑していた。
鐘について文句を言いに来たのだが、意識の隅に追いやられてしまった。
『欠損』。気づいてしまえば、こうもいびつに見えてしまうのか、人間というものは。
先ほど遠くから呼んでも反応が無かったのも、もしかして片耳しか無いからだったのか。
キーラの中に、自分を恥じる気持ちが生まれた。しかしそれに反目する、こんなヤツに、という気持ちも生まれた。
「うーん、だって、こうして近づいたらお話が出来るんだよ? 困らないよ」
「なんだよそれ。……なんでそんなことに」
「うーん、困ることかぁ。もともとちゃんとあるはずの場所だから、たまにすごく痒くなったりはするかなぁ」
「おい、聞いてるのか」
「えっ、なんて?」
……キーラは色々と分からなくなった。先ほどの自省を恥じた。
クッカはにこにことキーラを見つめている。
そのままの状態で、数分が経過する。
そして。
「……もういいや。帰る」
「えーっ、なんで?」
「お前の相手するのが疲れる。もう知らん、帰る」
キーラは鐘の件を忘れてしまった。足早に階段へと戻る。
クッカの声が追いかけてくるが無視をする。
降りていく。
降りながら、考える。
海と風、鳥の音・声。
キーラにはそれらを両の耳で聞き取ることが出来る。聴力に関しては、人間と同じにだって出来る。
しかし。
クッカの顔の左側と、左目の反対側の肌色の平坦さを思い出す。
キーラはそれを見た時、確かに何か嫌なものを感じた。あるはずのものが無いということ。それを気持ち悪いと思うこと。
左耳の、右目のあるべき場所が、時たま痒みを帯びるとクッカは言った。
幻肢痛。――遠い昔、そんな言葉を知ったような気がする。少しニュアンスが違うかもしれないが、その痒みは、あの少女にとっての痛みであることには他ならない。
自分の歪さを、心の奥底で彼女はしっかりと自覚しているのだ。しかし、クッカはそれに気づいていない。無意識の海の底に眠っている。
海。
海の底に眠る街。元々地上にあったそれ。そして今地上という言葉は形骸化している。
地上を捨て海上へ逃れた、死と寄り添いながら生きる人々。彼らは、海上ではなく、地上ではない地上を選び、そこで人としての生を捨てて生きる者達に殺される。食料目的か、それとも噂に聞く神格のためか。それはキーラは知らないし、そんなことはどうでもいい。
過去を封じ込め、あるものをないものとした状態で、影のように生きる人々。
彼らは何も語らない。
はじめから、そんなものなど無かったというように。
クッカは昨日、何故海人達を殺すのか、と言った。
キーラは塔の頂上へと踵を返す。
クッカの下へ向かう。
また光が広がる。
そしてクッカが居る。
クッカが笑顔になってキーラに駆け寄る。キーラは足早にクッカの下へ。そして懐から拳銃を取り出す。
クッカの表情が笑顔から困惑に変わる。
「――お前、私があいつらを殺してることについて、聞いたよな」
そしてクッカの顔の右――つまりキーラにとっての左耳の場所――に拳銃を添える。
瞬間。途方も無い激情がキーラの指先に流れ込む。
そして、幾多の情景の断片が、脳裏に次々と映し出される。
沢山の光。そして沢山の……死!
激情がトリガーに力を加える。
「こいつが、答えだ」
そしてキーラは撃った。
◆
銃弾はクッカの左耳が無いために何も掠めることなく、音だけを残して遠くへと飛んでいった。
だから、何も撃っていない。しかし、答えとはまさにこれ。理由とはまさにこれ。キーラの存在意義とはまさにそれ――。
キーラは大きく息をつきながら拳銃を下ろす。
クッカは呆然としたままへたり込む。
恐怖と困惑に包まれた彼女の顔は、しかししっかりとキーラを向いていた。左目が、キーラを見据えている。
「――っ」
キーラは自分がやったことに気付いた。
しかしクッカの方は見なかった。
震える手で、拳銃をホルダーにしまう。
そして言い放つ。
「……私はガイノイドだ。出来損ないのくたばり損ないだ。だから、こんなことが出来る」
クッカの方を見ずに、階段の方へ。
背中に受ける海風が、手の感触に思えた。
そして最後、塔から降りる直前、キーラは言い捨て。
「私のことはもう忘れてしまえ。こんな最低の私のことは。そして私の仕事のこともな。……偶然出会ったに過ぎないんだから、私達は」
キーラは去った。
残されたクッカは、へたり込んだままぽつりと「キーラ」と呟いた。
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